4月のある日、大阪のメインストリートである御堂筋を難波に向かって歩きました。
御堂筋は、沿道に東本願寺の南御堂、西本願寺の北御堂があることからこう呼ばれています。
JR大阪駅から難波の高島屋前までの4,7kmの道路が続いています。幅43,2mあり、4列に並んだいちょう並木が両側の高層ビルと調和した美しい風景をつくり出しています。江戸時代のこの通りは、幅5,4m、長さ1,3kmだったそうです。現在の長さになったのは、昭和12(1937)年に、全国初の公営地下鉄(現市営地下鉄御堂筋線)を建設するために、幅を広げ、南北に延長する工事が完成してからです。
スタートはJR大阪駅でした。大阪駅南口は、百貨店の大丸やホテルも入居しているアクティ大阪となり、駅の北口には専門店が入った高層ビルもつくられて、大阪の玄関口にふさわしい近代的な駅舎になっています。
JR大阪駅のある地域は”梅田”と呼ばれています。私鉄の阪神電鉄や阪急電鉄、そして大阪市営地下鉄の梅田駅もあり、多くの乗降客や買物客が行き来する賑やかな地域です。江戸時代、現在の梅田地区のあたりは、泥田が広がっていました。”梅田”は、この泥田を”埋めた”からといわれています。
JR大阪駅の東にある阪急ビルです。JR大阪駅に負けない高層ビルが建っています。梅田地区が発展したのは、明治7(1875)年、大阪ー神戸間の鉄道が開通し、洋風の赤煉瓦つくりの大阪駅が誕生してからです。当初は堂島付近に駅をつくることになっていましたが、火災を心配する声に押され梅田地区に変更されました。当時の大阪駅は、現在よりも西に寄っていたそうです。また、現在の中央郵便局のあたりに、大阪駅東口があったそうです。”梅田すてんしょ”と呼ばれ多くの人々を集めました。ちなみに、大阪~神戸間の運賃は上等1円、中等70銭、下等40銭。40銭で米8升が買えた時代でしたので、かなりの高額でした。
JR大阪駅南口の前、阪急ビルの向かいに見える阪神百貨店。阪神電鉄の梅田駅があります。ライバルでしたが、今はH2Oホールディングの仲間同士。陸橋を渡り阪神の前から、御堂筋を歩き始めました。
すぐに、梅田新道の交差点に着きました。西北の隅のあったのが道路元標です。ここは、西日本の
道路の起点と終点になっており、国道1号線(東京へ、終点)、国道2号線(北九州市門司へ、起点)、国道25号線(四日市市へ、終点)、国道26号線(和歌山市へ、起点)、国道163号線(伊賀上野市へ、起点)、国道176号線(宮津市へ、終点)が分岐しています。交差点の前の道路は、ここから東に向かう方が国道1号線、西に向かう方が国道2号線になっていました。
近くにあった案内によれば、道路元標は、旧道路法の制定(大正8=1919年)によって、大正11(1922)年、中之島の大阪市庁舎前に設置されたのが始まり(それ以前は里程元標)だそうです。その後、新道路法の制定(昭和28=1953年)によって市内を走る国道の起点と終点が梅田新道に定められたのに伴い、昭和28(1953)年大阪市道路元標もここに設置されたようです。その後、道路元標は新しくなりましたが、黒御影石の銘板は昭和28年当時のものをそのまま使用したといわれています。
これは、少し大阪駅寄りから御堂筋の左(東)側を見たものです。ガラス張りの高層ビルの隣に、足立宝石店の建物(現在売却物件になっています)があります。その裏にあるのが、菅原道真を祀る露(つゆ)天神社です。
梅田新道の交差点を左(東)に向かって渡り露天神社に向かいます。菅原道真が九州大宰府に流される途中に立ち寄り、”露と散る 涙は袖に 朽ちにけり 都のことを 思い出づれば”と詠んだことから命名されたといわれています。
露天神社は、元禄16(1703)年に竹本座で近松門左衛門の「曾根崎心中」が上演されて以後、「お初天神」と呼ばれるようになりました。「曾根崎心中」はその前月にあった、堂島新地の天満屋の遊女お初と内本町の醤油屋の手代徳兵衛が天神の森で心中した事件をモデルにしたものです。「曽根崎心中」は大ヒットし連日大入り満員を続けたといわれています。お初と徳兵衛の像が境内に建てられていました。当時はお初天神の裏には森が広がっていたようです。
足立宝石店の裏の通りがお初天神の参道でした。手前右にある交番の脇からお初天神に入ることができます。江戸時代の初期は、堂島川(旧淀川)から北は、お初天神と「曾根崎墓」が知られる程度の寂しいところでした。お初がいた堂島新地は、貞享(1684~88)年間、河村瑞軒が行った堂島川の治水工事により、堂島川とその北の蜆(しじみ)川間に生まれた新地で、蜆川の南岸に沿って色街ができていました。
再び御堂筋の西側に戻ります。西側から見たお初天神通りの商店街です。国道2号線を南に渡って、さらに進みます。
曾根崎新地に入ります。大阪を代表する高級歓楽街で知られる”北新地”の飲食店街です。曾根崎新地は、江戸時代の宝永年間(1704~11)に開発され、茶屋や風呂屋、泊り茶屋などが建ち並んでいました。享保16(1731)年、堂島新地に幕府公認の米市場ができたため、色街は蜆川を越えて曾根崎新地に移ってきて、”北の新地”の名で親しまれていました。歩いてみると、気軽に入れる居酒屋や飲食店も並んでいて、庶民的な街にもなっているようです。なお、堂島はその後、米市で全国に知られ、各藩の蔵屋敷が立ち並ぶようになっていきました。
御堂筋の東の通りにあった曾根崎變電所です。昭和11(1936)年の竣工。大阪市営地下鉄御堂筋線に電力を供給しています。御堂筋線は昭和8(1933)年に梅田・心斎橋間が開通した、日本初の地下鉄でした。右から書かれていること、「変」の次が旧字体だったことが、歴史を感じさせてくれました。それにしても、大都会のど真ん中といっていいところにある変電所に、少し驚きました。
さらに南に進みます。滋賀銀行梅田支店の南の隅に「しじみはし」と「蜆川跡」の銘板が建物の壁に埋め込まれていました。蜆川は、この先の堂島川(旧淀川)にかかる大江橋の東で堂島川から別れ、今の北新地本通りのあたりを流れて再び堂島川に合流していたといわれています。蜆橋は蜆川にかかっていた橋の一つでした。そして、明治42(1909)年、ドブ川になっていた蜆川は”キタの大火”で家のがれきで埋まり、その後埋め立てられ姿を消して行きました。
その先は堂島です。先に書いたように、江戸時代に米市が開かれ、各藩の蔵屋敷が並んでいたところです。左前方に、中之島にある大阪市役所の建物が見えます。地上11階、地下4階。どっしりとした印象を受ける建物です。 昭和61(1986)年の竣工です。
すぐに大江橋に着きます。堂島川にかかっています。大正13(1924)年、淀屋橋とのセットで公募されたデザインによって建設され、昭和10(1935)年淀屋橋とともに完成しました。幅36,4m(淀屋橋と同じ)、長さ81,6m。
重厚なアーチとバルコニーが目を引きます。その向こうは中之島。日本銀行大阪支店の建物が見えます。 さて、旧淀川は天神橋付近で堂島川と土佐堀川に別れ、西(下流)の船津橋付近で再度合流し安治川になります。この二つの川に挟まれた中州が中之島です。中之島を開拓したのは、淀屋常安でした。山城の国から大坂に出てきて材木商で財を成し、大坂城の落城後は市中に捨てられていた鎧や刀剣を処分する特権を得て、莫大な利益を上げました。その財力で中之島を開拓しました。中之島には、江戸幕府公認の米市が置かれてから、諸大名の蔵屋敷が立ち並んでおり、文化11(1814)年には41の蔵屋敷があったといわれています。
中之島にある日本銀行大阪支店です。明治15(1882)年に今橋(この先さらに南にある)で開業しました。そして、明治36(1903)年に現在地に移ってきました。そこは、かつて島原藩の蔵屋敷があったところで、明治初期には五代友厚(関西財界の重鎮)の別邸があったところです。辰野金吾がベルギーの国立銀行をモデルに設計したもので、緑青が美しい丸屋根をもつネオルネサンス様式の建物です。ちなみに、辰野金吾は日本銀行本店や小樽支店も設計しています。大阪支店は、昭和49(1974)年、国の重要文化財に指定されました。
日本銀行大阪支店の南東隅の植え込みの中に「駅逓司大阪郵便役所跡」の碑が建っています。
明治4(1974)年、前島密により、東海道に新式郵便が施行されました。それに伴い、東京、京都、大阪に郵便役所が、東海道の宿駅62ヶ所に郵便取扱所が設置されました。ここは、大阪の郵便役所が建てられていたところです。当時、郵便は、東京ー大阪間は78時間、大阪ー京都間は7時間かかっていました。しかし、利用料金が高かったこともあり、新式郵便の利用者は、初めの3日間でわずかに53人だったそうです。
さらに南に進み、土佐堀川にかかる淀屋橋を渡ります。写真は、光線の関係で、淀屋橋の南詰めから梅田方面に向かって写しました。淀屋橋は、前の大江橋と同じ昭和10(1935)年に完成しました。長さは大江橋より短い54,5mです。
淀屋橋の南詰めから土佐堀川に沿って少し下ったところにあった淀屋の碑です。江戸時代の淀屋橋は米市のために、淀屋が自費で架けたものです。淀屋は、大名の蔵米の販売を一手に引き受け、請われるままに幕府や大名に巨額の資金を貸し付けるなどその財力は群を抜いていました。しかし、5代目の広當(ひろまさ、通称辰五郎)のとき、闕所(けっしょ)となり、全財産没収と大坂四方所払いの処分を受けて没落しました。
淀屋の屋敷跡の碑です。淀屋の碑の右に建っています。財力を誇った淀屋の邸宅は、敷地一万坪、その中に、いろは四十八蔵が建ち並んでいました。この碑は、淀屋の荷上げ場があったところに建っていました。闕所になった淀屋は、その後、倉吉淀屋から後継者を迎えて復活し明治まで繁栄を続けることになりました。
梅田から中之島までゆっくりと、御堂筋の歴史を訪ねて歩きました。歩くだけなら30分もかからないで行ける距離でしたが、時間をかけて、今まで知らなかった多くの歴史を学びながら歩きました。 大阪の持つ歴史の重みを感じた旅でした。
御堂筋は、沿道に東本願寺の南御堂、西本願寺の北御堂があることからこう呼ばれています。
JR大阪駅から難波の高島屋前までの4,7kmの道路が続いています。幅43,2mあり、4列に並んだいちょう並木が両側の高層ビルと調和した美しい風景をつくり出しています。江戸時代のこの通りは、幅5,4m、長さ1,3kmだったそうです。現在の長さになったのは、昭和12(1937)年に、全国初の公営地下鉄(現市営地下鉄御堂筋線)を建設するために、幅を広げ、南北に延長する工事が完成してからです。
スタートはJR大阪駅でした。大阪駅南口は、百貨店の大丸やホテルも入居しているアクティ大阪となり、駅の北口には専門店が入った高層ビルもつくられて、大阪の玄関口にふさわしい近代的な駅舎になっています。
JR大阪駅のある地域は”梅田”と呼ばれています。私鉄の阪神電鉄や阪急電鉄、そして大阪市営地下鉄の梅田駅もあり、多くの乗降客や買物客が行き来する賑やかな地域です。江戸時代、現在の梅田地区のあたりは、泥田が広がっていました。”梅田”は、この泥田を”埋めた”からといわれています。
JR大阪駅の東にある阪急ビルです。JR大阪駅に負けない高層ビルが建っています。梅田地区が発展したのは、明治7(1875)年、大阪ー神戸間の鉄道が開通し、洋風の赤煉瓦つくりの大阪駅が誕生してからです。当初は堂島付近に駅をつくることになっていましたが、火災を心配する声に押され梅田地区に変更されました。当時の大阪駅は、現在よりも西に寄っていたそうです。また、現在の中央郵便局のあたりに、大阪駅東口があったそうです。”梅田すてんしょ”と呼ばれ多くの人々を集めました。ちなみに、大阪~神戸間の運賃は上等1円、中等70銭、下等40銭。40銭で米8升が買えた時代でしたので、かなりの高額でした。
JR大阪駅南口の前、阪急ビルの向かいに見える阪神百貨店。阪神電鉄の梅田駅があります。ライバルでしたが、今はH2Oホールディングの仲間同士。陸橋を渡り阪神の前から、御堂筋を歩き始めました。
すぐに、梅田新道の交差点に着きました。西北の隅のあったのが道路元標です。ここは、西日本の
道路の起点と終点になっており、国道1号線(東京へ、終点)、国道2号線(北九州市門司へ、起点)、国道25号線(四日市市へ、終点)、国道26号線(和歌山市へ、起点)、国道163号線(伊賀上野市へ、起点)、国道176号線(宮津市へ、終点)が分岐しています。交差点の前の道路は、ここから東に向かう方が国道1号線、西に向かう方が国道2号線になっていました。
近くにあった案内によれば、道路元標は、旧道路法の制定(大正8=1919年)によって、大正11(1922)年、中之島の大阪市庁舎前に設置されたのが始まり(それ以前は里程元標)だそうです。その後、新道路法の制定(昭和28=1953年)によって市内を走る国道の起点と終点が梅田新道に定められたのに伴い、昭和28(1953)年大阪市道路元標もここに設置されたようです。その後、道路元標は新しくなりましたが、黒御影石の銘板は昭和28年当時のものをそのまま使用したといわれています。
これは、少し大阪駅寄りから御堂筋の左(東)側を見たものです。ガラス張りの高層ビルの隣に、足立宝石店の建物(現在売却物件になっています)があります。その裏にあるのが、菅原道真を祀る露(つゆ)天神社です。
梅田新道の交差点を左(東)に向かって渡り露天神社に向かいます。菅原道真が九州大宰府に流される途中に立ち寄り、”露と散る 涙は袖に 朽ちにけり 都のことを 思い出づれば”と詠んだことから命名されたといわれています。
露天神社は、元禄16(1703)年に竹本座で近松門左衛門の「曾根崎心中」が上演されて以後、「お初天神」と呼ばれるようになりました。「曾根崎心中」はその前月にあった、堂島新地の天満屋の遊女お初と内本町の醤油屋の手代徳兵衛が天神の森で心中した事件をモデルにしたものです。「曽根崎心中」は大ヒットし連日大入り満員を続けたといわれています。お初と徳兵衛の像が境内に建てられていました。当時はお初天神の裏には森が広がっていたようです。
足立宝石店の裏の通りがお初天神の参道でした。手前右にある交番の脇からお初天神に入ることができます。江戸時代の初期は、堂島川(旧淀川)から北は、お初天神と「曾根崎墓」が知られる程度の寂しいところでした。お初がいた堂島新地は、貞享(1684~88)年間、河村瑞軒が行った堂島川の治水工事により、堂島川とその北の蜆(しじみ)川間に生まれた新地で、蜆川の南岸に沿って色街ができていました。
再び御堂筋の西側に戻ります。西側から見たお初天神通りの商店街です。国道2号線を南に渡って、さらに進みます。
曾根崎新地に入ります。大阪を代表する高級歓楽街で知られる”北新地”の飲食店街です。曾根崎新地は、江戸時代の宝永年間(1704~11)に開発され、茶屋や風呂屋、泊り茶屋などが建ち並んでいました。享保16(1731)年、堂島新地に幕府公認の米市場ができたため、色街は蜆川を越えて曾根崎新地に移ってきて、”北の新地”の名で親しまれていました。歩いてみると、気軽に入れる居酒屋や飲食店も並んでいて、庶民的な街にもなっているようです。なお、堂島はその後、米市で全国に知られ、各藩の蔵屋敷が立ち並ぶようになっていきました。
御堂筋の東の通りにあった曾根崎變電所です。昭和11(1936)年の竣工。大阪市営地下鉄御堂筋線に電力を供給しています。御堂筋線は昭和8(1933)年に梅田・心斎橋間が開通した、日本初の地下鉄でした。右から書かれていること、「変」の次が旧字体だったことが、歴史を感じさせてくれました。それにしても、大都会のど真ん中といっていいところにある変電所に、少し驚きました。
さらに南に進みます。滋賀銀行梅田支店の南の隅に「しじみはし」と「蜆川跡」の銘板が建物の壁に埋め込まれていました。蜆川は、この先の堂島川(旧淀川)にかかる大江橋の東で堂島川から別れ、今の北新地本通りのあたりを流れて再び堂島川に合流していたといわれています。蜆橋は蜆川にかかっていた橋の一つでした。そして、明治42(1909)年、ドブ川になっていた蜆川は”キタの大火”で家のがれきで埋まり、その後埋め立てられ姿を消して行きました。
その先は堂島です。先に書いたように、江戸時代に米市が開かれ、各藩の蔵屋敷が並んでいたところです。左前方に、中之島にある大阪市役所の建物が見えます。地上11階、地下4階。どっしりとした印象を受ける建物です。 昭和61(1986)年の竣工です。
すぐに大江橋に着きます。堂島川にかかっています。大正13(1924)年、淀屋橋とのセットで公募されたデザインによって建設され、昭和10(1935)年淀屋橋とともに完成しました。幅36,4m(淀屋橋と同じ)、長さ81,6m。
重厚なアーチとバルコニーが目を引きます。その向こうは中之島。日本銀行大阪支店の建物が見えます。 さて、旧淀川は天神橋付近で堂島川と土佐堀川に別れ、西(下流)の船津橋付近で再度合流し安治川になります。この二つの川に挟まれた中州が中之島です。中之島を開拓したのは、淀屋常安でした。山城の国から大坂に出てきて材木商で財を成し、大坂城の落城後は市中に捨てられていた鎧や刀剣を処分する特権を得て、莫大な利益を上げました。その財力で中之島を開拓しました。中之島には、江戸幕府公認の米市が置かれてから、諸大名の蔵屋敷が立ち並んでおり、文化11(1814)年には41の蔵屋敷があったといわれています。
中之島にある日本銀行大阪支店です。明治15(1882)年に今橋(この先さらに南にある)で開業しました。そして、明治36(1903)年に現在地に移ってきました。そこは、かつて島原藩の蔵屋敷があったところで、明治初期には五代友厚(関西財界の重鎮)の別邸があったところです。辰野金吾がベルギーの国立銀行をモデルに設計したもので、緑青が美しい丸屋根をもつネオルネサンス様式の建物です。ちなみに、辰野金吾は日本銀行本店や小樽支店も設計しています。大阪支店は、昭和49(1974)年、国の重要文化財に指定されました。
日本銀行大阪支店の南東隅の植え込みの中に「駅逓司大阪郵便役所跡」の碑が建っています。
明治4(1974)年、前島密により、東海道に新式郵便が施行されました。それに伴い、東京、京都、大阪に郵便役所が、東海道の宿駅62ヶ所に郵便取扱所が設置されました。ここは、大阪の郵便役所が建てられていたところです。当時、郵便は、東京ー大阪間は78時間、大阪ー京都間は7時間かかっていました。しかし、利用料金が高かったこともあり、新式郵便の利用者は、初めの3日間でわずかに53人だったそうです。
さらに南に進み、土佐堀川にかかる淀屋橋を渡ります。写真は、光線の関係で、淀屋橋の南詰めから梅田方面に向かって写しました。淀屋橋は、前の大江橋と同じ昭和10(1935)年に完成しました。長さは大江橋より短い54,5mです。
淀屋橋の南詰めから土佐堀川に沿って少し下ったところにあった淀屋の碑です。江戸時代の淀屋橋は米市のために、淀屋が自費で架けたものです。淀屋は、大名の蔵米の販売を一手に引き受け、請われるままに幕府や大名に巨額の資金を貸し付けるなどその財力は群を抜いていました。しかし、5代目の広當(ひろまさ、通称辰五郎)のとき、闕所(けっしょ)となり、全財産没収と大坂四方所払いの処分を受けて没落しました。
淀屋の屋敷跡の碑です。淀屋の碑の右に建っています。財力を誇った淀屋の邸宅は、敷地一万坪、その中に、いろは四十八蔵が建ち並んでいました。この碑は、淀屋の荷上げ場があったところに建っていました。闕所になった淀屋は、その後、倉吉淀屋から後継者を迎えて復活し明治まで繁栄を続けることになりました。
梅田から中之島までゆっくりと、御堂筋の歴史を訪ねて歩きました。歩くだけなら30分もかからないで行ける距離でしたが、時間をかけて、今まで知らなかった多くの歴史を学びながら歩きました。 大阪の持つ歴史の重みを感じた旅でした。