トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
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「四国鉄道発祥之地」を歩く

2018年04月13日 | 日記

JR予讃線の駅、多度津駅です。香川県仲多度郡多度津町にあります。前回、多度津駅を訪ねたとき(「JR多度津駅に残るSL全盛期の面影」2018年4月9日の日記)、駅前にあるJR四国が設置した「四国鉄道発祥之地」のモニュメントを見てきました。近くにあった説明には、JR四国は、「明治22(1889)年に讃岐鉄道株式会社(以下「讃岐鉄道」)によって、多度津駅を起点として丸亀駅と琴平駅間15.5kmで営業が始まったのが当社の始まり」だと書かれていました。この讃岐鉄道による開業は四国で2番目のことで、明治21(1889)年、伊予鉄道が松山駅(現在の松山市駅)と三津駅間を開業させたのが最初だといわれています。

これが、そのモニュメントです。説明には、続けて「その頃の多度津駅は、この地点より西へ1kmの、多度津町大通り(JR多度津工場の西側)にあった」と書かれていました。他に2ヶ所に設置されている「四国鉄道発祥之地」があるとのことでしたので、それを確かめたいと思いました。

最初に、讃岐鉄道が開業したときの多度津駅を訪ねようと思いました。現在の多度津駅からまっすぐ駅前通りを進みます。この通りは公的機関が集中しているところでした。交番、香川県立多度津高校、多度津町役場が並んでいます。

香川県立多度津高校です。多度津町にあった、旧多度津工業高校と旧多度津水産高校が統合されて、旧多度津工業高校のあった場所に、新たに設立されました。

多度津町役場は桜川にかかる豊津橋のたもとにあります。まず、多度津町立資料館に寄って情報をいただこうと思いました。橋の手前を右折して進みます。この先で桜川は左に大きく湾曲しています。

右折しました。桜川に沿った、灯籠が並んでいる通りをまっすぐ歩いて行きます。

左に湾曲している桜川が見えなくなると、交差点に入りました。資料館の案内標識が見えました。その下に、二つの石標があります。手前の石標には「多度津町道路元標」と書かれていました。町の道路の起点となる地点を示しているものです。その向こうの石標には「旧多度津陣屋蓮堀(はすぼり)跡」。裏には、「是従 北 幅5間 長さ 百間」と書かれていました。信号の向こうには、江戸時代には多度津藩の蓮堀があり、堀の左側は、陣屋の御殿が広がっていたところです。道路の起点になるのにふさわしいところだと思いました。

信号を右折します。2軒目に多度津藩主京極家の家紋である(多度津町章でもある)「菱四つ目定紋」がついているお宅がありました。ここが元多度津藩士浅見家の邸宅を改造した資料館でした。スタッフの方から多くの情報をいただきました。さて、讃岐鉄道を開業させたのは、景山甚右衛門を中心にした多度津の廻船問屋の人々でした。所有する千石船で行った東京で蒸気機関車を見た甚右衛門は、これからは、天候に左右されず、安全に多数の人を1度に輸送ができる鉄道の時代だと考えたのです。多度津で財力を持っていた経済人とともに讃岐鉄道株式会社を設立し、明治22(1889)年に、多度津を起点に丸亀と琴平とを結ぶ鉄道を開業させました。四国では、冒頭で書いたように、伊予鉄道に次ぐ2番目、全国では9番目の開業でした。

浅見家は、多度津藩では中級武士の家柄だったそうですが、豪壮な武家屋敷の土塀が続く立派な邸宅でした。さて、開業した讃岐鉄道は、上等、中等、下等の3ランクに分かれており、貨車と客車をあわせて4両編成で運行していました。それを、牽引していたのは、ドイツのホーエンツォレル社の蒸気機関車でした。明治30(1897)年には、高松駅まで延伸しましたが、高松方面は営業的には苦しい状況が続いたため、景山甚右衛門は、食堂車をつくり女性を列車ボーイとして配置したといわれています。しかし、苦しい状況は改善されず、明治37(1904)年には山陽鉄道に買収され、さらに2年後の明治39(1906)年には国有化されました。

来た道を引き返します。道路元標があった交差点を過ぎて進みます。左側に極楽橋があるところの右側に、中村医院の建物がありました。大正15(1926)年に建てられた木造2階建てモルタル塗りの洋風の医院建築で、国の登録有形文化財に登録されています。写真の山本医院の建物の左側は、JR多度津工場の敷地になっていました。

通りの右側に機関車の動輪が見えました。「四国旅客鉄道株式会社 多度津工場」と書かれています。JR四国唯一の車両工場で、JR四国の全車両の点検整備や改造を行っているところです。

正門から見た内部の状況です。讃岐鉄道の時代から、初代の多度津駅に隣接してつくられていた整備工場です。平成21(2009)年に「近代化産業遺産」(経済産業省)に認定され、平成24(2012)年に登録有形文化財(文化庁)に登録された7つの建物が今も使用されています。最古のものは、明治21(1888)年に建設された、開業時の建物だそうです。

その先、左側にあった須賀金刀比羅神社です。「昔、金毘羅汐川の神事、此の地にて執り行へり 因ってこの社を建つ(「西讃府志」)と誌された由緒ある古社であり、海水と海藻を琴平の本宮に奉仕する儀式を伝承し、現在に至る」と「説明」に書かれていました。また、裏を流れる桜川の岸には「金毘羅大権現 御上陸された場と伝えられる」と書かれた石標が建っていました。資料館でいただいた「江戸末期の陣屋」という屋敷割図には、現在の多度津町民会館があるあたりまで、道路を越えて神域が広がっていました。明治23(1890)年に道路が開通したときに、現在のようになったそうです。讃岐鉄道は、江戸時代に藩によって整備された多度津港に上陸した参拝客や物資の輸送のために開業された鉄道でした。

金毘羅宮の向かい側、そして、JR多度津工場の並びに、「多度津町民会館」が広々とした敷地の中にありました。ここに、讃岐鉄道の初代の多度津駅がありました。丸亀駅からやって来た列車は、琴平駅に向かってスイッチバック(引き返し)で進み、旧多度津水産高校の校舎跡付近で右にカーブして琴平駅方面に向かっていました。資料館に展示されていた駅舎の模型から、2階建てで、1階に多度津駅、2階に讃岐鉄道の本社が置かれていたことがわかります。1階部分には、駅舎の中央から入り、右側に「上・中等待合室」その先に「貨物取扱室」が、左側には「下等待合室」とその先に「駅長室」が置かれていました。入口からまっすぐ進むと改札がありその先がホームになっていました。2階の本社のエリアには、社長室、応接室、事務室、技術室、宿直室、トイレなどが置かれていたようです。

2つ目の「四國鐵道発祥之地 讃岐鐵道多度津驛趾」の石標が、広い駐車場の右側の芝生の上にありました。平成2(1990)年に町政施行百周年を記念して建立したそうです。裏には「明治22年5月23日 多度津を起点に丸亀・琴平間に鉄道が開業された」と刻まれていました。

隣には、「母がいる港」の石碑がありました。「星野哲郎作詞 船村徹作曲」とありました。これも町政施行百年の記念事業の一環だったようです。


3つ目の「四国鉄道発祥之地」の碑を確認するため、JR多度駅にもどり、土讃線の列車で同じ香川県仲多度郡にある琴平駅に向かうつもりでした。土讃線は、起点である多度津駅と琴平駅の間だけが電化区間になっています。高松駅から来た電車、”サンポート高松号”に乗車しました。琴平では、金毘羅宮に参拝する人々の輸送を目的に、戦前の昭和5(1930)年から昭和19(1944)年までは、4社の鉄道の琴平駅が競合していました。

多度津駅から15分ちょっとでJR琴平駅に着きました。琴平の町は、日本最古の芝居小屋である金丸座で開かれる金毘羅大芝居で盛り上がっていました。駅前にもたくさんの幟(のぼり)が立っています。琴平は江戸時代には寺社領、隣の榎内村は天領(幕府領)であったため、芝居の興行も比較的やりやすかったといわれ、年3回の興行のたびに「仮り小屋」をつくっていました。天保6(1835)年に、金丸座が建てられてからは、江戸や大坂の千両役者が舞台を踏むなど全国に知られる芝居小屋になっていました。金丸座は、昭和45(1970)年、国の重要文化財に指定されています。

駅舎を出て駅前通りを撮影しました。この道をまっすぐ進み、正面の道を左折して進むのが、金毘羅宮への参拝客のルートです。横断歩道の先に灯籠が並んでいます。

灯籠の間に蒸気機関車(SL)の動輪が見えました。

その動輪の下に、「四国鉄道発祥之地」のプレートがありました。3つ目の「四国鉄道発祥之地」の碑です。

このモニュメントは、昭和47(1972)年に設置されました。「シゴハチの動輪」というテーマで、讃岐鉄道が開業させたこと、昭和45(1970)年にSLが廃止され、四国の鉄道無煙化が達成されたことが、琴平町長と駅長の連名で記されていました。展示されていたのは、「シゴハチ」の愛称で知られるC58形蒸気機関車(SL)の動輪でした。

駅前の通りをまっすぐに歩いていきます。右側の高灯籠のある公園に、高松琴平電鉄の琴平駅がありました。昭和2(1927)年の開業時には、2階建ての大規模駅舎で2階はレストランになっていたようですが、レストランは太平洋戦争中に閉店したそうです。写真の駅舎が使用され始めたのは、昭和63(1988)年5月26日のことでした。

高松琴平電鉄の琴平駅を過ぎてすぐ、琴平の町の中心を流れる金倉川に架かる大宮橋を渡ります。

大宮橋を渡ったところで、琴平電鉄の琴平駅方面を振り返って撮影しました。左に高灯籠が、右側に高松琴平電鉄の琴平駅が見えました。

その先にある左右の通りとの交差点の手前にある琴平郵便局です。ここにもかつて鉄道の駅舎が置かれていました。戦前から、四国に上陸した参拝客の輸送のため、4社の鉄道会社がしのぎを削っていましたが、琴平郵便局の敷地には、坂出からの参拝客を輸送した琴平急行電鉄の琴平駅がありました。

正面左右を走る通りの先に、”ことひら温泉琴参閣”の建物が見えました。右側の青い建物は琴平郵便局です。JR四国が「本社の始まり」とした讃岐鉄道の琴平駅は、この観光旅館の場所にありました。明治37(1904)年、山陽鉄道が讃岐鉄道を買収してからは同社の駅となり、明治39(1906)年に国有化されてからは国有鉄道の駅になりました。そして、その国有鉄道が、大正11(1922)年11月、土讃線を阿波池田駅まで延伸させたとき、琴平駅は現在のJR琴平駅のある場所に移設されたのです。旧駅舎があったところには、新たに丸亀と多度津からの参拝客を輸送した琴平参宮電鉄の琴平駅が設けられました。そして、琴平参宮電鉄が、昭和38(1963)年に鉄道事業を廃止した後、駅跡地には”ことひら温泉琴参閣”が建設されたのです。

これは、10年ほど前に撮影したJR琴平駅の写真です。前面には「琴平駅」という駅名標がついていました。

こちらは、現在のJR琴平駅です。駅名標は撤去され、駅舎の塗装も新しくなっています。耐震補強工事が平成28(2016)年に完工し、翌年の平成29(2017)年には、琴平駅がこの地に移ってきたとき(大正11=1922年)の外観に復元されました。美しく、品格のある駅に生まれ変わっています。


多度津駅と多度津町民会館(旧多度津駅跡)、琴平駅にあった、3つの「四国鉄道発祥之地」を訪ねてきました。
明治22(1889)年の讃岐鉄道の開業時に始まる鉄道発祥の時期を彩る由緒ある3つの駅。その後の発展はそれぞれ違いましたが、いずれも長い歴史を誇る、訪ねて楽しいところでした。



















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2 コメント

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Unknown (サイモン)
2018-04-19 18:38:18
こんにちは☆

高松に父方の、善通寺に母方の故郷が有り、子供の頃から懐かしい場所です。
高松へは、琴参→琴電でよく行きました。
もう、50年以上前の話ですが、今もよく覚えています。
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コメントありがとうございました (トシ)
2018-04-20 18:01:42
訪問していただき、コメントまでいただき、感謝しております。ありがとうございました。岡山市の郊外に生まれた私も、初詣はいつも金刀比羅宮でした。宇高連絡船と琴電で、片道3時間ぐらいかけてお詣りしていました。
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