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古い曲が気になる

帯広三条高校の校内登山は、佐幌岳

2010-06-29 | 日記・エッセイ・コラム

_d5y8716_1   (撮影、戸張良彦さん)

きのう、そばのことを書いたら、さっそく、戸張さんから、そばの花の写真を送っていただいた。これが写真家、戸張良彦さん撮影の、十勝のそばの花とそば畑だ。遠くみえる山は、佐幌岳。帯広三条高校のとき、校内登山で登った山だ。わたしの世代の帯広三条高校卒業生には、苦しい思い出の山だろうか。

_d5y8897 (撮影、戸張良彦さん)

三条山岳部のときにもなんどか行った。日高山脈でも、剣山と佐幌岳は手軽な山だ。「あしたも天気がいいようだから、午後から、剣か佐幌でも行こうか」と、土曜日、学校の廊下で山岳部の先輩に声をかけられ、出かけたものだ。

高校生で車がないから、帯広駅から根室本線の汽車にのる。(まだ日本は、そんなに車社会じゃなかったから、高校生でなくてもおなじかな。) 剣山には、御影駅で汽車をおりて歩いた。けっこう距離がある。これをアプローチといった。畑のなかの国道を歩く、単調なコースだ。ふざけながら、ハシャギながら歩くから、重い荷物を背負ってるが、これも楽しい。高校生だ。若い。これで、土曜の午後は終わるから、麓の無人の山小屋に泊まる。そこで、高校生だけの週末の酒盛りがはじまる。

                   

佐幌岳の場合は、新得の先の新内(にいない)という駅でおりた。旧狩勝トンネルを通る根室本線旧線だ。新狩勝トンネルができて、廃線になった。新内駅も、いまはない。商店があった駅前の集落も消え、森にもどっていることだろうか。新内に貯木場があった。

佐幌岳の帯広三条高校の校内登山は、AクラスからHクラスまで、ひと学年全員が参加する大遠足だった。きっとほとんど全員が山登りははじめてで、つらい思いをしたはずだ。あの佐幌岳の校内登山で、もう山はこりごりと、いらい山登りは絶対やらない、という人もいるはずだ。

佐幌岳は、1059メートルくらいの低山だが、やはり山は、山だ。北海道の山だ。きつい。北日高の最後の低いピークだが、日高は、日高だ。山頂と平地・帯広の気温差は激しい。ガスのなかに入れば、真夏でも、ひどく寒い。雨にでも降られて濡れると、凍死する危険もある。気温15度くらいでも、衣服が濡れた状態でいると、低体温症で人は凍死する。強い風が吹くと、さらに体温は下がって危険だ。(この低体温症は、短時間で脳にくるから、悲惨なことになる。幻覚で、泣き叫んだり、暑いといって裸になったり……低い山でも、山登りの人は、気をつけたほうがいい)

                      

山スキーをやる先輩たちは、冬も佐幌岳によく行っていた。いまは、サホロ・スキー場だ。(いま、2万5千分の1の地図をみると、ホテルやゴルフ場もある、ここがサホロ高原のリゾート地なんだ。知らなかったな)

誰もがじぶんの車で麓までいくいまは、杉沢に車を置いて、二ペソツも日帰りだという。

                    

長い狩勝峠を汽車が越えるときは、前後に機関車がついた。もちろん、SLだ。大学受験のときも、大学に入って、帯広に帰省するときも、このSLが引く汽車で狩勝峠を越えた。東京に行くには、函館から青函連絡船だ。トンネルができるのは、ずっとあとのこと。当時は、東京に行くなんてことは、もう命がけの大旅行だ。水杯で親兄弟と別れた。

いまでは、昼飯のそばを食べるためだけに車を飛ばす、隣の市の釧路にも、当時は、SLの汽車で行った。興奮で前夜は眠れない、これも大旅行なのだ。駅のホームまで親戚一同、見送りにきて、餞別までくれて、泣き別れだ。

遠いむかしだ。

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わたしは、高校生のとき、東京の予備校の夏期講座にやってきた。あのときは、何時間かかったろうか。30時間くらいか、もっとか? 狩勝峠を越えて函館までが長い。(あとから、わたしは、矢沢永吉や浜田省吾のコンサートを函館で主催していたから、よく帯広から函館までひとりで運転した。飯も食わず、トイレだけのノンストップでも、10時間では走れない。)

        

汽車が函館近くなると、国鉄の車掌が、車内で乗船名簿の用紙を配る。(あの当時の国鉄の車掌や国鉄窓口のれんちゅうは、横柄で、とんでもなくゴーマンだった。JRのいまでは、信じられないだろうが、あの時代の、接客する立場の国鉄職員は、まるでコメディ映画に登場する発展途上国の警官か、クーデターで権力を手にしたアフリカのワイロ軍人のようだった)

青函連絡船の洞爺丸の転覆事故で、ほとんどの乗客が死んでいたから、青函連絡船に乗るのは、客も、乗員も、命がけだった。乗船名簿の記入は、おたがい、形式ではなかったわけだ。

そうして、国鉄の車掌のゴーマンにたえて、汽車が函館駅につくとすぐに、青函連絡船に乗る人たちは走る。じぶんの荷物を両手でもって、全速で走る。なぜだ? 最初、うぶな田舎の高校生のわたしは、この全速疾走の意味がわからず、出おくれた。

帯広から東京・上野までの、国鉄乗車料金には青函連絡船の料金が含まれている。でも、それは船の三等席で、畳の大部屋だ。北海道からのほとんどの乗客は、その席に行きたい。日本はまだ貧しかった。

(船は、大昔から今も、客室料金ランクの幅は大きい。だからデカプリオ主演の映画『タイタニック』のような、階級差のラブ・ストーリーのフィクションにふさわしい舞台になる。客船はそういうものだ……青函連絡船の当時も、座席の激しい価格差があったのだ)

この畳の大部屋は、船底全体いくつのもあるのだが、客は多い。ひとりの寝場所を確保するのがたいへんだ。それで走る。わたしのように、北海道の奥地から出てきた無知な高校生は、出おくれる。寝場所もなく、揺れる通路に立って寝るか、デッキで津軽海峡の潮風にさらされて凍死するか。

東京からの、帰りの青森からの青函連絡船、わたしは、ちがっていた。荷物は全部肩からクロスにさげて、手ぶらで全速で走った。わたしは、乗客のトップの人たちと争って走った。いまでもバッグは、そうして持つ。肩からクロスしてかける。

              

きょうは、ほんとうは、'My baby just cares for me' という曲のことを書こうとしていた。けっこう、かなり、大きく脱線した。あすは、もどそう。

http://www.youtube.com/watch?v=FHSqUk92mF0&feature=related