風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

武士道

2005年03月24日 | スピリチュアル
なぜ武士道か。
実はここ数日、夜中に酒を飲みながら、なんとなく司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読み返していたからです(笑)

武士道の起源を特定することはなかなか難しいです。
儒教が元だとか、戦国時代に生まれた暗黙の武士団のルールだとか、江戸時代の朱子学が美化された武士道の元だとか。
日本独特の倫理観ではあるでしょう。

西洋の騎士道との違いもなかなか論ずるは難しいです。
忠義だとか、命を賭するだとか、卑怯を嫌うだとか、共通項はたくさんあります。
日露戦争辺りまでは、東西互いの兵士が互いの勇敢さに感心したみたいな話が残ってます。
なんにせよ、その勇敢さは、勇敢ではない僕から見れば尊敬のいたりであることは動かしがたいです。

日本の武士道は、聖徳太子の「和」と、儒教の「忠孝」と、禅の「命を捨ててこそ」が練りこんでいるような気がしてます。
なかなか今風の個人主義がしゃしゃり出てくる隙がありませんね。

個人主義なんていう主義主張で、個人の個性が伸びるなんていうのは完全な幻想だと思います。
個人主義的思想が抑圧された戦前にこそ、強烈な個性を持った人がごろごろいたのではないでしょうか。
なんというか、個性というのは天然自然に花が開くように発展するのではなく、
熱したり、冷やしたり、叩上げたりして仕上げていく、刀剣のようなものだと思います。
今みたいに、幼いうちから個性的に育てようなんてすると、育つものも育つ機会を失っていくような気がしてなりません。
個性的であるためには、ある程度、他人や社会から受ける抑圧と闘う強さが必要です。
さらには、その自分を抑圧する他人や社会の平安を願う、寛容さという強さも必要になります。

誰でも個性はあります。
ただ、その個性を生かすためには、その個性を人から認められるという過程がないと、宝の持ち腐れです。
自分の個性を生かしてくれるのは、それぞれ個性的である他人様だということですね。
他人などどうでもいいと言った瞬間に、その人の個性は生かされる場所を失います。

とかくこの世は住みにくい、人の世が住みにくければ鬼の世界にでも行くしかなかろう、鬼の世はもっと住みにくかろう。

こんなことを夏目漱石は言ってました。←うろ覚え

どうなんでしょう、女の人も男が余計なことは言わず、やることはやり、勇気がある男ってかっこいいとは思わないでしょうか。
理解があり、料理も掃除も手伝い、一緒にテレビを見て笑う旦那さんの方がいいのでしょうか。
そりゃあ、便利でいいでしょうが、なんというか、ときめきがなくはないですか?

というわけで、僕にときめきを感じなかった元妻は、僕にすっかり愛想を尽かしてしまいました。
そこで奮起して、刀を取って、京に上って、幕末の混乱をぼろぼろになりながら駆け抜けて・・・

書いてて虚しくなったので、今日はこの辺で。