風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

流れ

2005年09月13日 | 世相
政治状況だけではなく、どうも大きな流れの曲がり角であることは間違いなさそうです。
仕事の環境の変化もそうですが、出会う人との会話の内容も、人々の好奇心の向かう方向性も、
みな一様に未来にあるべき姿を模索始めたような気がしています。
変化を望まぬ者は、変化を恐れますし、変化を望む者も、その行方を把握しきれずに、戸惑っているところでしょうか。

こういう時は、受身一辺倒では時代の流れに太刀打ちできません。
積極的に、流れの一端にでも参加しないと、取り残されます。
で、どんなエネルギーが、どんな方向に流れ出しているのかがわからないと、
参加すべき流れの一端さえ見つからなくなります。

落ち着いて、身の回りを観察してみます。
いつもと変わらぬ風景が展開しています。
でも、そのなかに今まで心のどこかで気になりながらも、見過ごしていた何かがあるはずなのです。
それが何なのかは、その人自身が、探し当てなくてはいけません。
パートナーとの関係なのか、隠されていた趣味なのか、自然と向き合うことなのか、仕事の方向性なのか、
それは、その人それぞれのオリジナルな意識で、再発見されることを待っているはずです。
それは、決して、目新しいものである必要はないと思うのです。

こういうときは、事象を安易に記号化(レッテル張り)してはいけません。
善悪、損得、美醜、と物事を安易に二分しないでください。
あの人は○○だという前に、その人を深く感じることが必要です。
この出来事は○○だという前に、その出来事の意味をじっくり味わう必要があります。
身の回りで起きるあらゆる出来事の意味を知る必要があります。
自分に関係のないことは、自分の身の回りには起きません。

自己防衛のために、感情を、好奇心を、正直さを、勇気を押し殺すことに慣れすぎた人間は、
ありのままの人間になれることを思い出さなければいけません。
ありのままの人間が、ありのままの流れを理解しないと、流れは暴力的な激流にしか見えなくなります。
流れの意味を掴み損ねると、その人は激流に呑み込まれてしまいかねません。

手放すことを覚えなくてはいけません。
今での考え方、感じ方、行動の仕方、ものの言い方。
考えて嬉しくなること、感じて楽しくなること、行動して人が喜ぶこと、言って感謝されること。
それが、流れに沿った行為・行動の指針と言えるかもしれません。
流れに沿わないと感じたら、ためらわず過去の行動様式は捨てたほうがいいかもしれません。

手放す感触を掴むためには、伝統宗教のノウハウを借りるのがもっとも効果的かもしれません。
「禅」は、後から後からわいてくる雑念に徹底的に取り合わないという工夫を通じて、
雑念以前の自分(本来の面目)を知ろうとします。
「念仏」「祈り」は、念を一転に集中することにより、雑念からの干渉を離れた境地に進もうとします。
「滝」は、心身を完全に水流に委ねることにより、五感と意識(六根)の純一化を体験しようとします。

なんにせよ、漫然と流れる日常の意識の流れに乗って時を送っても、こういう時代はどこにも行けなくなります。
個々人の望みや観念の意味というのは、時代の変動期には相対的にその価値が著しく低下します。

厄介な時代だと取るか、楽しい時代だと取るかは、人それぞれでしょう。
ただ、人がその流れをどう解釈しようが、流れは流れ続け、抵抗するものは押し流され、
流れに乗ったものは、そのダイナミズムを感じることが出来るのではないかと思います。

何一つ根拠のある話ではありません。
ただのぼくの思いつきのままだらだら書いているものです。
でも、思ったことをそのまま書くということが、ぼくは大切だと思うわけです。
それが流れに沿った行為なのかそうでないのかは、天のみぞ知るということで、
ぼくはいいのではないかと思っているわけなんです。