一昔前、ニューエイジ関係の本を読み漁りました。
エドガー・ケイシーとか、バシャールとか、シルバー・バーチとかetc.
最近では「神との対話」シリーズも読みました。
そのままの自分でいい、すべては完全だ、大いなる意図に身を委ねろ。
その通りなのだと思います。その通りだと思った瞬間は救われますね、確かに。
その通りなのですが、いつの間にかその通りに生きる勇気を失っています。
ついつい、小賢しい計算と意図を持って世の中をうろついてしまいます。
一言で言うと業が深いのですね。
業とまともに戦っても勝てません。
僕の場合、早起きをしようと意識でいくら誓ったところで、早起きできたためしがありません。
酒を飲むまいと決めたところで、翌日には浴びるほど飲んでいます。
業に飲み込まれて、惨めな一生を送るしかないのか?
と、ずるずる自虐の罠にはまります。
業を退治しようとすればするほど、業の罠にはまります。
どうすればいいのか。
僕の場合、意志は全く当てになりません。
自分で自分の意志を騙すのは朝飯前です。
今のところ唯一有効だったのは「修行」でした。
自分を騙す隙間がありません。
ひたすら心身を「修行」に投げ入れます。
また、古来からの「修行」は心身を任せきらないと、苦痛が大きすぎて続けられないシステムになっています。
苦痛とは自分の思い通りにならないときに感じる痛み。
物事が自分の思い通りになるわけもないし、天から見れば一個人の思い通りになろうがなるまいが
知ったことではないのでしょう。
逆に、一人一人の勝手な思いの通りに世の中がなっていたら、阿修羅の世界になってしまうことでしょう。
人より金持ちになりたい、もてたい、うまいものを食いたい、楽したい、あいつは気に食わない、
人のことなどどうでもいい。
自分の思いというものが常に高尚なわけではありませんからね。
自分の思いの勝手気ままさは嫌というほど「修行」を通じて知りました。
それでも、自分の思いは相変わらず勝手気ままなままですが。
自分の思い通りにしようとしないこと。
じゃあ、自分の意志というものを何に向ければいいのか?
他人の喜びに、安心に役に立とうと思うことと古くからの教えでは言います。
ここの転換が難しいですね。
転換に成功しないと、また自分の我欲に呑み込まれてしまうわけで、本当に難しいポイントです。
ここから先は思弁で到達できる境地ではなさそうです。
そう生きるかどうかの覚悟と勇気の問題のような気がしてます。
自分であきれるほど、意気地がないものです。
エドガー・ケイシーとか、バシャールとか、シルバー・バーチとかetc.
最近では「神との対話」シリーズも読みました。
そのままの自分でいい、すべては完全だ、大いなる意図に身を委ねろ。
その通りなのだと思います。その通りだと思った瞬間は救われますね、確かに。
その通りなのですが、いつの間にかその通りに生きる勇気を失っています。
ついつい、小賢しい計算と意図を持って世の中をうろついてしまいます。
一言で言うと業が深いのですね。
業とまともに戦っても勝てません。
僕の場合、早起きをしようと意識でいくら誓ったところで、早起きできたためしがありません。
酒を飲むまいと決めたところで、翌日には浴びるほど飲んでいます。
業に飲み込まれて、惨めな一生を送るしかないのか?
と、ずるずる自虐の罠にはまります。
業を退治しようとすればするほど、業の罠にはまります。
どうすればいいのか。
僕の場合、意志は全く当てになりません。
自分で自分の意志を騙すのは朝飯前です。
今のところ唯一有効だったのは「修行」でした。
自分を騙す隙間がありません。
ひたすら心身を「修行」に投げ入れます。
また、古来からの「修行」は心身を任せきらないと、苦痛が大きすぎて続けられないシステムになっています。
苦痛とは自分の思い通りにならないときに感じる痛み。
物事が自分の思い通りになるわけもないし、天から見れば一個人の思い通りになろうがなるまいが
知ったことではないのでしょう。
逆に、一人一人の勝手な思いの通りに世の中がなっていたら、阿修羅の世界になってしまうことでしょう。
人より金持ちになりたい、もてたい、うまいものを食いたい、楽したい、あいつは気に食わない、
人のことなどどうでもいい。
自分の思いというものが常に高尚なわけではありませんからね。
自分の思いの勝手気ままさは嫌というほど「修行」を通じて知りました。
それでも、自分の思いは相変わらず勝手気ままなままですが。
自分の思い通りにしようとしないこと。
じゃあ、自分の意志というものを何に向ければいいのか?
他人の喜びに、安心に役に立とうと思うことと古くからの教えでは言います。
ここの転換が難しいですね。
転換に成功しないと、また自分の我欲に呑み込まれてしまうわけで、本当に難しいポイントです。
ここから先は思弁で到達できる境地ではなさそうです。
そう生きるかどうかの覚悟と勇気の問題のような気がしてます。
自分であきれるほど、意気地がないものです。
宗教とか、修行とか、私の日常には無い言葉に触れてしまうので、ここに来るのは私にとって敷居が高いのです。実は。お気を悪くなさらないでくださいね。あくまでも私の場合ですから。でも、来てしまう。たぶん、誰かの言葉が欲しいのです。背中を押してくれる言葉が。でも、すがっても、またいけません。そのことは、肝に銘じています。だから、そう、自分の言葉を捜すために、彷徨っているのかもしれません。そして、こちらにもこうしてお邪魔して、自分と対面してるんです。
宗教的な話をしても浮かないようにと、チャレンジしていますが,なかなか。
また寄ります。