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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その137 その5 『秋の湖東三山紅葉めぐり、百済寺-1』 

2013年12月05日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
湖東三山の最後は百済寺(ひゃくさいじ)訪問です。



またまた長い参道を登っていきます。



長い参道の本堂近くに立つ仁王門です。
その正面につり下げられた一対の大草鞋に触れると、身体健康・無病長寿のご利益がある言い伝えられています。



『百寺巡礼』で有名な五木寛之氏が第35番目の百済寺参拝時に、この大草鞋に触れて、百済寺満願を達成されて以来、脚光を浴びています。



本堂です。
本堂は室町時代の1498年に火災にあい、さらに織田信長によって1573年に全山焼失しました。
江戸時代の1650年に現在の本堂が竣工されました。



現在の本堂は、一重、五間六間、入母屋造で正面中央に軒唐破風が付せられております。



ネット情報からの抜粋ですが、百済寺は、606年に創建された近江の最古級寺院です。
日本に暦・天文・地理・遁甲(兵術)・方術(仙人術)を伝えた朝鮮の百済僧『観勒』(日本最初の僧正)は、602年に来日し、百済寺創建のための選地・方位決定し、百済寺の供養僧としても長く滞留しました。

湖東のこの地域は、有史以前の弥生時代から開かれていたといわれています。
とくに百済系の多くの渡来人が朝鮮半島先端から日本海流に乗り若狭に漂着し、冬場の豪雪を避けて近江へと南下し、当時の先端技術(製鉄、潅概、土木、建築 etc)や先進文化を近江にもたらし定着させたと伝えられています。

百済は、BC18年に高句麗から分離独立し、現在のソウル近辺に成立し、当初は『伯済』と書いて 『ハクサイ』と呼ばれていました。
5世紀代の国王が、『伯』の文字は左右非対称で弱弱しいため、『イ(にんべん)』を跳ね上げて左右対称の安定した『百』の文宇にすることで国家も安定するだろうとの願いを込めて『百済』に改名したといわれています。
(発音は同じく『ハクサイ』)実は、朝鮮の長い歴史の中で、『百済』の発音として『くだら』と呼ばれたことは一度もありません。
日本人のみが『くだら』と発音していたようです。



その後、百済国王は万一の有事事態(亡国)に、国民を安全な場所に避難させる必要があると考え、その受入れ国として日本が妥当であるかを調査するために、百済博士「慧慈」(百済へ亡命した高句麗僧)を派遣します。
6世紀に聖徳太子と慧慈の劇的な出会いがあり、慧慈は『この怜悧な皇子(聖徳太子)が将来天子(天皇)になるならば、亡国時に難民となった百済人を温かく招き入れて呉れるであろう』と本国の国王に返信したと言われています。
国王は、『それは有難いことだが、念には念を入れて確実ならしめるため、慧慈の持っている仏教をはじめとする全知識を惜しみなく太子に教える家庭教師としての教育係を申し出てみよ』との指令があり、慧慈と太子の間には緊密な師弟関係が生まれました。(以上、ネット情報の概略です)



なにかご利益があるかと思い、鐘楼の鐘をつかせていただきました。



この後、天下遠望の名園と言われる喜見院の庭園に寄ってみます。



続く..............................................................................。