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古い曲が気になる

「ライク・ア・ローリング・ストーン」と「サウンド・オブ・サイレンス」の関係

2010-04-12 | 日記・エッセイ・コラム

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1963年11月22日、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディーが、白昼、テキサス州ダラスの街のなかで射殺された。

ポール・サイモンは、この事件にショックをうけて、すぐに詩を書き、曲をつけた。その曲を、小学生のときからの親友、アート・ガーファンクルにみせた。ふたりで歌うことにした。それが「サウンド・オブ・サイレンス」だ。ふたりは、クイーンズとコロンビア、学校は違うが大学生だった。

ふたりは10代のとき、流行りのエバリー・ブラザーズやジャン&デーンのような、ロックンロール・デュオを組んでレコードデューしたことがあった。トム&ジェリーだ。ビルボードのトップ40に入るヒット曲もあった。

  トム&ジェリー Baby Talk http://www.youtube.com/watch?v=yNwDYYl5uk8

しかし、もともとミュージシャン志望でないアート・ガーファンクは、名門コロンビア大学に入り、ポール・サイモンは、クイーンズ大学に入って、トム&ジェリーは解散した。

(アート・ガーファンクルは、ポップス界随一のインテリだ。大学院を出ていて、芸術史の博士号と、数学の博士号をもっている)。

ポール・サイモンは、クイーンズ大学でキャロル・キングやジェリー・ゴフィンと音楽をつづけて、曲を書き、コーヒーハウスで歌っていた。

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ポール・サイモンの歌う「私の兄弟 He Was My Brother」を聴いて、コロムビア・レコードに誘ったのが、トム・ウイルソンだった。トム・ウイルソンは、ハーバード大学をでたあと、ジャズのサン・ラとセシル・テーラーをプロデュースしてデューさせ、コロムビア・レコードに入って、ボブ・ディランのプロデュースをしていた。

ポール・サイモンは、かってのトム&ジェリーの相棒、親友アート・ガーファンクルを誘って、サイモン&ガーファンクルのファーストアルバムをコロムビアで制作した。プロデュースは、もちろんトム・ウィルソンだ。しかし、ちっとも売れない。(売上3000枚と書いてある文もあるが、これはメーカーの出荷数じゃないかな。全米の小売店で実売した枚数は、もっとずっと少ないのじゃないかな)。

このまったく売れなかったアルバムが、「水曜の朝、午前3時」。のちに60年代の傑作といわれるLPだ。名曲「サウンド・オブ・サイレンス」も入っている。

   アルバム「水曜の朝、午前3時」の The Sound of Silence http://www.youtube.com/watch?v=pDYxgDO5bCI

水曜の朝、午前3時(紙ジャケット仕様)

アルバムが発売になっても、まったく反応がないので、サイモン&ガーファンクルは、また解散した。アート・ガーファンクルは、大学院の勉強にもどり、ポール・サイモンは、ヨーロッパに放浪の旅にでた。ヨーロッパ・イギリスのコーヒー・ハウスやクラブで、弾き語りをして生活した。

パリ、コペンハーゲン、ロンドンと流れ歩き、イギリスには長く留まった。このとき、ポール・サイモンにギターを習ったイギリスのミュージシャンがたくさんいるという。のちに「メロー・イエロー」などのヒットをとばすドノバンもそのひとりだった。

イギリス・サセックスのコーヒーハウスで歌っているときに恋人ができる。キャシー・シティー Kathy Chitty 。「キャシーの歌 Kathy's Song 」で歌われる、キャシーだ。このとき、キャシー17才、ポール・サイモン22才、ふたりは、アメリカに渡りバスで旅をした。

青春だ。60年代70年代、最高に成功したシンガー・ソングライターのひとり、ポール・サイモンも、恋人とバスでアメリカを旅していたことがある。

ふたりは、イギリスにもどり、ポール・サイモンは、ロンドンでソロ・アルバムを制作している。このときも「サウンド・オブ・サイレンス」をレコーディングしている。ここでは、完全にギター1本でポールのボーカルだけ、しかも、ワンマイク、つまりボーカルもギターも、ひとつのマイクで録音している。ポールが足で床を踏んでリズムを刻む音が入っている。おそらく、この形が、ポール・サイモンの「サウンド・オブ・サイレンス」の理想の表現なのだろう。

このイギリス時代の恋人、キャシーは、ソロ・アルバムのジャケットに写っている。失意でイギリスに渡ったポール、そこで出会って、貧しいが才能あふれるミュージシャンを愛したイギリス娘。青春だ。

ポール・サイモン・ソングブック(紙ジャケット仕様)

  「ポール・サイモン・ソング・ブック」の The Sound of Silence http://www.youtube.com/watch?v=DzsaE68IfXI

いま、わたしは、このイギリスで録音したポール・サイモンのソロの「サウンド・オブ・サイレンス」が好きだ。

ポール・サイモンがイギリスに渡り、アート・ガーファンクルは大学院にもどって、グループは消滅した。だが、プロデューサーのトム・ウイルソンは、サイモン&ガーファンクルを諦めなかった。ふたりに無断で、LPの音源にロックバンドをミックスして、フォーク・ロック・バージョンにして「サウンド・オブ・サイレンス」を発売することにした。

ボブ・ディランの「ミスター・タンブリンマン」を、バーズがロック・バージョンにしてヒットしていたことが、「サウンド・オブ・サイレンス」をロック版にしてシングル発売しようと思った動機だと、トム・ウィルソン自身がいっている。

そのとき、トム・ウィルソンは、ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」のシングルをレコーディングしていた。そのバンドで、「サウンド・オブ・サイレンス」のバックを演奏してもらった。その演奏とLPのマスターをミックスして、シングルをつくった。

デイランのシングル「ライク・ア・ローリング・ストーン」の録音は、1965年(昭和40年)6月15日・16日と記録されているから、「サウンド・オブ・サイレンス」のロック・バージョンのバック・バンドも、このどちらのかの日にレコーディングされたのだろう。

こうして、「サウンド・オブ・サイレンス」のロック・バージョンは、イギリスにいるポール・サイモンにも、アート・ガーファンクルにも、無断で制作され、発売された。

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このロック・バージョンのシングル盤発売を聞いて、ポール・サイモンは激怒した、といわれる。とうぜんだ。だが、勝手につくったのは大問題だが、トム・ウィルソンの判断が、商業的には正解だった。ロック・バージョンの「サウンド・オブ・サイレンス」は、ヒットチャートを急上昇して、トップになったのだ。

イギリスのポール・サイモンに、プロデューサーのトム・ウィルソンから連絡が入る。ヒットチャートのトップだ、アメリカに帰ってこいよ、サイモン&ガーファンクルをやろうよ!

シングルがチャートを上昇すると、ちっとも売れなかったアルバム「水曜の朝、午前3時」が、爆発的に売れだした。

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ボブ・ディランと、プロデューサー、トム・ウィルソン。

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プロデューサーのトム・ウィルソンは、コロムビアをやめたあと、マザー・オブ・インベンションをデビューされ、フランク・ザッパをロック界のカリスマにする。しかし、1978年、心臓発作で急死した。トム・ウィルソンがプロデュースしたボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、2004年ローリングストーン誌の、史上最も重要な500曲の第1位だ。

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左で立っているのがフランク・ザッパ、右で電話をかけているのが、プロデューサー、トム・ウィルソン。

  全米No.1になったシングル盤のThe Sound of Silence  http://www.youtube.com/watch?v=0khTIzXkjeg

しかし、やはりポール・サイモンは、ロック・バージョンが意に沿わないのか、ライブでこの曲は、ギター1本でやる。ある意味、皮肉なものだ。この、作者ポール・サイモンに無断でつくられたロック・バージョンがなければ、サイモン&ガーファンクルの栄光はなかったのだから。

アーティストとプロデューサーとの立場の違いが、明快にわかる事例でもある。

 ライブのTHe Sound of Silence  1967年モンタレー・ポップ・フェス http://www.youtube.com/watch?v=h-S90Uch2as&feature=related

 サイモン&ガーファンクル 「キャシーの歌」http://www.youtube.com/watch?v=Q60YKfPKdjQ

 ボブ・ディラン Like A Rolling Stone http://www.youtube.com/watch?v=4hr_G3e0rgI&feature=related

 バーズ Mr.Tamburime Man http://www.youtube.com/watch?v=0cBS9j-SgJQ&feature=fvst


カチンの森

2010-04-12 | 日記・エッセイ・コラム

                  

ポーランド大統領の墜落事故で、ポーランド国民は喪に服している。http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00175306.html

ポーランド大統領一行は、カチンの森事件の犠牲者を追悼する式典に向かっていて、ロシアのスモレンスク空港で墜落した。

「カチンの森事件」とは、ソ連軍が犯したポーランド人大虐殺事件だが、ソ連は、ナチ・ドイツの犯行だと一貫してしらを切ってきた。だから、ソ連から金を提供されてきた日本の新聞・出版、マスコミ界、そして左翼は、徹底して無視してきた。やっと、最近、プーチンがソ連の犯行だと認めたが、ソ連の犯罪であって、ロシア人に責任はないと言っている。もろん、プーチンは謝罪などしない。「不幸な事件だ」と、まるで人ごとだ。

1939年、ポーランドは、ソ連軍に破れて25万人以上の軍人と政治家、ジャーナリスト、一般市民が、ソ連軍によって連行された。ポーランド政府の再三の抗議で、捕虜が釈放されて帰国したが、連れ去られた人たちの10分の1、わずか2万7000人でしかなかった。残りの22万人以上のポーランド人は、二度とロシアから帰って来なかった。

1943年、ロシアに侵攻したドイツ軍が、スモレンス郊外、カチンの森林のなかで、多数の虐殺死体を発見した。遺体はみな、ポーランド軍将校の制服を着ていた。後ろ手で針金で縛り、後頭部から銃弾を撃ちこむ処刑は、ソ連赤軍の常とう的方法だった。ドイツ政府は、ソ連の残虐性を宣伝するために、ドイツ軍に発掘をさせ、4400体を発見する。しかし、戦況は変わって、ソ連軍がドイツ軍をロシアから敗走させた。

イギリス軍は、ドイツ軍の無線を傍受していて、カチンの森でソ連軍によるポーランド人の虐殺死体を、ドイツ軍が発見したことを知っていた。チャーチル首相にも報告されていた。チャーチルから、アメリカ大統領ルーズベルトにも知らされた。しかし、戦争真っ最中に、同盟国ソ連の犯罪を暴く必要はない、と両首脳は判断した。無視したのだ。

ソ連は、カチンの森の虐殺は、ナチ・ドイツの蛮行だ、と主張しつづけた。あろうことか、ドイツの戦争犯罪を裁くニュールンベルグ裁判でも、ソ連は、カチンの森事件を、ドイツ軍の、人道に対する恥ずべき犯罪だ、と断罪したのだ。アメリカもイギリスも、このソ連の恥ずべき主張を支持したのだ。敗戦国の哀しさ、ドイツ人が無罪を主張して、ソ連赤軍の犯行だと言っても、ムダだった。

こうして、60年いじょうの時が過ぎた。スターリンのポーランド人処刑命令書が発見・公開されて、やっとプーチンが、カチンの森虐殺は、ソ連軍の犯行だった、と認めた。最近のことだ。

ロシアには、カチンの森のように、ソ連軍によってポーランド人が埋められたところが、まだまだ知られずにたくさんあるのだろうな。

日本では、ソ連崩壊まで、新聞・マスコミ・左翼に、ソ連の金が多量に流れていたから、ソ連の犯したカチンの森事件は、タブーだった。学校の世界史で教えることなどけっしてないだろう(カチンの森事件を、ナチ・ドイツがやった虐殺と教える教員はいても、共産ソ連の戦争犯罪だと教える教員は、日教組・北教組にはいないだろうな)。いまも、マスコミのれんちゅうは、ソ連赤軍の犯罪は、タブーじゃないのか? カチンの森事件追悼式の説明をきちっとしたテレビ・ニュースがあったろうか?