goo blog サービス終了のお知らせ 

トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

水間街道を歩く(2)~名越駅から紀州街道へ~

2018年10月16日 | 日記
龍谷山水間寺への参詣の道として、また、大阪府中部と貝塚寺内を結ぶ物資輸送の道として、多くの人に利用されてきた水間街道。水間寺から、並行して走る水間鉄道水間線(以下「水間線」)の駅に立ち寄りながら歩いています。

水間線と水間街道が交差する水間線の名越1号踏切です。線路の先の駅は名越(なごせ)駅です。前回は、水間寺からここまで歩いてきました(「水間街道を歩く(1)~水間寺から名越駅まで~」2018年10月8日の日記)。この日は、名越駅から終点の紀州街道西町交差点まで歩くことにしていました。

名越駅にあった、「奥貝塚・水間まち並みづくり協議会」の方がつくられたマップです。水間街道が水間線と交差する名越1号踏切から、マップの右から左に向かって、水間街道を歩きます。

住宅地が続く通りの右側に、ブロック塀に囲まれるように地蔵の祠がありました。前を白い布で覆われていましたが、岸和田へ向かう道の分岐点を表す道標の役割もあったようです。

その先はかつての街道の雰囲気を残す通りになります。左側に白壁の土蔵のあるお宅があります。鉄工所の看板が架かっています。

その手前を左折し、塀に沿って進みます。行き違いがやっとできるぐらいの細い路地のような通りです。

清児(せちご)1号踏切に出ました。踏切の手前を右折して進みます。

その先に清児駅の1面1線のホームがありました。ホームの入口にかつての改札口の名残りがありました。ホームは貝塚駅に向かって右側にあります。名越駅から400メートルのところに置かれていました。かつて、この駅から犬鳴(泉佐野市)・和歌山県の粉河町(こかわ町・現・紀の川市)に向かう路線を延長する計画がありました。一部区間で工事に着工しましたが、資金不足のため立ち消えになったということです。

水間街道に戻りました。先ほどの鉄工所の看板のあたりから、街道を歩きます。この清児駅の周辺は、かつての街道の雰囲気を伝えてくれる通りになっています。すぐに通りの左側に祠がありました。

祠を水間寺方面に振り返って撮影しました。写真の右側のお宅と街道の間にあります。左側には米穀店のなまこ壁が見えます。地蔵菩薩像は前を布で覆われていますが、道標の役割も担っていたものなのでしょう。

右前方に「ゆ」と書かれた大きな看板が見えました。「清児の湯」です。街道はその先で、大阪府道40号(岸和田牛滝山貝塚線)と斜めに交差します。直進します。

府道40号を渡って正面の通りに入ります。その先で、左カーブが始まるところに地蔵の祠がありました。

地蔵堂から50メートルぐらい、街道の左側に「麻生中町会館入口→」という看板が見えました。

次の右に入る通りの角に石柱がありました。ブロック塀の陰にあったので、見逃してしまいそうでした。「廿七丁」と刻まれています。丁石でした。向きから考えて「水間へ向かって27丁」を示しているようです。

その先の道路の分岐点に二つの石碑があります。石碑の左側を進みます。

前の通りの向こう側に「ダイハツ」の看板がありました。大阪府道30号(小栗街道・熊野街道)の麻生中(あそなか)交差点です。ここで左折します。

左側に関西自動車学校、右側に「とりあえず吾平」、その先の「キリン堂」を見ながら進みます。

10分ぐらいで、石才交差点、その先に海塚(うみつか)9号踏切がありました。右側の赤い屋根のお宅の前にタバコの自動販売機があります。

光線のため見えにくいのですが、水間線石才(いしざい)駅です。地元の人は「いっさい」と呼んでいるそうです。タバコの自動販売機の前から1面1線のホームに上がっていきます。この駅も、名越駅や清児駅と同じく大正14(1925)年に開業しました。清児駅から800メートルのところにありました。

石才交差点に向かって引き返します。歩いてきたキリン堂の隣にある損保の代理店の看板がある建物のところで左折します。

右側にキリン堂の駐車場、左側に損保代理店の看板のある建物の間を進みます。その先で、左右の通り、かつての熊野街道(小栗街道)に合流します。左折して進みます。

その先に地蔵堂がありました。左側に向かうのが熊野街道(小栗街道)。水間街道は右に向かって進んで行きます。中には2体の地蔵菩薩像が祀られています。前面が赤い布で覆われているのでよく読めませんが、通りの分岐点にある地蔵像ですので、道標の役割もあったはずです。

地蔵堂から100メートルぐらいで、「マツゲン」の赤い看板が見えるようになりました。

「マツゲン」付近で貝塚港に向かう道路に合流し、右方向に歩きます。前方にJR阪和線のアンダークロスが見えます。

アンダークロスを過ぎると右側に、貝塚市消防本部があります。消防車も並んでいます。消防本部の先は海塚大池です。左側には・・・

茅葺き屋根の母家と長屋風の建物がある旧家がありました。水間街道で初めて見た茅葺きのお宅でした。

茅葺き屋根のお宅を過ぎた辺りから、貝塚港に向かう道から離れ、ヤシキ産業の看板の右側の道に入り、海塚大池の堰堤を歩くことになります。

海塚大池の端近くに、地蔵堂がありました。

コンクリート造り、緑のブリキ屋根の地蔵堂です。地蔵菩薩は、やはり前を布で覆われています。近くの階段を下り、地蔵堂の裏にある通りを進みます。

その先で、国道26号(第2阪和国道)にぶつかります。ここから、水間線の近義の里(こぎのさと)駅を訪ねることにしました。

国道26号の側線を進みます。15分ぐらい歩くと行き止まりになります、そこを左折しました。

左折すると、飲食店が並んでいます。「酔泉」の看板の先で右折します。

右折すると、海塚4号踏切とホームが見えました。水間線の近義の里駅です。「近義の里」という駅名は、古代この地を支配していた有力者の名前から命名されたといわれています。現在は、貝塚市鳥羽地内にある駅です。踏切を渡ってUターンしてホームに入る構造になっています。住宅地の中にある駅という雰囲気を持つ駅です。この駅は、水間線で最も遅く、昭和44(1969)年に開業した駅です。石才駅から800メートルのところに設置されています。

来た道を引き返し、国道26号の高架下に戻ります。ここは、鳥羽交差点です。ここからは、貝塚港に向かう通り(西町海塚麻生中線)を進みます。

すぐに鳥羽西交差点。先に水間線の貝塚市役所前駅を訪ねることにして、交差点を左折します。

10分ぐらいで海塚3号踏切に着きました。右側は貝塚高等学校の校舎です。左側に、貝塚市役所前駅がありました。

ホームに上がりました。他の駅と同じように、青を基調とした駅になっています。この駅は昭和42(1967)年に開業しました。近義の里駅から400メートルのところにあります。周辺には、市役所の他、教育庁舎、保健福祉合同庁舎、市立図書館、総合体育館などの官公庁が集中しています。

海塚3号踏切から貝塚駅方面の線路を撮影しました。線路はこの先で右にカーブして南海本線と並行して進み、貝塚駅に入っていきます。

鳥羽西交差点に戻りました。貝塚港に向かって右側にあるキャンディハウスの脇の道に入ります。

キャンディハウスの脇の道に入ります。

キャンディハウスの裏の通りを左折します。今は住宅地になっている街道を進みます。

やがて、貝塚港に向かう通りに合流します。

そのまま斜めに横断し、一方通行になっている道を反対に入っていきます。前方に創価学会の建物が見えました。

前方に貝塚西出クリニックの建物が見えてきます。昭和産業駐車場の手前を右に入っていきます。

海塚一丁目の通りです。雰囲気のある通りになっています。広い敷地に母家、土蔵などがあるお宅が並んでいます。一方で、住む人がいなくなり崩壊寸前のお宅もありました。清児地区以来の伝統的な建物が並ぶ地域になっています。

シートに覆われている被災されたお宅もありました。正面の通りが見えます。「鳴門鯛焼本舗」の看板が架かっています。

通りに出ました。左方向です。水間線の貝塚駅とその手前に水間鉄道のバスセンターの建物が見えます。

右に進むと、貝塚港に続く道にぶつかります。道路の向こう側に鳥貴族と書かれているビルが見えます。左折します。

目の前に南海電鉄の蛸地蔵7号踏切がありました。関西空港行きのラピートが通過していきました。

そこからまっすぐ貝塚港に向かって進みます。右側に感田神社や貝塚寺内の寺院を見ながら進みます。10分ぐらいで西町(にしちょう)交差点、水間街道のゴール地点に着きました。大阪市と和歌山市を結ぶ紀州街道(大阪府道204号)に合流します。水間寺に向かった多くの参詣者のスタート地点でした。


水間寺から、並行して走る水間線の駅も訪ねながら、水間街道を歩いてきました。水間街道のルートを確認しながら歩く旅になりました。途中にあったたくさんの地蔵像は、道標の役割も果たしていたはずですが、よく見えなかったのが残念でした。













水間街道を歩く(1)~水間寺から名越駅まで~  

2018年10月08日 | 日記

天台宗別格本山、龍谷山水間寺(みずまでら・以下「水間寺」)です。貝塚市水間にあります。天平年間(729年~749年)に、聖武天皇の勅願により行基が開いた寺院だといわれています。貝塚寺内から水間寺へ参詣するのため、多くの人に利用されてきたのが水間街道でした。水間街道は、また、大阪府の中部地域と貝塚寺内を結ぶ物資輸送のための道としても利用されて来ました。この日は水間街道とほぼ並行して走る水間鉄道水間線(以下「水間線」)の駅も訪ねながら、水間街道を歩いてきました。第1回として、水間寺から名越(なごせ)駅までをまとめてみました。

これは、水間寺の門前、厄除橋の前にあった案内図です。この日は、水間寺から、水間街道を図の右方向に向かって歩きました。

案内図の左方向を、水間寺の門前から撮影しました。水間街道は、水間寺から、さらに、近木(こぎ)川に沿って遡り葛城山頂に向かっていました。

厄除橋のすぐ脇にあった願掛け地蔵です。道中の無事を祈願してから出発しました。

すぐに、分岐点になります。左側の通りを進みます。
 
広い敷地に建つどっしりとしたお宅が続く道を下って行きます。

街道の右側のお宅の入口付近に、道標が見えました。正面に「道陸神社是より二十五町」、右側面に「大正六年三月建立」とありました。下部には「西出藤(以下埋没)、 濱出(以下埋没)」と刻まれています。道陸神社へ向かう参詣者のための道標のようです。道陸(どうろく)神社は、「道陸神を祭神とし、足の神として広く信仰されている神社で、この先の葛城山へ向かう登山道に鎮座」(貝塚市教育委員会の説明文)しているそうです。
 
その先の右側にある喫茶店の脇に「水間観音駅」「龍谷山水間寺」と書かれた道標がありました。「奥貝塚・水間まち並みづくり協議会」によって立てられたものでした。ここで右折すると水間線の水間観音駅に行くことができます。まっすぐ水間街道を進みます。

その先、「オークワ」というスーパーの看板が見えてくると、目の前に地蔵堂がありました。「三ツ松辻堂地蔵尊 信者一同」がお祀りしている地蔵堂のようです。右側の道を進みます。

その先で、国道170号線(大阪外環状線)に突き当たります。高架下をくぐって進みます。

高架をくぐると、スーパーに隣接した民家の敷地に突き当たります。右に迂回して進みます。

その先で、木造ののこぎり屋根の工場のような建物が残っていました。写真は少し先から振り返って撮影したものです。被災されたようで、屋根の部分をシートで覆った痛々しい姿です。この先の街道沿いにも被災された家屋が点在していました。この付近に水間線の三ヶ山口(みけやまぐち)駅があるはずです。平成21(2009)年に、それまでの「みかやまぐち」駅から変更されたそうです。駅の東700メートルぐらいにある三ヶ山町から命名されたそうです。

その先を右折します。水間線の貝塚駅行きの電車が通過していきました。水間線は、大正15(1926)年1月30日に、名越駅から水間観音駅(当時は「水間駅」)間が開通して、貝塚駅~水間観音駅間の全線が開業しました。単線ですが、電化路線です。

三ヶ山口駅は、名越駅・水間駅(現水間観音駅)間の開業からかなり遅れ、昭和35(1960)年に開業しました。駅員のいない無人駅です。水間線は、終起点となる貝塚駅と水間観音駅以外は無人駅になっています。踏切の向こう側、貝塚駅方面に向かって右側に1面1線のホームが見えました。踏切を渡り右折して進みます。通勤通学に利用されている人の自転車が並ぶ先にホームがありました。水間観音駅との距離は400メートルだそうです。

三ヶ山口駅のホームに入ります。ホームへの入口方面を振り返って撮影しました。改札口がそのまま残されていました。青を基調にした駅は、水間線の各駅に共通するものでした。

水間街道に戻って、先に進みます。街道の両側に、かつての農村集落をしのばせる豪壮なお宅が続いています。

通りの右前のお宅と街道の間に、石碑らしいものが見えました。

「八丁」と刻まれています。街道に一町(約108メートル)ごとに置かれていた「丁石」のようです。

さらに進みます。交差点の右側に「松本」と書かれた看板が見えます。ここを右に進むと、三ツ松1号踏切があります。この日歩いた貝塚市中部の地域は、明治22(1889)年に、大阪府南郡(当時)内の水間村、三ツ松村、森村、名越村と清児村が合併して南郡木島(きしま)村となりました。その後、昭和10(1935)年に、当時の泉南郡貝塚町に編入されたそうです。合併前の村名が、並行して走る水間線の駅名に、今も残っています。三ツ松(みつまつ)駅もその一つです。

三ツ松1号踏切から見た三ツ松駅です。この駅は、名越駅・水間駅間が開業したときに設置されました。貝塚方面に向かって左側に1面1線のホームが見えます。三ツ松1号踏切からホームに上がっていく構造です。

ホームに入りました。駅名標です。どの駅もこのスタイルで統一されています。三ツ松駅は、三ヶ山口駅から400メートルのところにありました。

街道に戻ります。このあたりもかつての雰囲気を残す通りになっていました。通りの左側に見えるお宅の向かい側のブロック塀の角に祠が見えました。

これが、その祠にあった地蔵尊像です。赤い布に覆われていて見えないのですが、道標の役割もある地蔵だそうです。

20メートルぐらい先の左側に木島小学校の敷地がありました。小学校の向い側、右側には三ツ松町会館。祭礼の飾り付けがなされています。

三ツ松町会館の先で、街道は右と左にゆるやかにカーブします。やがて、街道の右側に、水間線森駅の青いベンチとホームの上屋が見えました。

その先に青い幌のついたお店、東神セキュリティがありました。この前で右折して森駅に向かいます。名越8号踏切を渡った先にヤマサキストアが見えました。森駅は、名越駅・水間駅が開業したときに設置されました。

森駅へは、ヤマサキストアの前を右折してホームに向かうことになります。森駅にはホームの裏に駐輪場が整備されていましたので、ゆったりとした雰囲気です。ホームに上り切ったところに、かつての改札口の一部が残っていました。この駅も1面1線のホームが貝塚方面に向かって右側にありました。三ツ松駅から400メートルのところに設置されています。

自動販売機、ベンチ、掲示物、ホームの様子も、他の水間線の駅と同じような雰囲気でした。

ホームにあった掲示物です。駅名のところが欠けていますが、森駅のものです。奥貝塚・水間まち並みづくり協議会が作成された沿線のガイドです。

その中にあった、水間街道のルートマップです。水間街道を歩くのに、大変参考になりました。

水間街道に戻りました。貝塚方面に向かって歩きます。その先で桝形に入ります。左に曲がり、次に右に曲がります。その後は直線のコースになりました。水間線の名越(なごせ)駅までの中間地点に入りました。

右側に森稲荷神社がありました。「古くから木島谷の総社と呼ばれていたが、創建、移転の年代は不明。江戸時代には岸和田藩主、岡部氏が田畑を寄進した」、「明治5(1972)年に村社となり、明治41(1908)年に木島村内の8社が合祀された」と境内にあった「案内」には書かれていました。なお、水間線の森駅は、当初の計画では、ここ森稲荷神社付近に設置される予定だったそうですが、水間線の創設者の親族の方が住んでおられたということで、現在地に変更して設置されたそうです。

現在の三間社流造りの社殿は、江戸時代中期の建設とされています。祭礼の前の時期でしたので、地元の人々が、準備のために慌ただしく立ち働いておられました。

境内にあった不動堂です。不動堂は、神仏習合の時代、稲荷神社の社僧(神宮寺)であった青松寺の一部だったそうです。元禄年間(1688年~1704年)には、真言宗仁和寺の末寺で、岸和田藩の庇護を受けて整備されたそうです。ここにあった鐘堂(17世紀の末の建設)は、昭和24(1949)年に貝塚寺内の中心、願泉寺に移され、平成5(1993)年、国の重要文化財に指定されたそうです。

街道に戻り貝塚方面に向かって進みます。のこぎり屋根の工場の跡が残っていました。こちらは被災を免れたようです。
 
かつての雰囲気を残す通りを、次の水間線名越駅に向かって歩きます。このあたりから、再び建坪の広い民家が続くようになりました。 

やがて、名越1号踏切を渡ります。踏切の左側に名越駅がありました。水間線唯一の行き違いができるホームがある駅です。

踏切を渡った向こう側を左折して進みます。たくさんの自転車が並ぶ中をホームに向かいます。敷石のある構内踏切を渡ってホームに出ました。大正14(1925)年に水間線が開業したときから、現在の水間観音駅まで延伸開業するまでの約1ヶ月間、終着駅になっていました。

水間観音駅側からホームに入ります。正面左側の1番ホームは貝塚方面行きの乗車口が、右側の2番ホームは水間観音駅行きの乗車口があります。水間線の電車はこの駅で行き違いをしています。森駅から1.1km。水間線の最長区間になっています。

電車が入ってきました。グリーンのラインの貝塚駅行きの1005号車と1006号車の2両編成とオレンジのラインの1007号車と1008号車の2両編成の交換です。いずれも、平成2(1990)年に、水間線が電圧を1500ボルトに昇圧したとき、東急電鉄から転籍してきた車両です。

ホームにあった奥貝塚・水間まち並みづくり協議会が作成されたルートマップです。名越駅の名越1号踏切を渡った水間街道は、この後、少しづつ水間線から離れて貝塚寺内へ向かって行きます。

水間街道を歩く旅の第1回は、名越駅でひとまず終わりました。
かつての雰囲気を残す懐かしい家並みを見ながら、歴史を訪ねる旅になりました。



水間鉄道水間観音駅を訪ねる

2018年09月28日 | 日記

水間鉄道水間線(以下「水間線」)の水間観音駅です。水間線は、水間寺へ参詣する人々を輸送するために敷設された鉄道です。長く「水間駅」として親しまれて来ましたが、平成21(2009)年「水間観音駅」に改称されました。貝塚市水間にある駅です。相輪のついた「卒塔婆風の外観をもつ駅」として広く知られています。平成11(1999)年に、国の有形登録文化財に登録されています。

水間寺の本堂と三重塔です。「寺伝」によれば、天平年間(729~749年)に聖武天皇の勅願により、行基が開創した寺院です。聖観世音菩薩を本尊とする天台宗別格本山の寺院で、「水間観音」と呼ばれ多くの人々の尊崇を受けて来ました。「水間観音駅」に改称されたのも、このような経緯によるものでしょう。

南海電鉄本線の貝塚駅に隣接している水間線の貝塚駅です。貝塚の「だんじり祭り」に協賛する提灯が掲げられています。「だんじり祭り」といえば岸和田が有名ですが、元禄16(1703)年、岸和田藩3代藩主岡部長泰が京都の伏見稲荷を岸和田城内に勧請し、五穀豊穣を祈願して稲荷祭りを行ったのが、その起源だといわれています。貝塚も岸和田藩の領内だったためこうして「だんじり祭り」を行っているようです。

水間線は、大正14(1925)年12月24日、貝塚南駅~名越(なごせ)駅間が開業したことに始まります。そして、4日後の12月28日、貨物線の貝塚駅~貝塚南駅間が開業。それから約1ヶ月後の大正15(1926)年1月30日、名越駅~水間駅(現・水間観音駅)間が開業しました。そして、昭和9(1934)年1月20日、貝塚南駅~貝塚駅間でも旅客輸送が始まり、貝塚駅~水間駅間の全線で旅客営業が行われるようになりました。ちなみに、貨物営業は、昭和47(1972)年5月1日に廃止されています。

水間線に乗って水間観音駅に向かう前に訪ねてみたいところがありました。 水間線貝塚駅のすぐ前に、線路と並行して走る通りがあります。その道を線路に沿って歩きます。

5分ぐらいで、水間線の踏切に着きました。踏切を渡った先に、白壁のお宅が見えます。かつて、この付近にあった駅を確認するつもりでした。

踏切から見た水間観音駅方面です。左側の線路脇に0キロポストとその先の勾配標が見えます。この0キロポストは水間線の起点を表しています。開業時の水間線の起点は貝塚南駅でしたので、このあたりに貝塚南駅があったことになります。貝塚駅から200mのところでした。近くのお店の人にお聞きすると「このあたりに貝塚南駅があったよ」とのことでした。昭和9(1934)年に貝塚南駅~貝塚駅間で旅客営業が開始するまで、貝塚南駅には、行き止まりの線路がホームを挟んで2本と、駅構内を右にカーブする線路(貝塚駅に向かう貨物線)があり、駅舎は行き止まりになった線路の先にあったそうです。(web上の「0キロポスト」を参考にさせていただきました)

勾配標の先を撮影しました。線路の向こう側の空き地のあたりに、貝塚南駅の旅客用のホームがあったそうです。

線路を渡って、水間観音駅方面を撮影しました。画面の向こうから手前に向かって旅客用のホームが延びており、貝塚南駅の駅舎は前面の白壁のお宅のあたりにあったと考えられています。

踏切の手前に、線路に沿って延びる通りがあります。その道を進んでいきます。左側に貝塚郵便局、右側に「シルバー人材センター」が入る建物があるところで広い通りに出ます。そこで右折すると、水間線の海塚(うみづか)第1踏切に出ます。

写真は、海塚第1踏切から貝塚駅方面を撮影したものです。右側が「シルバー人材センター」が入っている建物です。その前の線路との間に空き地が見えます。貝塚南駅は、昭和27(1952)年に「海塚(うみづか)駅」と改称されましたが、その時に、貝塚南駅から100m(貝塚駅から300m)離れたこの地に移ってきたそうです。空き地はホームの跡だといわれています。その後、海塚駅が、昭和47(1972)年に廃止されるまで、この地で営業を続けました。

このマップは水間線の貝塚駅に掲示されていたものです。移ってきた海塚駅の場所が示されています。

水間線の貝塚駅に戻ります。自動券売機の右側には駅事務所。問い合わせなどにも対応してくださいます。自動券売機で切符を買って入ります。水間観音駅まで290円でした。窓口でお聞きしますと「乗り放題きっぷ」もあり、電車だけなら600円。水間線の貝塚駅と水間観音駅で買うことができるそうです。

ホームに入ります。写真は、通ってきた改札口を振り返って撮影しました。改札口はありましたが、駅スタッフに切符を見せて入ればいいようです。

正面に時刻表と運賃表。水間線は、直営駅の貝塚駅と水間観音駅以外は、電車の中で両替や支払いを終えるようになっています。

2番ホームの中ほどから見た駅事務所方面です。線路の先には車止めがありその先は駅事務所です。

反対側の1番ホームです。左の白いビルはJR貝塚駅への連絡階段と通路になっています。その左側は南海電鉄貝塚駅です。この駅は、水間線に先立つ明治30(1897)年10月1日に開業しています。

ホームの水間観音駅側です。水間線は電化されていますが、全線単線の区間です。その先で、線路は大きく左側にカーブして、0キロポストのあった踏切に向かっていきます。現在の車両は、平成2(1919)年に架線電圧を1500ボルトに昇圧したとき、東急電鉄の7000系車両に置き換えたもので、現在、2両編成を5本(計10両)所有しているそうです。車両番号も順次1000形に改められています。

水間観音駅からやって来た電車が到着しました。ワンマン運転の2両編成、1001号車(貝塚駅方)と1002号車(水間観音駅方)です。 水間線は、基本的には、貝塚駅からは毎時15分、35分、55分発、水間観音駅からは、毎時12分、32分、52分発になっています。終点までの所要時間は15分。中間駅の名越(なごせ)駅には、水間線唯一の1面2線のホームがあり、ここで行き違いをしています。

折り返し、水間観音駅行きになる電車です。ロングシートの車両です。通勤・通学時間帯を過ぎていましたので、2両編成ですが乗客は10人程度でした。

この日見たオリジナルヘッドマークです。1万円でオリジナルヘッドマークをつくり、10日間運行する電車につけて走るという企画だそうで、現在もこのような形で行われています。

貝塚駅から15分で、水間観音駅に着きました。2面2線のホームです。

乗車してきた、赤いラインの1001号車と1002号車です。2両編成の車両にしては長いホームです。

ホームの端から見た貝塚駅方面方面です。待避線で、青いラインの1003号車(貝塚駅側)と1004号車(水間観音側)が停車しています。

静態保存されているクハ553号車です。72両製造された元南海電鉄1201系の車両で、昭和8(1933)年にデビューしました。水間線には、12両が、昭和46(1971)年に移ってきました。架線電圧600ボルトの車両で、水間線への入線当時は、写真のようなクリーム色とマルーンの塗装になっていたそうですが、その後、クリーム色に赤と水色の2本の帯がついた塗装に変わりました。 平成2(1990)年架線電圧を1500ボルトに昇圧し、昭和63(1989)年から平成2(1990)年にかけて東急電鉄の車両を導入したことにより、この1両が静態保存されることになりました。

ホームから見た駅舎です。寺院風の駅舎の相輪が見えています。

改札を抜けて駅舎内に入ります。

中心部の天井部分です。洋風のデザインである吹き抜けになっています。鉄筋コンクリート造りで、大正15(1926)年に建設されました。建設から90年以上経過していますが、今も基本的な構造は替わっていないそうです。冒頭で書きましたが、平成11(1999)年、国の登録有形文化財に登録されています。大阪府では、南海電鉄の浜寺公園駅と諏訪ノ森駅に続いて3件目の登録でした。

駅前広場に出ました。卒塔婆風の外観が水間寺の最寄駅らしい雰囲気を醸し出しています。

これは駅舎に掲示されていた水間観音駅付近の案内図です。この日は最後に水間寺にお詣りすることにしていました。マップの通り水間観音駅から下の方に向かい、喫茶母恵夢(ポエム)から水間街道を歩いて行きます。

喫茶母恵夢の角にあった道標です。「水間観音駅」と「龍谷山水間寺」の文字が」見えました。「奥貝塚・水間まち並みづくり協議会」によって建てられた道標でした。「龍谷山水間寺」の方に向かいます。

水間寺への参道という性格を持っていた水間街道です。両側に続く懐かしい伝統的な家並みの間を進んで行きます。広い敷地に大きな構えの民家が続いています。

マップの「水間街道」と「新水間街道」の合流点の先、水間寺の向かいの通りです。織田信長・羽柴秀吉が天下統一をめざしていた時代、紀伊国は高野山、根来寺、雑賀集などの寺社や国一揆など、中央集権への動きに対立する勢力が、高い経済力と軍事力をもって地方自治を行っていました。天正13(1585)年、羽柴秀吉が根来へ侵攻したとき、水間寺は根来側についたため、本堂を焼失するなど大きなダメージを受けました。

厄除橋から水間寺に入ります。
寺内にあった説明には、「水間寺の寺号は、蕎原(そぶら)川と秬谷(きびたに)川の合流点に位置することによる」と書かれていました。江戸時代、水間の地域は岸和田藩の支配を受けるようになっていましたが、寛永17(1640)年に岸和田藩主として入封した岡部氏は藩内の寺社の復興に積極的に取り組みました。水間寺もその支援を受け、本堂は、文化8(1811)年に再建され、三重塔は、天保5(1834)年に建立されました。

本堂は、入母屋造り、本瓦葺きの二重屋根をもち、大阪府内でも最大級の規模になっています。三重塔は大阪府内で唯一のものだといわれています。

水間鉄道水間線は、水間寺への参拝客の輸送のために開業しました。
この日は、水間寺と水間観音駅を訪ねてきました。水間観音駅は、開業から90年を経ていますが、今なお現役の駅舎として使用されています。国の登録有形文化財の駅として、これからも、長く活躍してほしいものです。



駅舎に櫓がある駅 JR学駅

2018年09月16日 | 日記
四国の中心部を東西に流れる四国一の大河、吉野川。その右岸の田園地帯を、吉野川とほぼ並行して走る鉄道があります。徳島県三好市の佃駅から徳島市の佐古駅に至る、全線徳島県内を走るJR徳島線です。実際の運用ではJR阿波池田駅とJR徳島駅が起終点になっています。

青春18きっぷの期限が迫った日、久しぶりにJR徳島線に乗ってきました。徳島駅の2番ホームで出発を待つワンマン運転の1500形気動車です。排気ガス中のチッ素化合物を60%削減したというJR四国が誇るエコ車両です。また、従来の1000形車両に比べ床面の高さが80ミリ低い1100ミリ、車椅子に対応したトイレを設置し、車椅子スペースも確保したつくりになっているバリアフリー車両でもあります。平成18(2006)年から平成26(2014)年までの8年間で34両が製造されました。この日に乗車した1567号車は平成25(2013)年に近畿車輛で製造された車両です。

12時39分発の穴吹駅行きの列車が出発しました。列車は佐古駅に向かって高架を上っていきます。車両の最後尾から見た徳島駅方面です。複線区間に見えますが、左側に見える線路はJR高徳線の線路です。徳島線と高徳線の2つの単線路線が並んでいる区間になっているのです。

佐古駅を出ました。最後尾から見た佐古駅のホームです。やがて、高徳線は左に離れて行くことになります。JR徳島線は、のどかな田園地帯を走ることもあり、穏やかな気分になれる路線です。
沿線にある町のうち、うだつのある商家建築が並ぶ脇町(穴吹駅が最寄駅になります)と貞光町(「うだつのある町、徳島県脇町と貞光町」2011年3月14日の日記)、穴吹駅と貞光駅の中間にある小島(おしま)駅(「”青春18きっぷ”のポスターの駅」JR小島駅」2014年9月30日の日記)、阿波池田町(「阿波池田、うだつの町並み」2012年8月16日の日記)はすでに訪ねてきました。この日は、受験生に人気の「合格祈願きっぷ」の入場券で知られるJR学駅を訪ねることにしました。

JR徳島駅から40分余(24.8km)、13時20分過ぎに学駅の2番ホームに到着しました。学駅の2番ホームは穴吹・阿波池田方面行きの列車が、1番ホームには鴨島・徳島方面に行きの列車が停車することになっています。運転士に青春18きっぷを見せて、地元の人らしい3人の人とともに下車しました。

列車はすぐに出発して行きました。ホームの阿波池田駅側の端にある跨線橋が見えます。

向かいの1番ホームにあった駅名標です。学駅は吉野川市川島町にあります。阿波川島駅から3.5km、次の山瀬駅へ2.8kmのところにある駅です。徳島線は、明治32(1899)年2月16日、徳島鉄道によって徳島駅・鴨島駅間が開業したことに始まります。そして、8月19日には川島駅(現・阿波川島駅)まで延伸しました。学駅が開業したのは、同年12月23日に山﨑駅(現山瀬駅)まで延伸したときでした。現在までに、開業から120年近い年月が流れています。

駅舎の上屋から突きだした櫓が見えます。
学駅は駅舎に櫓のある駅です。徳島鉄道として開業しましたが、8年後の明治40(1907)年に国有化され、明治42(1909)年、徳島線と線路の名称が決められました。現在の徳島線にあたる区間が全線開通したのは、大正3(1914)年に川田(かわた)駅・阿波池田駅間が開業したときでした。

跨線橋の上から見た徳島方面です。2面2線の長いホームが広がっています。JR四国にある特急列車との行き違い駅では、1線スルーになっている駅が多くあります。徳島線も徳島駅から鴨島駅までは1線スルーになっていますが、学駅はまだ1線スルーの対応ができていないようです。

跨線橋の上から見た学駅の南側の風景です。豊かな緑の中に、比較的新しい民家が並んでいます。
駅名にある「学」地区は、駅の南側一帯の地域だといわれています。「学」の地域は、もとは「学島村」といわれ、かつて、この地に阿波国の学問所があったため名づけられたといわれています。また、この地の了慶寺におられた名僧を慕って全国から学びに来る人がいたことから名づけられたとか、「学」は、「ガク」は「ガケ」に通ずるとして「崖状を成した地形」から名づけれたともいわれています(「おもしろ地名駅名歩き事典」村石利夫著 みやび出版)。ちなみに、崖状の地形は、学地区の南側にあるといわれています。

以前、脇町、貞光、阿波池田を訪ねてきましたが、吉野川の沿岸地域は大雨とそれに伴う洪水に苦しんできました。年間降水量が2000ミリを超える地域で、大雨や洪水は夏の稲の生育時期に起こり、米の収穫は難しかったといわれています。そのため、米に替わる農作物として藍やタバコの栽培が盛んになりました。上流地域の池田町や貞光町はタバコの取引で財を成した商人が多かったところです。そういう経緯から、商人が建てた家並みが今も残っています。しかし、日露戦争の戦費を得るため、政府がタバコの専売制度を敷いたため、池田町のタバコの扱いは激減しました。一方、徳島名産の藍は、江戸時代、阿波徳島藩の財政を支える産物になっていました。中流地域の脇町では藍の取引で栄えた商人によってつくられたうだつの家並みが、今も多くの観光客を集めています。

跨線橋から見た駅舎の櫓です。よく見ると切妻屋根が四方に張り出したつくりになっています。

ガラスの部分には、花びらの模様がつくられていました。

1番ホームから駅舎に入ります。入口の幅と上の櫓の幅がほぼ同じ大きさになっています。

駅舎内の天井です。木組みがあるところが櫓の部分です。天井が上に盛り上がっていますが、すべて塞がれています。櫓は灯り取りの意味はないようです。装飾のためにつくられたのでしょうか。

駅舎の中にあった時刻表です。特急”剣山”が一日7往復、普通列車は日中は1時間、1~2本が運行されています。

駅舎の隅にあった自動券売機。学駅は平成22(2010)年から無人駅になっています。

駅舎から駅前広場に出ました。玄関ポーチと上部の櫓の幅が同じデザインになっています。美しい駅舎でした。

駅前には、バス停がありました。学駅は吉野川市川島町にありますが、隣の阿波市市場町の最寄駅にもなっており、市場町とをつなぐバスが運行されていました。

駅舎の東側です。自転車置場になっているところは、かつて、貨物を扱う事務所の建物があったところ、右側の高い所は貨車の線路が敷かれていたところだそうです。

駅舎の東側から見た駅舎の姿です。櫓と玄関ポーチと白壁がマッチしていて、どの角度から見ても美しい駅でした。

そこから、さらに東に向かいます。道路と駅の敷地との境界には、懐かしい枕木の柵がつくられていました。

駅舎内に戻りました。駅事務所の入口に、昨年度の「合格祈願きっぷ 学駅臨時発売のご案内」とお礼が掲示してありました。硬券の入場券5枚とお守り袋をセットにした「合格祈願きっぷ」の駅として受験生に人気の駅ですが、駅での販売は正月の一時期だけだったようです。

残念ながら、櫓のある駅舎は、明治32(1889)年の開業時からのものか、その後の改修・改築によってつくられたものかよくわかりません。櫓は、灯かり取りのためにつくられたものか、単なる装飾のためにつくられたのかもよくわかりませんでした。
でも、学駅は、合格祈願きっぷで全国に知られるようになりましたが、櫓のある駅舎は美しく魅力ある駅でした。



南海電鉄深日駅跡を訪ねる

2018年09月09日 | 日記
このところ、南海電鉄多奈川(たながわ)線の駅を訪ねています。
多奈川線は、南海本線のみさき公園駅から多奈川駅に向かう2.6kmの盲腸線です。かつては、沿線にある深日(ふけ)港から淡路島と四国に向かうフェリーに合わせて、大阪なんば駅から多奈川駅に乗り入れる直通急行「淡路号」が運行されており、多くの乗客で賑わっていました。

多奈川線の車両です。多奈川線を訪ねた日は、いつも、2200系車両(2252号車+2202号)の2両編成の電車が往復運転をしていました。 これまで、深日港駅(「南海電鉄多奈川線、深日港駅を訪ねる」2018年8月27日の日記)、多奈川駅(「大阪府で最も西にある駅、多奈川駅」2018年8月27日の日記)、深日町(ふけちょう)駅と多奈川線内の各駅を訪ねてきました。この日は、南海本線にあった深日(ふけ)駅跡を訪ねることにしていました。多奈川線深日町駅の開業によって、最終的に廃止された駅でした。

多奈川線の深日町駅です。駅舎の左側のアーチ形の高架の上を、多奈川線の電車が走っています。深日駅跡を訪ねるには、深日駅に取って代わる形で開業した深日町駅からがふさわしいと考え、ここからスタートしました。

深日町駅の前を走る大阪府道752号です。駅舎の右側の光景です。正面に多奈川線の鉄橋があります。鉄橋を左方向に向かうとみさき公園駅に、右方向に向かうと深日港駅・多奈川駅に向かいます。鉄橋の向こう側は深日中央交差点で、右に向かう府道65号と左に向かう府道752号(旧国道26号)が分岐しています。深日駅跡をめざして、左に向かって歩きます。

府道752号(和歌山阪南線)を進みます。左側に、泉州南消防組合岬消防署を見ながらさらに進みます。道路からは見えないのですが、消防署の裏の100mぐらいのところを、府道に沿って大川が流れています。

やがて、府道752号は右カーブになります。

右カーブが始まると、正面にブラウンの建物が見え始めました。深日変電所の建物です。変電所の向こう側を南海本線が走っているはずです。

カーブが終わると、道路の左側の大川と並んで進むようになりました。前方右側に高齢者施設の建物が見えました。

大川にかかる南海橋です。高齢者施設の前に架かっています。ここまで、深日町駅からゆっくり歩いて15分ほどでやってきました。

高齢者施設の向かいに建設会社の看板が見えました。看板の前を左折します。

南海橋を渡ります。旧深日駅への取付道路だと思いました。この先に変電所、そして深日駅跡があるはずです。

南海橋からの道の左側に、深日変電所がありました。明治44(1911)年に建設された煉瓦造りの建物です。建物の前に変電設備がありました。今も現役の変電所のようです。

変電所を過ぎると、雑草に覆われた細い道になります。その先に、南海本線の線路が見えました。旧深日駅が開業したのは、明治31(1898)年、南海本線の尾崎駅・和歌山北口駅(現紀ノ川駅付近)間が開業したときでした。現在、泉南郡岬町になっている深日、多奈川、孝子(きょうし)地区の人々が利用する駅でした。しかし、当時、地元の人たちは「若者が和歌山市などの都会に出て遊びを覚えることを防ぐため、できるだけ集落から離れたところに設置してほしい」という願いを抱いていたそうです。それに応えたからかもしれませんが、深日駅は、深日、多奈川地区から離れた、山深いところに設けられていました。(「私鉄全駅全車両基地『南海電気鉄道①』週刊朝日百科」より) 「線路用地内 立入禁止 南海電気鉄道株式会社」と書かれた立札が目に入ってきました。

安全確認を繰り返し行って、立札の付近まで入らせていただいて撮影しました。複線の線路の両側に、雑草に覆われたホームの跡が残っていました。2面2線のホームだったようです。さて、深日駅の利用者は、先に書いたような経緯があったためか、さほど多くはなかったようです。深日駅が開業する以前と同じように、大川を船で移動して箱作(はこつくり)駅に向かう人もおられたそうです。

この写真は、和歌山市駅に向かう南海電車の先頭車両から見た深日駅跡の全景です。

変電所の建物の近くに来ました。どっしりと存在感のある美しい建物でした。
その後の深日駅を取り巻く動きをたどってみます。大正4(1915)年には、南海本線に孝子駅が開業しました。また、昭和19(1944)年に多奈川線が開業して深日町駅が開業すると、深日駅は旅客扱いを休止し貨物駅に変わって行きました。そして、その翌年の昭和20(1945)年には駅業務を休止し、昭和33(1958)年に正式に廃止となりました。多奈川線の深日町駅が開業したことが、深日駅のその後に大きな影響を与えたことは明らかです。 廃止から60年経ちましたが、残されたホームと周辺の光景が、深日駅の哀しい歴史を今に伝えてくれています。

変電所の窓は塞がれているようです。今は、倉庫として使用されているのでしょう。

引き返します。南海橋を渡り府道に出ました。右側にある大川の流れに沿って進みます。大川は、この先も、深日町駅の先まで府道752号に並行して流れ、その後、府道を横切った後、深日港の東部付近で、大阪湾に流れ出て行きます。

道路の左側に車の形をした建物が見えました。車輪の部分も残っていました。「中華そば」と書かれています。

近くで見ると、左側にバスのフロント部分がありました。バスの車体を使用した食堂の跡のようです。郵便受けも残っていました。

このとき、前方の右の山裾を南海本線の電車が通過していきました。

これは、その少し先の光景です。右から左に進んでいた本線に対し、多奈川線は左側の山裾を左から右に進み、両線は中央の二つの山塊の間で合流し、みさき公園駅に向かっています。

これは、みさき公園駅に向かう多奈川線の電車内から見た本線との合流地点です。二つの山塊の間を南海電車は走っているようです。

大阪府の最南端にある泉南郡岬町を走る多奈川線には、それぞれ特徴のある駅がありました。
大阪府の駅の中で最西端にある多奈川駅、淡路島や四国への最短ルートとして賑わった深日港駅、三連アーチ形の高架のホームに上がる階段が残っていた深日町駅、雑草に覆われてはいましたが、哀しい歴史を伝える深日駅と、訪ねる度に新しい発見がありました。





多奈川線深日町駅に向かう

2018年09月04日 | 日記
南海本線から分岐する鉄道が6路線あります。汐見橋線、高師浜(たかしのはま)線、空港線、多奈川(たながわ)線、加太線、和歌山港線の6路線です。これまで、汐見橋線(「レトロな駅舎が続く、南海電鉄汐見橋線」2015年12月17日の日記)と高師浜線(「私鉄の最短路線、南海電鉄高師浜線に乗る」2015年11月27日の日記)は訪ねてきました。

南海電鉄多奈川線は、大阪府の最南端、泉南郡岬町にあるみさき公園駅から、多奈川駅までの2.6kmの路線です。戦時中の昭和19(1944)年、潜水艦などを製造していた川崎重工業泉州工場で働く従業員の輸送を目的に開業しました。みさき公園駅から、深日町(ふけちょう)駅、深日港(ふけこう)駅を経て、終点の多奈川駅までを、2両編成ワンマン運転の電車が6分ぐらいで結んでいます。写真は、多奈川線内を往復運転している南海電鉄の2200系車両(2252号車+2202号車)です。深日町駅で撮影しました。このところ、多奈川線の駅を訪ねていて、すでに、深日港駅(「南海電鉄多奈川線、深日港駅を訪ねる」2018年8月27日の日記)と多奈川駅(「大阪府で最も西にある駅、南海電鉄多奈川駅」2018年9月1日の日記)を訪ねて来ました。この日は、残る深日町(ふけちょう)駅を訪ねることにしていました。

以前訪ねた深日港駅です。昭和23(1948)年に開業した深日港の最寄駅です。深日港からは淡路島・徳島を結ぶ航路が開設され、大阪なんば駅から多奈川駅間に、直通急行「淡路号」が運行されていました。このルートは、大阪市と淡路島・徳島を結ぶ最短ルートとして、多くの人に利用されていました。

しかし、大阪港や神戸港からのフェリーが増加したことや、平成10(1998)年に明石海峡大橋が開通したことにより、輸送客が激減。深日港を起点にしていたフェリーは廃止されました。多奈川線の”直通急行淡路号”も、これより早い平成5(1993)年に廃止されています。写真は、繁忙期に使用されていた深日港駅の広い改札口です。今もそのまま残されており、多くの乗客で賑わっていた頃の面影を伝えています。

深日港で出発を待っている高速船”インフィニティ”です。かつての賑わいを取り戻すため、岬町と淡路島の洲本市は、深日港と洲本港の間を55分で結ぶ”深日洲本ライナー”(1日4往復)の試験運行を、昨年に引き続き行っています、期間は、平成30年7月1日から来年の2月までとなっています。

「深日港駅」の駅名は難読駅として知られています。「ふけ」は「湾曲したところ」を表す「ふくれる」「ふくろ」が転じた「ふけい」に由来するそうです。また、「深日」の字は、奈良時代に法隆寺が朝廷に提出した財産目録に「河内国日根郡鳥取郷深日」と書かれているそうで、いずれも奈良時代までさまのぼることができる由緒ある駅名(地名)のようです。
この日は、深日港駅から深日町駅を訪ねるつもりでした。深日港駅から駅前広場の先を撮影しました。踏切の向こうに和風の建物が残っていました。昭和の雰囲気を残す通りだとお聞きしたこともあり、ここから歩いて深日町駅に向かいました。

多奈川線に沿った道を昭和の雰囲気を探して歩きました。建物には「旅館とらや」の文字がありました。旅館の建物でした。人の気配がなく廃業されているようでした。かつては、多くの宿泊者で賑わっていたと思われます。

裏に回ってみました。引き返して深日港駅前の踏切を渡り大阪府道65号(岬加太港線)を深日町方面に歩きます。多奈川線の線路の向こうに、とらや旅館の存在感のある建物が見えました。

とらや旅館に戻り、深日町駅をめざして歩きます。とらや旅館のすぐ先の左側に、「岬荘」と書かれた木造アパートが残っていました。しかし、草に覆われて、がラスはすべて破壊されていて、屋根と柱と壁だけといった状況でした。使われなくなって、かなりの時間が経過しているようです。

その先の左側にあった”お好み焼き よっちゃん”のお店です。ここも廃業されていました。

古くからの通りに、和風の民家が並んでいます。

道なりに進みます。静かで落ち着いた雰囲気を感じる通りです。

正面左側に「地球塾」の看板があるところを右折して進むと、深日町駅の近くに行くことができます。

右側の民家の間から、深日港駅に向かう多奈川線の電車が見えました。突きあたりのピンク色の建物がかすかに見えました。

突き当たりにあるピンク色の建物の前に来ました。「軽食喫茶ロータリー」と書かれた看板がありました。残念ながら廃業されているようでした。この通りは、大阪府道752号和歌山阪南線(旧国道26号・2017年から)のみさき公園側(左側)です。

府道752号の右側です。深日中央交差点です。通りを跨ぐ多奈川線の鉄橋の手前、右側に深日町駅があります。府道752号は、交差点から左に向かって、和歌山市に向かって延びています。ここで右に分岐しているのが、府道65号(岬加太港線)です。多奈川線は、この通りと並行して、多奈川駅に向かっています。

深日町駅です。左側の多奈川線の高架はアーチ状になっています。三連のアーチが見えました。

深日町駅を過ぎて、多奈川線の鉄橋の下に入りました。正面がみさき公園駅方面です。2車線分の幅があります。左側の鉄橋上には線路が見えますが、右側には線路がありません。多奈川線が開業した頃には、2車線分の線路が敷設されていたのではないでしょうか。

鉄橋の下をくぐって府道65号の脇に出ました。府道を横断する陸橋と三連アーチが見えました。

これは、横断陸橋から見た三連アーチです。

横断陸橋からの線路とホームの姿です。よく見ると駐車場と高架線の間に、樹木で覆われていましたが、ホームに上がっていく階段が残っていました。現在は、駐車場になっていて階段を上ることはできませんが、駐車場の部分を通れば、駅前広場からアーチの下を抜けて階段に行くことができます。かつては、こちら側の線路も敷設されていたのだと確信しました。

自動券売機で切符を購入してホームに向かいます。改札の先に長い階段がありました。

1面1線のホームに上がりました。ずいぶん下の方に駅舎の屋根が見えました。

ホームから見たみさき公園駅方面です。駅から出発して行った電車が見えますが、みさき公園駅からやって来た多奈川駅行きの電車は、まっすぐに向こう側のホームに入る構造になっています。

こちらは、多奈川駅方面の光景です。ホームにある上屋と向こう側にかつてのホーム跡が見えました。やはり、かつては2面2線のホームをもった駅だったようです。しかし、対向するホームを使用していたという記録は残っていないのだそうです。

ホームの上屋の中にあった駅名標です。深日町駅は、みさき公園駅から1.4km、深日港駅まで0.7kmのところにありました。

ホームの間にあった「駅中心点 1k000M」の標識です。みさき公園駅から1.4kmと、距離は少し違っていましたが、なぜなのかよくわかりませんでした。他の多奈川線の駅と同じように、長いホームが残っています。現在は2両編成の電車が走っていますので、ホームに柵が作られています。かつての”直通急行「淡路号」は6両編成で運用されていましたので、その名残だといわれています。

多奈川線の深日町駅を歩きました。深日町駅は、岬町に合併する前の旧深日町の最寄駅として開業しました。
高架上にある線路を支える三連アーチと府道を跨ぐ橋桁が印象的な駅でした。



大阪府で最も西にある駅、南海電鉄多奈川駅

2018年09月01日 | 日記
南海電鉄の本線から分岐する路線は、汐見橋線、高師浜線、空港線、多奈川線、加太線と和歌山港線の6線ですが、すでに、汐見橋(しおみばし)線(「レトロな駅舎が続く、南海電鉄汐見橋線」2015年12月17日の日記)、高師浜(たかしのはま)線(「私鉄の最短路線、南海電鉄高師浜線に乗る」2015年11月27日の日記)は訪ねて来ました。今回は、大阪府最南端の町、泉南郡岬町を走る多奈川(たながわ)線に乗って、多奈川駅を訪ねることにしていました。多奈川駅は、大阪府の最西端に位置する駅として知られています。

みさき公園駅です。多奈川線の起点になっています。多奈川線は、戦時中の昭和19(1944)年に、潜水艦などを建造していた川崎重工業泉州工場に勤務する従業員を輸送することを目的に、南淡輪(みなみたんのわ)駅をこの地に移設し、多奈川駅とを結ぶ鉄道として開業しました。当初は会社合併により、近畿日本鉄道の路線としての開業でした(昭和22年、会社分離により南海電鉄多奈川線になっています)。現在の「みさき公園駅」に改称されたのは、隣接するみさき公園が開園された、昭和32(1957)年4月のことでした。また、現在の姿に改装されたのは、平成2(1990)年。南海電鉄では「海を思わせるヨットのデザインを採り入れ、紺と白を基調とした外装と熱線反射ガラスを採用した」と説明されています。平成14(2002)年には、「第3回近畿の駅百選」に選定されました。「青い空とマッチしたモダンで清潔な駅」だなと感じました。

この地図は、”深日港観光案内所さんぽるた”でいただいたパンフレットに載っていたものです。みさき公園駅から深日町(ふけちょう)駅、深日港(ふけこう)駅を経て終点多奈川駅までの2.6kmの鉄道です。この日は、終点の駅、多奈川駅を訪ねることにしました。

多奈川線の電車に乗車しました。この日は、2252号車(多奈川側)+2202号車(みさき公園側)の運用でした。行き先表示には「みさき公園・多奈川」と書かれています。多奈川駅に着いてから撮影しました。

車両の内部です。土曜日の昼過ぎの電車でしたので、乗客はほとんどおられませんでした。

みさき公園駅を出たワンマン運転の2200系2両編成の電車(2202号車+2252号車)は、途中で、並行してきた南海本線と離れて進んで行きました。

前回訪れた深日港駅(「南海電鉄多奈川線、深日港駅を訪ねる」2018年8月27日の日記)まで2.1km。駅前の踏切から見た多奈川駅です。

深日港駅から1分(500メートル)、みさき公園駅から6分で、多奈川駅に着きました。2面1線のホームにまっすぐに入って行きます。

2面1線のホームです。頭端式のホームの突きあたりに車止めがありました。全長2.6kmの短距離路線ですが、これを見ると、遠くにやって来たなあと感じてしまいます。車止めの向こう側に駅舎が見えました。向かって左側のホームの左側には、今は撤去されていますが、かつては線路があり2面2線の駅になっていました。

乗車してきた2200系車両です。みさき公園駅と多奈川駅間の線内を往復運転しています。左側のドアが開き、左側のホームに降車しました。現在はこのホームで乗降が行われています。長いホームを駅舎に向かって進みます。

駅舎の前に移動して、2面1線のホームの右側のホームを撮影しました。現在は使用されていないホームですが、かつては、降車用のホームだったともいわれています。駅舎前から見えた深日港駅方面です。ホームの上屋の先に長いホームが残っています。ホームは柵で囲まれ、安全面の配慮がなされています。今でこそ2両編成の電車が運行されていますが、6両編成の電車が入線していた時代がありました。

昭和23(1948)年に完成した深日港です。川崎重工業泉州工場の船溜(ふなだまり)を改修して深日港が完成すると、深日港から淡路島や徳島に向かう航路が開設されました。昭和22(1947)年の路線譲渡によって多奈川線を所有していた南海電鉄は、昭和23(1948)年11月3日に、多奈川駅と深日町駅の間に深日港駅を開設し、難波駅から多奈川駅に乗り入れる直通急行(「淡路連絡急行「淡路号」)を運行するようになりました。このルートは、大阪市と淡路島・徳島間を結ぶ最短コースとして、やがてメインルートになっていきました。6両編成で運行された「淡路号」に合わせて、長いホームがつくられていたのです。

こちらは、2面1線のホームの左側のホームです、駅舎の前から深日港方面を撮影しました。ホームの脇の草に覆われてるところに、線路の跡がありました。2面2線のホームだった頃、ここが1番線でした。到着した線路が2番線になっていました。

これはホームの上屋です。どっしりとした重量感のある上屋の下に、ベンチが設置されていました。多くの人で賑わった多奈川線ですが、平成10(1998)年の明石海峡大橋の開業によって、深日港を拠点にしていた旅客船業者は大きな打撃を受け、深日港から撤退して行きました。多奈川線の花形であった「淡路号」も、それに先立つ平成5(1993)年に廃止されています。

駅スタッフをお見かけしましたが、自動改札機で改札を出ました。駅舎には自動券売機が設置されていました。通勤時間帯には1時間に3本、その他の時間帯は2本の列車が運行されていました。

駅舎の外へ出ました。平屋建ての駅舎です。広い駅前広場がありました。多奈川駅が開業された頃をしのぶことができます。

駅舎に向かって左側には、広い自転車置き場がありました。

広場から多奈川線に平行して走る通り(大阪府道65号岬加太港線)に出ました。岬町を走るメインルートです。かつての町の雰囲気を残す建物がありました。

通りから見た多奈川駅のホームです。長いホームにどっしりとした上屋が見えました。

多奈川線のホームの海側には、かつての川崎重工業に替わって、新日本工機の工場が広がっています。多奈川線は、今もここにある工場の従業員の”通勤の足”という役割を担っているようです。

多奈川線に乗ってきました。
大阪と淡路島・四国を最短コースで結ぶための大きな役割を果たしていた南海電鉄多奈川線。多くの人に親しまれた淡路連絡急行「淡路号」の栄光の歴史を支えた路線でした。その当時の面影は、今も残る長いホームからわずかにしのぶことができました。
いつまでも、その当時の面影を後世に伝えてほしいと願っています。

南海電鉄多奈川線、深日港駅を訪ねる

2018年08月27日 | 日記

南海電鉄のみさき公園駅です。大阪府の最南端、泉南郡岬町にあります。この駅から、全長2.6kmの多奈川線が分岐しています。南海電鉄本線には本線から分岐する路線が6路線ありますが、多奈川線もその一つです。ちなみに、この6路線は、北から汐見橋線、高師浜(たかしのはま)線、空港線、多奈川線、加太線、和歌山港線です。これまで、汐見橋線(「レトロな駅舎が続く南海電鉄汐見橋線」2015年12月17日の日記)と高師浜線(「私鉄の最短路線、南海電鉄高師浜線に乗る」2015年11月27日の日記)は訪ねてきました。この日は、みさき公園駅から多奈川線の電車で、深日港(ふけこう)駅に向かいました。

この日乗車した多奈川線は、昭和19(1944)年に、潜水艦や海防艦を建造していた川崎重工業泉州工場の従業員輸送のために開業しました。写真は多奈川線の休日用の時刻表です。この日は土曜日でした。次の列車は13時15分発。通常、みさき公園駅の5番乗り場から出発している多奈川線ですが、この列車だけが、唯一4番乗り場からの出発でした。

改札を抜けて、地下道を進むと、3番乗り場と5番乗り場の案内がありました。4番乗り場の案内を見つけることができませんでしたので、このホームに上がりました。ホームの南の端に4番ホームの案内がありました。3番ホームと5番ホームの先に設置されていた、切り欠きのホームが4番ホームでした。後に、深日駅で出会った方のお話では、現在、「4番乗り場を使用する列車はこの1本だけ」とのこと。偶然でしたが、貴重な経験ができたようです。

4番ホームでは、2200系車両の2両編成、ワンマン運転の電車が待っていました。この列車は、みさき公園駅と多奈川駅の間で往復運転をしています。10人程度の人が乗車されていました。

出発しました。南海本線の線路と並行して進んで行きます。その先で、本線は大きく左折して離れて行きました。

めざす深日港駅までは2.1km。途中の深日町(ふけちょう)駅に停車した後、みさき公園駅を出発してから5分ぐらいで到着しました。電車は、すぐに、終着駅の多奈川駅に向かって出発して行きました。深日港駅は、多奈川線が開通してから4年後の昭和23(1948)年11月3日、深日港から出る淡路・四国連絡船の開設に伴って開業しました。多奈川線で唯一、開設当初から1面1線のホームになっていました。

下車したホームの先は柵で仕切られていました。その先に長い長いホームが残っています。

ホームから見た多奈川駅方面です。多奈川駅までは500m。この写真は少しズームしていますが、ホームの先に多奈川駅の1面1線のホームが見えています。

柵が設置されているところから見た深日町駅方面です。かなりの幅のあるホームです。その上にどっしりとしたホームの上屋が見えます。駅舎はその先にありました。線路の右側には、大阪府道65号(岬加太港線)が線路と並行して走っています。

ホームの上屋です。柱は補強されていましたが、太い木材を組み合わせてつくられています。深日港駅は、昭和23(1948)年、川崎重工業の泉州工場の船溜(ふなだまり)を改修して深日港が開設され、関西汽船が深日港・洲本港間に航路を開設したときに、開業しました。その後、関西汽船を引き継いだ深日海運が、大阪湾フェリーとともに、淡路島への航路を運航していました。また、徳島方面へは昭和23(1948)年から徳島フェリーが発着していました。こうして、大阪の南海電鉄難波駅から多奈川駅に向かう直通急行(淡路連絡急行「淡路号」6両編成)が運行されるようになり、大阪と淡路島・徳島間が最短ルートで結ばれることになりました。柵を設置した長いホームが残っているのは、この時代の名残です。

ホームから改札口に向かう途中の左側に残る、かつて、繁忙期に使われていた改札口(ラッチ)です。淡路島航路や四国航路を利用する乗客でにぎやかだった時代の面影を今に伝えています。現在は無人駅になっています。自動改札機を通って駅舎に出ました。

駅前広場から、自動券売機が置かれている駅舎を撮影しました。

多奈川線と平行して走る府道65号(岬加太港線)から見た深日港駅です。ホームの上屋が見えます。標識の右側には岬町役場、左側に多奈川線を越える踏切がありました。

役場前で左折します。

踏切を渡ったところから駅舎を撮影しました。この踏切は、岬町役場と深日港を結ぶ通りに設けられています。

駅舎前から深日港に向かって進みます。先ほど構内から見えた木製の改札口です。今は鎖で使用できないように固定されていました。さて、「深日港駅(ふけこうえき)」は難読駅として知られています。「深日」の地名は「南海沿線の不思議と謎」(天野太郎著 実業の日本社刊)によれば、奈良時代までさかのぼることができる由緒ある地名で、天平19(747)年、法隆寺が朝廷に提出した財産目録(「法隆寺伽藍縁起並流記資材帳」)には、「河内国日根郡鳥取郷深日」と書かれているそうです。また、「深日」を「ふけ」と読むことも奈良時代にはすでに行われていたそうで、「万葉集」の「時つ風 吹飯(ふけい)の浜に出で居つつ 贖う(あがなう)命は 君の為にそ」の「吹飯」がその例だそうです。「海岸線が湾曲した場所」を表す「ふくれる」「ふくろ」から転じたといわれています。

駅舎の隣にあった駐車場です。駐車場の後ろは、川崎重工業が神戸に移った後にできた新日本工機の工場です。多奈川駅まで続いています。駐車場の入口にあった立て看板が気になりました。「深日港~洲本港 乗船者専用駐車場」と書かれていたからです。深日港からの旅客フェリーは運航が終了してからすでに長い時間が経過しています。

道路のつきあたりに、広いスペースがありました。「ふれあい漁港」の看板の先の白い建物はトイレです。トイレの壁の手前に「深日港・洲本航路 船のりば」と「深日港観光案内所 さんぽるた」の案内がありました。そして、その先の桟橋には、高速艇が停船しています。どうやら、深日港と洲本港の間に、高速艇が就航しているようです。詳しいお話をうかがいに「深日港観光案内所 さんぽるた」に向かいました。

深日港です。土曜日でしたので、釣りを楽しむ人たちが釣り糸を垂れていました。

広場の奥の青い建物が観光案内所の「さんぽるた」でした。入口の柵には「深日港~洲本港 旅客船社会実験運行 乗船券売り場」と書かれています。

「さんぽるた」の内部です。スタッフが常駐し、たくさんの写真や説明が掲示されています。昨年度に引き続き「船旅活性化モデル地区」の事業として、大阪府泉南郡岬町と兵庫県洲本市が、平成30年7月1日から約8ヶ月間、深日港と洲本港を結ぶ旅客線の運行をするという社会実験を行っているようです。先ほど見た高速船の「インフィニティ」(49トン・恭兵船舶所属)が就航しています。

館内には、深日港を起点に就航していたフェリーの写真や、淡路島航路の歴史が展示されています。
昭和23(1948)年深日港~洲本港間で運行を始めた関西汽船は、昭和42(1967)年に「たんしゅう丸」を就航させます。しかし、昭和47(1972)年に、航路と「たんしゅう丸」を深日海運に譲渡して撤退しました。その後は、深日海運によって運行が続いていました。しかし、明石海峡大橋の開通に伴う旅客数の減少によって、平成6(1994)年に社名を「えあぽーとあわじあくあらいん」と改め、深日港から撤退し、関西国際航空を起点に洲本港と津名港を結ぶ航路を開設しました。しかし、営業は好転せず、平成10(1998)年に廃業しました。また、同じ年に、徳島フェリーも廃業しています。なお、深日海運のダイヤに合わせて運行されていた、難波駅から深日港駅をつないでいた淡路連絡急行「淡路号」は、平成5(1933)年に運行を停止しています。

これは、社会実験で運行されている深日港・洲本港間の高速船の運航時間です。運賃は大人片道1500円でした。来年の2月下旬まで、1日4往復が運行されています。一方、昭和36(1961)年から、深日港と淡路島炬口(たけのくち)港間で運行を始めた大阪湾フェリーは、その後、淡路島の津名港と深日港間で運行するようになりました。しかし、深日海運と同じように、明石海峡大橋の開通によって、平成10(1998)年に深日港から撤退し、泉佐野港に拠点を移すことになりました。こうして、昭和23(1948)年の関西汽船に始まり、半世紀にわたり続いてきた深日港の旅客船運行は終止符を打つことになりました。大阪湾フェリーはその後も運行を続けましたが、平成19(2007)年にすべての運行を終了しています。

岬町観光案内所の方におうかがいすると、徳島フェリーはこの観光案内所の裏側に発着していたそうです。

これは、深日港の入口に設置されていたトイレです。トイレの向こう側に、かつて「乗車券発売所」と書かれた3階建ての建物があったそうです。トイレとその建物の左側に淡路島航路のフェリーは発着していたそうです。

多奈川線の深日港駅を訪ねる旅は、かつての淡路島航路の面影をたどる旅になりました。
現在の深日港では、自転車の利用を促進する活動と一体になった「船旅活性化」をめざした取り組みが進んでいます。
観光案内所の「さんぽるた」をお訪ねしたとき、「関西空港から自転車でここまでやって来た」という方がいらっしゃっていました。サイクリングを愛する全国の人たちにも乗船していただけるといいなあと思いました。






多度津街道を歩く(4)金刀比羅神社表参道まで

2018年08月15日 | 日記
多度津街道は、多度津(香川県仲多度郡多度津町)から金毘羅宮へ向かう参拝客が歩いた道でした。金毘羅詣りは江戸時代後期の文化文政時代(1804年~1829年)頃から流行し始めたといわれています。天保9(1838)年に多度津藩によって多度津湛甫(たんぽ・港)が整備されてからは、多度津に上陸し、多度津街道を利用する参拝客が増えていきました。これまで、3回に分けて、中土居の道標(善通寺市大麻町)(「金毘羅街道を歩く(1)多度津の町並み」2018年6月26日の日記・「多度津街道を歩く(2)善通寺に向かって」2018年7月20日の日記・「金毘羅街道を歩く(3)善通寺から中土居の道標まで」2018年8月9日の日記)まで、歩いて来ました。今回は、終点の金毘羅宮(現・金刀比羅宮)表参道まで、多度津街道を歩きました。

善通寺市立郷土館でいただいたルートマップです。マップには太線が3本書かれていますが、右側の太線は丸亀街道(丸亀からの参拝客が歩いた金毘羅街道)、真ん中の太線は多度津港に陸揚げされた魚を運搬したルート(「魚街道」などと呼ばれています)を示しています。今回は、左の太線(多度津街道)で示されたルートで、中土居から金毘羅宮の表参道へ向かいました。今回もルートマップに示された道を探す旅になりました。

前回、ホテルプラハの前にあった中土居の道標まで歩いてきました。ルートマップで示されたルートがなかなか見つからず苦労しましたので、善通寺市立郷土館の方に教えていただいてから再度挑戦し、ここまで歩いてきました。今回のスタートはここからです。手前の畦道(あぜみち)から、県道47号を横断し、ホテルプラハの前を抜けて進みました。

道なりに進むと、右側に「中土居会館」がありました。その先で、旧街道は大きく左にカーブします。

その後、前方の民家の左をまっすぐ進むと、JR土讃線の中土居南踏切に向かうことになります。旧街道は、民家の手前を右折していました。

右折しました。写真の右側にあるお宅の左側に、かつて「茶堂」がありました。参拝客が休憩したところだったようです。右側の民家の前にあった地蔵を見ながら進みます。

やがて、右側に戸建ての7軒からなる団地が見えてきました。団地の前から延びる道を左折して進みます。

左折した後、その道はJR土讃線の線路にぶつかります。以前小さい踏切があった痕跡があるのですが、向こう側を走る国道319号に渡ることができません。線路の前で左折して、JR土讃線と並行した道を通って中土居南踏切に向かいます。

中土居南踏切に着きました。踏切を渡りセブンイレブンを左に見ながら進んでいきます。セブンイレブンの次にあった運送会社の事務所を過ぎて進むと、右側にあるJR土讃線の線路の向こうに、歩いてきた金毘羅街道が見えました。

線路の向こう側まで歩いてきました。この先のルートを確認します。

ここからの金毘羅街道は、ルートマップによれば、現在、線路があるところを手前に渡り、その後、右斜めに進んでいました。この先の「香川マツダ販売」の店舗を斜めに進み、その後、国道319号に沿ったお宅の裏側を、国道とほぼ並行して、南に向かっていたようです。しかし、破線で示されたところは、現在では道が途絶えているようです。

旧街道の痕跡を確認するため、国道に沿った家並みの裏側に出ることができる道を探しながら進みます。マツダの販売店から6、7軒先の民家の間に、国道から左斜めに進む道がありました。

その道を進み、家並みの裏から多度津方面を見ると、草に覆われた道がありました。これが、かつての多度津街道の跡だと思いました。その先、金毘羅宮方面に歩いてみましたが、途中で、行き止まりになりました。無理して通れば抜けることができたのかもしれませんが・・。引き返して、国道に戻りました。

次に、左に入る道があったのは、琴参バスの岩崎バス停の先でした。そこで、左に入りました。

犬の散歩をされていた高齢の女性がいらっしゃいましたので、お尋ねしますと、「この道は昔からある道で、この先ずっと続いています。私はこの道を通ってお嫁に来ました」というお話が返ってきました。金毘羅街道の跡だと思いました。その道は、右側の倉庫風の建物の向こうにありました。

これが、女性のお話にあった旧街道です。お礼を申し上げ、広い畦道といった雰囲気の道を進んで行きます。途中から用水路が並行する通りになりました。

やがて、前方に「灸まん」と書かれた黄色い看板が見えるようになりました。「灸まん美術館」と「灸まんうどん」の裏を進んでいきます、

ブロック塀の右側は「灸まんうどん」の駐車場になっています。金毘羅街道は、ここからまっすぐ前に進んでいて、国道319号を渡ったあたりで、多度津から魚を運搬した魚街道と合流していました。正面の建物はファミレスのジョイフルです。

国道319号を渡った向こう側、ジョイフルとの境界の柵の左側に旧街道が残っていました。草に覆われていましたが、四国ガスのガスタンクの手前を左に向かっていました。しかし、残念ながら、ガスタンクの裏側からやってくるJR土讃線の線路のため、多度津街道は行き止まりになっていました。

迂回することにしました。「灸まんうどん」の駐車場から国道を渡り、ファミリーマートとの間の道を通り、国道319号から分岐した県道208号を左折します。

その先の大麻踏切で、JR土讃線を渡り、県道208号を進んでいきます。

踏切の先から、大麻神社の参道が右に延びていました。

大麻神社の参道の先の県道208号です。琴平の町につながっています。民家の間に左に入る通りがありました。その道を進みます。

左に入って進むと、道は正面にあった民家の手前で右にカーブします。そこへ、左側の線路の下から来る道が合流しています。この道こそ、先ほど行き止まりになった線路の向こうから続く道でした。

ルートマップでは、多度津街道は、この先で金倉川の右側(左岸)を上流に向かって歩くようになっていました。

金倉川に出ました。このあたりで善通寺市大麻町から仲多度郡琴平町に入ります。この道を金倉川の上流に向かって進んで行きます。

通りの左側と中央部に、ことひら温泉郷の温泉旅館、琴参閣(正面)と紅梅亭(左側)のビルが見えます。

さらに、進みます。琴平町高藪(こうやぶ)地区に入りました。金倉川の対岸に高松琴平電鉄の電車と琴平駅が見えました。
 
その先、旧街道の右側に、41基の灯籠が並んでいます。「高藪の並び灯籠」です。多度津街道最大のハイライトともいうべき遺跡です。いただいたパンフレットには「文久年間(1861年~1863年)以降、明治初期のものもある」、また、「漁村、漁船、廻船仲間などの寄進者が多い。江戸や上州、甲州などの信者が寄進されたものもある」と書かれています。
 
「大坂道中 陸尺仲間中」が寄進された灯籠もありました。「陸尺(ろくしゃく)」は籠(かご)を担ぐ仕事をされている人たちのことです。「江戸道中 日雇方仲間」と刻まれている灯籠もありました。それには「慶應元(1864)年乙丑年六月」と刻まれていました。また、灯籠の端の「石碑」の正面には「金毘羅 多度津 旧街道遺跡並大灯籠及鳥居」、裏には「この位置にありし粟島奉献の鳥居 昭和48(1973)年高灯籠に移す」(金刀比羅宮社務所)と書かれていました。

これは、高松琴平電鉄の琴平駅に隣接している高灯籠のある公園(北神苑)です。その正面入口に設置されている鳥居です。この鳥居は粟島の廻船仲間が、天明2(1782)年に寄進したもので、もともとは、多度津街道の終点に設置されていました。琴平町にある鳥居の中で最古のもので、石碑に残されていたように、昭和48(1973)年にこの地に移設されました。このことから、鳥居があった「高藪の並び灯籠」が残っているところが、多度津街道の終点ということになります。

もう一つ、多度津街道にかかわる石碑が北神苑にありました。右側の石碑には「奉献 道案内」と刻まれています。近くにあった説明には、「多度津街道の金比羅側の起点石」、「明和4(1767)年の建立」と書かれていました。左の側面には「従是多度津江 百五拾丁」と刻まれています。やはり、移設されてこの地に来たものです。

「高藪の並び灯籠」のある場所が多度津街道の終着点(起点)でしたが、参拝客は、この後も金比羅宮に向かって進んでいました。表参道までたどることにしました。琴電の琴平駅付近で、JR多度津駅から来た道を横断して写真の建物の間を進んで行きました。

10分ほどで突きあたりになります。ここで右折。 琴平町内を通る県道208号に出ます。「観光旅館 八千代」が目の前にありました。ここで、左折します。

県道208号に出て、次の交差点を右折すると表参道。この日も往事と同じように、多くの参拝客が金刀比羅宮をめざして歩いておられました。

これまで4回に分けて、多度津街道を琴平まで歩いてきました。
可能な限り、かつての多度津街道のルートを忠実にたどることをめざして歩きました。しかし、それは本当に難しいことでした。多くの人に助けていただきながら、何とか表参道までたどり着くことができました。
多度津町立資料館や善通寺市立郷土館を始め、情報をくださった地元の皆様、ありがとうございました。

多度津街道を歩く(3)善通寺から中土居の道標まで

2018年08月09日 | 日記
多度津街道は、多度津から金毘羅宮へ向かう参拝客が歩いた道です。金毘羅詣りが盛んになったのは、江戸時代後期の文化文政期(1804年~1829年)頃からだといわれています。天保9(1838)年、多度津藩によって整備された多度津湛甫(たんぽ・港)が開かれてからは、多度津に上陸し、多度津街道を利用する参拝客が増えていったそうです。これまで、2回に分けて多度津から善通寺簡易裁判所前まで歩いてきました(「多度津街道を歩く(1) 多度津の町並み」2018年6月26日の日記・「多度津街道を歩く(2) 善通寺に向かって」2018年7月20日の日記)が、今回は、善通寺市街地から大麻町の中土居の道標まで歩くことにしていました。

JR土讃線の善通寺駅です。この日も、前2回と同じように半端ない暑さの日でした。

駅前にあった市街地図です。善通寺簡易裁判所は、ここからまっすぐ進んだ先の、主要地方道善通寺大野原線(県道24号)との交差点の手前にあります。しかし、この日は街道歩きの前にどうしても見てみたいものがありました。それは、善通寺市総合会館にありました。

JR善通寺駅から、善通寺簡易裁判所に向かう駅前通りに出ると、目の前に「善通寺市総合会館」の案内がありました。左折して10分ぐらい歩くと総合会館の前に着きました。

総合会館前の道路脇に、たくさんの灯籠や道標が移設されています。その中に、二つ気になる石標がありました。写真の左から2つ目の石標には「四十町岩國塩屋大(その下は地中に埋もれていました)」と、その右2つ目の石標には「五十五丁岩国屋平田○八」(○は読めませんでした)と刻まれています。多度津町立資料館でいただいたパンフレットには「多度津街道にあった灯籠と石碑が移されている」と書かれており、多度津街道に設置されていた丁石のようです。「町」と「丁」と異なっていますが、起点推定地の多度津商工会議所付近から四十町のところ、五十五町のところに設置されていた丁石かもしれません。ちなみに、多度津街道にあてはめてみると、「四十町石」は、前回歩いた区間(「多度津街道を歩く(2)善通寺に向かって」2018年7月20日の日記)の「下吉田の道標」から琴平寄りに1町の地点に、「五十五丁石」は、善通寺グランドホテル付近にあった(多度津町立資料館でいただいた「多度津街道丁石推定地」の資料)ようです。

善通寺市立郷土館でいただいた多度津街道のルートマップです。簡易裁判所の先で途切れていた多度津街道は、四国学院大学の先の生野本町(いかのほんまち)二丁目で左折し、その先を右折して、南の熊ヶ池に向かっていたようです。

駅前から簡易裁判所に向かう通りに戻りました。正面に山が重なって見えます。正面手前の山が香色山(こうしきざん)、その後ろが我拝師山(がはいしざん)、右側が筆山(ふでのやま)です。これに、その後ろにある中山(なかやま)と火上山(ひあげやま)を加えた五つの山(「五岳」)は、その美しさから屏風ヶ浦(びょうぶがうら)と呼ばれて来ました。善通寺市にはこの五つの山からつけた「五岳」というブランドのお酒もあるそうです。

駅前通りに戻り、20分ぐらい歩いて善通寺簡易裁判所に着きました。

スタートです。簡易裁判所の県道24号の交差点を左折して、四国学院大学を過ぎて次のブロックに進みます。道路標識の先に三差路が見えました。ルートマップでは、多度津街道は三差路の手前を左折しています。

他に道がなかったので、三差路の一つ手前で左折して、用水路に沿った道を進んでいきます。

善通寺西高校のグランドを過ぎると、その先に灯籠が見えました。いただいたパンフに載っていた「落亀の灯籠」のようです。旧街道の雰囲気を感じました。右折して進みます。

呉服店の脇で、三差路から続く通りを渡り、南に向かって進みます。右側には県道47号(岡田善通寺線)がほぼ並行して南に向かっています。

すぐに、旧街道は熊ヶ池の堰堤にぶつかります。そこから、右に向かい堰堤に上って進みます。

県道47号に合流します。左折して進みます。鶴ヶ峰と磨臼山(すりうすやま)の切り通しを越えると、右側の西岡池に沿って進むことになります。

県道47号は西岡池付近で左カーブして離れて行きました。旧街道は、正面の民家の左側を進んでいました。

その先の民家を過ぎたところに、通りの左側に道標が、右側に石地蔵がありました。

左側にあった道標です。正面に「手形 金刀毘羅道」と右側面に「明治12年1月吉日」と刻まれていました。また、左側面には「周防國玖珂郡高森 施主 岩本清作」と施主の名前がありました。

右側にあった石地蔵です。地蔵の正面、白布の下に、「手形 からんみち」(右側)と「手形 こんひらみち」(左側)と刻まれています。道標にもなっているようです。 

左側の道標の案内にしたがって、ここで左折します。旧街道は、この先の「地蔵池」に向かって緩やかに上っていきます。

上りきったところに、赤いずきんを被った小さな石地蔵が祀ってありました。見た感じでは比較的新しい地蔵のようです。地蔵池の周辺は、平成16(2004)年に水辺公園として東屋や遊歩道、広場が整備されていますが、池の整備の時に建てられたものかもしれません。

眺望もよく、右には象頭山(ぞうづざん)が、左側の山の中腹には南部小学校の白い校舎が見えます。写真は地蔵池の向こうに見える象頭山です。この山の南の端に金毘羅宮が鎮座しています。

地蔵池の堰堤の道を進みます。厚い日射しが直射して、くらくらしながら歩いて行きます。

堰堤の先にあった地蔵です。こちらのお地蔵さんも赤いずきんを被っておられました。この地蔵があったから「地蔵池」と名づけられたそうです。地蔵の裏には「文化8(1811年)」と刻まれていました。左側の祠の前面には「寛政10戌(1798)年2月」と刻まれていました。

これは、善通寺市立郷土館でいただいた多度津街道のルートマップです。「地蔵池」から下り県道47号の右側を南に進んでいました。ルートマップにしたがって、堰堤の先を左折して下っていきます。

地蔵池の下の集落を抜けて県道47号の交差点付近に下ってきました。交差点の手前を右折して進みます。比較的新しい住宅が続く道を進みます。

左側を走る県道47号が見えました。県道47号の右側に、灯籠と道標が建っているのが見えました。その先で旧街道は左にカーブして下って行きます。

正面の民家の手前で道は分岐していました。左に向かうと先ほど見えた灯籠と道標がありました。

「下土居の灯籠と道標」とパンフレットに書かれていた灯籠と道標です。「金刀比羅神社」と刻まれた、背が高く角張ったたくましい灯籠です。道標には「左 こん比ら道」。 大麻山登山の案内看板が立っているところに設置されていました。気になったのが、この灯籠と道標がある場所が、県道47号に接した場所だったこと。金毘羅街道を多くの参拝客が歩いていた時代には、県道47号はなかったはずです。後に郷土館でお聞きすると「移設されている」とのことでした。もともと設置されていたところと思われる地点まで引き返します。

先ほどの分岐点の手前に戻りました。「下土居の灯籠と道標」は、写真の少し手前付近に設置されていたそうです。旧街道を進みます。旧街道はこの分岐点を右に進んでいました。

分岐点の右方向に進んで行きます。旧街道の前方に墓地と県道47号が見えました。

分岐点から並んでいた民家の一番前のお宅は、県道47号に接して建てられています。玄関の上に大きな木製の看板がありました。

「真宗 原御堂(はらみどう)」と書かれていました。江戸時代後期の日本画家で、自らの絵を経費に使って、参拝客が多いため荒廃していた金毘羅街道の修復に尽力した、大原東野(おおはらとうや)縁りの建物です。県道47号をはさんで東向かいにある墓地に石碑が残っているそうです。大原東野は、文化元(1804)年に金比羅に来て、丸亀街道(丸亀からの金毘羅街道)に近い苗田(のうだ・大麻町の東方)に住居を構えていたそうです。

原御堂の前方です。左の県道47号と並行した通り(自動車の左側)を進みます。ここからは、金毘羅街道は複雑な進路をとることになります。
その先を左折します。

左折して東に進みます。民家の手前で県道47号を渡ります。

そのまま進むと左前方に「なんぶ保育所」、その裏の「フラワーランド」の色鮮やかな建物がありました。手前を右折して進みます。

左側の川に沿って、道は県道47号に向かっています。県道47に出ると左折して橋を渡ることにします。

左折したら、進行方向右側に、ホテルプラハの建物が見えました。

左折して民家の前を進みます。右側の水田の先を右折して、畦道(あぜみち)をホテルプラハに向かって進みます。

畦道をホテルプラハの前に向かって歩きます。ホテルの前の通りの左側、塀の前に道標がありました。

県道47号から東に向かって道標を撮影しました。「中土居の道標」です。正面に「左に向けた手形 ぜんつうじ道  右に向けた手形 こんぴら道」と刻まれています。

側面(畦道から見た正面)には「たきのみや道」と刻まれていました。金毘羅宮方面は、ここからまっすぐ右(南)に進んでいたようです。県道47号を前方(東)に向かうと、「中土居踏切」でJR土讃線を渡り、滝宮方面に向かっているようです。

半端ない日射しの中を、多度津街道を善通寺から中土居の道標まで歩きました。「下土居の灯籠と道標」から「中土居の道標」の間は、複雑なルートをたどる旅になりましたが、正しいルートが見つからず苦労を重ねました。善通寺市立郷土館の方から、情報の手助けをいただきながら歩いた旅でした。本当に感謝しています。  次回は、琴平町の街道の終点までのルートをたどってみようと思っています。