風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

放浪

2005年03月23日 | 旅行
最初に一人旅をしたのは、中学三年の夏休みでした。
三年生になり野球の部活も引退になり、思い切ってテントを担いで北海道一周の旅に出ました。
言いにくいところを頼んでみると、親父が一万円くれました。

国鉄の周遊券で回るわけですが、駅に着いたらまずテントを張れる場所を探します。
そんな場所が見つからないこともあります。
駅のベンチで寝たり、襟裳岬では屋根がついていると言うだけの理由で、岬の見晴台で寝ました。
夏とはいえ、寒さで一晩中寝れませんでした。
キャンプ場でお兄さんに食事を分けてもらったり、連絡船の中で、なけなしのお金で熱い石狩汁を
買って食べたりしました。
見るもの、感じるものすべてが楽しくてたまりません。

それからというもの、一人旅が癖になりました。
高校に入っても、夜行列車を乗り継いであちこち行きました。
入場券で駅の構内に入り、目当ての列車に乗り込みます。
何度か乗り換え、どこかの田舎の無人駅で降ります。
そうすると、改札もないので数十円(入場券分)で旅ができるわけです。
そういうのんびりとしたシステムがまだ残っていました。

何がそんなに楽しかったのか。
夜行列車の独特の匂い、未知の街の佇まい、車窓を流れる風景。
いろいろありますが、何よりも一人っきりになり、何かを感じ続けること。
それが、一番好きだったように思います。

何を感じていたのか。
親のこと、将来のこと、友達のこと、付き合っている女の子のこと。
頭の中を流れるとりとめもないイメージのどれもが、どこか哀しい影を引いていました。
そのころ感傷的な演歌やフォークソングが好きだったのはそんな性格だったからでしょう。
単純ですね。

それから、大学に入り、社会人になっても、旅行好きは止まらず、
山歩きは八ヶ岳から南北アルプス、旅行はアジアからヨーロッパまでと行動半径が広がっていきました。
未知の人々や風景に対する興味は尽きませんでした。

今でも興味はありますが、昔みたいな情熱はありません。
行けたら行ってもいいという感じになりました。
どこへ行っても、その風景に溶け込むことができなくなりました。
どこに比べてどうだとか、ああだとか、そんな分別臭い雑念がシンプルに感じることを妨げてしまいます。
宇宙空間に飛び出して地球を眺めたら、宇宙飛行士たちが感じたような強烈な感動を
今の僕でも感じるのかもしれませんが。

思えば、子供のころからあちこちをうろうろするのが好きでした。
学校の裏山に分け入って、どこまでも森が続くと思って不安になったころに、
森が突然途切れて見知らぬ集落が現れて驚いたり、
古い寺が立ち並んでいる山の裏手を、墓石の間を縫うようにして徘徊するのがやけに楽しかったり、
自分の周りの世界に対する好奇心がいつも駆り立てられました。

アラスカやシベリアなど、人のいないところをうろついてみたかったです。
人のいるところにいると却って人から気持ちが遠ざかり、人のいないところに行くと逆にあれやこれやの
人々の顔が浮かんできます。
たった一人で狼の遠吠えを聞きながら焚き火でもたいたら、気分はヘミングウェイです。←クサイですね

結局のところ、対人関係に安心感を抱くのが下手糞なのでしょう。
それよりも、めんどくさいほうが先にたつのかな?
どっちもどっちです。

先日、歌人の山頭火が気に入ったという温泉に偶然行き当たりました。
乞食坊主の癖に、悟りを求めるどころか、酒を飲んでは感傷にどっぷり浸った困ったオヤジでした。
その気持ちは痛いほど分かります(笑)
分かりますが、全然偉くない人でした(笑)

僕の場合も、このまま世俗の中をしっかりと渡っていけるかどうかの瀬戸際です。
瀬戸際から転がり落ちたら、乞食坊主にでもなろうと思うのですが、今の時代、乞食坊主って成り立つのでしょうか。
一夜の雨をしのぐ寺先の軒下もありそうもありませんしね。
今のお寺やなんかは、ほら、普通の家族が住んでますから、警察に通報されちゃいます。
山だって何だって誰かの所有物になっているんだろうし、勝手気ままにうろついたらいろいろ問題がありそうですし。
放浪する場所もないっていうのは、かなりきつい状況です。
真っ直ぐまともにしっかりと歩いていける人ばかりじゃありません。
ふらふらと横道に逸れるのも、また、なんというか、人生の妙味だと僕なんかは思うのですが。