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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

鉄道連絡船の駅、南海電鉄和歌山港駅

2018年12月19日 | 日記

和歌山港から出港する南海フェリーの「フェリーかつらぎ」(2,620トン)です。イエローの地にオレンジの2本のラインが鮮やかです。側面の”NANKAI”もどこか誇らしげです。全長108メートルで、8トントラック39台、旅客427人を輸送する能力を持っています。平成11(1999)年から就航しており、紀伊水道の対岸にある徳島港までを、約2時間で結んでいます。

電車が発着する南海電鉄和歌山港駅のホームから見た和歌山港の桟橋です。遠くて見えにくいのですが、「フェリーつるぎ」(2,604トン)が着岸しています。薄いグリーンの地にオレンジの2本のラインは「フェリーかつらぎ」と色こそ違いますが、同じデザインです。全長108メートルで、8トントラック39台、旅客427人を輸送することができます。同じ臼杵造船所で製造された姉妹船といっていい存在です。こちらは「フェリーかつらぎ」よりも2年早い、平成9(1997)年に就航していますが、2019年度末の新造船の導入により引退することになっています。現在、2隻のフェリーで1日9往復(深夜便の1往復は休航中)運行されています。

南海フェリーの和歌山・徳島航路は、”南海四国ライン”と呼ばれています。フェリーを運行している南海フェリーは、昭和50(1975)年に設立され、和歌山・小松島航路(和歌山港~小松島港間)の運行を引き継ぎました。そして、平成11(1999)年4月には航路を和歌山・徳島間に変更し、10月には「フェリーかつらぎ」を就航させました。昭和60(1985)年に、小松島港への旅客輸送を担っていた国鉄小松島線が廃止されるまでは、小松島側でも鉄道連絡線が運行されていました。写真は、南海フェリーの「南海四国ライン 和歌山港フェリーターミナル」です。乗船客は乗り場への連絡通路を通って、待合室の中にある乗船口に向かうようになっています。

南海本線の孝子(きょうし)駅から乗車した「普通車」(南海電鉄の普通列車の呼び方)が、終点の和歌山市駅に着きました。この日は、鉄道連絡線の和歌山港線和歌山港駅を訪ねることにしていました。

到着した和歌山市駅の「6番のりば」です。線路の先には車止めがあり、その先にある「7番のりば」にも電車が停車していました。この列車が和歌山港行きの電車でした。和歌山港線は、昭和31(1956)年5月に和歌山市駅~和歌山港駅(後の築港町駅)間、2.3kmが開通したことに始まります。そして、当時盛んだった木材輸送のため、昭和46(1971)年に水軒(すいけん)駅まで延伸開業(全長5.4km)されました。しかし、延伸開業したときには、木材輸送はすでにトラック輸送に切り替わっており、和歌山市駅から水軒駅にまで行く旅客列車は、朝夕2往復だけの運転でした。

和歌山港線は、平成13(2001)年からワンマン運転になっています。2251号車と2201号車の2両編成の電車が、単線・電化区間の和歌山港駅に向かって出発しました。和歌山港線が水軒駅まで開業したとき、和歌山港は現在地に移設され、合わせて現在地に和歌山港駅も移設されました。それに伴い、それまでの和歌山港駅は築港町駅に改称されることになりました。

平成17(2005)年5月に和歌山港駅~水軒駅間2.6kmが廃止され、11月には、途中駅だった久保町駅、築地橋駅、築港町駅も廃止されて、現在の和歌山港線になりました。

和歌山市駅からは2.8km。発車して5分ぐらいで、終点の和歌山港駅の海寄りの2番ホームに到着しました。線路の先に車止めが見えます。これを見ると、わずか2.8kmでしたが、遠くまでやってきたと感じてしまいます。この線路は、開業当初からここで行き止まりになっていました。

1面2線の島式の長いホームが広がっています。どっしりとしたホームの上屋も・・。ホームは地上3階部分にあります。改札口は階段を下った2階部分にあります。

山側の1番ホームの下には集落が広がっています。和歌山港駅のあるところは、和歌山市薬種畑だそうです。紀州和歌山藩の薬種畑があったところなのでしょうか?

時刻表です。和歌山港線の電車は13本運行されています。特急”サザン”や急行も運行されていますが、和歌山市駅にはすべての列車が停止するようになっています。特急”サザン”に乗れば、和歌山港駅から65分でなんば駅に着くことができます。

ホームの和歌山市駅側です。乗車してきた2両編成の電車は、和歌山市駅に向かって出発して行きました。

ホームの和歌山市駅側の端から見た南海フェリーの「和歌山港フェリーターミナル」です。そこから港に向かって、連絡通路が延びているのが見えます。

3階のホームから降りて、2階の改札口を出ました。和歌山港駅は無人駅になっていますが、南海フェリーのスタッフが案内に立っておられます。この日は女性スタッフの方でした。

改札口の前にあった「案内」です。改札口を出た左側には地上に下りる階段があり、バス・タクシーのりばにつながっています。南海フェリーの乗船口へは、右側に向かって連絡通路を進んで行くことになります。

途中の窓から見えた連絡通路です。建物の2階部分に、フェリー乗り場に向かって設けられていました。

連絡通路を進みます。このあたりから、先ほどホームから見た「和歌山港フェリーターミナル」の裏側になります。

”動く歩道”も設置されていました。

その先が、旅客用の待合室です。中に乗船口もありました。また、トイレがあり、自動券売機、飲物の自動販売機、ベンチ、テレビが置かれています。徳島港まで、2,000円でした。この日は平日の午後でしたが、20人ぐらいの方が、”フェリーかつらぎ”の乗船を待っておられました。旅客は減少傾向にあり、特に、平成10(1998)年の明石海峡大橋の開通以後は、旅客の落ち込みが激しくなったそうです。

”フェリーかつらぎ”の出帆を見ようと、待合室のエレベーターで地上に下りました。しばらく右(南)方面に歩き、乗船する自動車の駐車場に入ります。

13時40分、定時に”フェリーかつらぎ”が出帆していきました。

自動車の搭乗口に行くために引き返します。駅からの連絡通路と待合室のある建物です。

その脇にあった自動車の搭乗口です。フェリーが出発した後でしたので、閑散としていました。ここから、駅に向かって引き返します。

フェリー前交差点です。多くの車両が行き交う交通量の多い交差点でした。写真の中央には和歌山港駅のホーム、右側には「和歌山港フェリーターミナル」建物が見えます。その前は駐車場になっています。

フェリー前交差点を和歌山港駅の側に渡り、右に進みます。

連絡通路の下をくぐると、左側に和歌山港駅が見えました。

和歌山港駅の下まで、戻ってきました。

駅舎の下から見たホームの上屋です。和歌山港線は、平成14(2002)年5月26日に、この先の水軒駅までが廃止されています。その廃線跡が気になりました。

これは、和歌山港駅の山寄りの1番ホームの旧水軒駅方面です。昭和46(1971)年に水軒駅まで延伸開業したときから、この線路だけが水軒駅につながっていたそうです。

その先に車止めがあり、線路も途絶えています。

車止めの先にもかつての線路跡が残っているように見えます。

下から見た和歌山港駅のホームの端です。手前の2番ホームの車止め付近を撮影しました。その向こう側に廃線跡が残っています。

その先のようすです。駅の先には「花王」工場の西門がありました。工場への入口のアンダークロスの左右にバラストらしきものが見えます。下からは線路は確認できませんでしたが、線路跡が残っていると感じました。

線路跡らしきところは、その先も、旧水軒駅の方に向かって続いていました。

和歌山市と徳島市の二つの県庁所在地を2,000トン級のフェリーが結ぶ”南海四国ライン”。大阪のなんば駅から特急”サザン”に乗車し、終点の和歌山港駅で、”南海四国ライン”に乗り継げば、なんば駅から徳島港まで行くことができます。南海四国航路連絡列車が走る和歌山港線は、日本でも唯一といっていい鉄道連絡線でした。和歌山港駅から和歌山港まで続く長い連絡通路には驚かされました。機会をみて、旧水軒駅までの廃線跡と、廃止された途中駅(久保町駅、築地橋駅、築港駅)跡を訪ねてみたいと思いました。

貝塚市に残る寺内町の面影を訪ねて(3)

2018年12月13日 | 日記
大阪市貝塚市は寺内町として知られています。寺内町は室町時代から江戸時代にかけて、浄土真宗などの仏教寺院や御坊(道場)を中心に形成された集落です。防御のために壕や土塁で囲まれた集落では自治が行われ、信者や商工業者が居住していました。貝塚寺内町は、浄土真宗願泉寺を中心にした寺内町でした。

願泉寺です。これまで、寺内町の面影を求めて、中心寺院の願泉寺から寺内町に残る登録有形文化財の商工業者の邸宅を訪ねて来ました。

これは、観光案内所でいただいたマップに、ルートを書き込んだものです。中心部を左右(南北)に引かれた太線が紀州街道。青いマークのラインが、現在の府道堺阪南線、赤いマークのラインは、貝塚市立北小学校からこれまでに歩いた経路とこの日歩いた経路です。この日は、マップの左側にある紀州口から卜半(ぼくはん)家墓所まで歩いてきました。

紀州街道が、貝塚寺内町の南の境である清水川にぶつかるあたりは紀州口と呼ばれています。寺内町への南の入口にあたるため、多くの旅籠が軒を並べていました。紀州和歌山藩の参勤交代に使用された本陣もこの地に置かれ、旅籠町と呼ばれていました。清水川に架かる清水橋のほとりに建つ清水地蔵堂です。今回は、ここからスタートしました。

紀州街道を大阪方面に向かって歩きます。

「はんと印刷」と書かれた看板のあるお店の前で、府道堺阪南線に合流しました。正面に「村雨」の看板のある和菓子のお店が見えます。

府道の向こう(東)側に、上善寺が見えました。

府道の東側から、大阪方面を撮影しました。目の前に「貝塚南町郵便局前」の標識が見えました。いただいたマップに見える鍵方に曲がっているところ(枡形)は、このあたりにありました。その先に、貝塚中央商店街の入口にある横断陸橋が見えます。

先ほど姿が見えた上善寺を訪ねることにしました。貝塚中央商店街の一つ手前の通りを右折しました。通りの入口に小さな祠がありました。

祠を過ぎて進みます。狭い通りの最初の四つ辻を右折して進みます。

府道から見えた浄土宗上善寺です。右折した辻まで引き返し、さらに先に進みます。途中から急な登り坂になりました。これまで歩いてきた堀之町筋(堀之町通)の利齋(りさい)坂や北小学校の玄関の先にあった石段と同じ段丘に上っていきます。

段丘の上にあった妙泉寺です。貝塚市内唯一の日蓮宗寺院です。もとは、岸和田市内にありましたが、慶長3(1598)年にこの地に移ってきました。現在の本堂は、文化3(1806)年に再建されたものだそうです。

妙泉寺から、北に向かいます。このあたりは近木(こぎ)町。感田神社の夏祭りに練り歩く近木太鼓台の格納庫です。7月の夏祭りには、2人の叩き手を乗せた7基の太鼓台が威勢よく掛け声をかけながら町内を練り歩くそうです。

南側から貝塚中央商店街に入りました。右折して、伝統的な商店街を南海電鉄貝塚駅方面に向かって進みます。左側に「要眼寺参拝者駐車場」の看板が見えました。その先の「ヤマハ」の看板のあるお店の角を左折します。

要眼寺です。貝塚寺内町は、慶長5(1600)年、願泉寺の住職であった卜半(ぼくはん)家の私領になることが、徳川家康によって認められました。現在、貝塚市立北小学校があるところに卜半役所を設置し、寺僧と呼ばれる五ヶ寺が願泉寺の檀家を預かるとともに、家来として町政を担っていました。要眼寺は、満泉寺、正徳寺、泉光寺、真行寺(今はありません)の4ヶ寺とともに寺僧として町政にもかかわっていました。

「卜半家墓所」とマップに書かれていましたので、訪ねて見ることにしました。要眼寺の前の通りを北に向かいます。マップで確認すると、この先の中之町通(通称「なかんちょ通り」)を隔てた向こう(北)側に、寺僧の他の4ヶ寺がありました。写真の前の建物手前を右折して進みます。

次の左右の通りを右折、すぐ左折して写真の向こう側に進みます。突きあたりの左側に入口がありましたが、入っていいのかどうかわかりません。ご近所の方にお尋ねしますと、「鍵がかかっているでしょう? 今は閉めていますよね」ということでしたので、お詣りすることはあきらめました。

入口のドアから撮影しました。塀で仕切られていて、見える範囲はこの程度でした。

貝塚中央商店街に戻って駅に向かいました。写真は駅側から見た商店街の入口です。南海電鉄貝塚駅に戻ってきました。

貝塚寺内町を一回りしてきました。貝塚寺内町は、国の重要文化財や登録有形文化財の建築物の宝庫でした。東西550メートル、南北800メートルという比較的小さな寺内町でしたが、見どころが多く、一回りするのに多くの時間がかかりました。しかし、ていねいにつくられたマップやパンフのおかげで、楽しい町歩きになりました。







貝塚市に残る寺内町の面影を訪ねて(2)

2018年12月12日 | 日記
大阪市貝塚市は寺内(じない)町として知られています。寺内町は、室町時代から江戸時代初期にかけて浄土真宗などの仏教寺院や御坊(道場)を中心に形成された集落です。壕や土塁で囲まれた集落では自治が行われ、信者や商工業者が居住していました。貝塚寺内町は浄土真宗、願泉寺を中心に成立、発展してきました。

前回は、貝塚市内で唯一周壕の遺構が残る感田神社と、中心寺院の願泉寺や町政を担った寺僧の寺院を訪ねて来ました。今回は、寺内町に残る商工業者の邸宅跡を訪ねて歩くことにしました。

前回と同じように、観光案内所でいただいた「貝塚寺内町登録有形文化財マップ」を手に寺内町を歩きました。マップにある、国の「登録有形文化財」に登録されている邸宅のうち、並河家、山田家、竹本(久男)家、利齋(りさい)家は前回訪ねてきました。今回は、それ以外の七家を訪ねるつもりでした。

貝塚市立北小学校からスタートしました。北小学校は、かつて、この地を支配した願泉寺の住職であった卜半(ぼくはん)家の政庁、「卜半役所」が置かれていたところです。小学校の正門前の通りは「御下筋(おしたすじ)」と呼ばれていました。御下筋を、地図の右(北)に向かって歩きます。

すぐに、前回訪ねた利齋(りさい)家の前の通り”堀之町筋”(堀之町通)を横切り、利齋家の土蔵の脇を北に進みます。利齋家では代々当主は「孫左衛門」を名乗り、江戸時代には薬種問屋を営む傍ら、北町の惣分年寄をつとめていました。寺内町には、中之町、北之町、南之町、西之町、近木(こぎ)町の五町がありました。それぞれの町には町会所が置かれ、年寄などの町役人がつとめていました。利齋家は17世紀の建物といわれ寺内町最古の町屋といわれています。国の登録有形文化財です。

利齋家から北に進んだところにあった岡本家の邸宅です。貝塚寺内で発展した代表的な産業は、廻船業と鋳物業、そして、特産の和泉櫛をつくる櫛挽(くしびき)だといわれていますが、江戸時代の中期以降木綿を扱う店も増えていったそうです。岡本家は、屋号を「唐津屋」といい、当主は代々「市郎兵衛」を名乗っていました。江戸時代には北之町の町年寄をつとめており、家業の醤油醸造業を、昭和30年代(1955~1965年)まで営んでいたそうです。主屋は江戸時代中期の建物といわれ、国の登録有形文化財に登録されています。

岡本家の先で、東西の通りを左折します。写真は、右折した正面にあった「堀之町太鼓」の格納庫です。寺内町の産土神(うぶすなかみ)である感田神社の夏祭りに行われる”御輿渡御(みこしとぎょ)”の太鼓台を納めています。左折して西に進みます。

10メートルぐらいで、かつての紀州街道である府道堺阪南線の北町(きたちょう)交差点に入ります。紀州街道は紀州和歌山藩の参勤交代の道でした。当時よりかなり拡幅されています。すき家の脇を右(大阪方面)に折れ、大阪方面に向かって進みます。

府道の右側に、ブルーシートに覆われた邸宅がありました。被災されているようです。宇野家です。本家で鋳物業を営んでいた「金屋長右衛門」(屋号)から分家して、江戸時代には製粉業を営んでいました。明治20(1887)年頃に、本家の居宅と家業を引き継いで、屋号を「金屋茂兵衛(かなやもへい)」と名乗り、鋳物業で栄えました。少し先にある土蔵のあたりから、振り返って撮影しました。国の登録有形文化財です。

やがて、府道が緩やかに右カーブするようになると、堀新の交差点になります。ここで、府道から左に分岐している通りがあります。この通りがかつての紀州街道でした。

かつての紀州街道に入ります。通りには、往事の雰囲気を残す建物も残っていました。

紀州街道を引き返して、堀新交差点まで戻りました。堀並橋の下に小さな川が流れています。寺内町の北の境になっている川でした。どっしりとした和風の建物の脇を流れる北境川です。大阪湾に向かって流れています。

こちらは、東側の北境川です。改修工事がなされていましたが、かつては、寺内町の防御のため、壕と土塁がありました。

大阪湾側の北境川の脇にあった尾食(おめし)家の主屋です。紀州街道が北境川とぶつかるこのあたり、現在の北町・堀三丁目付近は、寺内町への上方(大阪)側からの入口にあたるところから、「上方口」と呼ばれていました。また、周辺の地域は「二軒屋町」と呼ばれ、旅籠が軒を連ねていたそうです。尾食家も、江戸時代を通じて旅籠屋や両替商を営んでいました。幕末には、干鰯(ほしか)等の魚肥の販売や、木綿の仲買なども行っていたそうです。主屋は、天保10(1839)年に建てられ、国の登録有形文化財に登録されています。

寺内町の北の入口、北境川から紀州和歌山方面に向かって引き返します。先に見てきた宇野家が進行方向左側にありました。広い敷地に建てられていました。

「マップ」上に黒く引かれたラインは、紀州街道です。紀州街道は、通ってきた岡本家の上(西)のあたりで鍵形に曲がっています。枡形(ますがた)になっていました。

枡形のあるところは、先に上方口に行くために右カーブしたすき家のあった交差点付近にあたります。このあたりが枡形になっていたところのようです。

すき家のあった北町交差点を過ぎると、その次は北町南交差点です。通りは「堀之町筋(堀之町通り)」です。和風の建物の向こう側に利齋家の土蔵があります。右側の読売新聞・読売旅行の入るビルの向こうには北小学校がありました。

北町南交差点で右折して西に向かいます。通りは舗道になっており、「貝塚寺内町めぐり道」の銘がはめ込まれています。その先右側にある駐車場の手前を左折して、府道と並行した通りを進みます。

左側の駐車場越しに見えた北小学校です。

次の四つ辻の右にあった西町の竹本(章次)家。江戸時代末期に建設された主屋は登録有形文化財になっていますが、一部2階建ての部分が増築されているような印象でした。元の所有者の手を離れたときに改装されたようです。マップの説明では、江戸時代の「住人の職業は不明ですが、その建築構造から願泉寺卜半家の家来屋敷であった可能性がある」そうです。

竹本(章次)家の次の四つ角は、寺内町の中之町通(通称なかんちょ通り)、現在の西町海塚麻生中線です。横断します。貝塚寺内町の通りは、紀州街道が拡幅された府道堺阪南線と中之町通りを除けば、かつての通りがそのまま残っているそうです。

その先にあった吉村家です。厨子2階建ての主家はピンク色に塗られています。江戸時代には「泉久(いずきゅう)」という屋号で油屋や両替商を営む傍ら、西町の中老役をつとめていたそうです。主屋は、江戸時代中期から末期にかけて建てられたもので、登録有形文化財に登録されています。

吉村家の先の四つ辻です。右折して西に向かって進みます。

左側に間口も奥行きも広い、平入り、黒漆喰塗りの厨子2階建ての重厚な建物がありました。廣海(ひろみ)家の主屋です。天保6(1835)年に北前船の廻船問屋を開業しました。主に、肥料問屋として干鰯等を扱っていました。倉の2階に望遠鏡を備え(「めがね倉」というそうです)、港に入る廻船の種類を見分けていたといわれています。

さらに西に進み、振り返って撮影した廣海家です。明治時代中期に廻船問屋から撤退した後は、肥料を扱っていたといわれています。

廣海家の西にある四つ辻で、舗道の「貝塚寺内町めぐり道」が終わりになりました。そこで、左折、次の三差路を再度左折して、廣海家の裏側を東に向かって歩きます。廣海家はこのブロックの大半を敷地にしていたようです。

マップです。次は、名加家をめざして歩きます。吉村家からまっすぐ南に向かう通りに出て、さらに南に進んでいくことにしました。

廣海家の裏側の通りを歩いて、吉村家から南に向かう通りに戻りました。さらに南に向かいます。その先の四つ辻を左に向かうと紀州街道沿いに・・・

「村雨 塩屋堂」の看板を掲げたお菓子屋さん「(株)塩五」があります。観光案内所でいただいたパンフ「ぴたっと貝塚」には「口当たりよく、もちもち感があって甘さ控えめな小豆の蒸し菓子」で「貝浦の村雨にちなんで名づけられた由緒ある和菓子」だそうです。

吉村家から続く通りに戻ります。通りはその先で細い路地のような道になります。さらに南に進み、四つ辻の右前の向こうに黄色い壁のお宅がありました。そこで右折しました。南町になりました。

菊の花がきれいな名加(なか)家の邸宅です。江戸時代から大正年間(1912年~1925年)まで、貝塚の名産である黄楊(つげ)櫛の卸問屋を営んでいました。「ぴたっと貝塚」には「黄楊櫛(和泉櫛)は静電気を抑え髪や地肌にやさしく、素朴な手触りと使い込むほどになじむ質感が最高の伝統工芸品です。11世紀の発祥とされ、匠の技は代々受け継がれ生産量は日本一を誇っている」と書かれていました。 名加家の主屋は、江戸時代中期から後期にかけて建てられたもので、登録有形文化財に登録されています。

名加家から、黄色い壁のお宅のあるところに戻ります。さらに南に進みます。四つ辻の角に吉原地蔵堂があります。さらに進むと、鍋谷工務店のビルがあります。その前を右斜め前に進んで行きます。

その先に、小さい橋がありました。下を流れるのは清水川。ここが寺内町の南の境になります。この先は海塚(うみづか)三丁目です。

こちらは右(下流)側です。寺内町の防御のためにつくられた壕にあたる清水川と土塁があったところです。

その先にあった浄土宗寺院の龍雲寺です。貝塚市内で唯一の尼寺だそうです。

龍雲寺の前は「海塚(うみづか)町墓地」になっています。貝塚寺内の墓地にあった説明板には「慶安元(1648)年の『貝塚寺内絵図』の中にも記載されている。江戸中期につくられた墓石も多い」と書かれていました。

墓地内の六観音には、安永6(1756)年の銘があるそうです。

岩橋善兵衛の墓です。「案内板」には「岩崎善兵衛は、宝暦6(1756)年生まれで、レンズ磨きを営む傍ら蘭学を学ぶ。寛政5(1793)年『窺天鏡(きてんきょう)』と呼ばれる望遠鏡を制作した。伊能忠敬の日本沿海測量の時にも用いられた」と書かれていました。善兵衛の法名は「釈義天」でした。

墓地から出て、清水川の手前を右折して東に向かって歩きます。10分ぐらいで南北の通り、紀州街道にぶつかります。

紀州街道を左折して大阪方面に向かって歩きます。すぐ先のポストのそばに清水橋がありました。下には海塚町墓地の手前にあった清水川が流れていました。紀州街道が清水川にぶつかる辺りは「紀州口」と呼ばれていました。また、その周辺の現在、南町や海塚三丁目の地域は「旅籠町」と呼ばれ、旅籠が軒を並べていました。紀州和歌山藩の本陣も、このあたりに置かれていたそうです。

清水橋から見た清水川です。小さな流れになっています。

清水地蔵です。ご近所の方々が管理しておられるそうです。

今回は、寺内町の町政を担っていた卜半役所から、寺内町の北の境から南の境まで、寺内町で栄えた商工業者の邸宅の跡をたどりながら歩いてきました。前回訪ねた邸宅を含め、寺内町にあった登録有形文化財の11家をすべて訪ねることができました。
次回は、残る寺内町の面影をたどって、紀州口から歩くことにしています。






貝塚市に残る寺内町の面影を訪ねて(1)

2018年11月29日 | 日記
大阪府貝塚市は、寺内町として知られています。寺内町は、室町時代から江戸時代初期にかけて、浄土真宗などの仏教寺院や御坊(道場)を中心に形成された集落です。壕や土塁で囲まれた集落では自治が行われ、信者や商工業者が居住していました。

貝塚寺内町は、浄土真宗”願泉寺”を中心に成立、発展しました。江戸時代には、7,500人の居住者のほとんどは願泉寺の信徒だったといわれています。

これは、南海電鉄貝塚駅の観光案内所でいただいたパンフレット「願泉寺の重要文化財」にあった貝塚寺内町の地図です。この地図の北は右45度の方向にあたります。地図の薄く塗られた部分が寺内町のエリアで、地図の右(北)側を流れる北境川、左(南)側を流れる清水川、下(東)を走る南海電鉄本線、上(西)は大阪湾で囲まれていました。また、防御のために、壕とその内側に土塁を設けていました。東西550メートル、南北800メートルの広さで、以前訪ねた富田林寺内町(「寺内町の面影を訪ねて、富田林を歩く」2013年10月15日の日記)よりも小規模の寺内町でした。地図の中央を左右(南北)に走る通り(太線部)は、大坂と和歌山を結んでいた紀州街道です。中央部に枡形が設けられていました。また、地図の中央を上下(東西)に走る通りは中之町通りと呼ばれていました。現在では、この二つの通りは拡幅されていますが、それ以外の街路は、寺内町の頃とほぼ同じ形で残っているそうです。

貝塚寺内町は、願泉寺の住職であった卜半(ぼくはん)家が領主として支配していました。この日は、寺内町の宗教と政治の中心であった願泉寺を訪ねてきました。南海電鉄本線の貝塚駅の西口からスタートしました。東口には、水間鉄道の起点貝塚駅があり、水間鉄道は、水間観音駅までを15分で結んでいます(「水間鉄道水間観音駅を訪ねる」2018年9月28日の日記)。貝塚駅から南海電鉄の線路に沿って、北方向(岸和田方面)に向かって進みます。

その先にあった石柱です。「従是東西海塚領」と刻まれています。貝塚は南郡麻生郷海塚村に属していました。裏側には「明治参拾年参月」とありました。この南海電鉄に沿ったあたりが寺内町の東西の境界であることを示しています。

南海本線の蛸地蔵7号踏切の三差路を左折して、貝塚港に向かう西町海塚麻生中線(「中之町通り」通称「なかんちょ通り」と呼ばれていたそうです)に入ります。

すぐ右側に感田(かんだ)神社がありました。神社にあった「説明」によれば、「感田瓦大明神と称し、貝塚市内の産土神(うぶすなかみ)で天照大神等三柱を祭神とする。創建は明らかではないが、慶安元(1648)年社殿が再建されたとき、宗福寺の住職が祭祀を担った」ということです。感田神社には、かつて貝塚寺内町の周囲に設けられていた壕の名残があると聞いていました。

感田神社の南門です。明治22(1889)年の建立だといわれています。

南門を入りまっすぐ進むと参集殿です。その手前に、壕と説明板がありました。貝塚寺内町に壕がつくられたのは慶長18(1613)年。徳川家康によって3間幅の周壕が掘られたときでした。

説明板にあった絵図です。寺内町の最古の慶安元(1648)年の絵図です。絵図の左下隅が北にあたります。感田神社は絵図の中央の最上部(東の端)にあります。

拡大図です。中央の四角の部分が感田神社です。周囲を壕で囲まれています。感田神社の左の壕の中に★のマークが見えます。

壕は参集殿の前に残っていました。参集殿に渡る橋から撮影しました。この壕が、上の絵図の★のマークがあるところでした。壕の両岸には石垣が築かれていました。

参拝者にわかりやすいように整備をしたのでしょう、「説明」によれば、右岸と左岸で石垣の築き方が異なっているそうです。こちらは、和歌山側の石垣で、江戸時代の布積みという積み方で積み上げられています。

こちらは、大阪側の石垣です。明治時代以降の積み方である谷積みで積み上げられています。

北側にある神門から出て、振り返って撮影しました。「説明」には、「安永9(1780)年、大工種子島源右衛門によって建てられた。海の日の前日の日曜日に行われる例祭には御輿渡御(みこしとぎょ)が行われ、7台の太鼓台が担ぎ出される」と書かれていました。感田神社は長い歴史を誇る神社らしく、神門、南門、参集殿など多くの建築物が登録有形文化財に登録されています。

西町海塚麻生中線(中之町通り)に戻ります。お好み焼きの看板の先を右折して石畳の通りに入ります。左側に「貝塚寺内町」と刻まれた石柱がありました。ここは”御坊前通り”、願泉寺の前の通りです。

左側に、浄土真宗の寺院、金涼山願泉寺がありました。貝塚寺内町は、願泉寺の卜半家を中心に成立、発展しました。願泉寺の起源は、行基が建てたと伝えられる庵寺だといわれています。天文14(1545)年に根来寺から卜半斎(ぼくはんさい)了珍を招き、5年後に庵寺を貝塚御堂として再興。そして、天文24(1555)年には石山本願寺の下で寺内町として取り立てられました。しかし、天正5(1577)年、織田信長の雑賀攻めのとき、貝塚寺内町は全焼していまいます。その後、徳川家康の認可を得て、貝塚寺内町は、慶長5(1600)年、卜半家の私領となりました。そして、貝塚御坊が願泉寺という寺号になったのは、慶長12(1607)年に、西本願寺の准如から「願泉寺」の寺号を授けられたときでした。慶長15(1610)に、徳川家康から寺内町の支配を認められてからは、卜半家は、江戸時代を通して、願泉寺の住職として、また、領主として貝塚寺内町を支配することになりました。

願泉寺付近のマップです。願泉寺の本堂の裏には、現在貝塚市立北小学校がありますが、かつては、ここに、寺内町を支配した卜半家の役所が置かれていました。そこでは、「寺僧」と呼ばれた満泉寺、正福寺、泉光寺、要眼寺、真行寺(今はありません)の五ヶ寺が、願泉寺の檀家を預かるとともに、卜半家の家来として、寺内町の町政を担っていました。小学校の前の通りは”御下筋(おしたすじ)”と呼ばれていました。

願泉寺の表門と築地塀(ついじべい)です。表門は江戸時代の延宝年間(1673~81)に建立された大型の四脚門です。また、寛文11(1671)年に建てられた築地塀には、壁面の定規筋(じょうぎすじ)が5本。寺院の最高位を表しています。表門は国の重要文化財に指定されています。

願泉寺の表門にあった龍の彫刻です。元禄3(1690)年に製作されたものです。

願泉寺の境内に入ります。表門の先につくられていた3間の目隠塀です。表門から本堂や本尊が直接見えないようにするため設けられています。

国の重要文化財に指定されている願泉寺の本堂です。寛文3(1663)年貝塚寺内町や近隣の村の人々からの寄進によって再建されました。前年に起きた地震によって被害を受けたため、三ツ松村(現在の貝塚市三ツ松)出身の大工で江戸にいた岸上和泉守貞由(きしがみいずみのかみさだよし)を棟梁に、再建されたといわれています。

国の重要文化財である表門と本堂は、平成17(2005)年から5年掛けて、大規模な半解体修理(平成の大修理)を行っています。本瓦葺きの本堂の屋根には、「願泉寺」の銘の入った瓦が使われていました。

享保4(1719)年に再建された太鼓堂です。2間4方の上層の真ん中には、文字通り仏事などに使用される巨大な太鼓が備えられています。下層は3間四方で北側に出入口が設けられています。この建物も、国の重要文化財に指定されていますが、平成10(1998)年に台風の被害を受けたため、平成の大修理の前に1年間にわたって修理工事が行われました。

昭和20(1945)年8月10日の貝塚空襲で鐘楼を焼失したため、昭和23(1948)年に、貝塚市森の稲荷神社の境内にあった鐘楼(別当の青松寺のもの)を移築したそうです。江戸時代の元禄15(1702)年に建築されたものでした。中に掛かっている銅鐘は、鎌倉時代の貞応3(1224)年に鋳造され、大和国大福寺(北葛城郡広陵町)にあったもの。天正13(1585)年に水間寺を経て願泉寺に移ってきたそうです。

願泉寺から出て、御坊前通りに出ました。願泉寺の向かいにあった特留山正福寺とそれに続く寂静山満泉寺です。どちらも、寺僧として卜半家を支えた寺院でした。正福寺は天正11(1583)年この地に移転して来て、寛永7(1630)年から寺号を正福寺と改めました。浄土真宗本願寺派の寺院です。

満泉寺です。こちらも、寺僧として卜半家家の町政を担っていた寺院です。天正13(1585)年貝塚に移り、慶長18(1613)年に本願寺から寺号を与えられ満泉寺と改めました。浄土真宗大谷派の寺院です。

見えにくいのですが、満泉寺の掲示板にあったメッセージです。「あんまりがんばらないで でも へこたれないで」亡くなられた女優、樹木希林さんの言葉が掲示されていました。

御坊前通りを北に向かって歩きます。満泉寺の先にあった二位山尊光寺です。浄土真宗本願寺派の寺院です。もとは、真言宗の寺院でしたが、室町時代の明応2(1493)年に浄土真宗に改宗し、その後、天正16(1588)年にこの地に移ってきました。現在の本堂は享保8(1723)年に再建されたものです。

尊光寺の境内にあるカイヅカイブキです。境内にあった「説明」には「移転当時からの老樹である」と書かれていました。だとすると樹齢400年を超えていることになります。樹高8メートル、地上2メートルのところで大きく3枝に分かれているのが特徴だそうです。
貝塚市といえば、縄文時代人の遺跡であった貝塚から命名されたのではないかと思ってしまいますが、貝塚市の市域では、これまで貝塚の遺跡は発見されていないそうです。もともと「海塚(かいづか)」と呼ばれていたのが、天正16(1588)年に寺内町になってから「貝塚」の字が使われるようになったそうです。これは、古文書の記録から証明されているそうです。また、現在でも、寺内町を除く旧村は「海塚(うみづか)」と記述されています。なぜ、「貝塚」になったのか確証のある説はないそうです。
このカイヅカイブキの老樹を見ていると、貝塚の地名に何らかのかかわりがあるのではないかと思ってしまいます。

これは、願泉寺前から見た尊光寺の全景です。写真の手前側には、満泉寺と正福寺があります。卜半家を支えた寺僧の他の3ヶ寺はどこにあったのでしょうか。冒頭のマップには、泉光寺は東の感田神社との間に、また、要眼寺は中之町通りを隔てた南側にそれぞれ名前がありました。今はない真行寺はどこにあったのでしょうか。尊光寺の手前にある満泉寺との間にあったスペースが、かつて真行寺があったところのようです。泉光寺を訪ねることにしました。

中之町通りに出ます、感田神社に向かって引き返し、「お好み焼き」の看板がある通りに入ります。

左側にある正福寺、満泉寺の裏を抜けると、前方左に尊光寺が見えました。その手前、右側に、めざす清泰山泉光寺がありました。

御坊前通りに戻ります。尊光寺の前から通りの幅が狭くなった”御坊前通り”をさらに北に進みます。その先に東西の通り(堀之町筋)がありました。その手前に広い間口のお宅がありました。

天保3(1832)年に建設された並河家です。並河家は卜半家の家来で、代々要職を務めて来た家柄です。一見商家のような外観ですが、内部には式台のある玄関があるなど、武家の住宅になっているそうです。

その先で堀之町筋(堀之町通)にぶつかります。左折して大阪湾方面に向かって進みます。通りは途中から、利齋坂(りさいざか)と呼ばれる急な下り坂になっています。

右側にあった山田家です。このお宅は卜半家の家来をつとめていた家柄で、江戸時代末期のからは古美術商を営んでいました。主家は19世紀末ごろに建てられたもので、国の登録有形文化財に登録されています。

やがて、左側にある北小学校に沿って歩くようになりました。

”利齋坂”の途中にあった竹本(久男)家です。貝塚の特産品である黄楊(つげ)櫛の製造業を営んでいました。建物は建築年代の異なる東西の2棟からなっています。手前(東)側の建物は、江戸時代に建設された間口2間半の小規模の町屋。下(西)側の建物は昭和7(1932)年頃の建築とされています。国の登録有形文化財に登録されています。

”利齋坂”を下ったところの右側にあった利齋(りさい)家です。天正5(1577)年の織田信長の雑賀攻めの時に貝塚に移ってきたといわれ、代々「孫左衛門」を名乗り薬種問屋を営み、北之町の町年寄も務めて来ました。17世紀の建築で、貝塚で最も古い町家だといわれています。利齋家も国の登録有形文化財に登録されています。

利齋家の角で左折して”御下筋”を南に向かいます。北小学校の正門付近に来ました。正門が卜半役所の表門があった位置にあたるそうです。

玄関から校内を撮影させていただきました。正門から校内に入って校舎を抜けると卜半役所跡の石垣が残る段丘があります。先ほど下ってきた堀之内筋の急坂も段丘部分にあたります。段丘には石段が設けられ、段丘上のグランドに行くことができます。江戸時代には、この石段の上に中門があり、グランドから願泉寺の本堂の後ろまで卜半役所の建物が建ち並んでいたといわれています。


寺内町貝塚を訪ねる旅の1回目として、寺内町の支配者であった卜半家に因む地域を訪ねて来ました。
次回は、寺内町に残るかつての面影を訪ねることにしています。


桃観トンネルの入口にある”秘境駅”、JR久谷駅

2018年11月18日 | 日記

JR山陰本線の久谷(くたに)駅です。牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”の151位(2018年)にランクインしています。兵庫県北西部のJR山陰線では4つの駅がランクインしています。鳥取駅側から居組(いぐみ)駅(119位)、久谷駅(115位)、餘部(あまるべ)駅(125位)、鎧(よろい)駅(159位)の4つの駅です。この中で、餘部駅は、昨年訪ねて来ました(「JR山陰本線の”秘境駅”、餘部駅」2017年1月14日の日記)。

これはJR居組駅の駅舎です。建築から100年以上経過した木造駅舎の建て替えに向けた動きが始まるということで、先日訪ねてきました(「”秘境駅”の木造駅舎がなくなる!JR居組駅」2018年11月7日の日記)。

鎧駅の駅舎です。この駅も、先日訪ねて来ました。美しい風景のため、映画のロケ地としても知られている駅でした(「美しい風景とインクライン跡に会える”秘境駅”、JR鎧駅」2018年11月5日の日記)。

この日は、残っているJR久谷駅を訪ねるため、鳥取駅に向かいました。キハ47系車両の2両編成、ワンマン運転の気動車に乗車しました。

鳥取駅から1時間余、列車は進行方向右側にある1面1線のホームに入ります。久谷駅に到着しました。兵庫駅北西部の4つの秘境駅のうち、餘部駅、鎧駅は美しい海岸の風景の中にある駅でしたが、久谷駅は、居組駅と同じような雰囲気をもつ山間の駅でした。他に乗降客はおらず、すぐに、列車は、次の餘部駅をめざし、ホームの先にある桃観トンネルに向かって出発して行きました。

久谷駅は、兵庫県北西部の美方郡新温泉町久谷にあります。浜坂駅から6.1km、次の餘部駅まで4.6kmのところにあります。久谷駅は明治45(1912)年3月1日、国有鉄道山陰本線の香住(かすみ)駅・浜坂駅間が延伸開業し、京都駅と出雲今市駅(現出雲市駅)の間が全通したときに、開業しました。

到着したホームにあった待合室です。ベンチが置いてあるだけでしたが、改修されてから余り時間が経過していないような印象を受けました。

待合室に掲示されていることが多い時刻表と運賃表は、ここではホームに設置されていました。久谷駅は、他の3つの秘境駅とともに、平成24(2012)年3月17日のダイヤ改正から、一部列車が通過する駅になっています。

これは、餘部駅側から浜坂駅方向に向かって撮影したものです。下車したホームの向かいに駅舎が見えました。
現在は1面1線の棒状駅になっていますが、形状からわかるように、かつては2面2線の駅でした。駅舎寄りの1番線に餘部駅方面行きの列車が、現在使用されている2番線に浜坂方面行きの列車が停車していました。平成20(2008)年に2番線ホームは使用停止となり、1番線だけが使われるようになりました。

その後、平成24(2012)年に一部列車が通過するようになって、棒状化の工事が行われ、使用停止になっていた2番線ホームをすべての列車が使用するようになりました。現在では、使用されなくなった1番線のレールは撤去されています。
写真はホームから見た駅舎です。ドアも窓も閉鎖され、駅舎というより倉庫といった雰囲気です。現在の駅舎は、昭和57(1982)年に、開業以来の木造駅舎に替わって建てられたものです。白い駅舎とホームの上屋を支える白い柱が印象的です。 

しかし、今では、駅舎側ホームは駅名標も撤去され、駅前の広場も使用禁止になっており、駅らしいものは残っていない状況です。 これは、下車したホームの浜坂駅寄りから撮影した駅舎側のホームです。構内踏切の名残のようです。

その近くのホームの側面にあった「停車場中心193K380M」と書かれていました。現在の営業キロ(191.8km)よりやや長いのですが、京都駅からの距離を示しているようです。

久谷駅は標高51.9mの山の中腹に設置されています。到着したホームの裏にはもう一つ山塊が広がっており、集落は、二つの山塊に挟まれた谷筋に並んでいます。”秘境駅ランキング”の主宰者、牛山氏の評価では、久谷駅は秘境度2ポイント(P)、雰囲気1P、列車到達難易度9P、外部到達難易度1P、鉄道遺産指数1P(総合14P)となっています。駅が秘境駅の雰囲気をもっていること、列車で訪ねるのに困難ということによって、ランクインしているようです。

こちらは浜坂駅方面です。集落に下りていくことにしました。到着したホームから集落に向かう道は、安全への配慮からか、柵で囲まれています。

下りていく途中にあった墓地の下方に、かなりまとまった集落が見えました。

墓地からさらに下り、左折して進むと集落を抜ける通りにぶつかります。久谷地区には73世帯、人口200人(平成27年)の方が居住されています。

通りを右折して下ります。右側にあった「久谷民俗芸能伝承館」です。

その先の左側に駐在所がありました。左折して進みます。正面に赤い釉薬瓦の立派な住宅があります。

駐在所の先に「但馬久谷菖蒲綱引 重要無形民俗文化財 国指定 記念」と刻まれた石碑がありました。

駐在所付近の橋を渡って、来た道を引き返します。右に向かう道との分岐点に説明板がありました。先ほどの石碑にあった「菖蒲綱引」の説明でした。端午の節句の行事として、江戸時代に始まった「菖蒲綱引」は、屋根に上げた菖蒲よもぎを縫い込んだ三組みの綱(全長40m・直径30cm)を、大人組と子ども組に分かれて7回引き合い、大人組が勝つと豊作になるというものだそうです。「久谷民俗芸能伝承館」も菖蒲綱引にかかわる施設だと思われます。この菖蒲綱引は、「年占いや地区の発展を祈って行われ、日本海沿岸地域に分布している五月節句の綱引行事の典型例」として、平成元(1989)年に、国の「重要無形民俗文化財」に指定されています。

先ほど、駅から下りてきた道との合流点です。このあたりから緩やかな上りになりました。

その先で、国道178号に合流します。正面に久谷八幡神社がありました。応永21(1414)年から現在の地に鎮守している由緒ある神社で「久斗の庄の一の宮」ともいわれています。毎年の例祭日に奉納されるざんざか踊りで知られています。また、本殿脇にはスダジイの古木など貴重な樹木が茂っているそうです。

左側に薬師堂を見ながら坂を上っていきます。

薬師堂付近から、左側の山を見上げると、久谷駅のホームと駅舎が見えました。

国道178号は、その先で、桃観(とうかん)峠を桃観(とうかん)トンネルで抜けて豊岡方面に向かいます。道路標識付近で左折します。久谷駅に到る兵庫県道261号を進みます。

その先にあった久谷踏切です。左側の広場は駐車場。その先は、ホームにつながる道が続いています。そして、右側、餘部駅方面には桃観トンネルがありました。

桃観トンネルです。全長1992m。山陰本線で2番目に長いトンネルです。脇にあった説明には「この先の峠は、『峠を越えれば股(もも)の痛み甚だし』ということで『股(もも)うずき峠』と呼ばれていました。鉄道の建設でいい名を付けようということになり『股(もも)』から『桃見峠』となり、さらに「桃観峠」と名づけられた」と書かれていました。また、ここからは見ることはできませんが、こちら側(西側)の入口は、「馬蹄形で、建設当時の美しい石積みを残している」そうです。桃観トンネルは、明治44(1911)年のトンネル開通当時には全長1841mで、山陰本線の最長トンネルでした。しかも、ここから15.2パーミルの急勾配で標高80mまで上って桃観峠を越えることになっていました。「西側のトンネルの入口には、建設当時の鉄道院総裁、後藤新平の直筆による『萬方惟慶(すべての人がこれを慶ぶ)』と書かれた石額がついています。ちなみに、東側(向こう側)には同じ後藤新平の『惟徳罔小(この徳は小さくない)』という石額がついてい」るそうです。大変な難工事の末に開通した最長トンネルに寄せた、関係者の慶びが表れています。

しかし、運行は大変だったようです。長い急勾配のトンネルの中で、蒸気機関車に牽引された列車が止まると窒息事故につながるとして、上り勾配のトンネル入口の直前にある久谷駅では、十分な蒸気を溜めてからトンネルに挑んでいたそうです。また、全長1841mで開通したトンネルが、現在1992mになっているのは、開通後の大正7(1918)年、山陰本線の沿線で大雨が降ったとき、トンネルの東側を流れる西川が氾濫し、これが桃観トンネルに流れ込み、トンネルの西側の久谷の集落にも大きな被害を与えたため、トンネルの東口を上り勾配にして、50m余り延長して改修したためでした。

このとき、浜坂行きの普通列車がトンネルを抜けて来ました。建設当時、山陰本線の最長トンネルだった桃観トンネルは、その後、昭和8(1933)年に、山口県の須佐(すさ)駅と宇田郷(うだごう)駅間に大刈(おおかり)トンネル(全長2214.7m)が開通したため、現在では山陰本線で2番目に長いトンネルになっています。

久谷踏切を渡って進みます。線路と並行に進み、駅舎跡に向かって行く道になります。写真は、途中にあった唯一の民家です。

広い駅前広場に着きました。駅舎は物置になっていました。久谷踏切に戻りました。

久谷踏切の脇の駐車場です。そこから、現在のホームに向かう通路が設けられています。安全のためでしょう、両側に柵が設けられていました。

餘部駅に始まり、鎧駅、居組駅、そして久谷駅と、兵庫県西北部にあるJR山陰本線の”秘境駅”を訪ねて来ました。
最後に訪ねることになった久谷駅でしたが、最も印象に残ったのは、久谷駅以上に、開通当時、山陰本線の最長トンネルだった桃観トンネルでした。また、久谷地区に住む人たちが守り伝えて来た菖蒲綱引や、八幡神社のざんざか踊りなど、豊かな民俗文化も心に残りました。











北前船の係留杭が残る港、居組漁港を歩く

2018年11月12日 | 日記

波静かな漁港の一角に、石の杭が建っています。これは、江戸時代に、汐待ちのため停泊していた北前船の係留のためにつかわれた杭、係留杭(けいりゅうくい)だといわれています。

兵庫県の西北部、居組漁港を見下ろす魚見台公園から見た係留杭が残っている付近の風景です。中央部に突きだした突堤の向こうに、不動山(左)と亀山(右)が見えます。江戸時代、この二つの山、不動山と亀山の間は船溜まりなっており、二つの山の海面付近に係留杭がつくられていました。

これは、不動山の海岸にある係留杭です。波静かな海岸に残っています。
牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”の119位にランクインしている、”秘境駅”JR居組駅を訪ねた日(「”秘境駅”の木造駅舎がなくなる! JR居組駅」2018年11月11日の日記)、居組駅から居組漁港に向かって歩きました。

”秘境駅”の雰囲気を色濃く残すJR居組駅です。

これは、駅舎内にあった居組集落の「見所・案内図」(以下「案内図」)です。この案内を参考にして、地図の左上の「至JR居組駅」から、居組の集落や居組漁港を歩くことにしました。

居組駅前から右に曲がって下っていきます。すぐに、大阪川にかかる居組橋を渡って、山沿いの道をまっすぐに進んで行きます。

東浜・居組道路のアンダークロスをくぐります。道は、その先で三差路になります。左側に向かって進むと、寺院がありました。

虎嶽山龍雲寺です。慶長元(1596)年に創建された曹洞宗の寺院です。山門前に掲示されていた案内板によれば、「寛政12(1800)年と明治21(1888)年の二度焼失した」そうです。

龍雲寺の本堂です。現在の本堂は「文化11(1814)年に鳥取藩主池田家の菩提寺として再建された興禅寺本堂を、焼失後の明治21(1888)年に移築したもの」(案内板)だそうです。

左側から見た本堂です。鬼瓦の下の懸魚(げぎょ)には、徳川家の家紋の「三つ葉葵」(鳥取藩主池田家が徳川家と姻戚関係にあったため)が見えます。その下の蟇股(かえるまた)には池田家の家紋「揚羽蝶」が彫刻されています。また、かつては、揚羽蝶の家紋が入った鬼瓦も屋根に敷かれていたといわれています。鳥取藩主池田家の菩提寺であったことを示しています。

山門の左側にあった石碑です。「鉄道工事遭難病没追悼碑」(裏面には「明治辛亥年三月建立」)と刻まれていました。「明治辛亥年」は明治44(1911)年、居組駅が開業したのも明治44(1911)年でした。国有鉄道山陰本線の建設工事に従事して、遭難や病気で亡くなられた人々への追悼碑でした。地元の人々の居組駅の開業に対する思いが伝わって来ます。

その先、緩い右カーブがあります。カーブの先で、居組の集落に入ります。

その先、右側に「西谷商店」の看板のあるお店、左側に黒い下見板張りの壁のお宅がありました。その前の四つ角を左折して、海の方に向かって歩きます。

左折した後、すぐに、左側のお宅に、赤いレンガ塀がありました。駅にあった「案内図」には、「明治末期、山陰本線のトンネル工事に従事した人々が、お世話になったお礼として建てたレンガ塀」だと書かれています。

レンガの表面です。案内図によれば、「長手のレンガと小口のレンガが順に積まれるフランス積み」でつくられているそうです。山陰本線の工事から、100年以上が経過した現在も頑丈にそびえています。

レンガ塀のあるお宅から、さらに先に進みます。左右の通りと交差します。まっすぐ通りを越えて進むと、居組漁港や居組サンビーチ(海水浴場)に向かいます。右は、漁港の裏を進む道になります。

左折して、県境を越えて鳥取県に向かう「七坂八峠(ななさかやとうげ)」とよばれるつづら折りの道を進みます。この先にある、居組漁港を見下ろす魚見台展望所をめざして歩きます。

つづら折りの登り坂を歩きます。大漁旗がたなびく一角がありました。幟には「八代龍王大神祭」と書かれていました。八代龍王大神を祀る龍神堂です。この日は祭礼の日だったようです。漁に携わる人々がお堂の中に集まっておられました。お堂の裏から居組漁港を眺めるつもりでしたが、樹木がじゃまをして眺望が今ひとつでした。

展望台のある魚見台公園まで上りました。

海水浴場「居組サンビーチ」の美しい風景が目に入ってきました。

「案内図」には「らくだのこぶのように浮かぶ2つの小島」と書かれています。手前から延びる突堤の先にある不動山(左)と亀山(右)です。居組漁港は、北前線の汐待ちの港として賑わってきたところです。冒頭に書いた係留杭はこの二つの山の間の海岸付近にあります。兵庫県から鳥取県にかけては、このような断層地形がよく見られます。それにしても、箱庭のように美しい風景です。上がってきた甲斐がありました。

来た道を下ります。途中で見た居組の集落です。「居組の地名は『入り組んだ土地』が由来だとも言われ、集落に入ると民家がところ狭しと軒を連ねる」と「案内図」には書かれていました。先ほどレンガの塀から来た道に戻りました。

そこから、左折して漁港の中に入ります。入口にあった「漁港修築記念碑」です。昭和45(1970)年に、それまで、遠浅の砂浜が広がる海水浴場であったところを、漁港に改修しました。

そして、石碑からまっすぐ海に向かったところの大戸の浜に、海水浴場”居組サンビーチ”が開かれました。居組の町は「夏は海水浴、冬は松葉ガニ」で知られて来ました。

居組サンビーチの近くの突堤に停泊していたイカ釣り漁船です。引き返します。

ここが、かつて海水浴場のビーチがあったところにできた漁業協同組合の作業場です。建物の後ろ側を、亀山めざして歩きます。
「案内図」には、「亀山には城跡が残っている」と書かれています。そんな雰囲気を感じる山です。

作業場の建物を越えたところから見た漁港の風景です。不動山が目の前に見えます。「案内図」によれば、「177種以上の植物が自生する」といわれ、「88体の石仏が祀られている」そうです。

海に注ぐ直前の結川(むすぶかわ)に架かる橋を渡って、亀山に向かって進みます。

海の中から設置されたレールが見えました。先日訪ねた、JR鎧駅(「美しい風景とインクラインに会える”秘境駅”JR鎧駅」2018年11月日の日記)にあった「インクラインか?」と思いました。漁船を上に乗せて引き上げる設備なのでしょうか? 

レールの向こう、亀山の麓のあたりまで連なる漁船の近くを歩いて行きます。「立入禁止」の立て札もなかったので、おじゃまにならないように歩かせていただきました。

ここは、亀山付近のようすです。杭だけでなく、平らになった桟橋のようなところもありました。北前船は、江戸時代の寛永年間(1624~1644年)から、日本海沿岸の各地から瀬戸内海を経て大坂に至る海運に就航していました。毎年、7月下旬に蝦夷地を出発し、8~10月にかけて、寄港地で商品の売買をしながら南下し、11月上旬に大坂に着いていたようです。そして、翌年の3月下旬に大坂を出帆し、4~5月に、瀬戸内海から日本海にかけて売買しながら北上し、5月下旬ころ蝦夷地に到着していたようです。

亀山の係留杭があるところから対岸の不動山方面を撮影しました。そこにも、係留杭が残っています。かつては、船溜まりとしてたくさんの北前船が汐待ちをしていました。北前船は、輸送だけをしたのではなく、経由地で商品を売ったり、仕入れたりして、売買をしながら航海を続けていました。大坂に向かう「上り荷」では、肥料になる干鰯などの海産物が主な商品になっていました。北国に向かう「下り荷」は、米、酒、砂糖、塩、たばこ、紙、ろうそくなど多種多様な商品が売買されていたそうです。

結川まで引き返してきました。ここから、居組の集落を歩きます。途中で、女性の方と出会いました。一通りお話したあと、最後に「時間は大丈夫? 駅まで送るよ」、「お腹空いてない? 昼食べていっていいよ!」。「漁村に住んでおられる方は、お互いに助け合うおつきあいだ」とお聞きしたことがあります。「こういうおつきあいを、平素からしておられるのだ。」と思いながら、お礼だけ申し上げてお別れしました。

前方で、道路が大きく右カーブします。この先には、学校再編で廃校になった居組小学校跡。そのグランド脇に、居組の人々の鎮守の神である大歳(おおとし)神社があります。ここは、カーブする手前にあった水門橋です。ここで右折して、再度、居組の集落に入ります。

5mぐらいで福周旅館。その先、左側に西垣商店という看板が掛かったお店がありました。その手前を右折して進みます。

すぐに、もう一つの赤レンガ塀のあるお宅がありました。山陰本線のトンネル工事に従事した人たちが、お世話になった地元の人々へのお礼にと建てたものでした。
  
細い路地の両側に民家が並ぶ入り組んだ通りが続いています。居組の地名のもとになった風景が広がっていました。

”秘境駅”、居組駅から、居組漁港と居組の集落を歩いてきました。居組漁港は、青い空に青い海、箱庭のような風景が広がる美しい町でした。江戸時代を通して行われた、汐待ちをする北前船の人たちとの交流を、今も残る係留杭が伝えてくれています。
また、町の人々が、山陰本線の工事に従事し犠牲になった人たちのために建てた「追悼碑」や、工事に従事した人たちが、お世話になった地元の人々のために建てた「赤レンガの塀」からは、山陰本線の建設を仲立ちとした、人々の豊かな交流のようすもしのぶことができました。













"秘境駅"の木造駅舎がなくなる! JR居組駅

2018年11月07日 | 日記
兵庫県の西北部のJR山陰本線には、牛山隆信氏が主宰する”秘境駅ランキング”にランクインしている駅が4つあります。久谷(くたに)駅と以前訪ねた餘部駅(「JR山陰本線の”秘境駅”、餘部駅」2017年1月14日の日記)、前回訪ねた鎧(よろい)駅、そして、今回訪ねる居組(いぐみ)駅です。10月下旬、「居組駅が老朽化により建て替えられることになり、11月中旬には工事の準備で(駅舎に)覆いがかかることになる」という趣旨の報道がありました。

木造平屋建て、駅前に庭園がある居組駅の駅舎です。 居組駅は、明治44(1911)、国有鉄道山陰本線の浜坂駅と岩美駅間が延伸開業したときに、開業しました。駅舎は、明治44(1911)年に建設され、補修をしながら1世紀以上に渡って働き続けてきました。無くなってしまう前にぜひ見ておきたいと、この日、先に訪ねた鎧駅(「美しい風景とインクライン跡に会える”秘境駅”、JR鎧駅」2018年11月05日の日記)から居組駅に向かって出発しました。

乗車してきたキハ47系車両の2両編成、ワンマン運転の列車は、居組トンネルを抜けて居組駅の1面1線のホームに停車しました。鎧駅から、浜坂駅での「信号待ち」による10分程度の待ち時間を含めて40分程度かかりました。他には乗降客はおられず、列車は、すぐに次の東浜駅に向かって出発して行きました。

列車が去った後の東浜駅方面です。鳥取県境にある陸上(くがみ)トンネル(全長977m)が見えます。居組駅は、居組トンネルと陸上トンネルの間の、周囲を山に囲まれた狭い平地にある駅です。そして、兵庫県の山陰本線の最北西端にある駅になっています。

居組駅は、兵庫県美方郡新温泉町居組にあります。手前の諸寄(もろよせ)駅から4.4km、次の鳥取県東浜駅から3.3kmのところにありました。居組駅は、”秘境駅ランキング”の119位(2018年)にランクインしています。主宰されている牛山隆信氏は、秘境度4ポイント(P)、雰囲気5P、列車到達難易度5P、外部到達難易度3P、鉄道遺産指数2Pの総合19Pと評価されています。特に、「雰囲気5P」とされているとおり、”秘境駅”の雰囲気を強く感じる駅でした。牛山氏は、2000年頃の居組駅について、「周囲に見える人家は3軒に過ぎず、集落から細い車道を600mほど上がったところにある。だが、そんな小駅に似つかわしくない瓦葺屋根の立派な駅舎、交換設備と側線を備えた広い構内、さらに駅前には池をあしらった洒落た純日本風の箱庭が、鉄道全盛期の栄華を物語っていた」というコメントを寄せておられました。

こちらは、陸上トンネル側から見たホームです。線路の右側にスペースがあります。見えにくいのですが、かつては島式ホーム(今も残っています)の両側に線路がある、2面3線のホームになっていました。列車のすれ違いや追い越しのための停車に、また、最寄りの海水浴場に向かう乗客のための臨時列車の停車にも対応していたようです。また、2つのホームは跨線橋でつながっていました。平成20(2008)年、島式ホームと跨線橋が閉鎖され1面1線の運用になりました。そして、平成25(2013)年には、跨線橋も撤去されています。

駅舎に接するホームから見た右側のようすです。草むらの中にレールが残っていました。2線目のホームは撤去されていましたので、島式ホームの右側のレールなのかもしれません。

駅舎よりさらに先に、かつての島式ホームが残っていました。その手前のレールは撤去されています。雑草に覆われているのが残念でした。

駅舎とホームの上屋です。建設から1世紀を超えた建物です。

こちらは、諸寄駅方面のようすです。駅舎に接したホームの脇の引き込み線には、保線工事用車両が停車していました。冬場には、ここを除雪用の車両が使用しているそうです。また、昭和46(1971)年に居組駅での貨物の取扱いが終了するまでは、貨物列車が引き込み線を使用していたそうです。

引き込み線に停車していた保線工事車両です。側面に、”Plassere & Theurer (プラッサー アンド トイラー) ”と書かれていました。オーストリアの保線工事用重機のメーカーが製造した車両です。様々な機能を持つ車両が、世界の100ヶ国以上で使用されているそうです。

駅舎側です。駅舎の手前に、木造駅舎とは不釣り合いな、新しい待合室のような構造物が置かれていました。

駅舎の上屋を支えている一番手前の木製の柱です。

柱の上方に貼ってあった建物財産標です。「旅客上屋2号 明治44年3月」と記されています。

上屋や壁面だけでなく、木製の窓枠が使われた駅舎の窓とその先にある木製の改札口の一部も、往事の姿を伝えています。写真の一番右端に、柱に貼られているプレートが見えます。

貼られていたプレートがこれです。本屋の建物財産標と本屋の屋根管理表です。本屋にも「明治44年3月」と記されています。また、本屋の屋根については、平成13(2001)年に改修されたことが記されています。牛山隆信氏は、明治時代につくられた駅舎について、「一見すると同じような木造駅舎でも、昭和中期までに建てられたものと、明治・大正のそれとは造りが微妙に異なっている。明治時代の駅舎には、神社・仏閣で培った独自の文化と技術を随所に取り入れており、小さな装飾の一つ一つから、職人の意地と頑固さが伝わってくる」という感想を寄せておられます。この駅の長い長い歴史を感じることができました。

木製の改札口から駅舎に入ります。

駅舎内です。かつての駅舎でよく見かけた、つくり付けのベンチがありました。

つくり付けのベンチの反対側です。ベンチと掲示物があります。それ以外には、自動券売機など特別の設備もないシンプルな造りの駅になっていました。ただ、カウンターも残っていましたが、人の手で使い込まれテカテカ光っているものではありませんでした。

駅舎内にあった時刻表です。かつては、多くの地元の人たちが通勤・通学に使っていたようですが、平成24(2012)年3月17日のダイヤ改正からは、一部列車が通過するようになりました。現在は、早朝と12時台に各1本、夜間に2本、計4本の普通列車が居組駅を通過しています。1日平均の乗車人員は、11人(2016年)という状況です。

一番気になっていたのが、この掲示物「お知らせ」です。11月10日から、いよいよ、老朽化対策として、駅舎の建て替えに向けた動きが始まります。駅舎は鉄筋コンクリート造りになり、待合室を備え、ベンチや電子表示板が設置されるようになる予定です。

新しい駅舎が完成するまでは、駅舎の脇に置かれていた構造物が、待合室として使われるようになるそうです。

駅舎から出ます。手書きの駅名標です。これは、今後どうなるのでしょうか? どこかに残してほしいと願っている人も多いのではないでしょうか? 

駅前広場から見た居組駅です。兵庫県の北西端の山深いところという周囲の雰囲気に溶け込んでいるようにも感じます。駅舎前の両側に設けられている庭園の緑が印象的です。中には小さな池や石灯籠も(今は、水はなく、石灯籠も破損していましたが)、つくられていました。また、樹木の手入れも丁寧になされていました。
地元の人たちの要望によって、駅舎が建て替えられても、この庭園は残されることになっています。

駅前はさほど広くはないのですが、かつて、貨物用の倉庫が置かれていたのか、引き込み線の脇には広い更地が残っています。駅舎の建て替えのときに、幅広く利用されることでしょう。

駅舎に向かうただ一つの道路から、駅舎方面を撮影しました。麓の集落から坂道を上がった先に駅舎がありました。この道を反対方向に向かってまっすぐ進むと、居組漁港に行くことができます。なお、珍しい「居組」という駅名(地名)については、駅舎内の掲示物には、「『入り組んだ土地』が地名の由来ともいわれ」、少し離れた海岸沿いの「集落に入ると、民家が所狭しと軒を連ね」ていると書かれていました。

駅舎の右側の白い建物の右側のスペースには、かつて、トイレの設備がある建物がありました。今は、駅舎にトイレは設置されていませんでした。

「1世紀を超えて、多くの乗客に親しまれてきた居組駅舎が建て替えられる」というニュースを見て、その姿を見ようとやってきました。 ”秘境駅”のイメージ通りの駅であったことが、とてもうれしいことでした。
牛山氏のご指摘のように、職人の意地や技術が込められている明治時代の駅舎には、一日でも長く現役でいてほしいと、改めて思った旅でした。
長い期間、この地を見守って来た古い駅舎が無くなるのは、地元の人たちにとっても寂しいことだと思います。そんな地元の人たちの思いに応えるような駅をつくってほしいと思っています。どんな駅ができるのか、新しい駅舎が完成したら、また訪ねてみようと思っています。







美しい風景とインクライン跡に会える”秘境駅”、JR鎧駅

2018年11月05日 | 日記

リアス式海岸にある兵庫県西北部の波静かな入り江と、鎧(よろい)漁港が見えます。JR山陰本線鎧駅の海側のホームの先から見た眼下の光景です。この雰囲気からもわかるように、鎧駅は、牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”の159位(2018年)にランクインしている”秘境駅”です。鳥取市に行く機会がありましたので、この日、足を延ばして訪ねて来ました。

鳥取駅から城崎温泉行きの普通列車に乗車しました。キハ47系車両の2両編成、ワンマン運転の列車でした。「鎧」という珍しい駅名は、「鎧袖(よろいのそで)と呼ばれる切り立った崖の名前に由来しており、その崖は、武士の鎧の袖に似た縞模様の海食崖(かいしょくがい)」(「海駅図鑑」清水浩史著 河出書房新社刊)だといわれています。

多くの乗客が餘部(あまるべ)駅で下車しました。餘部駅は以前訪ねました(「JR山陰線の”秘境駅”、餘部駅」2017年1月14日の日記)。急に空席が増えた列車は、赤島トンネル(173メートル)を抜けて、次の鎧駅に着きました。途中の浜坂駅での「信号待ち」による10分程度の停車時間を含めて1時間15分ぐらいかかりました。進行方向の右側、駅舎に接した1面1線のホームに降り立ちました。やがて、乗車する人もいないまま、列車は次の香住駅に向かって出発して行きました。

鎧駅は、兵庫県美方郡香美(かみ)町香住(かすみ)区鎧にあります。餘部駅から1.8km、次の香住駅まで5.4kmのところにあります。鎧駅が開業したのは、明治45(1912)年3月1日。 国有鉄道山陰本線の香住駅から浜坂駅間が、延伸開業したときでした。

ホームから見た構内のようすです。かつては2面2線のホームをもつ駅だったようですが、平成24(2012)年に1面1線のホームとなり、海側のレールも撤去されました。正面に見えるのは地下道の出入口です。海側のホームは使用されていませんが、地下道は使用されています。線路の向こうは通ってきた赤島トンネル。右側には海側のホームに上がる地下道の出入口が見えます。鎧駅は、平成13(2001)年冬に、これに近いアングルで「青春18きっぷ」のポスターになったことがありました。そのときのポスターには「なんでだろう、涙がでた」というコピーが添えられていました。

長いホームを餘部駅方面に歩いて、駅舎方面を撮影しました。ホームの右側に貨物側線のあったスペース(2線分)が残っています。その左には、下見板張りの壁のある、漁村に多くみられる民家が3棟並んでいます。

ホームから駅舎に入ります。入口に使用済み切符の回収箱がありましたが、今では、列車の中で精算が完了しますので、ほとんど使われることはないようです。

駅舎に入るとすぐ左側にトイレがありました。手入れの行き届いたきれいなトイレです。”秘境駅”に来て、きれいなトイレに出会えるとうれしくなります。

掲示してあった「鎧自治会」の方からのメッセージです。駅舎の美化にも努めてくださっています。

右側の待合室です。ベンチが置かれていました。

ベンチの間にあった「駅ノート」です。「JR山陰本線 鎧駅 らくがきノート 海の見える駅から」と表紙に書かれています。やはり、海を見下ろす風景に魅せられてやってくる人が多いようです。

待合室にあった時刻表です。平成24(2012)年のダイヤ改正によって、午後の2本の普通列車がこの駅を通過することになりました。鎧駅を訪ねるには、少し不便になりました。

駅舎から、駅前広場に出ました。

左の建物は「鎧区倉庫並自主防災資材庫」でした。駅前には、10件程度のお宅が並んでいました。

海側のホームです。ホームの壁に「停車場中心 187K020M」と書かれているのが見えました。

海側ホームの地下道の出入口から出ました。ホームからレールのある高さに下りる階段がありました。

海側のホームから見た駅舎入口付近です。白を基調にした美しい駅舎が見えました。

海側のホームの裏にあった「天然記念物 釣鐘洞門」の碑です。「西北海上三十町」にあるそうです。昭和5年3月30日の日付が刻まれていました。背景には、遙かな日本海。「海を見下ろす駅として、ドラマ『ふたりっ子』や『砂の器』のロケ地としても使われた」と、駅の待合室にあった掲示には書かれていました。続けて「入江は風よけ地となり、古くから天然の良港として栄えたそうだ」とも・・。そんな風景を眺める人のために、海に向かってベンチも設置されていました。

鎧駅は、海抜39.5mの切り立った崖の上に設置されています。
鎧漁港に下りることにしました。海側の地下道の出入口から延びる通りです。通りの左側にある倉庫風の建物の向こう側を左折して下っていきます。空が黒くなり、雨が降って来そうな天候です。

美しい入江の風景と鎧漁港を見ながら下っていきます。

道はジグザグに折れ曲がっていて、海の方向に歩く区間になりました。

突きあたりで方向転換するところ、その左側に、上に向かって延びる石製の構造物が見えました。昭和26(1951)年に建設されたインクライン(傾斜鉄道)の跡です。この上にレールを敷いて、鎧漁港に水揚げされた海産物を、ケーブルでつながれた台車で運び、鎧駅まで引き上げていたそうです。駅舎にあった掲示物には「最盛期には三日三晩、大漁のサバを積んだ貨物列車が往復していたそうだ」と書かれていました。

これは、京都市に復元されている「蹴上(けあげ)インクラインの台車」です。蹴上インクラインは、蹴上船溜まりと南禅寺船溜まりを結んでいました。勾配のある水路にレールを敷いて船ごと台車に載せて、ケーブルで引き上げていました。鎧駅のインクラインとは方式が異なっていましたが、最も広く知られているインクラインです。

こちらは、海側です。下にある入り江に直角に建てられた建物まで、石製の構造物は続いています。

高い所は雑草に覆われて見えないのですが、建物につながっていたことがわかります。

ジグザグの道を今度は反対方向に向かって下っていきます。正面に墓地がありました。駅舎にあった掲示物には「海の見える墓地は『極道の妻たち』のロケ地になった」と書かれていました。

前に漁船が見えます。鎧漁港に着きました。

浄化センターの建物を過ぎると、先ほど上から見た建物がありました。インクラインの遺構が建物から上に向かって延びており、鎧駅のホームのある高さまで続いていました。

鎧地区の集落です。入江の奥まったところに30軒ほどのお宅が並んでいます。

先ほど左折して下った倉庫風の建物まで、引き返して来ました。地下道の海側の出入口の前です。階段の左側に小さな物置のような建物があります。

これがその建物です。インクラインの終点付近です。このあたりでケーブルを引っぱっていたのではないかと思われます。海産物を降ろして、構内踏切を使って駅舎の脇の貨物側線まで運び、貨車に積み込んでいたのではないでしょうか?

インクラインの終点付近を海側から撮影しました。少し破損されていますが、かつての姿を思い起こすことができます。

この写真は、駅舎の脇の貨物側線があったスペースを撮影したものです。モータリゼーションの発達により、明治45(1912)年の開業時から半世紀を超えて行われて来た貨物輸送も、幕を閉じる時期がやって来ていました、鎧駅での貨物輸送が終わったのは、昭和45(1970)年12月15日のことでした。そして、このときから、鎧駅は、無人駅になってしまいました。


”秘境駅ランキング”の主催者である牛山隆信氏は、鎧駅を、総合13ポイントで秘境駅ランキングの159位(2018年)に位置づけておられます。その内訳は、秘境度1ポイント(P)、雰囲気3P、列車到達難易度5P、外部到達難易度3P、鉄道遺産指数1Pになっています。やはり、列車で訪問するのが難しいということにより、秘境駅にランクインしているようです。美しい海の風景と、地域の人たちの生活の歴史を伝えるインクライン跡に出会える、印象に残る駅でした。
ただ、滞在中に、地元の人たちに出会うことがなかったことが、本当に心残りでした。




加西市北条町の町並みを歩く(2)

2018年10月30日 | 日記
加西市北条町は、酒見寺や住吉神社の門前町、町を通る街道の宿場町として繁栄しました。かつての繁栄をしのばせる家並みが、訪ねる人を迎えています。前回は、その中で、南町(みなみちょう)、御旅町(おたびちょう)、御幸町(ごこうまち)沿いの家並みと寺町の雰囲気を残す地域を歩いてきました。今回は、もう一つ、往事の家並みが残る西京街道沿いの家並みを訪ねて来ました。

前回訪ねた西岸寺の前の通りからスタートしました。

すぐ先に「栄町」の看板がありました。法華宗寺院、妙典寺への参道へは、ここを右折して進みます。

今回はまっすぐ進みます。前方の三差路の向こうに、衣笠モーターサイクルのお店が見えました。左右の通りを左折してさらに進みます。

右側にあった平田菓子店を過ぎると、すぐに交差点がありました。「福吉町(ふくよしちょう)」の看板があります。ここで右折して進みます。

左側に毛利書店のビルがありました。その先で、通りは緩い左カーブになります。

北条町栗田地区になりました。すぐ前の交差点の手前左側に、大日堂がありました。

交差点の先から撮影した大日堂です。荒廃していたお堂を、寛文元(1661)年に、現世安穏、子孫繁栄を祈り再興しました。江戸時代になって農業生産の発展とともに牛馬の使用が盛んになり、その安全のために、大日如来(真言宗の根本仏)が祀られたそうです。現在の大日堂は、宝暦13(1763)年に再建されたものだそうです。交差点を渡ります。

北条駅でいただいたパンフレットです。この先で「旧家の家並み」に入ります。

大日堂から約250メートル先、通りの右側にあった高井家住宅です。通りの先から振り返って撮影しました。嘉永4(1851)年の建築で、国の登録有形文化財に登録されています。厨子2階建ての切妻造り、平入りの建物です。

このお宅の正面にあった「出棺出口」です。出棺の際に棺を出す出口です。家への帰り口をわからないようにする風習の一つで、迷わず成仏してほしいという願いが込められているのだそうです。初めて、こういう出口があることを知りました。

左側にあった水田家住宅です。大正11(1922)年の建築で、こちらも、国の登録有形文化財に登録されています。

ここで、もう一つパンフレットをいただきました。「横尾歴史街道つどいの会」がつくられた「横尾歴史街道ガイドブック」です。パンフレットの「旧家の家並み」は、地元では「横尾歴史街道」と呼ばれているようです。

通りに面して設置されていた「手作りベンチ」です。上に「まあ すわんなはれ」と書かれています。「北条まちづくり協議会」では、地元の間伐材を再利用してつくった「手作りベンチ」を町並みに設置しています。このベンチも、その一つなのでしょう?

その先の通りの様子です。「旧家の家並み」と名づけられているように、かつての街道の雰囲気がよく伝わって来ました。丹波方面や、京・大阪方面に向かう人たちが歩いた道です。「横尾歴史街道ガイドブック」は、街道歩きに大変参考になりました。

「えべっさん」です。通りの左側、一段高いところにありました。街道筋の人たちがお詣りされていた商売の神様です。

横尾歴史街道つどいの会のパンフレットを見ていて、通りの商家で気になったことがあります。その一つが、軒下の「犬走り」の部分を柵で囲い込んでいる空間があったことです。敷地の境界に立てた柵を「犬垣(いぬがき)」と呼んでいるそうです。

もう一つが「筋瓦(すじかわら)」です。平瓦の上にかぶせる丸瓦で、筋のように長くしたもののことをいうそうです。屋根の平瓦の強度を強めるために設けられているそうです。

「横尾歴史街道」は、北条町の家並みの中で、最も雰囲気のある通りでした。その先で街道が分岐しています。

三差路の中央、突きあたりに地蔵堂がありました。道中の安全を祈る人も多かったはずです。

地蔵堂の右側に、道標がありました。左側が天保7(1836)年の銘がある最も新しい道標で、「右 やしろ 大坂 京  左 明らくじ たん(以下埋没)」とありました。埋没している「たん」は「丹波のたん」ではないかと思います。右側が享保13(1728)年の銘のある最も古い道標で、「無縁塔 右 やしろ 左 明らくじ道」と刻まれていました。真ん中の道標は残念ながら読むことができませんでした。

地蔵堂の右側の通りは社(やしろ)から篠山を経て京・大坂方面に向かう西京街道でした。

地蔵堂の前から左へ向かう街道は、明楽寺(加西市の北部にある)から福知山を経て宮津に向かう丹波街道でした。

この日は、北条の町に残る懐かしい町並み、「旧家の家並み」を歩いてきました。酒見寺や住吉神社の門前町として、多くの街道が交わる宿場町として、地域経済の中心地として栄えた在郷町として繁栄した北条の町の面影をたどる旅になりました。

加西市北条町の町並みを歩く(1)

2018年10月29日 | 日記

加西市北条町にある北条鉄道の北条町(ほうじょうまち)駅です。北条鉄道は加西市や兵庫県が出資する第三セクター鉄道、旧国鉄北条線を引き継ぎました。JR加古川線の粟生(あお)駅と北条町駅を結んでいます。

北条町の町並みです。旧街道沿いにかつての雰囲気を伝える家並みが続いています。この日は、北条町の町並みを歩くことにしていました。

JR加古川線粟生駅に停車していた北条鉄道のディーゼルカー、フラワ2000-3号車です。国鉄北条線の時代には、加古川駅まで直通する列車も運行されていましたが、昭和60(1985)年に第三セクターに移管されたときに線路が断絶されました。現在は、粟生駅と北条町駅の間を往復運転しています。グリーンの車両フラワ2000-3号車は平成20(2008)年に廃止された三木鉄道からの転籍車両で、平成21(2009)年4月5日から北条鉄道での営業運転が始まっています。平成11(1999)年富士重工宇都宮工場で製作された車両です。

北条鉄道には以前乗車したことがあります(「登録有形文化財の駅が並ぶ三セク鉄道、北条鉄道に乗る」2016年4月30日の日記)。粟生駅から13.6km、列車は、田園地域を20分ぐらい走って北条町駅に着きました。ホームの先には生涯学習施設の”アスティアかさい”が見えます。

北条町の一角にあった観光案内の掲示です。北条町の伝統的な町並みは、大年神社から、酒見寺(さがみじ)住吉神社に到る街道沿いの北条の宿(しゅく)と呼ばれる地域、大信寺、西岸寺などが並ぶ地域、そして、横尾街道沿いの地域に広がっています。まずは、北条の宿に向かうことにしました。北条の町は、戦国時代には戦乱の影響で荒廃していましたが、江戸時代初期に家数も増加し復興が進みました。

北条町駅でパンフをいただき、アスティアかさいとの間の道を進みます。写真の右方向に向かって歩きます。駅舎に隣接したセブンイレブンの交差点を右折します。

右折しました。右側に見えるビルは建設中の宿泊施設です。その向かい(左側)に三井住友銀行があります。

三井住友銀行の手前を左折します。この通りを進むと、酒見寺や住吉神社に向かうことができます。北条の町は、江戸時代を通して、酒見寺や住吉神社(当時は酒見神社)の門前町として繁栄しました。また、丹波・丹後・但馬方面を結ぶ街道の宿場町としても賑わいました。特に、延享4(1747)年、”徳川御三卿”の田安家領になってからは、陣屋をこの地に設けたため、地域経済の中心地である在郷町として発展していきました。

通りに入ってすぐ左側に大年(歳)神社があります。

大年神社の境内にあった屋台蔵。祭礼のときの山車、南町屋台を保管しています。

駅でいただいたパンフにあった観光ルートです。北条町の伝統的な町並みは3つの地域に残っています。「商家の家並み」と「寺町通り」と横尾街道沿いにある「旧家の家並み」です。「商家の家並み」と書かれたルートを進んでいます。この通りは、南町(みなみちょう)、御旅町(おたびちょう)、御幸町(ごこうまち)を経て宮前に向かうルートです。さらに、その先にある辻川で美作国津山に向かう街道と分かれて、生野・豊岡方面に向かった、かつての但馬街道を歩くルートです。

その先、右側の建物にあった袖卯建(そでうだつ)です。「南町」の標識がその前にあります。いただいたパンフには「卯建とは、建物の両側に「卯」の字形に張り出した小屋根付きの袖壁のこと。装飾と防火を兼ね備え富の象徴的なものになっています」と書かれています。このようなモダンな卯建は、北条町では、この先の御旅町にあるものとの2つだけなのだそうです。

切妻造りの厨子2階建て、白い漆喰塗り、壁に虫籠窓がついている格子づくりの商家の建物が続いています。

その先で御旅町になります。敷石が置かれた舗道を進みます。商店街だったところですが、住宅地という雰囲気を感じる通りに変わっていました。

切妻造り、厨子2階建て、平入りの商家が点在しています。虫籠窓が見事です。

御幸町に入りました。この先、右側に商家の看板が並ぶ通りになります。

お茶を扱っておられた梅六園の建物です。正面の木製の看板から歴史あるお店という雰囲気を感じることができます。

かつての雰囲気を残す「大福味噌 大黒屋」の建物です。木製の看板が魅力的です。「味噌 糀(こうじ) はかり」と書かれている看板が架かっています。 

泉生山酒見寺(さがみじ)の楼門です。酒見寺は行基の開山と伝えられる真言宗の寺院。戦国時代に焼失して、寛永19(1642)年に再興された寺院です。楼門は、棟札から、文政8(1825)年に建立されたものとされており、棟梁は近くの宇仁郷、神田左衛門であったといわれています。入母屋造り、本瓦葺き、上層の周囲に縁を巡らせています。

21対の飾り灯籠が並ぶ参道の先に、酒見寺の本堂があります。

昭和50(1975)年に、国の重要文化財に指定されている多宝塔です。天正年間(1573-1591年)に焼失しましたが、寛文2(1662)年に再建されました。相輪にある刻銘や上層の柱の墨書が残っているそうです。上層は檜皮葺き、下層瓦葺き、塔内には大日如来像を安置しており、全国で最も美しい多宝塔だといわれています。

その隣にあった住吉神社です。鳥居の間から拝殿が見えます。養老元(717)年に祖神と住吉四神を祀ったことに始まるといわれています。明治42(1909)年に大歳神と八幡宮が合祠され、現在は、酒見神、住吉四神、大歳神と八幡宮が祀られているそうです。

本殿です。嘉永4(1851)年に再建された三殿です。手前から西本殿、中本殿、東本殿です。住吉神社の裏側から撮影しました。

住吉神社の鳥居まで戻ります。表の玉垣の上に五百羅漢の看板がありました。ここで右折して進みます。やがて、左側に中学校、右側に小学校に挟まれた道を進むようになります。小学校の裏に五百羅漢がありました。お世話をされている方に200円を払って入場しました。

「親が見たけりゃ 北条の西の五百羅漢の堂に御座れ」と古くから歌われた五百羅漢です。高室石(たかむろいし・凝灰岩)を加工した羅漢の立像など、459体の石像が、17世紀前半の酒見寺の再興に合わせて祀られています。大分県の耶馬(やば)溪、山梨県の吉沢の羅漢と並び、全国に知られています。

この後は、寺町を歩こうと思いました。羅漢の裏で右折して、羅漢とその裏にあった”北条ならの実こども園”との間の道を進み、小学校の敷地に沿って進みます。その先に「江ノ木町(ごのきちょう)」の看板がありました。

看板のあるところから、”すぱーくかさい”(加西市立スポーツ施設屋内ゲートボール場)に沿って、右方向に進みます。正面入口前に着きます。

”すぱーくかさい”の正面から見た風景です。ここで、左折してこの通りを歩きます。やがて左側に磯部神社と境内にある江ノ木公会堂が見えます。

磯部神社の脇を道なりにすすむと左側に「「ファッション系デポ マリーナ」の看板が見えます。その手前を左折して進みます。
やがて、左側にある大信寺に沿って歩くようになります。

山門の下から撮影た浄土宗寺院の安養山大信寺の本堂です。登録有形文化財に登録されています。

大信寺の前を右折しました。大信寺に隣接した酒相山西岸寺です。真宗大谷派の寺院です。前に「住屋町(すみやちょう)」の看板があります。西岸寺の前を進みます。

その先に「栄町」の看板がありました。ここを右折して10メートルぐらい進むと、隆栄山妙典寺への入口があります。

妙典寺への参道です。

法華宗の寺院、妙典寺の本堂です。

ここまで、旧但馬街道沿いの「商家の家並み」と「寺町通り」の二つの家並みを歩いてきました。次回は、ここから、パンフレットにあった「旧家の家並み」を歩くことにしました。