風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

自分

2008年10月14日 | スピリチュアル
「自分」という言葉があります。
よく知りませんが、おそらく明治時代辺りに学者が作った翻訳語なのでしょう。
「自ら分かれる」もの、という意味ならば、とても深い意味がありますね。

自ら根源のエネルギー(根源神)から分かれ、孤独や苦難という冒険を楽しむために、
この3次元の地球上に生まれ出た勇気あるエネルギーを「自分」と呼ぶのかもしれません。
神道では一人一人に大神の「分け御魂」を宿しているといいますが、同じような意味だと思います。

思い切り人生という舞台を楽しみ演じ切って、根源のエネルギーに回帰できればいいのですが、
舞台の上でおろおろし、何を演じていいのかも分からずに不平不満のうちに生を恨んだり呪ったりしますと、
本来は無かった想念の厚い雲に覆われた冥界というところに迷い込んでしまうみたいです。
それこそ冥界というのは、人の想念の数だけあるような複雑怪奇なところみたいで、
その想念にひきつけられる人は、強制的に引き寄せられるのではなく、自らの想念どおりの冥界に行く、
ということのようです。
同じエネルギー同士が引き付けあうというということのようです。

自ら根源神から分かれ出た分け御魂ですから、この地上にいようと冥界にいようと、
どこか彼方の遠いところに自分の居場所があるはずだというような、魂の疼きを感じるものらしいです。
牽強付会ですが、「オーヴァー・ザ・レインボウ」なんかはそんな心の底を歌ったような歌ですね。

で、冥界というところは、同じような想念で固まっている世界ですから、冒険、つまり壁や苦しみを乗り越えたり、
異なる他人と出会ったり別れたりというような経験がありません。
つまり、魂の成長がないところらしいです。
せっかく根源の光と一体となっていた自分を光から切り離して、冒険を通じた魂の成長と喜びを持って回帰しようとした魂は、
行き先を失って迷いの闇に沈むことになってしまいます。

そんな魂に再度チャンスを与えようということが、「生まれ変わる」ということなのでしょう。
様々な困難、様々な人々、様々な味わいに満ちているこの世こそが、魂の冒険に相応しいミラクルワールドです。
冒険というからには、本当の危機もなくてはならないし、スリルも喜びもなければなりません。
それと、適度なロマンスも必要ですね(笑)
冒険をやり遂げ終えて、家で待つ人々にそれを逐一報告することこそ、冒険の醍醐味です。
その報告をニコニコそうかそうかと聞くのが、神と呼ばれる存在の喜びなのでしょう。
それが地球で生きる、ということなんだろうと思います。

冥界とか、霊界とか、神界とか、そういうのはどうなってるんだと興味が走りますが、まぁやめておきます。
切りのない話になります。
今日に話にしたって、いい加減な法螺話といえば、法螺話なのです。
世界は常に何十にも複層になっています。
どの層から観るか、どの次元で観るかで、まるきり様相が違って観えてくるのでしょう。
人は、人の生きるという層から、ものを観たらいいでしょう。
それしかできませんし、それで充分だとも思います。

先ずは、「自分」の層と「自我」の層の違いを見極めていくことでしょうか。