「私たちの欠点こそが 私たちに理想を見せてくれる目である」 ニーチェ
今日の日めくりの言葉です。
この日めくりは、「~こそ」という強調語が多いです。
ここがポイントだぞ、いい加減に聞き逃すなよ、ということなのだと思います。
欠点はそのまま放置すれば、欠点ですが、
欠点を自分が向上すべき方向性の道しるべと捉えれば、それはそれでありがたいわけですね。
欠点というのは、自分ではなかなか認めがたいし、人から指摘されれば腹が立つし、
放っておけば、それが元で失敗をしたり、破綻したりします。
長所というのは、放っておいても長所のままですが、
欠点は、何らかの手を打たないと、人生の躓きになりえることが多いですから、要注意ですね。
欠点というのは、なんというか、普段は身を潜めることが出来るものです。
欠点を潜めた人格というのは、まるで人格者を装うことが出来ます。
が、重要な局面になると、顔を出して、状況をむちゃくちゃにしてしまうということがよくあります。
だからこそ、欠点を超克することが、理想的な人生運営にもつながるわけです。
では、どうやって自分の欠点を探すのか?
自分の欠点は何か、何なんだと気を張って生きるのも面白くありませんし、
そう簡単に見つかるものでもありません。
欠点は身を潜めるのが上手い上に、自分で自分を見るというのはことのほか難しいものです。
やはり人の自分に対する反応には注意深く、謙虚であり続けるしかないのかもしれません。
それでも、なかなか自分の欠点というのには気がつきにくいのですが。
他人の欠点を発見するのは、たいていの人が名人芸を発揮しますが。
で、欠点を発見するおそらく最も効果的で、有無を言わせない方法があるとしたら、
ぼくは「内観法」という、真宗の「身調べ」という方法から発展したものが、それだと思います。
だれだれに対して、
1.してもらったこと
2.して返したこと
3.迷惑をかけたこと
これを幼少期から今に至るまで、徹底的に調べ上げます。
例えば、母親に対して、0歳から6歳の時の時期を回想して、1~3を調べ上げます。
それから、小学生1~3年、小学生4~6年と順次時期を区切って調べていきます。
これば誰でも共通するのですが、「1.してもらったこと」は次から次へと思い浮かんできます。
ところが、「2.して返したこと」は、もっとしてくれだの、してくれ方が悪いだのという反抗・甘えばかりです。
「3.迷惑かけたこと」はこれまた次から次へと山のように思い出します。
人の弱点、隙を突きまくって、悪事のし放題です。
ひとは、これほどまで自分勝手で、冷酷で、欲深いものだと思い知ること請け合いです。
これは、体験した人しか分かりませんが、自分の罪深さを思い知ると同時に、
その罪深い自分を受け止め続けた両親なり、配偶者なりに、感謝の念があふれます。
大量の涙と共に、浄化されます。
自分の欠点なんかに拘泥する気持ちは消えうせます。
そんなつまらない意地や我欲はどうでもよくなります。
「ちゃんと生きよう」という気持ちで一杯になります。
まぁ、そんな感じです。
実はぼくも以前の会社の社長命令で、内観法を受けたことがあります。
それで、今の有様かと聞かれれば返す言葉がありません。
でも「ちゃんと生きよう」という気持ちは、これでもあるんです。
今日の日めくりの言葉です。
この日めくりは、「~こそ」という強調語が多いです。
ここがポイントだぞ、いい加減に聞き逃すなよ、ということなのだと思います。
欠点はそのまま放置すれば、欠点ですが、
欠点を自分が向上すべき方向性の道しるべと捉えれば、それはそれでありがたいわけですね。
欠点というのは、自分ではなかなか認めがたいし、人から指摘されれば腹が立つし、
放っておけば、それが元で失敗をしたり、破綻したりします。
長所というのは、放っておいても長所のままですが、
欠点は、何らかの手を打たないと、人生の躓きになりえることが多いですから、要注意ですね。
欠点というのは、なんというか、普段は身を潜めることが出来るものです。
欠点を潜めた人格というのは、まるで人格者を装うことが出来ます。
が、重要な局面になると、顔を出して、状況をむちゃくちゃにしてしまうということがよくあります。
だからこそ、欠点を超克することが、理想的な人生運営にもつながるわけです。
では、どうやって自分の欠点を探すのか?
自分の欠点は何か、何なんだと気を張って生きるのも面白くありませんし、
そう簡単に見つかるものでもありません。
欠点は身を潜めるのが上手い上に、自分で自分を見るというのはことのほか難しいものです。
やはり人の自分に対する反応には注意深く、謙虚であり続けるしかないのかもしれません。
それでも、なかなか自分の欠点というのには気がつきにくいのですが。
他人の欠点を発見するのは、たいていの人が名人芸を発揮しますが。
で、欠点を発見するおそらく最も効果的で、有無を言わせない方法があるとしたら、
ぼくは「内観法」という、真宗の「身調べ」という方法から発展したものが、それだと思います。
だれだれに対して、
1.してもらったこと
2.して返したこと
3.迷惑をかけたこと
これを幼少期から今に至るまで、徹底的に調べ上げます。
例えば、母親に対して、0歳から6歳の時の時期を回想して、1~3を調べ上げます。
それから、小学生1~3年、小学生4~6年と順次時期を区切って調べていきます。
これば誰でも共通するのですが、「1.してもらったこと」は次から次へと思い浮かんできます。
ところが、「2.して返したこと」は、もっとしてくれだの、してくれ方が悪いだのという反抗・甘えばかりです。
「3.迷惑かけたこと」はこれまた次から次へと山のように思い出します。
人の弱点、隙を突きまくって、悪事のし放題です。
ひとは、これほどまで自分勝手で、冷酷で、欲深いものだと思い知ること請け合いです。
これは、体験した人しか分かりませんが、自分の罪深さを思い知ると同時に、
その罪深い自分を受け止め続けた両親なり、配偶者なりに、感謝の念があふれます。
大量の涙と共に、浄化されます。
自分の欠点なんかに拘泥する気持ちは消えうせます。
そんなつまらない意地や我欲はどうでもよくなります。
「ちゃんと生きよう」という気持ちで一杯になります。
まぁ、そんな感じです。
実はぼくも以前の会社の社長命令で、内観法を受けたことがあります。
それで、今の有様かと聞かれれば返す言葉がありません。
でも「ちゃんと生きよう」という気持ちは、これでもあるんです。