風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

木になる

2005年03月18日 | スピリチュアル
20年くらい前の話になります。
大学を卒業して、やりたいことも見つからず、肉体労働一か月分の金で、アメリカ一週の旅にでました。
グレイハウンドバスで西海岸をカナダまで北上し、中西部を南下し、東海岸をまた北上し、
最後にニューヨークからロスアンゼルスま大陸横断しました。

南部のサバンナという小さな町に立ち寄ったときのことです。
川べりの遊歩道のベンチで、きらきら光る川面をぼんやりと眺めていました。
すると、隣に南米系の褐色の肌をした女の子が座り、話しかけてきました。
何を話したのかほとんど覚えていませんが、生まれ変わるとしたら何になりたいかという話になりました。
「木になりたい」と答えたら、彼女はけらけら笑いました。

そのころの僕は本当にそう思っていました。
欲と感情と計算を人間の意志というなら、意志なんかいらない。
他人の目を気にして、他人を利用して、うまく立ち回るのが人間生活なら、そんな生活はいらない。
そういうどろどろした欲得づくの自分というものからの逃れるすべがないのなら、自分もいらない。

健全な我欲というものはありえません。
我欲はむき出しに欲しがるだけです。
そして人間の自我はその我欲に振り回されます。
悲しいほどに振り回され、疲れ果て、死んで行きます。
そういうサイクルから抜け出す方法を僕は知りませんでした。

その後、彼女から近所にオフィスがあるから来ないかと(何のオフィスだ?)誘われましたが、
バスの時間があるからと断りました。

それから20年、我欲(特に睡眠欲と酒)に振りまわされ続けて来ました。
多くの人に応援され、励まされてきたのですが、感謝の念は薄いでしょう。
いやな奴です。

座禅にも行きました。
滝にも打たれました。
閉ざされたトンネルの向こうに光が見えてきたようには思います。
それが本物の光なのか、幻想なのか、それは僕しだいです。
信じるということが、自分さえ信じることができないということがどれほど傲慢で罪深いことか。

こんな自分のままで仮に木になることができたとしたら、おそらく不平不満で発狂するのが落ちです。
馬鹿ですね。阿呆です。

さて、トンネルの先にあるかのように思えた光に向かって本気で歩き出すかどうかです。
答えは自分自身の中にあります。