幅43,2m、長さ4,7km、四列に並ぶイチョウ並木が続く大阪市のメーンストリート、御堂筋を、この日は淀屋橋から本町にむけて、大阪の商業の中心地、船場を歩きました。
スタートしてすぐ、御堂筋の左(東)側に日本生命本館の建物が見えてきます。
日本生命本館の南側を東西に走る今橋通りに、左折して入ります。本館の南の壁に埋め込まれた「懐徳堂旧址碑」を見つけました。懐徳堂(かいとくどう)は、享保9(1724)年、中井甃庵(しゅうあん)を中心にした5名が、藩校のなかった大坂に開いた塾でした。明治2(1869)年までの146年間、大坂町人の学問所として、中井竹山、富永仲基、山片幡桃ら多くの町人学者を生み出しました。懐徳堂では、儒学を中心にして幅広い学問を学ぶことができました。また、教科書をもたずに講義を受けてもいいし、用事があれば中途で帰ってもいいという町人の生活にあわせて学ぶことができたところに特色があったそうです。
懐徳堂の跡の碑から、今橋通りを東に二筋進むと、明治13(1880)年開園という、日本で最も古い幼稚園があります。大阪市立愛珠幼稚園です。外見からは、幼稚園というより豪壮な商家建築に見えます。現在の建物は、明治34(1901)年に再建されたものだそうです。訪ねたときはちょうど降園時間、お母さんに迎えられて園を後にする園児の姿がたくさん見られました。今も現役の公立の幼稚園なのです。
愛珠幼稚園の正門の冠木門の右に、「銅座の跡」の碑がありました。江戸時代、銅座があったところです。「銅座」は、諸国で産出した粗銅(あらどう)を買い上げ、銅吹屋で精錬させて、長崎へ回送し海外へ輸出していました。江戸時代の大坂で最大の銅吹屋は、明治以降財閥となる住友家でした。住友財閥は、銅の採鉱や精錬で、その経済的基盤を形成しました。(2013年4月13日の日記)
幼稚園の西の通りを北に進みます。近くのビジネス街から昼食をとりに出て行く人々といっしょでした。
幼稚園の敷地に沿って交差点を右折します。愛珠幼稚園の裏に、木造の建物がありました。
建物の前にあった碑には「史蹟 緒方洪庵旧宅及塾」と書かれていました。江戸時代の蘭学者、緒方洪庵の適々斎塾、適塾でした。適々斎は洪庵の号で、ここから大村益次郎、佐野常民、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉ら3000人以上の人材が世に出て行きました。ゾーフ・ハルマという当時最も権威のあったオランダ語の辞書を備えたゾーフ部屋で、塾生たちは、辞書を頼りに自習していました。二階の大部屋が塾生のいた部屋で、中央にある柱には、塾生たちがストレス発散のために斬りつけた刀傷が今も残っています。適塾は、その後、大阪帝国大学を経て大阪大学医学部へと発展して行きます。
洪庵の住んだ家は、寛政4(1792)年の北浜大火の後、ほどなくして再建されました。洪庵は、天保14(1843)年、両替商天王寺屋の分家、忠兵衛の持ち家だったこの家を買い取り、弘化2(1845)年に引っ越してきました。適塾の前方が塾の教室部分、後方が洪庵の居宅部分でした。この邸宅は、洪庵が文久2(1862)年に江戸に出府した後、たびたび改造されたようです。その後、大正4(1915)年の道路の拡張工事によって、前面が1~2m切り取られました。昭和39(1964)年に国の重要文化財に指定され、昭和50(1975)年の大規模修理によって、洪庵が居宅した当時に戻ったものだそうです。
愛珠幼稚園の向かいに「緒方洪庵記念財団 緒方ビル」がありました。緒方洪庵が中心になって開設した除痘館の跡です。万延元(1866)年にこの地に移ってきたそうです。
蘭学者の緒方洪庵のゆかりのビルらしく、入居者は医療関係団体ばかりでした。
御堂筋に帰り、さらに南に進み道修町で左折します。道修町は、江戸時代には、薬を一手に扱う「薬種仲間」が店を出していました。道修町の由来としては、① 道修寺という寺院があったから
② 江戸時代に、北山道修という薬学者がいたから ③ 江戸中期まで道修谷とよばれていたから
などが知られています。
今も、薬品にかかわる企業が集まっています。写真は、道修町にあった大日本住友製薬の本社ビルです。他に、武田薬品工業、塩野義製薬、田辺三菱製薬、小林製薬などがこの地に本社を構えています。
道修町には、歴史を誇る建物が目につきました。今も現役の薬品問屋、北垣薬品株式会社。
煉瓦造の日本基督教団なにわ教会です。昭和5(1930)年、ヴォーリズの設計で建設されました。
ヴォーリズは、アメリカから来日し、近畿各地で(この「日記」では、近江八幡や水口などで)洋風建築を建設しました。
築後100年を超えた煉瓦造の建物です。旧大阪教育生命保険ビルで、明治45(1912)年の建築です。こちらは辰野金五の設計で、現在は、オペラドメーヌの店(フレンチレストランウエディング)になっています。内部は、とてもきれいに改装されているそうです。高層ビルの間に立っていて、歩くのが楽しい一画でした。
歴史的な建造物を見ながら平野町に入ります。御堂筋に戻るつもりで、平野町通りを西に向かいました。あとニ筋で御堂筋というところに、「北組惣会所址」の碑を見つけました。江戸時代の大坂の町は三カ所に分けて治められていました。大川(淀川)、今の堂島川と土佐堀川でしたが、これより北は天満組、本町通りから北は北組、本町通りから南は南組でした。それぞれの組には惣会所が置かれ、町人の中から選ばれた惣年寄によって、幕府からの触れの伝達や税金の徴収を行っていました。平野町のあたりに、北組の惣会所が置かれていました。
御堂筋に出ると御堂筋の西側に、御堂筋のランドマークである大阪ガスの建物がありました。昭和8(1933)年の建設。1.2階は黒い石貼り、上部は白いタイル貼りの建物です。国の登録文化財に指定されています。
御堂筋から西に入ったところから見た大阪ガスの建物です。
大阪ガスの南にあったのが、御霊(ごりょう)神社です。船場の奥様を”御寮はん”と呼ぶ船場言葉に通じるため、船場の人たちから”御霊さん””御霊はん”と呼ばれて親しまれているそうです。文禄3(1594)年、源正霊神(武勇に優れた鎌倉権五郎景政の神霊)を合祀し、寛文年間(1661~1673)に御霊神社と改名しました。
御霊神社の境内に「御霊文楽座跡」の碑が立っています。江戸時代、ここで操り人形芝居や女義太夫が上演されていました。明治17(1884)年、松島(西区)にあった4世植村文楽軒を座主とする「人形浄瑠璃文楽座」が大正15(1926)年に焼失するまで上演されていました。「文楽といえば御霊」といわれていたそうです。
御堂筋の名前の由来になった南北御堂の一つ、北御堂です。西本願寺津村別院。津村は、円江(つぶらえ)とよばれていたこの辺りが、後に津村と呼ばれるようになったからといわれています。蓮如が開いた石山本願寺が織田信長に敗れ大阪から撤退した後、慶長10(1605)年、西本願寺の准如(じゅんじょ)上人が完成させました。広大な堂宇だったので、江戸時代には朝鮮施設の宿舎となり、明治天皇の行在所としても使用されました。昭和20(1945)年の大阪空襲で焼失し、昭和39(1964)年鉄筋コンクリート造で再建されました。現在、本堂は回修中でした。
北御堂の南の本町三丁目の信号を越えると、有名なゆるキャラがおりました。伊予銀行です。愛媛県今治のゆるキャラ”バリーさん”です。
伊予銀行には、愛媛県のゆるキャラが勢揃いしていました。今治地方観光大使の”バリーさん”のほか、”えひめ南予観光PRキャラクター にゃんよ”と”愛媛県イメージアップキャラクター みきゃん”です。
その南、中央大通り、阪神高速の高架下に船場センタービルがありました。この辺りは、糸屋、縫物師、呉服屋が多かったところです。今も繊維関係の会社が並んでいるところです。
「1000メートルの散歩道」と名づけられた船場センタービル。繊維の卸問屋とファッション、グルメの街です。御堂筋を挟んで東西に広がっていました。
中央大通りを越えてすすむとすぐに南御堂、東本願寺難波別院に着きます。開基は本願寺12世、教如(きょうにょ)上人。石山本願寺が敗れて京都に移ったときに、父顕如(けんにょ)と対立し再び大阪に戻り、慶長元(1596)年、道修町に大谷本願寺を建立します。大谷本願寺は、2年後に現在地に移ってきました。しかし、大谷本願寺は、5年後、家康の寄進によって京都烏丸に移って行きます。これが、現在の東本願寺というわけです。このように、南御堂は東本願寺の前身という由緒ある寺院ということになります。空襲で焼失し、現在の建物は昭和36(1961)年に再建されたものといわれています。
「芭蕉翁句碑」が立っています。元禄7(1694)年、南御堂の前にあった旅館、花屋仁右衛門の奥屋敷で51歳で、芭蕉は死亡したそうです。花屋の跡といわれる南御堂前に「此付近芭蕉翁終焉之地ト伝フ」の石碑があるそうです。句碑には、「旅に病んで 夢は枯野をかけ回る」の句が彫られています。
南御堂の南に難波神社がありました。本堂の西側にあった稲荷神社は「博労町のお稲荷さん」と呼ばれ親しまれているそうです。
稲荷神社の近くに、「稲荷社文楽座跡」の碑があります。稲荷社文楽座は、文化8(1811)年に2世植村文楽軒によって創設された文楽小屋で、この名前から現在の文楽になったといわれています。
中之島の南にある淀屋橋から本町を経て長堀通りまで、船場のビジネス街を歩きました。高層ビルが並ぶ御堂筋から少し脇にそれると、歴史のたたずまいを感じるところがたくさんありました。この先、御堂筋は、心斎橋、道頓堀などのミナミの繁華街の中を、難波に向かって行きます。