Baltimore |
天才児として、小さいときからピアノに才能をみせたニーナ・シモンは、ハイスクールを首席で卒業して、ジュリアード音楽院の奨学金をえて、ノースカロライナ州の田舎町からニューヨークにでている。
そのとき、結婚を誓っていたボーイフレンドを田舎に残して別れてきた。音楽のため、家族と支援してくれる人たちの期待にこたえるため、そして、じぶんの将来の成功のために、男を捨てたのだ。ニーナ・シモンは、長いあいだそれを後悔して苦しむ。そして、よせばいいのに、世界的な名声をえてから、田舎町に男を迎えにいくのだ。しかし、そこには子だくさんの、貧困にくたびれてボロボロの、見る影もない初老の黒人男がいた。
失った時はけっしてもどらない。こうして、田舎町からもどるとき、ボーイフレンドのエドニーといっしょに写ったハイスクールの卒業写真を、かれの母親が返してくれる。
「彼女はリムジンの窓越しに写真を渡してくれた。写真の中の若き日の私の姿が涙で見えなくなった。私はエドニーが好きだった歌、<マイ・ハピネス>を思い出し、心の中でそっと歌った。
今日も疲れて日暮れになれば
夜のとばりに心もふさぐ
マイ・ハピネス
きみがいてくれたらどんなにいいだろう
それは私たちの歌だった。けれどもその後、私はその写真をなくしてしまった。たぶんデューク・エリントンの家に置いてきてしまったのだと思う。何年もたったある日、私は友だちとバルバドス島で休暇を楽しんいた。その時、突然近くにあった小さいトランジスタ・ラジオから<マイ・ハピネス>が聞こえてきた。私は赤ん坊のように泣き出してしまい、友だちが何を言っても涙が止まらなかった。しかし、その涙もあの卒業した年の夏から長い人生の旅を経てからのことだった。ニューヨークに向けて出発したあのころは、なぜかまだ私はエドニーと結ばれることをかすかに希望を抱いていたのである。」(『ニーナ・シモン自伝』 鈴木玲子訳 日本テレビ 1995年)
ニーナ・シモンが、ラジオで聴いて号泣した、<マイ・ハピネス>は、だれが歌ったものだろうか。気になる。<マイ・ハピネス>は、40年代、50年代、60年代のアメリカで愛されたセンチメンタルな名曲だ。あの時代、レコーディングしてないシンガーはいない、というほどカバーがある。イギリス、ドイツでもカバー・レコードが多い。日本では、ビリー・ヴォーン楽団のインストルメンタルでも流行ったものだ。「なんだこの曲か、聴いたことある」と思い出すはずだ。
コニー・フランシス My Happiness http://www.youtube.com/watch?v=SPJCsmJq8oA&feature=related
エラ・フィッツジェラルド My Happiness http://www.youtube.com/watch?v=0W9oRxmdVkE
ビリー・ヴォーン楽団 My Happiness http://www.youtube.com/watch?v=Uu9Kdef9gqY&feature=related
ニーナ・シモン Everything Must Change http://www.youtube.com/watch?v=aNUlENWMjZc&feature=related