桜の花が満開の3月末の一日、バスツアーでマイントピア別子(べっし)に行ってきました。ツアーの仲間は35人。当然ながら高齢者が中心でした。しかし、男性の姿が多かったのはアサヒビール四国工場の見学がコースの中に含まれていたからでしょうか?
新居浜市郊外にあるアサヒビールの工場の見学と試飲をすませて、昼前にマリントピア別子に着きました。名前のとおり、かつての日本三大銅山の一つ、別子銅山の跡地にありました。
マイントピアは鉱山施設を生かした観光施設として知られ、道の駅にも指定されています。旧別子銅山の端出場(はでば)地区にあり、昭和5(1930)年から閉山した昭和48(1973)年まで、採鉱本部が置かれていたところです。建物の前に置かれていた仲持(なかもち)像です。元禄4(1696)年の開坑から、銅山で製錬した粗銅(あらどう)や鉱山に生きる人々の生活物資を、男性は45㎏、女性は30㎏背負って運搬した人々です。
(からみ)煉瓦です。製錬の過程で出てきた鉱滓を固めて、護岸や擁壁の材料として四阪島(しさかじま)製錬所(明治38=1905年創業)でつくられたものだそうです。
マイントピアの建物の中にあったキャラクターです。大きなしっぽがあったのでタヌキなのでしょうね。
マイントピア内に展示してあった「歓喜坑」の写真です。元禄4(1691)年に発見された最初の坑道。前途有望な鉱脈の発見に、関係者がこの坑口の前で抱き合って喜んだのでこの名がついたといわれています。別子銅山は、元禄4(1691)年、住友吉左衛門(友芳)が江戸幕府に開坑を願い出たことに始まります。元禄15(1702)年幕府から永代請負が認められてから、一貫して住友家の所有となり、これによって住友財閥の経済的基礎が確立したといわれています。閉山時には、住友金属鉱山の所有でした。開坑から閉山までの約280年間で、72万トンの銅を産出しました。
昼食です。うどんとちらし寿司でした。私には量がやや多かったようです。
食堂から見えた煉瓦造の建物。明治45(1912)年に完成した旧端出場水力発電所の跡です。大量生産に伴う電力の確保のために建造されました。登録有形文化財に登録されています。ドイツシーメンス社製の発電機や同じくドイツのフォイト社製のペルド水車が残っています。
食事を済ませてから時間があったので、近くにあった施設の跡を訪ねてみました。第4通洞跡です。大正4(1915)年に完成しました。まっすぐ進む4,600mの坑道で、その先の立坑(たてこう)で海面下の堀場につながっていました。銅鉱石や機械の運搬等に閉山まで使われました。
銅山川にかかるトロッコの鉄橋です。第4通洞から続いています。
第4通道の前にトロッコの線路跡が残っています。
山の中腹にあった大斜坑跡です。大斜坑は、昭和44(1969)年完成しました。先の第4通洞が立坑につながって降りていくのに対し、大斜坑は海面下1,000mまで斜めにまっすぐ掘られた坑道でした。その近くに、運びだした銅鉱石を貯めておく貯鉱庫も残っていました。
旧端出場の貯鉱庫の跡です。第4通洞から運ばれてきた銅鉱石はこの上で落とされ、ここに貯められていました。大正8(1919)年に完成しました。
マイントピアの建物の中に展示されていた鹿森住宅の写真です。鉱山で働く人たちの居住区です。
この石段が鹿森住宅につながっていました。
昭和12(1937)年に開坑250周年記念式典のためにつくられた接待館の一部で、平成3(1991)年にマイントピアの少し上に移築された、泉寿亭(せんじゅてい)です。茶室風の数寄屋造です。
13時35分に再びマイントピアに戻ってきました。鉱山鉄道の線路跡を利用した観光用のトロッコ鉄道で移動する時間です。蒸気機関車に牽引された列車が入線していました。
鉱山鉄道は、正式には「住友別子鉱山鉄道」。明治26(1893)年開業しました。旅客営業もしていましたが、昭和52(1977)に廃止されました。これは、明治26(1893)年、ドイツのクラウス社製の蒸気機関車(SL)です。当時、伊予鉄道の所有するSLとの2台だけだったようです。
現在は、気動車に改造されていました。伊予鉄道のSLも同じように気動車に改造され”坊ちゃん列車”を牽引しています。私は、かつて伊予鉄道のSLが道後温泉駅の近くで給油しているのを見たことがあります(2010年2月15日の日記)。
観光客が乗り込みます。この日は日曜日でしたので満員の乗客でした。座席は指定されてはいませんでした。
満開の桜に見守られての出発です。もちろん煙もなく”しゅっぽしゅっぽ”ではありません。
途中で、打除(うちよけ)鉄橋を渡ります。その後、すぐに中尾トンネルをくぐります。トンネルから出ると打除駅に着きます。
打除駅には、かつて坑道で使われていた機関車や車両が展示されています。
到着したトロッコ列車です。
打除駅から、徒歩で観光用の坑道に向かいます。
ツアーのお仲間です。観光用の坑道の入口です。
観光坑道の中です。模型と説明で、銅鉱石の採掘の様子を学ぶことができます。これは、のみとつちで、掘り進んでいた堀場の状況を再現したものです。
観光用の坑道を見学した後、私たちは、ガイドをしてくださる方とともに、東平(とうなる)地区に移動しました。東平地区は、端出場に移る前の大正5(1916)年から昭和5(1930)年まで、別子銅山採鉱本部が置かれていたところです。標高750mの高所にあり、昭和43(1968)年の東平の鉱山の閉山まで大変な賑わいをみせていたところです。
マイントピアの建物がある端出場地区から専用バスで移動しました。標高差600mを30分かけて、車の対向も難しいほどの細い道路を登っていきました。高所に鉱山で栄えた町があったということで、”東洋のマチュピチュ”というキャッチフレーズで観光客を集めているところです。
下車すると最初に入ったのが、東平歴史資料館です。
小マンプです。資料館から西の第3通洞方面に向かっていくと2つのトンネルがあります。その短い方のトンネルです。「マンプ」は、坑道を意味する「間符」(まぶ)から転じたといわれています。坑道の跡でした。
中は、坑道で使われていた機械が展示場されていました。
小マンプから引き返します。南斜面に煉瓦積みの建物跡がありました。東平貯鉱庫跡です。
第3通洞からの銅鉱石や索道(リフト)で運ばれてきた銅鉱石を一時貯蔵するために使われていました。 マイントピア内に展示されていた写真です。明治38(1905)年ごろに建設されました。
索道基地跡という案内がありました。銅鉱や日常品を運搬した索道(リフト)の停車場跡でした。
展示されていた明治39(1906)年の索道基地の写真です。端出場と東平とを結んでいました。
端出場から東平へ索道で運ばれてきた物資は、そこから急斜面につくられた軌道で引き上げられていました。インクラインです。現在は、そこに階段が220段つくられていました。そういえば、ツアーの募集のときに「220段の階段が歩けるような靴で参加してください」という条件がついていました。しかし、参加者はみんな元気です。かなりの高齢者もおられましたが、全員無事に上がって来られました。
”東洋のマチュピチュ” 別子銅山の跡地に行ってきました。ツアーでしたので、施設のすべてをゆっくりとまわることはできませんでしたが、ガイドさんのお話もあって、かつての様子がよくわかりました。劣悪な労働環境の中を働き続けた多くの人々の姿をしのびながら歩いた旅でした。