風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2008年10月05日 | スピリチュアル
心の定義が難しいのは、心の風景=心象が人それぞれ、時の移ろいと共に移り変わっていくからでしょう。
やさしい気持ちのときも、憎悪に燃え上がる時も、この上も無く残酷になったりもする、それが心だからでしょう。
心というある一定の状態があるのではなく、さらに深層の心理が心というスクリーンに映し出されたのが、
心の動きというものかもしれません。

ですから、心のスクリーンに映し出されたものに一喜一憂すると、なすすべも無く自分の心に翻弄されることになります。
しかしながら、人はそのスクリーンに映し出された元の、心のさらに奥なる深層心理を知る方法を知りません。
なんであれ考えようとすれば、心のスクリーンに映し出された大袈裟な心の芝居に頭が占領される仕組みになっています。
歓喜の心で目が見えなくなってしまうこともあれば、苦しみの渦に飲み込まれてしまうこともあります。

そういう心に浮かぶイメージに翻弄されない訓練が、坐禅とか瞑想といってよいでしょう。
敢えて特定のイメージを思い浮かべて、そのイメージに心身ともに浸るような瞑想もあるようですが、
どうもその方法にはぼくは感心しませんので、脇に置いておきます。

坐ってみれば分かりますが、次から次へと断片的なイメージが浮かんできます。
そのどれか一つのイメージに捉われますと、そのイメージに関連するイメージが果てしなくずるずると連鎖して浮かんできます。
失恋して悩む人は恋人の面影が果てしなく浮かんでくるでしょうし、
資金繰りに苦しむ人は返済しなければならない人の顔が付きまとってきます。
で、坐禅では次々と浮かぶそれらのイメージを一切相手にしないことを教えます。
イメージが浮かんでも、相手にしなければ、イメージに心を占め続ける力はありません。
次から次へとイメージが浮かんでは消えていきます。

初心のうちは10分もすると、そんな雑多なイメージが次から次へと浮かんでくるだけですから、坐っていることが苦痛になってきます。
組んだ足が痛くなるのと同時に、自由気ままにイメージを追うことができない苦しさに耐え切れなくなるものです。
それでも組んだ足を解くことは許されず、ひたすら呼吸に神経を集中し続けます。
そんな数ヶ月の我慢比べを経て、あるときふとイメージが浮かんでこない瞬間を体験します。
呼吸のみが完全な静寂のうちに続いていきます。
さらに修練を経ますと、呼吸していることも忘れ去る瞬間が来ます。

さらに修練が続きます。
呼吸も忘れることも忘れた時、どうやら道元禅師のいう「心身脱落」が訪れるようです。

1.心に押し寄せるイメージを片っ端から心から流し出す
2.そのことにより、心に押し寄せるイメージの源である深層意識をも徐々に洗い流していく
3.数年から数十年のその作業(坐禅)により、洗い流された深層意識は、はじめてあるがままの世界をあるがままに心に捉えだす

禅の目指す境地というのは、簡単に言ってしまえば、そんな感じであるらしいです。
唯識論でいえば、マナ識、アーラヤ識の浄化を経て、「悟り」という境地が訪れるのでしょう。

好き嫌い、善悪、赤いの青いの、そんな分別から自由になった心が見るあるがままの世界というのは、
それはそれは深遠甚大で、大いなる生命の全貌が姿を現すみたいです。