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tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

対話と説得による経済政策

2011年05月26日 12時02分18秒 | 社会
対話と説得による経済政策
 東日本大震災は、人命、先祖伝来の資産、さらに日本の国土に大変な惨禍をもたらしましたが、歴史上の大きな自然災害が日本人に多くの教訓を残したように、いろいろな教訓を残しつつあるように思われます。
 その教訓から素直に学び、その教訓を将来生かすことが、失われた多くの命への鎮魂、そして日本人の将来への遺産にもなるのではないでしょうか。

 震災発生後、日本中は広く自粛ムードに包まれました。これは人間として、社会として当然のことでしょう。しかし喪は明けなければなりません。

 そのキッカケになったもののひとつに、岩手の酒造会社からの思い切った発信 がありました。
 折しも桜が満開になる季節でした。「被災地岩手への支援のためにも、自粛を続けるのではなく岩手のお酒を飲んで、花見を大いに楽しんでください」といったものでした。
 
 これで、日本国内のムードは大きく変わったように思います。私も尻馬に乗って、ネットで注文をしましたが、大量の注文が捌き切れないということで、気仙沼の酒造会社に切り替えて注文をしました。大変丁寧な感謝のお手紙を頂きました。

 タイミングの良い適切な情報発信は、ヒトの心に響き、社会のムードを一変させます。これは、その情報発信が、多くの人に「そう言われてみれば確かにそうだ」と納得させる、つまり、同感させ、共感させる説得力を持つからでしょう。

 こうして多様な形での被災地の支援という方向の動き出すのと同時に、それが、チャリティーと一緒になって、さらに大きな広がりを持つ動きになりました。有名な若いゴルファーの行動なども、素直に賞賛され、多くのイベントがチャリティーの形で、到る所で展開されるようになりました。

 加えて、時に「多すぎる」ほどのボランティアーの活動も、最近、無気力などと評された若い日本人の、心の底にある、「目的がはっきりすれば邁進する」といった気概を見せてくれたように思います。

 今回の経験で、人は、その目的・趣旨に賛同すれば、当面の損得は犠牲にしても、その目的のために、喜んで協力し、活動するという、いわば人間本来の率直なあり方のようなものが見えたのではないでしょうか。

 話は多少飛躍しますが、経済政策においても、金融政策や財政政策 のように、経済的な誘導手段で、国民を動かそうとする政策だけではなく、「日本が将来良くなるためには、国民の皆さんがこのように行動してくれることが望ましいのです」という、国民の行動に直接訴える、『対話と説得 による経済政策』というのがあってもいいのではないでしょうか。

 問題は、その政策が、今回の岩手の酒造会社からの発信のような「納得性と説得力」を持つ内容のものかどうかですが・・・・・・。


放射能汚染と天気予報

2011年05月03日 14時24分46秒 | 社会
放射能汚染と天気予報
 放射線の恐ろしさは、全く目に見えないし、人間の五感のどの機能でも感じられないというところにあるのでしょう。
 「出荷されたほうれん草は、検査済みだから安全です。安心して食べてください。」という報道があったと思うとその一方で、「手違いがあって、安全でないほうれん草が出荷されていた」との報道があったりします。
 
 われわれ高齢者は、もう累積被曝量がそんなに大きくなることはないので、個人的には心配していませんが、子供や今から子供を持たれる方は、本当に心配だろうと思います。
 福島第一原発の放射能汚染がどの地域にどのように拡散していくかのシミュレーションを文部科学省は「やっぱり隠さないほうがいい」というとことで、ようやく発表に踏み切りました。

 ところで、私たちは、毎日天気予報を見ています。レーダーを始め科学技術の発達で、最近は、天気予報がよく当たるようになりました。
 子供の頃、「測候所、測候所、測候所、と三回言えば、多少腐ったものを食べても当たらない」などといわれたのを、懐かしく思い出します。

 そうした天気予報も、リアルタイムの各地の報告には敵わないようです。今は、全国到る所から、「雨が降りそうだ」 「雨が降ってきた」 「もうそろそろ止みそうだ」 「この地域は晴れている」 といった情報が入ってきて、それをまとめて発表する民間天気予報機関がもっとも正確、などといわれます。
 天気は目に見えますから、各地の情報を集めれば、最も正確な天気情報になります。

 それなら、放射能汚染も「見える化」して、情報を集めればいいのではないかという事になります。ガイガー計を使えば、放射能汚染の見える化は可能でしょう。私も事故直後に、何かの役に立つだろうと、中国製のガイガー計を入手しています。
 今、ネットで販売しているガイガー計はほとんどが外国製で、しかも品切れです。

 ソフトバンクの孫社長は、福島の小学校にガイガー計を配布して、みんなから放射線測定量の報告をしてもらうことを計画しているとネットに出ていますが、こうした考え方が、責任ある政府機関から出るべきでしょう。

 専業メーカーの協力を得れば、放射線量の見える化は容易に可能です。政府が大量に購入して被災地には無償配布、他の地域でも多くの人がガイガー計を持てば、政府不信も、風評被害もなくなるでしょう。 
 客観データのない論議は、疑心暗鬼と相互不信の温床です。日本人はもっと賢いはずです。


災害復興支援策の早期稼動を

2011年05月02日 16時42分16秒 | 社会
災害復興支援策の早期稼動を
 多くの悲しみを内包しつつも、被災地域はいよいよ復興の本格化に向けて動き出しています。 
  4兆円余の第一次補正予算も参議院を通過したようですし、第二次補正も日程に上りつつあり、巨額にのぼる義捐金もふくめて、万年黒字国日本の黒字を 本格的に使って復興に邁進するための資金の準備も、具体的な形を取りつつあります。

 港湾機能復旧のための瓦礫の撤去作業を急ぐ漁業関係者を市が雇用し、作業の進捗と雇用の確保を両立させる方策を取り始めたところもあります。
 1日8時間で12,400円だそうですが、復旧作業が完了すれば、漁業か再開できるという明確な展望のある臨時雇用ですから、一石二鳥のこうした取り組みは積極化されるべきでしょう。

 行政に先んじて共同仮設住宅を、自分たちの才覚で用地を確保し、全国各地からの支援で建設に踏み切った集落の共同作業の報道もありました。
 こうした前向きの活動に従事する人たちの表情の明るさには、見ている我々も何かほっと救われる思いです。

 こうした時ほど、中央から地方までの行政の役割と地元の復興への息吹との整合性が問われる時はないと思われます。
 何といっても復興の当事者は、災害の被害者である地元の人たちでしょう。巨大災害から健気に立ち上がり、力強く前進しようとする人たちの力こそが復興の原動力です。この力が、より大きく発揮されるような支援策が取れるかが行政に問われているのです。

 災害に強い地域づくりを考える専門家の集まりも大事でしょう。しかし、自分たちの子孫のためにどういう地域づくりを考えるか、最も切実に考えているのは矢張り被災者の方々です。専門家や行政の示す再建策は、そうした人々の希望にプラス・アルファをして、「これなら」と喜んでもらえるようなものであることが必要でしょう。

 タイミングもまた大変大事です。現地の人々は1日も早い復興を望んでいます。早いに越したことはありません。公正や公平に頭を使うより、多少拙速でも、如何に早期に支援ができるかに頭を使うほうが大事でしょう。
 多少の問題は、復興が進む中で解消されていくでしょうし、最終的には、自分の努力を最も重視するのが日本人の本来の思考のあり方です。

 復興の形は、地域によりバラエティーに富んだものになるでしょう。地域により、自然の特性や人々の意識は微妙に違うように思われます。 結果的に災害に強い「多様な」地域づくりが出来上がっていくというのも素晴らしい事ではないでしょうか。


電力供給の未来に生かせ

2011年03月27日 11時10分27秒 | 社会
電力供給の未来に生かせ
 地震、津波で多くの人命と積み上げてきた生活を失いながらも、その悲しさを乗り越えて、新たな日常の再建へと立ち上がる被災地の人々の強い意志が徐々に回復しつつある中で、原発の問題は、日本社会に、さらには世界のエネルギー政策にも大きな影を落としているように思われます。

 人間生活のベースである土地がある限り、伝統や文化や、人のつながりの再建は不可能ではありません。しかし、原発事故の場合は、土地があっても住むことができないという郷土喪失の問題が発生しています。

 「予断を許さない」といった発言が政府や関係者から出ますが、先行きが見えないことは、人間の意志の発揮の決定的障害でしょう。
 線量計を止めてまで復旧にまさに必死で立ち向かう方々の覚悟の行為に心を打たれながら、この問題を、将来に向けてどう受け止めるかを、我々も真剣に考えなければならないのではないでしょうか。

 福島第1原発でも、1~3号は稼働中で、4~6号は点検中だったようです。ベース電力を供給する原発の稼働率は意外に低いのだなという印象を受けました。それでも、原発の発電コストは相対的に低いということです。

 しかし、今回のような災害を考えた場合採算はどうなるのでしょうか。周辺装置まで含めた徹底的に安全な原発など考えたら、コストが膨大になって現実的ではなかった、という専門家の声も報道されていましたが、今後の技術革新でそれが可能になるのでしょうか。
 電力は今や我々人間社会のあらゆる活動のベースです。電力なしの人間生活が考えられない以上、我々は、電力供給の問題を徹底して考えていかなければなりません。

 それはあくまでも、生産と消費を繰り返す中で、技術革新と生活の快適さ、そしてより良い社会環境の実現を目指す「この社会に生活する人々」にとって、より望ましいものでなければならないでしょう。
 原発災害のこれ以上の拡大を防ぐべく、まさに決死の活動を続ける人々の安全を心から念じ、また祖先から受け継いだ生活の場を追われる人々との痛みを分かちながら、この最悪の経験を、将来・未来の日本のエネルギー政策にどう生かすのかをみんなで考えなければならないのでしょう。

 そのためには、この経験のあらゆるデータを克明に積み上げ、コストと安全のすべてを考えつくした、利害や立場の偏りのない判断が必要になってくると思います。
 政府、関係業界、関係学会などの、未来に向けた誤りない判断を願うや切です。


頑張れ日本、日本人

2011年03月20日 12時48分35秒 | 社会
頑張れ日本、日本人
 巨大災害から1週間余が過ぎましたが、日本人はその中でもまた沢山の勉強をしているように思います。第1次オイルショックから学んで、第2次オイルショックでは世界の注目を浴びる対応能力の高さを見せた日本人は、今回も、日々、災害対応、復旧への取り組み方を学び、日々改善を行い、短期間に目覚ましい対応力を発揮しています。

 桁外れの広域災害、地震だけではなく巨大津波の恐ろしい破壊力、これらは車を主要な生活手段にする社会にはまさに壊滅的な打撃です。
 車社会は、道路とガソリンで生きている社会です。水、電気、燃料といったライフラインの維持も、道路とガソリンによって維持されているという構造になっています。

 マスコミもあらゆる手段で、災害地域の生の情報を広く国民に知らせ、さらに、経験に即して現状に対応するノーハウを持った方々を登場させ、正確な情報が行き渡ることによって、チェーンメールや無責任は風評・伝聞といった社会的なウイルスの除去に大きく貢献しました。

 こうした多様なインフラの上に乗って、医療品、水、食糧、基礎的な生活物資、ほぼ1週間という素早さで、なんとか行き渡ることが出来たように感じられます。
 マスコミとネットからしか情報を得られない私にも、これは素晴らしい実績なのではないかと率直に感じられます。

 多少の買いだめもあったようです。買いだめというのは、1人が普段1個買うところを2個買うだけで、生産量が2倍にならないと対応できない状況を作りだします。すでに第1次オイルショックの時に経験済みですが、今回はあの何分の1の規模でしょう。

 我が家ではパンを買いに行かずに、非常袋の乾パンの缶詰を出してきました。賞味期限は2009年ですが、何も問題はありません、「1日に乾パン10個と味噌と少しの野菜を食べ・・・」などといいながらも、退職高齢者には特に不自由はありません。

 しかしまだ大きな問題が残されています。原発への対応です。こうしたものは作った人が一番よく知っているはずです。メーカーの積極的協力は何といっても心強いことですし、急を要する対症療法的な行動としての自衛隊、消防庁などなどの適切な判断と対応は偉大です、特に現場で体を張って事に当たるすべての方々には、ただ頭を下げ、深甚の敬意と感謝を表すのみです。

 自衛隊ヘリの測定による構造物の表面温度の安定と、外部電源工事の綿密な進展の様子に、素人なりによい兆しを感じながら、頑張る日本・日本人を実感しつつ、関係する皆様方にただただ感謝し、成功を祈っています。


巨大災害と冷静な対応

2011年03月15日 22時23分10秒 | 社会
巨大災害と冷静な対応
 巨大地震、大津波から原発の損壊事故、そして首都圏一円にまで及ぶ多様な仕事・生活上の問題まで連鎖を延ばす歴史上稀に見る巨大複合災害の中で、日本人がそれにどう対応するか、世界中が注視しているようです。
 しかし、注視しているかどうかに関わらず、いま、現実に、日本人は冷静に、見事な対応をしているのではないでしょうか。

 特に、自然災害に対しては、日本人の伝統的意識、「自然のなすことについては、それが恩恵であれ、災害であれ、受け入れる以外に人間は取るべき行動を持ち得ない」という自然観がそのまま反映されたものであるように感じます。

 受け入れ難いような悲しみの中で、多くの苦難に耐え、極めて冷静に、今何をすべきかを判断し、そのための努力を積み上げるといった真摯な行動が、あらゆる場所で行われている様子が、テレビの画面からも確りと伝わってきます。同じ日本人として、尊敬と賛嘆の念で一杯です。

 まだ、自然災害の全貌もわかっていません。更に人為的なものも絡んだ、原発の事故がこの後、どのように推移するかは、全く予断を許しません。
 しかし、多分日本人は、あとから見れば、矢張りその時点、その時点で、ベストの対応をしたといわれるような対応をしつつあるのではないでしょうか。
 
 この巨大災害の今後の推移が、これ以上ひどくならないように願いながら、これからも我々一人ひとりが、その置かれた場所で、それぞれにベストの対応をするよう、更に一層心がけたいものです。

 海外からの、温かい支援の手も、差し伸べられつつあります。連日映し出される日本人らしい、それぞれの場面における冷静で適切な対応を見習いつつ、私も、市井の片隅で、この問題に対する私なりの真摯な対応を続けて行きたいと思う毎日です。


ジャパン シンドローム?

2011年03月08日 17時59分40秒 | 社会
ジャパン シンドローム?
 近頃、 ジャパン シンドロームなる言葉が使われます。英エコノミスト誌が書いた言葉の受け売りですが、エコノミスト誌は、この所元気のない日本経済を応援するつもりで書いたようです。

 昔から日本のマスコミは、外国の日本についての発言を、何か自虐的に受け取り、自分を蔑むようなところがあります。
 ドゴールが池田首相のことを「トランジスタ商人」と言ったとか、欧米が「日本人はウサギ小屋に住む働き中毒」と言ったとか書き立てたのをご記憶の方も多いでしょう。

 いまや欧米でも中国でも、首脳の外国訪問には、多くの経済人が同伴してまで、自国製品の販促をやります。これが今の常識です
 かつて、ドイツのコール首相(当時)が来日した際、「ドイツは労働時間が短いというが、二重就業が多いではないか」ときかれ「ドイツ人は勤勉だからそうやって働く人も多い」と答えていますし、アメリカが総実労働時間で日本より長くなったとき、アメリカ人が「アメリカ人はもともと勤勉なのだ、よく働くのはいいことだ」と言ったのを何度も聞いています。

 池田首相は首脳セールスの先鞭をつけた先覚者ですし、日本人は働き者だから、この円高に耐えて、世界に迷惑をかけず、貢献を続けているのでしょう。卑下することはないのです。

 確かに今の日本は元気がありません。政局も混乱の極です。しかし、「これで日本はもうダメだ」などと思っている日本人はいないでしょう。だめだ、だめだといいながらも、ほとんどの日本人は健気に頑張っています。

 ジャパン シンドロームは余り感じのいい言葉ではありませんし、「何がどう悪くてこうなっているのか」といった、原因と状況の明確な表現でないと対処方法も的確に論じられません。ただ、エコノミスト誌もふくめて、日本の人口減少問題を過度に悲観的に取り上げる傾向は、どうもあちこちに見えているようです。

 確かに少子化の原因は、必ずしも特定できていません。しかし、この少子化傾向が何時まで続くかといった将来展望も、実は誰にも解っていないのです。あと40年この傾向が続けば、2050年には日本の人口は・・・、というのは、あくまで「仮定」の話です。

 最近の婚活ブームなどを見ていると、近い将来、少子化傾向も変わって来るのではないかといった気もします。悲観しないでよいシナリオも考えて見ませんか。


食文化の時代

2010年11月09日 12時21分51秒 | 社会
食文化の時代
 最近のテレビの番組で、圧倒的に多いのは「食べ物」に関わる番組ではないでしょうか。外国へいって、NHKの国際放送などを見ていても、食べ物、料理の番組の多さが際立つ様に思います。
 
 「食」に関わる番組は極めて多彩です。全国の駅弁大会からB級グルメの全国大会、日本各地の食材や美味いもの探索番組、スタジオの中で、有名シェフや芸能人、カリスマ主婦の料理実演。連続ドラマでも「食」をテーマにしたものが好んで視聴されるようです。

 出てくる「食」の種類も、まさにグローバルで、日本はもちろんですが、中国、韓国、イタリア、フランスなどなど。
 しかし、アメリカ料理、イギリス料理、ドイツ料理(ビールは別)などというのは、どうも出てきません。グルメの人に聞くと、一言「美味い料理がないからだよ」ということで、言われてみればナットク・・・・・。

 戦後日本に来たアメリカ人などが、鮨を見て、「生の魚は俺たちは食わない」など言っていたのを思い出しますが、今では、日本食は「Sushi (すし)」を筆頭に、「目で楽しみ、舌で味わう」、美しさと微妙な味、さらにそれを取り巻く道具立てや環境、つまり、器(うつわ)や雰囲気、作法までを含めて、「日本食文化」を世界に広めつつあるようです。
 昨今の日本は、広範な「食文化」を世界に輸出する国になってきたようです。

 日本の歴史を見ますと、社会が閉塞状態で、庶民のエネルギーが余っている時、何か時代を反映した独特な文化が育っているようです。それは宗教であったり、占いであったり、和歌や俳諧の深化であったり、ファッションや歌舞音曲の庶民への普及であったり、盆栽や朝顔の品種改良であったり・・・・・と、その中身は多様です。

 矢張り日本人は、閉塞状態で、思うようなエネルギーの発揮場所ないときには、その環境の中で、その時に出来る何かを突き詰めてやる性癖があるのでしょうか。それが今「食文化」の全盛と世界への発信という方向に向いているような気がしてなりません。

 打ち続く円高で、得意技の「ものづくり」は行き詰まってしまい、所得水準は年々下がる一方。せめて与えられた環境の中で、元気にやれるのは、国内に材料を求め、日本的付加価値をたっぷり盛り付けて、自らも楽しみ、世界への発信できるようなもの。歴史の中で磨き上げられた「食文化」なら、まさにピッタリの「ニッチ(niche)」でしょう。

 桶屋哲学ではありませんが、「円高なると、食文化が流行る。」


規制とルール

2009年09月19日 09時57分15秒 | 社会
規制とルール
 前々回、規制について書かせていただきました。その中でも、規制は善とか規制は悪とかいった二元論は、人間社会には不適切で、世の中凡て「適切な規制」という バランス感覚が必要という趣旨で書いたつもりです。

 規制といいう言葉はいわば考え方を示すもので、それが具体的に形になったものがルール(規則)ということでしょうから、今回は規制とルールということにしました。

 ところで、規制の効用の具体的かつ典型的な例といえば、交通規制でしょう。スピード制限は守らない人も多くて、この道路は40キロが良いのか50キロがいいのか論議もあるでしょうが、制限速度(規制)が必要なことは誰でも認めるでしょう。

 もっとはっきりしているのは交通信号です。赤、黄、青の信号があるからこそ、交通はスムーズに流れるのです。混雑する交差点で信号がなかったらどうなるかと考えてみれば、規制(信号)があった方がずっと走りやすいことは明らかでしょう。規制が自由を生むともいえましょう

 規制が適切だから世の中うまくいくというのはスポーツにおいて典型的です。
 野球の場合を考えて見ましょう。三振とフォアボールというのは、本当にうまくできていると思います。二振とスリーボールでも、四振とファイブボールでも野球の面白さは半減するでしょう。

 つまりこれは、野球というゲームの焦点にある投手と打者が、それぞれの腕前を最も高度に発揮しようという気になるルール設定になっているということではないでしょうか。
 
  つまり、ルールが良ければ、選手はより努力し観客はより楽しめるスポーツになるということでしょう。規制のあり方について、人間の知恵の出しどころは、どんなルールを作れば、人間が最も(良い社会を目指して)努力するような動機付けになるかという点でしょう。
 
 その意味では、規制(その具体的な形であるルール)は、出来るだけみんなが納得できるようなものを決めて、あまり頻繁に変えないことです。昔から朝令暮改は悪いやり方の例えです。
 
 もっと悪いのは、一部の人に都合の良いようなルールを考えることです。これはそれ以外の人たちのやる気をなくし、社会や人心を分断して、社会を混乱に陥れます。

 もうひとつ。ルールに完璧なものはありません。ルールの中での活動の仕方について、人間が知恵を働かせることが大事です。直進優先の青信号の中でも、状況によっては、ライト点滅で右折しなさいと合図するようなルールと知恵の組み合わせがうまく出来れば、世の中は大変良くなるということではないでしょうか。


Readerでない閣僚に好感

2009年09月17日 10時16分54秒 | 社会
Readerでない閣僚に好感
 昨日、鳩山内閣が発足して、夜遅くから今朝の1時過ぎまで、初閣議後の閣僚の記者会見が行われました。
 前回書きました規制の問題の続きは次にして、今までと大きく変わった記者会見の感想を書かせていただきたいと思います。

 先ず、閣僚の官邸入りの時から、新閣僚に役人トップが寄り添って、閣僚候補にレクチャーしたり、資料やメモを渡したりという事がなかったことは本当にすっきりした感じを与えてくれました。

 当然お役人が言ってほしいことの内容は、閣僚には渡っていない事になり、閣僚の方々は新内閣の閣僚(政治家)としての発言になります。
 閣僚の皆さんは、記者のほうを向いて、自分の言葉でしゃべっておられました。あきらかに官僚からのメモを読むReaderではありませんでした。

 記者のほうが意識が遅れていて、どうかなと思われるような質問があったりして、どこにも慣性の法則はあるんだななどと感じました。

 例えば、閣僚の担当分野に重なるところがあるケースで「線引きはどうなるのですか?」という質問があり、閣僚からは「線引きでなく協力です」との答がありました。「線引き」とはまさに縦割り的発想で、官僚特有のものでしょう。
 次官の記者会見を止めることに対する質問も繰り返されましたが、「 官僚は最高の行政技術者たれ」という回答がケリをつけました。

 新閣僚の皆さんがReaderでないことはかなりはっきりしてきました。これから、Leaderとしてのの手腕を発揮していただけることを期待しています。


規制の役割

2009年09月15日 12時11分46秒 | 社会
規制の役割
 政権交代の中で、規制についての論議が盛んになっています。
かつては「規制撤廃」こそが世の中をよくする政策だといった論議が中央でもまかり通り、「規制撤廃」こそが国民の味方だと首相や閣僚や学者が喧伝し、「規制撤廃」は国民のためになると信じた人も多かったのではないでしょうか。

 しかし今、「骨太の改革」(規制撤廃)は、いろいろな意味で「力の強い人」に有利で、結果的には、格差拡大などの「骨まで達する痛み」をもたらすものだということが次第にはっきりしてきて、振り子の振れ過ぎを止めようとする動きが強まっているように思います。

 前回、「リーマンショック1年」で、世界の金融問題についてのG20のコミュニケを取り上げましたが、その中では regulation and oversight つまり「規制と監視」が強調されています。
 金融業といった分野、特にその中でも、マネーゲームの分野などは、規制がなければまさに弱肉強食の修羅場になることは目に見えています。

 何が規制論議をおかしくしているのかというと、それは多分、もともとの論議の立て方、「規制は善」対「規制は悪」といった議論の立て方をすることが間違っていたのでしょう。

 こうしたDichotomy、二元論、二分論は、キリスト教、イスラム教などの一神教において極めて一般的で、「この世は神と悪魔が征服を争っていて・・・・・」といったストーリーは、皆さんご承知の通りです。

 一方、多神教のほうは、いろいろな神様がいて、神様どうし争ったりしますが(アマテラスオオミカミとスサノオノミコトは兄弟喧嘩をしています)、善と悪に割り切るようなことにはなりません。西洋人から見ると「日本人は曖昧だ」などと映るのもそのせいでしょう。

 二元論はわかりやすいのですが、人間の心の中にも神と悪魔が両方いるのでしょうから、人間社会の問題はそう簡単には割り切れません。結局「世の中の問題」は二元論では解決できず、自由と規制の「 バランス」をどう取るかが「人間の知恵」の発揮のしどころなのでしょう。

 良い知恵は、「中庸」とか「バランス」を生み出しますが、知恵が足りないと、振れすぎによるトラブル、社会の不満や不安を招いてしまいます。
 規制の問題は、まさに「如何に良い知恵を出せるか」の問題です。みんなでよい知恵を出しましょう。
 次回、もう少し具体的な例で、この問題を考えて見ましょう。


自民党の惨敗は公務員のあり方否定の意味も

2009年09月02日 20時41分54秒 | 社会
自民党の惨敗は公務員のあり方否定の意味も
 この表題のような書き方をすると些か強すぎるような気もしますが、最近の多くの国民の 公務員に対する信頼水準はかなり落ちてきているように感じられます。

 国家公務員の次官級の人々のスキャンダル、しかも金に関わるようなスキャンダルが複数起きるといった状態も異常ですが、年金問題のような、組織全体がどういう仕事の仕方をしていたのだろうと思われるような問題もあります。さらには多省庁にまたがる居酒屋タクシー 、地方公務員にもまたがる闇専従問題などなどということになりますと、「倫理感と正義感を持って国民のために働く公務員」といった感覚とはかけ離れてしまうように思われます。

 こうした問題は単純に「悪いこと」ですが、そうしたことのほかに、公務員とその制度のあり方、政治と公務員の関係(立法と行政の関係)といった点で、社会が進化する中でいろいろな問題が起きてきていたように感じられます。

 基本的な問題として指摘されるのは、自民党政治の中での公務員の役割でしょう。今は民間に居られる元高級官僚の方が、「自民党は、われわれにマル投げですから。わたしは大臣が変わったからといって自分の仕事の仕方を変えたことはありませんでした」という趣旨のことをテレビ番組ではっきりと仰っていました。私の存じ上げる何人もの高級官僚の方も、よく「あの法律はわたしが作った」という意識を強くお持ちのようでした。

 公務員が日本を仕切っているという感じです。近代国家は三権分立のはずですが、実質的にお役人が立法と行政の両方をやっていたということでしょうか。行政をやる人が立法をやれば便利かもしれませんが、それはお役人に便利なのであって、国民に便利かどうかは別問題です。
 法律がわかりにくいというのも、国民にとっては、大変困った問題です。

 民主党は、公務員任せでない政治、天下り廃止などを強く打ち出していますが、今回の自民党の惨敗は、自民党不信と表裏一体で公務員に対する不信という国民の意思表示でもあったように思われます。

 選挙の結果は直ちに自民党には及びますが、公務員には直ちに及ぶものではありません。しかし本当に公務員が真面目に考えるならば、選挙結果を自分たちへの不信の表れでもあると洞察する必要があるのではないでしょうか。

 これからの、民主党と公務員の関係には、まさに注目です。


介護充実で雇用増を可能にする条件

2009年08月31日 10時45分19秒 | 社会
介護充実で雇用増を可能にする条件
 雇用問題が厳しさを増しています。日本の失業率は5.7パーセントと史上最高を更新しています。簡単に失業率が10パーセントを越える欧米諸国に比べればまだ低いのかもしれませんが、高失業率に慣れていない日本社会です。社会の不安定化が心配です。

 ミザリー・インデックス(misery index:経済の不快指数などといわれる)というのがあります。これは失業率とインフレ率を足したもので、「ミザリー・インデックスが20パーセントを超えると政権が交代する」といわれてきました(例えば失業率も物価上昇率も共に10パーセントなど)。

 確かに、1970年代末から1980年代初頭にかけて、欧米がスタグフレーションに呻吟していた時、欧米主要国のミザリー・インデックスは20パーセント前後に上昇し、アメリカではカーター大統領(民主党)に代わってレーガン大統領(共和党)が登場、イギリスでは、労働党が敗れてサッチャー首相(保守党)が登場、フランスでは、ドゴールが敗れて社会党のミッテラン大統領が登場しています。
 その後のレーガン改革、サッチャー改革でアメリカ、イギリスの経済が復活した経過は事実の示す通りです。
 
 今回の選挙での民主党の圧勝は、政権交代が起こりやすくするという小選挙区制の伏線の上で、自民党に飽きた国民が選択したことなのでしょうが、失業率に大変敏感な日本社会ですから、失業率の高まりによる社会の不安定化も、要因のひとつかもしれません。

 ところで、雇用改善の目玉として、介護や保育などの充実による雇用創出が言われます。
 前回も述べましたが、こうした部門は、極めて生産性が上がりにくい分野です。こうした分野で雇用を増やすということは(雇用には賃金がついていなければなりませんから)、生産性の上げられる分野で生産性を上げることによって、その分の賃金原資を生み出さなければなりません。

 生産性が上がったところでも、生産性上昇ほどの所得(賃金・利益)の増加は実現せず、その分が介護や保育の雇用増に回るという付加価値配分の流れが加速されなければなりません。
 「介護で雇用増を」という場合、こうしたメカニズムが働いて、それが可能になり、それは社会正義に適う良いことなのだという国民のコンセンサスが必要でしょう。

 経済が活性化して全体のパイが増えればすべてやりやすくなるのですが、そうした付加価値の再分配を、価格機構だけに任せるのではなく政府も手を貸そうということで、それを消費税増税で考えるか、当面、国家予算の組み換えで考えるかが、自民党と民主党の意見の相違でした。 さてどうなるでしょうか。


生産性、付加価値分配、雇用

2009年08月30日 16時20分48秒 | 社会
生産性、付加価値分配、雇用
 三題噺のようですが、この3つのバランスがひとつの問題、雇用の安定と個人個人の生活へのアプローチになると考えています。

 第一の生産性ですが、ここでは先ず実質労働生産性を指します。1人の人間が働いて、どれだけの生産物あるいは実質付加価値(通常の場合、従業員1人当たり鉄鋼何トン、自動車何台、輸送何キロトンなどで、値上がり分は含まない)を生み出すかです。世の中には労働生産性が「どんどん上がる部門」と「ほとんど上がらない部門」があります。ただし、全体の平均の生産性が上がれば、その分だけ、人びとの生活水準は上がることが可能になります。

 例えば、製造業とか運輸業 などは、新鋭の設備を入れたりすれば、生産性はどんどん上がります。しかし、介護の仕事などは、なかなか生産性は上がりません。
 ですから、実質生産性の上昇によって賃金が上がると考えれば、製造業の賃金はどんどん上がって、介護の賃金はいつまでたっても上がらないことになります。

 第二の付加価値配分ですが、鉄鋼や自動車は「売れてなんぼ」ですから、配分されるときは売れて得られた金額、(名目)付加価値生産性が基準になります。
 介護や家庭教師などの対個人サービスの多くは、実質生産性は上がりませんが、料金値上がりで、名目生産性は上がりますから、現実には所得が増えます。これは価格機構の働きで、生産性の上がったところから生産性の上がらないところに付加価値配分が移転することです。

 第三の雇用については、こうした価格機構の働きで、生産性の上がる部門と上がらない部門があっても同じような仕事なら同じような賃金が支払われ、生産性上昇の違うそれぞれの部門でもそれぞれに雇用が維持されるということになります。

 価格機構が十分うまく働けば、こうした三者の関係はうまくバランスするのですが、マーケットは必ずしもうまく働かない(談合、カルテル、為替政策、投機などで)こともあります。それなら介護料金のように政府が決めればといっても、これも必ずしもうまくいっていません。

 世の中をよくしようと、一方では自由経済のメカニズム重視、価格機構、市場原理の重要性をいう意見があり、もう一方では、市場の欠陥を指摘し、政府の手による福祉政策を重視する意見があります。その両方を適切に生かすのであれば、その両者をバランスさせる何らかの「ベース」が必要です。
 アダムスミスもレッセフェールと同時に、道徳情操論を書いていますが、日本人は日本人なりの 伝統的なバランス感覚の文化(和の精神、全体と自分のバランスを考える精神構造)を持っていました。
 
 最後の決め手は人間自身です。生産と生活の両面を担う一人ひとりの人間が、他人任せ出なく、常に個々人としても主体的に全体とのバランス (大きくは、人間社会、地球環境との調和)を考えて行動するような、「生活者としての基本的な精神構造」があって、はじめてそうした機能や政策が生きてくるのではないでしょうか。


戦後64年、日本人と平和のルーツ

2009年08月15日 22時56分34秒 | 社会
戦後64年、日本人と平和のルーツ
 あの暑い夏の日、真昼の太陽の下で玉音放送を聞いてから、今日で丁度64年になります。64年という数字に特に意味があるわけではありませんが、毎年8月15日を迎えると、特別な感慨を覚える世代として、何か書いておきたいと思ってしまいます。

 昨年は、あのときの日本人が、それぞれにさまざまな感慨を抱きながら、個人も、また国民全体としても確りと己を持した態度のベースになったと思われる承詔必謹について書かせていただきました。

 今年は今日1日、新聞でもテレビでも、例年より多く取り上げられているように感じられる(北朝鮮の問題があるからでしょうか)平和憲法、憲法第九条についての独り言を書くことにしました。

 日本人のルーツは縄文時代にあるように感じています。日本列島に人類が最初にたどり着いたのは2万年前から1万5000年ぐらい前のことでしょうか。その後も多様なルートで、長い時間をかけて、多様なDNA系統が入ってきているようです。

 今では、日本人が、他に例をみないような多様なDNA系統で構成されていることが明らかになっている(崎谷満『DNAでたどる日本人10万年の旅』)とのことですが、こうした多様なDNA系統が日本列島の中で混じり合い、1万年ほどの縄文時代を経て、極めてホモジニアスな日本人となったのです。

 しかも、専門家の研究によれば、縄文時代は戦はなかったらしいということなのです。
 多様なDNA系列が、戦うことなく共存して作り上げた縄文文化、これはまさに日本の成り立ちの中で、特筆すべきことではないでしょうか。

 その後、青銅器、鉄器を持った人々の流入は、日本に戦をもたらし、倭国大乱などと中国の歴史書にかかれますが、日本人の心には、多様なDNA系列の人々が、平和共存の縄文文化1万年の中で、あたかも純血のごとき日本人を作り上げたプロセスの記憶が、その基底として(海馬の中に)残っているはずです。

 今、日本人は、人類の文化の何百年先を先取りした「戦わない」という憲法を持っています。これは縄文の記憶を持つ日本人の心の基盤にしっくり来ているのでしょう。

 あまり時代を先取りしすぎると、いろいろ苦労するものです。しかし、世界はその方向に動いているのですから、苦労をしても、この先取りを続けていくのが日本人なのではないでしょうか。