多くの観光客を集める大阪城。 観光客は大きな石積みに驚きます。
大阪城に入る枡形には、一枚36畳敷き、100トンともいわれる巨石が積まれているところもあります。現在の大阪城は、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した後、31の西国大名を動員して、元和6(1620)年から10年に及ぶ大工事を経て完成しました。巨石を積んだ石垣もこのときつくられました。
今回は、大阪城に残る巨石を探して歩くことにしました。
これは、大阪城内に掲示されている案内図です。これによると、大阪城に入るには東の青屋口、北西にある京橋口、正門にあたる大手口、東南にある玉造口の4つ道があります。
この日は京橋口から入りました。京橋門跡です。かつては正面両側にある石積みに高麗門がありました。
京橋門跡を過ぎると枡形。
その正面に巨石がありました。大阪城内第2位の巨石、肥後石です。高さ5.5m、幅11m余、表面積約54㎡。 推定重量140トンといわれています。ただ、奥行きというか石の厚さは、50cmとも90cm程度ともいわれています。かつて、この石は「加藤清正によって運ばれた」といわれていたので「肥後石」と名付けられたようです。大坂城の建築は、丁場(工事現場)を各大名に割り当てて進められており、京橋付近を担当した大名は岡山藩主池田忠雄でした。実際には、彼によって運ばれたのではないでしょうか。もっと早くわかっていれば「備前石」と名づけられていたと思いますが。讃岐(香川県)小豆島産の巨石だそうです。
京橋門跡の石の計測をしておられた「大阪城研究会」の方に、大阪城の石積みについて教えていただいてからスタートしました。 写真で黒く見えているところは、肥後石の下にあった鉄製のくさびです。江戸時代のものだそうです。巨石を安定させるために打ち込んでいるそうです。
京橋門内の枡形は緩やかに右へカーブを描くように曲がって舗装されていました。肥後石の右にあった「京橋二番石」です。城内第7位の巨石です。高さ3,8m余、幅11,5m、表面積 36㎡。重さは80トンともいわれています。これも、岡山藩主池田忠雄が担当しています。説明してくださった方のお話しでは「30年ほど前に新しい石と取り替えられた」ということでした。これにも黒いくさびが打ち込まれていました。
京橋跡の枡形の左側にあった「夜泣き石」です。「この石も大きいですね」とお尋ねしたら「夜泣き石」と教えてくださいました。
次は、西から外堀を渡り大手口から大阪城内に入ります。正面に大手門が見えます。寛永5(1628)年再建の高麗門です。国指定の重要文化財に指定されています。
大手門の左に見える(写真の右側にみえる)のが多聞櫓。多聞櫓は、土塁や石垣上に築かれた櫓で、その右側に直角に折れて接続する続櫓とで構成されていて、松永久秀がこの形式の櫓を初めて築いたといわれています。この多聞櫓は高さ14.7mで最大規模のものだそうです。嘉永元(1848)年に再建された国指定の重要文化財です。さらに左に千貫櫓が見えます。立派な石垣の上にそびえています。
大手門内の枡形は左に曲がって多聞櫓から城内に入ります。ここにも巨石があります。
正面にあったのが見付石です。高さ5m、幅11m、面積約48㎡(29畳敷き)。推定重量約108トンといわれています。大手門付近は肥後熊本藩主加藤忠広の担当でした。加藤忠広はあの築城名人といわれた加藤清正の三男として生まれ熊本藩を継いだ方です。しかし、この後の寛永9(1632)年には参勤交代の途中で改易され、出羽庄内藩主お預けとなる数奇な人生を送った方でした。見付石は、大坂城内第4位の巨石です。
見付石の左、多聞櫓寄りにあったのが、大手二番石です。大阪城内第5位の巨石です。高さ5,3m、幅8m、面積約38㎡、推定重量約85トン。讃岐小豆島産だそうです。これも加藤忠広が担当したものです。先ほどの研究会の方のお話しでは、「見付石を縦に二つに切って、その前側の部分を、本のページを開くようにして左に貼り付けたのだ」ということでした。そのとき一部を切り取ったので、見付石よりやや小さくなったのだそうです。
大手三番石です。大手正面の見付石の右側にありました。城内第8位の巨石で加藤忠広が築いたものです。高さ4.9m、幅7.9m、面積約35㎡。推定重量約80トンの大きさだそうです。大手門の巨石はすべて加藤忠広が築き、後に筑後久留米藩主有馬豊氏が改築したものだそうです。
多聞櫓を入ると左手に千貫櫓が見えます。どっしりとした重量感のある2層の隅櫓です。多聞櫓と同じ嘉永元(1848)年の再建です。織田信長が、この地にあった石山本願寺との11年に渡る戦いのとき「これを落とした者に千貫与えても惜しくない」と言ったことに由来しています。 そこで右に曲がって進みます。西の丸庭園の券売所を左に見ながら右に進み、外堀の面して建つ六番櫓の裏側を見て左折します。
左側にある空堀とその先にある桜門です。
空手の試合が行われていた修道館の先を左折して、正面にある桜門に向かって空堀を渡ります。
桜門の左の巨石が虎石、右が竜石です。どちらも岡山藩主池田忠雄の担当でした。虎石は高さ2,7m、幅6,9m、面積18㎡、推定重量40トン。竜石は高さ3,4m、幅6,9m、面積約18㎡、推定重量52トンあります。大阪城内で虎石は11位、竜石は10位の大きさです。
桜門をくぐると、正面に蛸石(たこいし)があります。大阪城内最大の巨石です。高さ5.5m、幅11.7m、面積60㎡弱(畳36畳敷き)。備前犬島産の花こう岩で、推定重量130トンといわれています。岡山藩主池田忠雄が運搬したものでしょう。
「蛸石」の名前は、巨石の左下にある蛸のような模様に由来しています。花こう岩に含まれる鉄分が酸化してできたようです。たくさんの観光客が立ち止まり鑑賞していました。
蛸石の左にある四角の巨石、碁盤石です。囲碁に使用する碁盤からつけられました。大阪城内第6位の巨石です。高さ5,7m、幅6.5m、面積36,5㎡で推定重量82トン。備前沖ノ島産だそうです。備前沖ノ島は、岡山県笠岡市の沖にある北木島とも考えられているそうです。
蛸石に向かって左手にある振袖石。着物の振袖に似ていることから名づけられました。高さ4,2m、幅13,5m、面積約54㎡、推定重量120トンといわれています。備前犬島産だそうです。桜門の枡形は備前藩主池田忠雄の丁場であり、碁盤石とともに振袖石も池田忠雄の運搬になるものでしょう。
蛸石の右にあるのが、烏帽子(えぼし)石。烏帽子は元服した男子がつける袋形のかぶりものです。形が似ているのでつけられたのでしょう。これも池田忠雄の担当でした。
これは、山里丸の刻印広場にある城つくりを担当した大名の刻印の一覧です。石積みに使われた石はすべて花こう岩ですが、大阪城の近くには産出場所はありませんでした。産地は小豆島(全島花こう岩でできています)と犬島でした。担当した大名はどのようにして100トンもあるような花こう岩を運搬したのでしょうか。岡山藩や熊本藩には記録が残っていないようです。唯一残っていたのが、筑前黒田藩の記録でした。
切り出しから海岸まで、大阪から石積場までの陸路は修羅(しゅら)を使いました。太さ4~5寸(1,2m~1,5m)の硬い木を格子状に組んで梯子状の枠木の上に石を乗せ、修羅の下には丸太を置いて引いていたようです。
瀬戸内海の島々から大阪城までは海路で運ばれました。大きな筏(いかだ)をつくり、その下に綱で吊り下げて運んだそうです。筏の周囲には空樽などを浮かべて浮力を増していたそうです。
海が荒れるとたびたび転覆したり沈没しました。大阪に入ってからの川筋でもよく沈没事故が起きています。川底に落ちた巨石で底が浅くなって水運が停滞し商業に支障をきたしたこともあったそうです。大阪城で目に見えているところの石だけで50万個の石があるそうですが、石積みに使われる前に、運搬の途中で沈んだ石もたくさんあったようです。運搬には大変な苦労があったのですね。
大阪城に入る枡形には、一枚36畳敷き、100トンともいわれる巨石が積まれているところもあります。現在の大阪城は、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した後、31の西国大名を動員して、元和6(1620)年から10年に及ぶ大工事を経て完成しました。巨石を積んだ石垣もこのときつくられました。
今回は、大阪城に残る巨石を探して歩くことにしました。
これは、大阪城内に掲示されている案内図です。これによると、大阪城に入るには東の青屋口、北西にある京橋口、正門にあたる大手口、東南にある玉造口の4つ道があります。
この日は京橋口から入りました。京橋門跡です。かつては正面両側にある石積みに高麗門がありました。
京橋門跡を過ぎると枡形。
その正面に巨石がありました。大阪城内第2位の巨石、肥後石です。高さ5.5m、幅11m余、表面積約54㎡。 推定重量140トンといわれています。ただ、奥行きというか石の厚さは、50cmとも90cm程度ともいわれています。かつて、この石は「加藤清正によって運ばれた」といわれていたので「肥後石」と名付けられたようです。大坂城の建築は、丁場(工事現場)を各大名に割り当てて進められており、京橋付近を担当した大名は岡山藩主池田忠雄でした。実際には、彼によって運ばれたのではないでしょうか。もっと早くわかっていれば「備前石」と名づけられていたと思いますが。讃岐(香川県)小豆島産の巨石だそうです。
京橋門跡の石の計測をしておられた「大阪城研究会」の方に、大阪城の石積みについて教えていただいてからスタートしました。 写真で黒く見えているところは、肥後石の下にあった鉄製のくさびです。江戸時代のものだそうです。巨石を安定させるために打ち込んでいるそうです。
京橋門内の枡形は緩やかに右へカーブを描くように曲がって舗装されていました。肥後石の右にあった「京橋二番石」です。城内第7位の巨石です。高さ3,8m余、幅11,5m、表面積 36㎡。重さは80トンともいわれています。これも、岡山藩主池田忠雄が担当しています。説明してくださった方のお話しでは「30年ほど前に新しい石と取り替えられた」ということでした。これにも黒いくさびが打ち込まれていました。
京橋跡の枡形の左側にあった「夜泣き石」です。「この石も大きいですね」とお尋ねしたら「夜泣き石」と教えてくださいました。
次は、西から外堀を渡り大手口から大阪城内に入ります。正面に大手門が見えます。寛永5(1628)年再建の高麗門です。国指定の重要文化財に指定されています。
大手門の左に見える(写真の右側にみえる)のが多聞櫓。多聞櫓は、土塁や石垣上に築かれた櫓で、その右側に直角に折れて接続する続櫓とで構成されていて、松永久秀がこの形式の櫓を初めて築いたといわれています。この多聞櫓は高さ14.7mで最大規模のものだそうです。嘉永元(1848)年に再建された国指定の重要文化財です。さらに左に千貫櫓が見えます。立派な石垣の上にそびえています。
大手門内の枡形は左に曲がって多聞櫓から城内に入ります。ここにも巨石があります。
正面にあったのが見付石です。高さ5m、幅11m、面積約48㎡(29畳敷き)。推定重量約108トンといわれています。大手門付近は肥後熊本藩主加藤忠広の担当でした。加藤忠広はあの築城名人といわれた加藤清正の三男として生まれ熊本藩を継いだ方です。しかし、この後の寛永9(1632)年には参勤交代の途中で改易され、出羽庄内藩主お預けとなる数奇な人生を送った方でした。見付石は、大坂城内第4位の巨石です。
見付石の左、多聞櫓寄りにあったのが、大手二番石です。大阪城内第5位の巨石です。高さ5,3m、幅8m、面積約38㎡、推定重量約85トン。讃岐小豆島産だそうです。これも加藤忠広が担当したものです。先ほどの研究会の方のお話しでは、「見付石を縦に二つに切って、その前側の部分を、本のページを開くようにして左に貼り付けたのだ」ということでした。そのとき一部を切り取ったので、見付石よりやや小さくなったのだそうです。
大手三番石です。大手正面の見付石の右側にありました。城内第8位の巨石で加藤忠広が築いたものです。高さ4.9m、幅7.9m、面積約35㎡。推定重量約80トンの大きさだそうです。大手門の巨石はすべて加藤忠広が築き、後に筑後久留米藩主有馬豊氏が改築したものだそうです。
多聞櫓を入ると左手に千貫櫓が見えます。どっしりとした重量感のある2層の隅櫓です。多聞櫓と同じ嘉永元(1848)年の再建です。織田信長が、この地にあった石山本願寺との11年に渡る戦いのとき「これを落とした者に千貫与えても惜しくない」と言ったことに由来しています。 そこで右に曲がって進みます。西の丸庭園の券売所を左に見ながら右に進み、外堀の面して建つ六番櫓の裏側を見て左折します。
左側にある空堀とその先にある桜門です。
空手の試合が行われていた修道館の先を左折して、正面にある桜門に向かって空堀を渡ります。
桜門の左の巨石が虎石、右が竜石です。どちらも岡山藩主池田忠雄の担当でした。虎石は高さ2,7m、幅6,9m、面積18㎡、推定重量40トン。竜石は高さ3,4m、幅6,9m、面積約18㎡、推定重量52トンあります。大阪城内で虎石は11位、竜石は10位の大きさです。
桜門をくぐると、正面に蛸石(たこいし)があります。大阪城内最大の巨石です。高さ5.5m、幅11.7m、面積60㎡弱(畳36畳敷き)。備前犬島産の花こう岩で、推定重量130トンといわれています。岡山藩主池田忠雄が運搬したものでしょう。
「蛸石」の名前は、巨石の左下にある蛸のような模様に由来しています。花こう岩に含まれる鉄分が酸化してできたようです。たくさんの観光客が立ち止まり鑑賞していました。
蛸石の左にある四角の巨石、碁盤石です。囲碁に使用する碁盤からつけられました。大阪城内第6位の巨石です。高さ5,7m、幅6.5m、面積36,5㎡で推定重量82トン。備前沖ノ島産だそうです。備前沖ノ島は、岡山県笠岡市の沖にある北木島とも考えられているそうです。
蛸石に向かって左手にある振袖石。着物の振袖に似ていることから名づけられました。高さ4,2m、幅13,5m、面積約54㎡、推定重量120トンといわれています。備前犬島産だそうです。桜門の枡形は備前藩主池田忠雄の丁場であり、碁盤石とともに振袖石も池田忠雄の運搬になるものでしょう。
蛸石の右にあるのが、烏帽子(えぼし)石。烏帽子は元服した男子がつける袋形のかぶりものです。形が似ているのでつけられたのでしょう。これも池田忠雄の担当でした。
これは、山里丸の刻印広場にある城つくりを担当した大名の刻印の一覧です。石積みに使われた石はすべて花こう岩ですが、大阪城の近くには産出場所はありませんでした。産地は小豆島(全島花こう岩でできています)と犬島でした。担当した大名はどのようにして100トンもあるような花こう岩を運搬したのでしょうか。岡山藩や熊本藩には記録が残っていないようです。唯一残っていたのが、筑前黒田藩の記録でした。
切り出しから海岸まで、大阪から石積場までの陸路は修羅(しゅら)を使いました。太さ4~5寸(1,2m~1,5m)の硬い木を格子状に組んで梯子状の枠木の上に石を乗せ、修羅の下には丸太を置いて引いていたようです。
瀬戸内海の島々から大阪城までは海路で運ばれました。大きな筏(いかだ)をつくり、その下に綱で吊り下げて運んだそうです。筏の周囲には空樽などを浮かべて浮力を増していたそうです。
海が荒れるとたびたび転覆したり沈没しました。大阪に入ってからの川筋でもよく沈没事故が起きています。川底に落ちた巨石で底が浅くなって水運が停滞し商業に支障をきたしたこともあったそうです。大阪城で目に見えているところの石だけで50万個の石があるそうですが、石積みに使われる前に、運搬の途中で沈んだ石もたくさんあったようです。運搬には大変な苦労があったのですね。