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tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

2つのアメリカ

2009年03月18日 11時18分07秒 | 社会
2つのアメリカ
 巨大な公的資金の援助を受けているアメリカの保険会社のAIGが、幹部社員(数十人、多くは金融部門といわれる)に対して、総額1億6500万ドル(160億円)に及ぶボーナスを支給したことが報道され、大統領、議会も巻き込んだ大変な騒ぎになっているようです。

 1人で数億円を受け取った幹部もおり、すでに十数人は退職したといわれ、ニュースを聞いた人は、アメリカ企業の経営幹部というのは、一体何を考えているんだろうと思ったのではないでしょうか。

 国民の税金を提供していただきながら、それを右から左に幹部のボーナスに支払い、もらった人は、さっさと退社、というわけですから、常識では考えられないというのが正常な感覚でしょう。
 
 アメリカ人でも正常な感覚の持ち主ならば、当然怒り心頭でしょう。オバマ大統領、バーナンキFRB議長、ガイトナー財務長官をはじめ、多くの要人が、強烈な怒りの発言をし、あらゆる手段を講じて取り戻すべきだといっています。

 AIGというのは、かつて、日本で保険の第3分野を開拓し、アメリカが日本に市場開放を求める中で、「保険の第3分野はわれわれが開拓した分野だ、日本の保険会社に簡単に参入は許さない」などと身勝手なことをいっていたように記憶しています。

 最近では、金融部門に注力、CDS(クレジット デフォルト スワップ)などを拡大、急膨張したようですが、それが今回の金融危機で、破綻の原因になったようです。

 今回の事件で見えてくるのは、アメリカには、金に狂ったマネー・マーケットのアメリカ人と、社会常識と社会正義に敏感なアメリカ人(この方が圧倒的に多数でしょう)がいるということで、世界のマネー・マーケットを演出し、踊ったアメリカ人はごく一部だったのではないか、といったことでしょうか。

 2つのアメリカ・・・、マネー崇拝論者は、一部のアメリカ人かもしれませんが、世界中に大きな惨禍を撒き散らしました。しかし反省の声はあまり聞かれません。日本でも、カネでカネを儲けることが経済活動だと思っているような人々が増えてきているだけに、この面での先進国アメリカが、どういう結末になるのか確り見守りたいところです。


個人と国家

2009年01月20日 20時45分56秒 | 社会
個人と国家
 英語の作文をする時、もし I and you  と書いたら、必ず それは You and I と書かなければいけないのですよと直されるでしょう。自分を先に書いてはいけません、自分は必ず後から書くのが礼儀です、ということのようです。

 日本語では、場合によっては僕と○○君、わたしと××さんなどというのが許されるかもしれませんが、やはり原則は「自分は後にもってくるのが礼儀です」ということでしょう。

 こうしたことをきちんと教えようとするのは、社会の中では出来るだけ自分以外の人を尊重しましょう、そうしなければ社会生活の基礎である人間関係がうまくいかないでしょう、人間関係がうまくいかないと、みんなが困るだけでなく、結局は、自分も困ることになります、という、人間生活の経験の中から人間が学んだことを、今後失敗が無いように、後世に伝えて行こうという人間の知恵でしょう。

 もともと、人間にとっては自分がすべての中心です。他人とか社会とかいうものがまだ解らない赤ん坊を考えてみればそうですし、いくら歳をとっても、よく考えてみれば自分が一番大切だというのが本能の教えるところでしょう。
 しかし人間が家族を作り、社会を作って生活をする中で、経験的に、「自分を大切にするためには他人を大切にしなければ決してうまくいかない」ということを学ぶことになるのでしょう。

 会社やその他の組織でも、その中の部や課についてもこれは同じでしょう。他社、他組織、相手の部や課から書いて、自分の所は最後です。

 ところが「国」の場合はどうでしょうか。どこの国でも自分の国を先に書きます。日米、日中、日英、日独・・・、相手の国にいくと、これはそのまま逆さまになります。

 国の場合はそれでいいという理屈はどうつけるのでしょうか。逆に、だから国家間の争いが絶えないという理屈のほうがつきやすいように思えます。
 世界中で日本が率先して、相手の国を先に書くようにするのは如何でしょうか。


豊かな社会とセーフティーネット

2008年12月19日 11時42分28秒 | 社会
豊かな社会とセーフティーネット 
 派遣労働者の削減問題がマスコミをにぎわせ、職を失うと寮からも出なければならないので、派遣減らしは、ホームレスの増加に直結すると解説するマスコミの報道を見て、戦後の日本人が営々として築いてきた豊かなはずの日本社会が、そんなに底の浅いものなのかと違和感に襲われたのは私だけでしょうか。

 戦後の貧しい時代には、納める税金も少ない代わりに、政府のやってくれることなどは、食糧の配給をはじめとても当てに出来ないので、自分の生活は十分で守るという本能的な防備を、日本人はそれぞれにしていたように思います。
 
 今日のように豊かな社会になると、人間は、豊かさに馴れて、かえって無防備になるのかもしれません。
 今では、生活のセーフティーネットは政府が用意すべきものになっていますが、その前に、国民一人ひとりが、出来るだけ自分でも用意するようにしないと、政府はどんどん大きくなって、実質的に「国民の面倒は国家がみる」という社会主義国になってしまうのではないでしょうか。

 直近の統計でも国民負担率(国民所得の中で、国民が政府に支払う税・社会保険料の合計の比率)は36パーセントほどですが、これに政府が国民から借金して使っている分を含めた潜在的国民負担率は47パーセントになっています。

 今回の不況で、政府はまたいろいろな出費を強いられますが、税収は落ち込みますから借金(赤字国債)でまかなわなければなりません。
 国民が政府に頼れば頼るほど国民負担率は増えます。50パーセントを超えて、国民所得の半分以上を政府が使うようになると、自由経済より社会主義経済に近くなります。
 
 折角豊かになった日本です。政府はもちろんですが、企業も、地域社会も、賢明な対応策を考え、そしてそれぞれの個人も、出来るだけ自分で自分のセーフティーネットを準備するようにして、自立自尊を考えることが、日本という経済・社会を、より強靭で安定したものにしていくために必要なのではないでしょうか。


12月8日を過ぎて

2008年12月10日 15時29分58秒 | 社会
12月8日を過ぎて
 12月8日を2日過ぎましたが、太平洋戦争を開戦から終戦まで、当時の日本の社会システムの中で、さまざまな経験をした者として、今、こんなことを考えています。

 考古学者の研究によれば、縄文時代の日本には戦さはなかったようで、その後、戦さを繰り返している大陸から、青銅や鉄の武器文明(を持った人たち)が流入し、戦争が多発したようです。

 もちろん武器文明だけではなく、農耕技術や、織物、陶器などの多くの文明が海外からもたらされました。島国であるだけに海外文物の摂取が日本の進歩にとって最も大事でした。

 日本で言われる諺の多くは中国の故事に由来しますし、「奥の細道」ですら、松島を洞庭、西湖など中国の景勝地と比較するなど、日本の古典の多くは中国文化の影響を大きく受けています。
 西洋との関係が始まると、蘭学、蘭方は憧れの的でした。明治時代から戦後になってからも「舶来」は優れたものの代名詞でした。こうしたあらゆる面で、昔から日本人は、海外の進んだ文物の摂取に極めて熱心だったことが知られます。

 これは島国に住むものにとっては、大変大事で有効な進歩のための資質ですが、武器文明の流入が戦争の惨禍をもたらしたように、輸入文物は、必ずしも良いものだけとは限りません。
 たとえば、明治時代、開国と共に日本は富国強兵という考え方を導入しました。そして、その実現の方法として、欧米がやっていた「植民地支配」という考え方も導入し、世界で最も後れて実践しようとしました。

 これは決定的な失敗でした。日本は元々そういうことは下手なのです。結果は1945年の敗戦でした。下手なことは無理してやらないほうがいい。日本が平和国家を目指したのは、本来の日本に帰ったということでしょう。

 経済面でも同じようなことが起きています。日本の得意技は「モノづくり」つまり付加価値(豊かさ)の「創造」です。それをやっていればいいのに、欧米から金融技術を導入して、他人の創った富を自分に移転させようとしました。しかし、ルール作りからやっている先輩にはとても敵いません。結果は失敗ばかりです。

 今回、アメリカが失敗を自作自演して見せてくれたたおかげで、この面でも日本は半分目が覚めたようですが、まだ「デリバティブ市場を東京に」などといっているところを見ると、危ない面も残っています。
 
 日本は今でも島国ですが、情報技術の発達のおかげで、島国のハンディはなくなりました。これからの海外の文物の導入は、縄文時代からの、本来の日本人の目で確り見て、「選択的導入」と「日本的な消化」を真面目に行う事が大事でしょう。
 そうすれば、日本は、日本らしい自然体のやり方で、これからの世界に本当に貢献できる国になれるのではないでしょうか。


政府の信用

2008年10月27日 12時17分46秒 | 社会
政府の信用
 いわゆる小泉改革の中で、規制緩和、民営化が推進されました。総合的、客観的な判断が極めて難しいこうした問題の中で、「郵政民営化」を掲げた小泉さんが圧勝するといったことが起こったりしましたが、この背後には、国民の「官」に対する不信があったように思えてなりません。

 典型的には天下りや官製談合だったり、社会保険庁の問題や居酒屋タクシーだったり、さらにその背後には、国や地方の財政が毎年大幅赤字だったりということがあって、「政府に任せておくと国民は損ばかしさせられるのではないか」という対政府の不信感があるのでしょうか。

 ところで、国民負担率という数字があります。国民が稼ぎ出している毎年の国民所得の中で、何パーセントを政府に使わせているか、という数字です。計算は簡単で、毎年の個人や企業が納める「税金と社会保険料」を合計して、その年の国民所得で割れば良いわけです。

 主な国の国民負担率を比べてみますと、(各国は2005年実績、日本は2008年度予算ベース)
スエーデン    70.7パーセント
フランス     62.2 パーセント
ドイツ       51.7パーセント
イギリス     48.3 パーセント
日本       40.1 パーセント
アメリカ      34.5 パーセント
こんな感じで、北欧が高く、ヨーロッパ大陸諸国が続き、アメリカが最低で、日本はアメリカに近い、ということになっています。
 
 スエーデンでは国民は、稼ぎの7割も政府に預けて、安心しているのです。
 アメリカは伝統的に政府に頼らない国ということでやってきていますから、その低さは理解出来ましょう。国民健康保険などはない国で、格差社会などと騒がず、アメリカンドリームが素晴らしいと考える国です。
 
日本は平等思考で、 格差を嫌う国ですが、政府に頼んで格差を縮小してもらう部分(所得再分配機能部分)である国民負担率を上げることに反対が多く、なるべく政府に頼らないようにしようというのは、何故でしょうか。

「政府に金を持たせると碌なことはしない」というまさに「感情的」な部分が、大きな役割を果たしているとすれば、かつては国民の認識だった「官は悪いことはしない」という「官の倫理感」の徹底が、改めて国民に理解されないと、明日の良い日本を作るという政府の目的も、なかなかうまくいかないのではないでしょうか。


Leader と Reader

2008年10月04日 10時58分45秒 | 社会
Leader と Reader
 政局が混乱している中で、日本のリーダーである人、リーダーを目指す人などが、自らの所信を表明し、国民に訴えている姿がテレビに映ります。

 確かに、声には力を入れて、解り易くしゃべっているのは手馴れたものだなと思いますが、しゃべっている間は常に原稿を見ていて、言葉尻のところでちょっと顔を上げると、そこでカメラのフラッシュが一斉にたかれます。新聞の紙面に、下を向いて原稿を読んでいる姿が載っても迫力がないから、せめて顔を上げたときの写真をというマスコミの配慮でしょうか。

 しかしテレビでは、そうはいきません、ほとんど下を向いて、原稿を読んでいる姿が映し出されています。残念ながらこれでは、
「Leader ではなくて Reader です。」

 相手に訴えるのであれば、顔を上げ、相手の目を見て(大勢だと見きれませんが)話さないと、訴求力は何分の一かになってしまいます。
Leader でなくて Reader になってしまうのは、多分、他人の書いた原稿を、準備不十分のまましゃべろうとするからでしょう。その中に一部でも、自分が良く解っていて、本当にそれを相手に伝えたいと思っていることがあれば、少なくともそこは、顔を上げて、直接語りかけているはずです。

 マスコミが言葉尻を捉えたような「失言」まであげつらうからということもあるかもしれません。しかし、真剣さと迫力があれば、国民のほうが、必ず本心を理解してくれるはずです。

 聴衆や視聴者のほうを向いて話すのが、選挙キャンペーンの時だけというのでは「やっぱり本気で大事だと思っているのは選挙だけなのか。」などと思われてしまっても、あながち反論できないのではないかと思います。

 大部分の日本人は先天的に L と R が聞き分けられないという研究があるそうですが、それとこれとは関係ないと思います。


原油高騰への対処

2008年07月15日 10時33分17秒 | 社会
原油高騰への対処
 原油高騰、輸入食料価格上昇の影響がいろいろなところに出ています。

 一番わかりやすいのはガソリンスタンドの料金表示板です。レギュラーガソリンが180円台にまでなりましたが、タクシーや運輸業者はそれなりの省エネ・合理化・価格政策で我慢の対応をし、ドライバーは多様な自衛策を取りながら、何とか状況に適応しようと努力しています。

 とうもろこしや大豆、小麦の値上がりに対する対応も基本的には同様です。漁業団体は一斉休業を決めるなど、ある意味では労働組合の時限ストのような対応もみられますが、これも誰に対してと言うものではなく、世論に対して業界の窮状の理解を求めると言ったものでしょう。

 第1次オイルショックの時に起こった、洗剤やトイレットペーパーのパニックのようなことは起こらず、日本人は冷静に適切な対応をしていると思います。これも、 輸入インフレは、輸入品が値上がりした分だけ、日本のGDPが輸入先の国に移転したということですから、日本人全体が被害者で、被害者どうしで争ってみても何も改善されないことが国民に理解されていて、他方で、徹底した情報開示が進み、便乗値上げや、値上がり待ちの売り惜しみなどが行われていないと消費者が解っていることの結果でしょう。

 感情的な憤懣を無益な国内の紛争やトラブルに転嫁している例が、先進国の中にも往々見られるのに比べれば、日本人の冷静さ、知識、行動のレベルの高さが知られます。

 根本的な解決は、化石燃料依存の世界のエネルギー事情と、投機マネーの行き過ぎた横行でしょう。こうした問題解決のための世界の政治的舞台では全く力のない日本ですが、化石燃料依存脱却のための技術開発では、いつの日か、日本が世界をあっと言わせることを期待したいものです。


日雇い派遣問題の本質

2008年07月12日 21時56分34秒 | 社会
日雇い派遣問題の本質
 日雇い派遣の禁止問題が政策の場で取り上げられてから、新聞や雑誌の特集で、いわゆる底辺労働者に関する記事が多くなったようです。深刻な社会問題につながる多くの事例なども取り上げられています。

 確かに対策が求められる種々問題が存在することは事実でしょう。しかし、統計調査では、日雇い派遣でも過半数の人たちはそれを便利なものとし、適切に利用しているのも事実のようです。

 短期派遣(ほとんどは1日単位)でも、現状でいいという人は、男性で半数近く、女性では過半数です(厚労省「格差社会と企業日雇い派遣労働者の実態に関する調査」)。日雇い派遣を一律に禁止したら、不便を感じる人のほうが多いということにもなります。企業も大変不便を感じるでしょうから禁止反対を表明しているのでしょう。当然代替措置をどうするかという問題も出てきます。

 だからと言って今のままで良いということでは、もちろん、ないでしょう。本来、均質とバランスを大事にしてきた日本社会が、格差社会に堕落することは防がなければなりません。

 どう考えても、この問題は、氷山の一角でしょう。水面下には、学校教育から長期不況の現実、企業収益の低迷、賃金制度( 正社員の賃金問題を含む)、雇用制度、さらには日本的経営の根幹である人間重視の経営哲学に至るまで、広範な原因を持つ、根の深い問題で、そのひとつの表れが日雇い派遣問題ということでしょうから、単に日雇い派遣を禁止するとか、最低賃金を大幅に引き上げましょうとかいった小手先の対応で解決できる問題ではないようです。もっともっと本質的なところに戻って、広く深く論議をする問題でしょう。

 戦後の混乱期から、高度成長の中で植木等がスーダラ節をうたっていた時代、そしてジャパンアズナンバーワンの時代にかけて、日本は、労使協力して、格差の少ない社会の実現を目指してきました。欧米の常識では全く考えられない制度、ホワイトカラーとブルーカラーを「社員」に一本化したのも経営側の提唱によるものでしたし、労組も格差の縮小に熱心でした。そして現実に、一億総中流という意識を生み、所得分配の均質さを示すジニ係数は世界で2番目と言われました。

 それが「失われた10年」の中で、大きく変質し、格差や憎しみ、争い、個別紛争の増大、そして他方では他人への無関心、さらに無差別殺人まで多発する日本になってしまったのです。

 問題は容易ではありません。日本の政府、労使は、どこまで問題を本質的に考えようとしているのでしょうか。当面を糊塗する弥縫策でない本質的な政策への真剣な取り組みをいつ始めるのでしょか。手遅れは許されないように思います。

サミットの効用

2008年07月09日 21時04分25秒 | 社会
サミットの効用
 世界から期待された(?)洞爺湖サミットも終わりました。
 先進主要8カ国の首脳と、環境問題が主要議題ということで、中国、インドなど新興主要8カ国の首脳も洞爺湖畔に参集し。議論の結果、42年先の2050年に温室効果ガスを半減するといった長期目標についての合意には何とか漕ぎつけたようです。

 環境問題は、人類の未来に直接影響する問題ですから、当然、最も深刻な問題です。しかしそれ以外にも、当面の世界経済に大きな暗雲をもたらしている原油価格の高騰の問題、その問題の背後にある、世界の金融市場を我が物顔に撹乱する投機マネーの問題など、主要8カ国の首脳が集まったら、当然論議しなければならない問題ではないかと思われる問題があるのですが、予想通り素通りされています。

 足掛け3日で論議できる問題は限られているよ、という見方もあるでしょう。しかしその準備には膨大なマン・アワーが費やされているのですから、文字通りサミット(頂上)で、いわば、氷山の一角がこの3日間であっても、水面下の巨大な部分で、何らかの下準備ぐらいは、「やろうと思えば」出来るはずです。

 日本人は真面目すぎるのでしょうか、世界の主要国のトップが集まるサミットなら、当然、世界全体のことを本気になって考える会議だと思うのかもしれませんが、まだまだ自分の国の都合を他の国にも認めさせる場だと考えている国も少なくない様に感じます。だから、結局は、実害のないことについては合意しますが、直接の利害に関わることになると、できれば触れないで済ませるといった思惑が働くのでしょう。

 だからといって、サミットは重要ではないのかというと、サミットは絶対に重要です。
それは、主要国の首脳が、絶対的な義務感をもって、定期的に集まることの物理的な意味です。さらに利害関係の錯綜するそれ以外の国の首脳も交えて、定期的に集まり、会議以外にも、食事やパーティーの中で直接の接触を持つことが人間的な交流を生むという点でしょう。

 日本には「同じ釜の飯を食った」という表現がありますが、国と国、企業と企業の良い関係も、その原点は「個人と個人の良い関係」に還元されるということを経験された方も多いと思います。

 「継続は力なり」です。サミットも継続していけば、いつかは、お互いに、全体のことを大切に考えるといった本来の目的に近づいていくだろうと、多少楽観に過ぎるかもしれませんが、期待してよいのではないでしょうか。

年金運用損5・8兆円

2008年07月04日 15時27分09秒 | 社会
年金運用損5.8兆円
 平成7年度、厚生年金と国民年金の積立金のうち91兆円ほどを運用していた「年金積立金管理運用独立行政法人」というところが、1年間の運用の結果、5.8兆円の赤字を出したと報道されました。
 大切な国民の金を預かりながら大変怪しからん話だという見方もあるでしょうし、 サブプライムローン問題などで、世界中の金融機関が大きな損害を出している中で、その程度で済んだのはまあまあ良かったという見方もあるでしょう。

 厚生労働大臣は、担当者の首をすげ替える意向だなどと報道されています。世界経済がこれほど混乱し、先行きが不安視される中で、もっとうまく運用しろという意思表示なのかもしれませんが、何をどこまでやるべきだと考えているのでしょうか。

 原油やトウモロコシ、大豆に手を出せば、うまくいけば儲かるかもしれません。株が下がる時は、空売りして安値で買い戻せばもうかるでしょう。日本の政府が年金の積立金でそんなことをすべきでしょうか。運用利回りを極大化することを目標にした資産運用というのは、結局は、当世流行の「投機による富の移転」に手を出すことです。それこそが世界経済の混乱の大きな原因ではなかったのでしょうか。

 年金問題は深刻です。少しでも多くの運用益をという政府の気持ちもわかります。しかし最も基本的な問題として、マーケットを利用して、他人の創った付加価値を、旨いことこちらに移転させて、キャピタルゲインで年金問題のやりくりをする、といったことでいいのでしょうか。

 世界の安定と健全な経済成長に貢献することが日本の使命だとすれば、エネルギーや食糧問題に役立つような技術開発を徹底し、それらの分野で世界のリーダーになり、世界に貢献することで日本の経済成長を回復し、その経済成長の成果、つまり、自分たちの努力による成長の成果で年金財政も賄っていくというのが、日本の本来のあり方ではないでしょうか。 

 問題は、91兆円の運用の仕方などではなく、政府、さらには今日の日本のリーダーたちの志とビジョンの欠如のような気がしてなりません。

 

三権分立、残業、居酒屋タクシー

2008年06月10日 11時54分31秒 | 社会
三権分立、残業、居酒屋タクシー
 三題噺みたいですが、本当は大事なことだという気が強くしています。

 近代国家は、「立法、司法、行政」の三権が互いに独立しているのが原則だと思いますが、日本の場合は、本来、行政官である霞ヶ関のエリートのお役人が立法をしているようです。よく「あの法律は私が作った」といった話をお聞きします。国会で審議する法案を作り、与党の議員諸氏に説明・根回しし、時には答弁までして、法案成立に漕ぎ着けたという達成感があるからでしょう。

 法律を作る人がその法律の行政をするのですから、よく解っていて結構かもしれませんが、往々にして、国民には大変わかりにくくて、自分たちには良く解る法律・規則や、行政の裁量の余地を広く取るような巧みな技が駆使されているように感じられます。今回の後期高齢者の医療制度でも、負担軽減措置なども含めて、なんと解りにくく、お役所の説明を鵜呑みにしなければならないようなことが多いことでしょう。

 霞ヶ関の官僚は、立法の仕事もするのですから、当然国会対応があるので、国会がやっていれば、夜中でも何でも、待機していなければなりません。だから、深夜までの残業も、泊まり込みも厭わない、という気概です。しかしこれは本来の行政の仕事とは関係のないことです。もちろんこれは、官僚の方々が悪いのではなく、立法府が行政官僚を使うという今の「システム」がさせることです。だから、国家公務員法改正で、官僚の国会議員との接触を制限しようという案が出たり、あまり制限するなということになったりするのでしょう。

 こうして深夜の帰宅が当たり前になると、タクシーでしか帰れません。タクシー券という制度が出来るのでしょう。東京の通勤距離は長いですし、電車は終電まで混んでいます。それなら、終電が無くなるまで待って、タクシー券という誘惑・・・・・、人間の心の弱さも出るかもしれません。

 不況の中で、タクシーに長距離の客はなかなかつきません。多くの企業は昔と違って厳しく制限しています。タクシーのサイドから見れば、長距離固定客をつかめればこんないいことはありません。多少のサ-ビスは・・・・・、となっても不思議ではありません。

 こうして事態は進展してきたのでしょう。本当に悪いのは何なのでしょうか?

日本人とバランス感覚

2008年04月19日 15時44分13秒 | 社会
日本人とバランス感覚
 バランスシートは、「借方」と「貸方」のバランスで成立しています。複式簿記の発明者、ルカ・パチョリは「これは神の摂理だ」と感じたとのことですが、日本人は、普段の生活の中でも、常にいろいろなバランスを頭の中で考えながら生活しているのではないでしょうか。

 あまりいろいろなバランスを考えると、意思決定も遅くなるし、発言にも遅れをとる、行動も慎重になったりしてしまって、後手に回って損をしてしまうなどといった経験を、国際会議や国際取引などで持たれた方も多いのではないかと思います。

 しかしバランスを考えるということは、常に全体のことを考えいるということですし、相手のことも自分と同じように考えるという意味で、大変大事で、また優しいことでもあるといえると思います。

 たとえば、最近日本の調査捕鯨が反対運動の対象になったりしていますが、多くの日本人にとって、何故、鯨と海豚が特別で、牛や豚はそうでないのか、解らないのではないのではないでしょうか。もちろん私にもわかりません。日本人にしてみれば、人間を含めて、総ての生き物は、生態系の中で何らかの形で他の動・植物を食べて(栄養にして)生きているのは同じです。だから食事の時には「いただきます」と言って、いただく命に感謝するのでしょう。これは昨年7月このブログでNPO「いたごち」と食育 のタイトルで書かせていただきました。

 日本では、養豚業者が、豚の供養塔を建てたりします。命を頂かざるを得ないという現実に対して「感謝」の気持ちをあらわすことで、何とかバランスさせようとしているということでしょう。日本人は無生物の針にさえ、「お疲れ様です」と「針供養」をします。

 こうしたバランス感覚は、今後の地球環境問題、戦争を止めようという世界平和の問題にとっても、また最近弱肉強食化しているとわれる世界経済のあり方についても、実は大変重要な感覚なのではないでしょうか。最近、こうした日本人のバランス感覚についての著述や論議が多くなっているような気がします。バランス感覚は、これからの世界に役立つ大切な文化なのかもしれません。

個人情報と墓地

2007年05月03日 13時57分25秒 | 社会

個人情報と墓地

 最近叔父のお墓参りに行きました。親戚の家に電話して霊園の名前と場所を聞いて、霊園にたどり着きました。10年ほど前、奥さんが亡くなったときに一度来ていましたが、その後、山の斜面を開発して随分広くなったようで、様子も変わっているように思われたので、本堂へ行って、これこれの家の墓だどの辺ですか、と聞いたところこんな返事が返ってきました。

 「墓地の場所は個人情報に関することなので、それは教えられません。法律で決められていて、教えてはいけないと通達がきているので、ご親戚でもどなたでもだめです。」ということなのです。

 さてこれは困ったと、早速親戚の家に電話しましたが、留守です。10年ほど前の記憶を頼りに端から探していたら日が暮れてしまうだろうし、2時間以上かけてきたのに、お参りしないで帰ったら、もう一度来なければならない。さてどうしたものかと考えているうちに、最近の個人情報に関する考え方は少し行きすぎじゃないかなどと考えはじめました。

 墓の場所を教えたら、どういう問題が起こるのだろうかと考えても、墓に呪いをかけて故人を浮かばれなくするという時代でもなかろうし、あまり問題はないような気がします。しかもこれは個人情報ではなくて「故人情報」じゃないか、何が問題なんだ、とか、交番に行って、友人の家の場所を聞けば親切に教えてくれるのが普通だが、生きている人の住居を教えるほうが墓地の場所を教えるよりよほど問題ではないか。そのうちに交番に行っても家を教えてくれなくなったり、町内の家の場所を聞かれた教えたら、個人情報漏洩の罪で罰せられたりすることになるのだろうか、などと考え、何か馬鹿らしくなってきました。

 結果的には、10年前の記憶を頼りに、時間をかけて、墓の場所は見つかったのですが、こういうときには故人のお引き合わせというべきなのでしょうか。

 墓の場所を教えないように通達か来ているというのは法律か条例かわかりませんが、ご存知の方がいらっしゃったら教えていただきたいものです。日本人は何かを考え始めるとそちらに振れすぎる癖があるように思いますが、かつての近所同士みんな知り合いという社会から、隣にいてもなるべく知らないようにしようという、いわゆる匿名社会になりつつある日本、そうした、どちらかというと本来の日本文化に似つかわしくない匿名社会を前提に、諸種の迷惑行為や犯罪を防止するために作られた個人情報保護法というものの性格や意義をを考えると、何か言いようのない違和感を覚えるのは私が歳をとったせいでしょうか。