岡山県の西部、広島県に近い笠岡市と井原市を結んでいた軽便鉄道がありました。
井笠鉄道(本線)です。
この鉄道が廃止されたのは、昭和46(1971)年のことでした。
今年はちょうど40周年にあたります。
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私は、当時、学生でした。
国鉄笠岡駅の構内から、出発していた客車の姿をかすかに覚えています。
先日、「追憶の井笠軽便鉄道跡(本線)ウオーク」というイベントに参加して、
廃線跡を歩いてきました。
笠岡駅前を朝9時に出発して、井原鉄道井原駅に着いたのは午後2時5分でした。
昼食休憩をはさんで5時間、てくてく歩きました。
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井笠鉄道を運行していた井原笠岡軽便鉄道が設立されたのは、
明治44(1911)年でした。100周年です。
今年は、井笠鉄道にとって、記念の年になっています。
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井笠鉄道の方の先導で歩きました。
笠岡駅前から左の細い道を進んで行くと、左に駐車場があります。
ここが、かつての井笠鉄道笠岡駅でした。
されに進むと、旧線路跡の幅3メートルぐらいの道路に入り、
左側にある威徳寺の石段の前に出ます。
江戸時代の中期、石見銀山のある大森代官所とここ笠岡代官所の代官を
兼ねていた、井戸平左衛門正明の墓地があることろです。
代官をつとめていた頃に起きた享保の大飢饉。
飢えに苦しむ人のために、代官所の蔵米を開放したり、租税の減免をしたり
飢饉に備えてさつまいもの栽培を奨励したり、私財を提供したり・・・
当時の人々が、「芋代官」と呼んで慕った名代官でした。
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笠岡中央病院の前が、かつて、最初の駅、旧くじ場駅があったところです。
旧新山駅舎である鉄道博物館に駅標が保存されています。
旧井笠鉄道笠岡駅(旧国鉄笠岡駅)から1.1kmのところにありました。
駅には機関区があって機関車や客車の整備をしていました。
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旧くじ場駅跡を過ぎると20パーミル(1000mで20m登る)の急坂です。
列車は、線路に砂をまきながら、時には乗客が押しながら登って行ったそうです。
左側に蒸気機関車時代の給水塔が残っていました。
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旧大井村駅跡。旧くじ場駅から2.4kmだったそうです。
ここで20パーミルが終了です。
駅跡を過ぎると山陽自動車道の下をくぐります。
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やがて、旧小平井(おびらい)停留所跡。
委託駅だったからでしょうか、「駅」ではなく「停留所」でした。
旧大井野駅跡から1.5kmでした。ここには、旧駅舎が残っていました。
委託していたMさんのお宅と言った方がいいのでしょうか?
かつてのホームの石垣らしきものや、当時のトイレもそのまま残っていました。
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ここを過ぎると、かつての線路は、道路と別れ畑の中に残っています。
写真の道がかつての線路跡で、道路はトラックの後ろを通っています。
残念ながら、写真にある木の下で線路跡が途切れてしまいます。
かつての線路跡は、やがて、県道笠岡・美星線の中に取り込まれていきます。
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県道をしばらく進むと旧吉田村駅跡。
旧小平井停留所跡から1.1kmでした。
広場に駅舎があり、中心にある道は、駅への取り付け道路でした。
さらに、県道を進みます。
旧吉田村駅跡から2.4kmで旧新山駅跡に着きます。
現在、鉄道博物館になっています。
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ここには、井笠鉄道のたくさんの遺産が保存されています。
ここの管理人のTさんです。元新山駅の駅長さんだそうです。
参加者はみんな紅白のお餅をいただきました。
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たくさんの表彰状に囲まれたTさんの事務所です。
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そこに、かつての時刻表が展示されていました。
上側が上り笠岡行きで1日19本。下側は下り井原行きで20本。
旅客列車を示す「旅」とともに
貨物と旅客の混合列車を示す「混合」の文字が見えます。
(ちなみに、開業時は、1日6往復で2~3時間間隔の運転で、所要時間は、
1時間22分だったそうです)
通常は、気動車1両と客車1~2両で、
通学時間帯には客車4両の前後に、気動車1両ずつを連結した6両編成で、
運行していました。
混合列車は、旅客列車(気動車1両と客車1両)に貨車1~2両でした。
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駅舎の並びに、SLコッペル1号機・客車ホハ1・貨車ワフ1が展示されています。
コッペル1号機は大正2(1913)年のドイツ製。購入金額、6,205円だったそうです。
客車ホハ1の車内です。大正2(1913)年日本車輌製造製。
ここで昼食をとった方は、一様に「狭かったねー」と言っておられました。
有蓋貨車ワフ1は、大正3(1914)年日本車輌製造製です。
ここで、45分間の昼食休憩。 困ったのがトイレ。 ないのです。
12時45分出発。
15分ぐらい進んだところにコンビニ F がありました。
集団から遅れることを覚悟して、トイレを借りるため立ち寄りました。
10人ぐらいの人が先におられました。
この後は、もう、線路跡が残っているところはありません。
はるか先の集団を追って、県道をひたすら歩きます。
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小北中学校。 この近くに、矢掛線を分岐していた旧北川駅跡があったはずです。
資料では、旧新山駅から3.1kmだそうです。
私がここに着いたとき、
駅舎跡に立ってくださっていた運営スタッフは、すでに次の駅に移動していました。
駅舎の跡を特定することはできませんでした。
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旧薬師駅跡。 旧北川駅から1.2km。
ここで、すぐ前の10人ほどの集団に追いつきました。
広場に駅舎があり、道は駅への取り付け道路でした。
写真の手前側にお薬師さまがあり、多くの参拝客がお参りしていたそうです。
「最盛期の昭和30年代、この駅の乗降客は30人ぐらい」の説明に、
近くにいた人から、「今の井原線より多いじゃないの!」。
また、県道を歩きます。
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旧木之子駅跡。旧薬師駅から2.5km。
広場に駅舎。写真の左には、お店が並んでいたそうです。
ホームの後ろにあった塀の木の一部が、移設されて残っていました。
取り付け道路に沿って酒造会社、その先に木之子小学校。
ここは、井原市が誇る「ビール王、馬越恭平氏」の出身地です。
木之子村の医家に生まれ、三井物産に入社。日本麦酒に派遣され役員となる。
明治39(1906)年、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒が合併して
大日本麦酒を設立したときに、社長に就任。
後に、シェアを79%まで高めて、「ビール王」と言われた人です。
一方で、井笠鉄道の社長としても活躍し、民鉄協会の会長も務めています。
この方の名前、「馬越」は何と読むのでしょうか?
木之子村では「うまこし」、 サッポロビールでは「まごし」、
馬越氏の先祖の地(今治市馬越)では「うまごえ」、 氏の子孫の家では「まこし」、
氏が寄贈した橋の名前は「うまごしばし」、様々あるようです。
(「2007年10月5日付け山陽新聞」・孫引きです。)
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ひたすら歩いて、高架になっている井原鉄道の下をくぐります。
やがて、道は井原線と平行になって旧七日市駅跡へ。旧木之子駅から2.9km。
運営スタッフがおられるところの向かいに駅舎がありました。
他の駅と同じように取り付け道路がついています。
その先には、江戸時代の山陽道七日市宿。
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これは、スタッフが持っていた駅の説明板に載っていた、
旧七日市駅の写真です。
近くにおられた参加者から
「この先に旧七日市駅を案内する石碑がある」とのお話。
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旧七日市駅から1.2kmで旧井原駅。現在の井原バスセンターでした。
今回のウオークは、旧七日市駅跡から近い、写真の井原鉄道井原駅が終点でした。
最初にも書いたように、午後2時5分に到着しました。
18kmを、5時間で歩き抜きました!
旧新山駅までは、井笠鉄道をたどる楽しみ、後半はウオーキングの楽しみ、
私には、やはり前半が数段楽しかったです。
運営や説明をしてくださった、井笠鉄道の皆さんに感謝です。
明日、いや明後日かな?
足が痛くなることでしょう!