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海外の都市の紹介、 その83の3 『カンチャナブリ(戦場に架ける橋)』

2010年09月09日 | 海外の都市の紹介
トッポパパの記念撮影です。



川岸に下りて、下から戦場に架ける橋を見上げます。



現在は、平和そのものの景色です。



戦場に架ける橋には、観光客用の観光列車?が行き来しています。
カンチャナブリは物価の安さから、欧米人のロングスティの穴場になっています。



日本とタイは長い交流の歴史があります。
明治維新当時、欧米列強の激しい植民地争奪戦の中で、アジアでの独立国は日本とタイだけでした。
日本とタイとの国交は1887年の日タイ修好宣言により、正式に両国間の国交が開かれました。



日本もタイも、各国との不平等条約に泣かされていました。
タイ政府はタイの近代化には不平等条約の改正が必要と考え、日本や欧米の専門家多数を顧問として招聘したり、欧米諸国へ留学生を派遣するなどして国内改革に努めていました。
タイにおける西洋諸国の侵略との闘いは、1841年に即位したラーマ4世の時代に始まります。 ラーマ4世は西洋文明を取り入れるため外国人を雇って国の近代化を図ります。
ラーマ4世は『王様と私』というミュージカルや映画などで有名になった王様です。
イギリス女性の家庭教師に教育を受けた王子がラーマ5世です。



当時、タイが欧米各国から招いた20数名の法律顧問がいます。
その法律顧問の首席を務めたのが、外務大臣大隈重信の要請を受け、シャム(現在のタイ)の法律顧問になった政尾藤吉博士です。
彼は16年間、タイにとどまり続け、新法制と法典編纂の事業に取り組み、日本側代表として政尾藤吉公使がタイとの条約改正交渉を始め、これが後の1924年に締結された日タイ商航海条約です。
現在もなお、タイの教科書ではタイ近代法の父として掲載されている日本人です。



1904-1907年、日本女性、安井てつがタイ・バンコクのワット・ポーの近くにあるタイ最初の女子教育専門学校であるラーチニー女学院の校長となり、タイ近代女子教育の基礎を築きました。
安井てつは、その後1918年には、東京女子大学の学監となり、1923年、初代学長新渡戸稲造の後を受けて、第2代学長に就任しました。
1943年年には、東洋英和女子校校長事務取扱となり、生涯を進歩的女子教育の向上に捧げました。
開国したばかりの明治期の日本は、国際貢献が叫ばれている現代日本よりもはるかにスケールの大きな人的貢献をしていたようです。



タイと日本は欧米植民地主義という当時の状況の中でお互いに共感する部分が多く、大変良好な友好関係を続けていました。
満州建国問題では真っ先に満州国を承認したのはタイ政府であり、その後の国際連盟での日本非難決議で唯一棄権をしたのもタイ政府でした。
以上は、タイと日本の歴史上のごく一部ですが、歴史を踏まえてタイという国を考えるのも必要なのでしょう。



そういう歴史もよくわからず、タイとのお仕事をしてきたのが、一番上と下の写真の人たちです。
もっと勉強しなければいけませんね。

続く............................................................................。

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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんにちは。 (アレクリパパ)
2010-09-09 09:37:17
トップの写真、映画の中に同じようなシーンが。
もう少し低位置からだったかなぁ。
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空の色が綺麗です (mimi.tama)
2010-09-09 14:36:20
映画何回もテレビで観ましたよ
映画の時のまま
あまり変わってないのですね!!!

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訂正 (mimi.tama)
2010-09-09 14:40:29
周りの風景は変わってます。
下の泥水の川と
橋が変わってないということですΣ( ̄◇ ̄;)
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アレクリパパさんへ (TOPPO PAPA)
2010-09-12 16:41:03
そういえば、写真に近い映像があるかもしれません。
今は平和な観光地のように見えますが、その時代は一歩奥に進めば密林地帯だったのでしょう。
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mimi.tamaさんへ (TOPPO PAPA)
2010-09-12 16:42:38
昔の人は(失礼)良く知っている映画ですよね。
あの口笛のクワイ河マーチは忘れないでしょう。
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