トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
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平成の大遷宮とパワースポット、出雲大社を歩く

2014年02月24日 | 日記

20年ぶりの遷宮をすませ多くの観光客が押し寄せる伊勢神宮ですが、それと並んで、現在、平成の大遷宮を粛々と進めているのが、出雲大社です。大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を祀っている神社です。国引き神話で知られる出雲の国、現在の出雲市大社町にあります。

本殿の修理のため、平成20(2008)年から仮殿に移っていた御祭神が、昨年(平成25=2013年)5月10日、修理が完了した本殿に再度遷座する、「本殿遷座祭」が静寂の中で行われ、その様子はメディアによって全国に伝えられました。現在進行している平成の大遷宮は、平成28年3月まで続くことになっています。

出雲大社は、若い人たちには「パワースポット」として人気の高いところです。静かな境内には、良縁を願ってやってくる若い人たちがあふれています。この像は大国主命(おおくにぬしのみこと)と日本海の荒波を表現しています。大国主命の像をバックに記念撮影をする若い女性の姿が絶えません。

この日は出雲大社に参拝し、国引き神話で有名な稲佐の浜を訪ねることにしていました。JR出雲市駅の方から北に向かい、白い宇迦橋(うかばし)の大鳥居が見え始めたとき、小さな橋が架かる道路の右(東)側に、案内板を見つけました。

ここは、江戸時代、この地を治めていた松江藩の支配地と、出雲大社の神領を区切る土手があったところです。長さ1333mにわたってまっすぐな土手がつくられていたと書かれています。小さな川(用水路?)に沿って延びる道は、今もまっすぐ東西に延びていました。ここから先はかつて出雲大社の神領だったところです。

道路の左側に見えた神社風の建物は道の駅大社ご縁広場吉兆館でした。宇迦橋がかかる堀川の左岸(南)に建っています。ちなみに、堀川は左(西)に向かって流れ、吉兆館の先で日本海に出て行きます。

続いて見えた出雲市役所大社支所。こちらは堀川の右岸(北)に位置しています。

宇迦橋の手前左側にあった出雲阿国(おくに)像です。歌舞伎踊りの創始者として知られる女性、生い立ちは明確ではありませんが、出雲大社の巫女だったともいわれています。この歌舞伎踊りが後に歌舞伎として大成しました。

阿国像の向かいにあった国引きのレリーフ。新しい町づくりを進めるということで、「未来を拓く」というタイトルがつけられていました。

宇迦橋で堀川を渡ります。

その先にあった、一の鳥居、宇迦橋の大鳥居です。大正4(1915)年北九州の篤志家が松280本とともに寄進したものだと、説明板には書かれていました。鉄筋コンクリート造りで、高さ23m。柱の周囲6m。中央の扁額は畳6畳分の大きさだそうです。24mの高さの本殿に配慮して23mの高さにされたようです。

ここからは「神門通り」、出雲大社の門前町になります。商店街が続いています。リニューアルされた商家が多く、町の雰囲気は一変し、若い人向きの通りになっていました。「いずもそば」や「ぜんざい」と書かれたお店が目につきました。

通りを北に向かっていきます。道路の右側の商家の間に電車が見えました。一畑電鉄の出雲大社前駅でした。一畑電鉄は島根県の県都、松江市から宍道湖の北を西に向かって走り、出雲市駅や出雲大社とをつなぐ電車です。何年か前「RailWays 49歳で運転士になった男の物語」という映画の舞台になった鉄道です。そして、この駅は、映画の中で主人公が初めて電車を運転して到着した駅でした。

出発していった南海電鉄からの転籍車両であるデハ3018の電車の隣に、オレンジ色をしたデハニ52の電車が展示してありました。中に入ることもできました。

この車両は、昭和3(1928)年に製造された一畑電鉄のオリジナル車両です。その後、電車としての装備が付け加えられました。平成6(1994)年にはお座敷列車に改装されて有名になりました。平成21(2009)年に旅客運用から外れましたが、長く一畑電車で活躍してきた最古の車輌です。

車両の形式番号に「デハニ」と「ニ」がついているように、車両の一角に荷物を置くスペースがつくられています。この車両は「荷物車」の機能も備えた貨客電車だったのです。

正面からみた出雲大社前駅です。川跡(かわと)駅と出雲大社前駅間を結ぶ一畑電鉄大社線の終着駅です。大社線が開業した昭和5(1930)年、大社神門駅として開業しました。正面上部に白いドーム天井とステンドグラスがはめ込まれている西洋風のデザインで、当時としては大変モダンな駅舎だったと思います。かつてはこの中央上部に塔があったそうです。文化庁の登録有形文化財に登録されている駅舎です。今年で84歳を迎えます。

内部です。白を基調にした美しい駅舎で、外見より広々とした印象です。84歳の駅とは思えません。

一畑電鉄は「Railway」の映画の後、1割ぐらい乗客が増えたとのことでしたが、現在では以前の水準に戻っているとか、だから、こうした努力が続けられているのですね。

神門通りはその先の東西の道(「信仰の道」という愛称がついています)でとぎれます。二の鳥居がありました。

出雲大社の二の鳥居です。勢溜(せいだまり)の大鳥居です。勢溜(せいだまり)の正面鳥居とか、木製であるため「木の鳥居」とも呼ばれます。昔は、門前に芝居小屋などが建ちにぎわっており、「この勢いがとどまる」ということから、「勢溜」と命名されたそうです。

勢溜の鳥居の先は「下り参道」と呼ばれる下りの道になります。その先は松並木が続いています。

三の鳥居である松の参道の鳥居です。鉄製であるため「鉄の鳥居」とも言われています。この先が、樹齢400年ともいわれる黒松の並木が続く「松の参道」。道は3列に分かれていますが、真ん中の道は皇族や勅使(天皇の名代)などが通る道とされ使われず、両側の道が使われました。現在では「松の根」を保護するため、中央の道を通らないようにという案内がなされています。

四の鳥居につきます。銅製であるため「銅鳥居」とも呼ばれています。江戸時代の長州藩第3代藩主毛利綱広の寄進によるものです。寛文6(1666)年につくられたもので、国の重要文化財に指定されています。毛利氏の祖先は、出雲大社の宮司である出雲国造(いずもこくそう)家と同じ「天穂日命」だと案内には書かれていました。

その手前の左側に、大国主命とうさぎの像があります。因幡の白うさぎを救った大国主命の「慈悲の御神像」と呼ばれています。

その向かいの右側がパワースポットです。日本海の荒波に向かう大国主命の大きな神像、「ムスビの御神像」と呼ばれています。「ムスビ」は「縁結び」ということでしょうか?

四の鳥居の先からは出雲大社の境内といわれています。私は、四の鳥居の手前を右折して、荒垣にそって境内の東に向かいました。

広大な敷地をもつ屋敷が建っていました。「北島国造(こくそう)家」の屋敷です。出雲大社の祭祀を司る出雲国造家は、南北朝時代に千家国造家と北島国造家に分裂して幕末まで両家が祭事を二分して行っていたそうです。明治になってからは、千家国造家が執り行うようになっているそうですが、ここはその北島国造家の屋敷です。

門前に書かれているように、「教派神道」である「出雲教」の主宰者でもあります。この屋敷は松江藩主松平定安が安政6(1859)年に奉納されたものだそうです。

これは、北島国造家の前の社家通りです。出雲大社に仕える神職が居住しているところです。京都の上賀茂神社の社家の町並みに似た光景が続いています。

四の鳥居に戻ります。出雲大社の鳥居は中央を避け、少し左右に寄って軽く一礼してから入るのが正しいのだそうです。四の鳥居をくぐります。正面左に拝殿があります。現在の拝殿は、昭和34(1959)年に竣功しました。銅板拭きの屋根をもった木曽の檜材を使用した木造建築です。高さは12.9mあるそうです。出雲大社の参拝の作法は2拝4拍手1拝です。

正面に八足門(やつあしもん)。左右にそれに続く回廊が見えます。出雲大社の本殿は、荒垣、瑞垣(みずがき)、玉垣で三重に守られているといわれますが、この回廊が瑞垣です。八足門から中へは通常は入ることができません。

写真の正面にみえるのが、回廊にある観祭廊です。

真ん中の切妻の屋根が、国宝の本殿です。本堂の千木(ちぎ)が見えます。大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)が祀られています。出雲大社の本殿は大社造りといわれ、掘立柱に切妻屋根、妻入り、屋根の優美な曲線に特色があります。「社伝」によれば、太古、垂仁天皇の時代に創建されたとされていますが、現在の本殿は延享7(1744)年に建立されました。高さは8丈(24m)あり、神社としては破格の大きさだそうです。天井には7つの雲の絵が描かれているそうです。

これは西側から見た本殿です。祭神の大国主大神は、本殿内の北東におられ西を向いておられるそうです。そのため、「こちら側から参拝するのが正しい」と地元のガイドの方はお話しされていました。なお、伊勢神宮の遷宮は20年ごとに新しい本殿を造って祭神がお遷りになるそうですが、出雲大社の遷宮は概ね60~70年ごとに行われ、屋根の葺き替えと千木(ちぎ)の修理などいたんだところの修理をして、再度還っていただくのだそうです。

拝殿の前の地面に宇豆柱(うづばしら)の大きさが表現されていました。平成12(2000)年の発掘により、直径3mにもなる柱が3カ所から発見されました。これは1.4mの杉の柱を3本束ねており、宝治2(1248)年建立の本殿の柱だといわれています。

これは、東側の十九社です。旧暦10月11日から17日まで、日本全国の八百万(やおよろず)の神は出雲に集まり神議(かむはかり)を行います。そのため、神無月の10月は、出雲では神在月(かみありづき)といわれます。出雲に滞在している時の宿泊場所がこの十九社だそうで、東西に1社ずつ建っています。ちなみに、神明通りでたくさん見かけた「ぜんざい」は神が滞在されている「神在(しんざい)」が出雲地方の方言であるズーズー弁のために「ぜんざい」と発音されたことから名づけられたものだそうです。

旗をもって説明されていた地元ガイドの方のお話では、「東の十九社には東日本の神々がお泊まりになり、西の十九社には西日本の神々がお泊まりになります」とのことでした。この期間は十九社の19ある扉がすべて開けられるのだそうです。写真はその扉です。

本殿の西側に広大な敷地の屋敷があります。これが、現在の出雲大社の祭祀者、千家国造家の屋敷です。北島国造家と同じように、千家国造家も、明治12(1879)年教派神道の「出雲大社教」を起こしましたが、昭和26(1951)年出雲大社と出雲大社教が一体化しました。現在、千家国造家が出雲大社の宮司として出雲大社教もあわせて主宰しています。

大きな注連縄が門前を飾っていました。

千家国造家と出雲大社の間に、大きな注連縄で飾られた神楽(かぐら)殿があります。明治12(1879)年に千家国造家が教派神道である出雲大社教を創設したとき、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに始まりました。

入り口には、「神光満殿」と書かれています。注連縄は長さ13m、周囲9m、重さは5トンもあるそうです。この注連縄の下側にお金を突き刺そうとする人が多かったため、それができないように、覆いが掛けてありました。

出雲大社をゆっくりと近くで説明をお聞きしながら歩きました。この後、国引き神話や神議(かむはかり)に参加する八百万の神が上陸する稲佐の浜を訪ねました。これまで何回かお詣りしたことがありましたが、これほどゆっくり歩いたことはありませんでした。地元ガイドの方の説明も聞こえて来て、ほんとうにいい勉強になりました。まだまだ続く「平成の大遷宮」の行方も見守っていこうと思いました。




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1 コメント

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見ました (山田)
2014-03-08 10:58:30
 懐かしく見させていただきました。2年前に行き、ゆっくり見物しました。4の鳥居から東へは行きませんでした。さすが探訪者は違います。
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