風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2008年10月17日 | スピリチュアル
続きです。

では、「自分」を知るとはどういうことなのでしょうか。
それは五感や、思考や、想念では捉えることができません。

五感や思考というのは、「自我」が欲するがままだけに機能します。
身体が飢えれば、目は食べられそうなものを血眼に探しますが、路傍に咲く花は目に入りません。
孤独に襲われていれば、耳はかすかな物音も猛獣の足音かと錯覚します。
お腹が空いていればただのおにぎりがご馳走ですし、満腹ならどんなご馳走もげんなりしてしまいす。
思考も、その時々の「自我」の要求で勝手気ままに振舞います。
惨めな暮らしをしていれば社会の不正義にたまらなく腹が立ちますが、社会的地位や金銭的余裕に恵まれますと、
社会の不正義を攻撃するよりも自分の余暇を大事にする方法に思いを巡らせるようになるものです。
自分の立ち位置によって、ころころと変えるのが、五感や思考です。

簡単に言ってしまえば、好きで夢中になっている相手ならすべてを許しますが、
嫌いな人の言動はすべてが欠点の塊です。
人の五感や思考というのはそんなものです。
全く公平ではありませんし、一定もしていなければ、博愛主義でもありません。

では、本来の「自分」、インドの聖者がいう言葉では「真我」、禅で言うところの「本来の面目」、
というのはどうすれば把捉しできるのでしょうか。

それは、思考や五感で把捉しようとすればするほど、隠れるもののようです。
で、思考や弁別や五感をすべて捨て去るのです。
それが禅とか瞑想といわれる方法です。

思考や五感を捨てるというのは、その機能を止めてしまうということではありません。
止めようと思っても止まるものでもありません。
ただ、思い浮かぶもの、五感に感じるものに一切引っかからない、という修行です。
マリア様や観音様が目の前に浮かぼうが、足が痛いと思おうが、一切引っかからないのです。
頭に浮かぶもの、五感に感じるものすべてを、浮かんだら浮かんだまま、感じたら感じたまま、
捉われずに消えるに任すのです。
そうして、修練が進みますと、思考や五感がしんと静まりかえるときが来るようです。
そのときに、本来の「自分」、「真我」、「本来の面目」が顕れるみたいです。

それは別に隠れていたわけでもなんでもなく、常にそこに「在り」続けたのですが、
五感や思考のひっきりなしにかき立てる回す波の下で、見えなくなってるだけだ、と覚者は言います。

いったん、その本来の自分を見出しますと、五感や思考に振り回されることが逆にできなくなるみたいです。
本来の自分が今ここにいるのに、その道具たる思考や五感といった機能に振り回されることは不可能になります。

>中身(本来の自分)と器(自我=身体)は闘い続けるものでしょうか。
>争うものでしょうか。
>折り合いを付けるものでしょうか。       りのすKさん

もうこれは、その人次第としか言えませんね。
精神を病むという現象は、ほとんどがその人内部のその種の争いから引き起こされているような気がします。
魂と身体、どっちが主なのかということが逆転しますと、なかなか苦しい生き方にならざるをえないのではないかと思います。
目にも見えず、思考でも五感でも捉えられない「魂」を主に据えるということは、今の世では尋常ではありません。
一笑に付されるのがオチです。
一笑に付されようがなんであろうが、真実というものがあるのなら真実に従うしかありません。

五感や思考というのは生きるということを楽しむための便利な道具としてなら大変完成度が高いものだと思いますが、
人生の主にしてしまうには余りにも気まぐれで、自分勝手で、刹那的です。

さてさて、「魂」というものを自分の人生の主にリアルにすえることができるでしょうか。
それはぼくにも分かりません。
でも、その気になれば、そうなるだけのような気もしています。