風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

日本

2008年10月27日 | 雑感
そろそろ、どこかへ行きたい虫がもぞもぞと動き出しています。
来月は東京に行きますが、ガード下でホッピーを飲みながら煮込みを食べるのが楽しみなくらいです。
そういうのではなく、異国という感じがするところに行きたいです。
東欧なんかがいいです。
列車を乗り継いで、ギリシアから東欧を抜けてイタリアに入る、という感じがいいです。
ま、しばらく動けそうもないのですが。

東欧の文化というのは日本にほとんど紹介されていませんね。
ぼくが知らないだけかもしれませんが。
おそらくキリスト教のあり方もローマ以西のものとは違った趣があるんだろうと思います。
スラブ民族の文化と言っていいのでしょうか?
よく分からないからこそ行ってみたいです。

そういえば、来年はトルコに行く予定です。
大トルコ帝国の香りを少しは嗅いでこられるといいんですが。
トルコ料理というのは世界の3大料理(他はフレンチと中華)に数えられることもあるそうです。
シシカバブを食べたことがあるくらいですから、未知のトルコ料理も楽しみです。

国の数だけ、その国を愛する人々がいます。
貧乏であろうがなんであろうが、生まれた土地の風景、人情、文化的慣習を愛するのは人の美しい性情の一つだと思います。
そういう性情が人々の連帯を支え、共同体を守ります。
時にはそれが無意味で頑固な因習になることも多々ありますが、その土地土地が持つ風土の香りを精神に織り込んでいくということは、
その人の個性をとても奥ゆかしく味わい深いものにするとぼくは思います。

日本のテレビでは、よく若手の芸人やモデルをレポーターに仕立てて未開のジャングルや東欧の田舎などに派遣して番組を作ります。
そこで住む人は、若手の芸人やモデルよりも遥かに思慮深げで、誇り高く、ものごとを見抜いています。

文明というのは、ある意味でとても軽薄なものです。
電気を使うということは、夜の空の神秘に満ちたドラマを見逃すということです。
スーパーで肉を買うということは、野を駆ける動物たちの躍動美を知らないということです。
生きるということの尊厳を忘れることです。

そういうことを色々考えさせられるのが、異国と触れ合うということなのかもしれません。
そして、異国と触れ合えば触れ合うほど、日本という国が見えてもきます。
軽薄な文明の下に埋もれてしまっている日本の文化の底流が見えてきます。

個々の日本人が異国の人々と比べて優れていると思ったことは一度もありません。
でも、日本文化の底力のすごさを感じたことは何度もあります。
今の日本人がすごいのではないです。
その逆でしょう。
無軌道に甘やかされ、TPOに叶ったマナーを知らず、他者とのコミュニケーション能力がおそろしく劣った人が目立ちます。
それは当然で、家庭でも、学校でも、そういうことは教えないことが「個人の自由」の名の下に進歩的でもあるかのようです。
でも、そういう幼稚ともいえる日本人の背後にある日本文化が、辛うじて現代日本人の評判を支えているという感じだとぼくは思います。

「個人の自由」などは当たり前であって、その自由を色々な活動を通じて他人と豊かに共有していくのが文化というものでしょう。
「個人の自由」そのものが目的となるような社会は、奴隷制度が残っているような段階の社会でしょう。
「そんなのは個人の自由でしょ」と言えばなんでもすむと思っているような言動は、おそらく現代日本特有なものです。
会話そのものが成立しませんね。

ま、それでも日本なんです。
それだけ、日本の文化の深層は深いです。
その深層に気づいた異国の人々が、日本という国を認めているわけです。
日本文化の深層に一番気づいていないのが、日本人なのだろうとぼくは思っています。