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tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

暗中模索の選挙戦

2012年12月12日 21時33分32秒 | 社会
暗中模索の選挙戦
 戦後の選挙の中でも、今回のような、わけの解らない選挙はなかったように思います。
 二大政党が政権を競うというのが、成熟した民主主義国の形のように言われて久しいのですが、日本の戦後民主主義は殆ど自民党政権の下でした。

 細川政権の下での政権交代は短期で潰え、3年前の民主党政権の誕生で、二大政党らしき形が見えたように思いましたが、結果的には今回の選挙です。
 考えられることは、矢張り政権を担うには経験が必要でそれには、それなりの時間がかかるということでしょうか。

 どこかで十分に経験を積まない限り、急に政権を担っても、事はそう簡単ではないようです。そういえば学校の先生でも刑事でも、営業職や技術職のサラリーマンでも、もちろん経営者でも、家庭での親業でも、ある程度の期間、実務をしながらコツを覚えないと、初めから巧く行かなくても当たり前です。

 民主党も政権党という経験を多少積んだので、野党職では解らなかったこともだんだんわかってきたのでしょうが、本当はまだ時間が必要なようです。
 そのほかの新しい党はどうなのでしょうか、自民党の大物で、経験豊富な方がアドバイザー格で居られたりしますが、それがどこまで生かされるのでしょうか。

 若くて新しい発想の持ち主でないと変化は望めません、しかしそういう人は経験が無いから当然につまらない失敗をし易く、しかも今の日本が置かれた状態は、ベテランでさえ舵取りが難しい状態です。そして、マスコミも国民も簡単にポピュリズムに騙されます。

 正直言って、私自身も、どこの誰に票を入れたらいいのか、本当に決めかねる気がします。民主主義が成熟するには、どこかでこうした状況を通過しなければならないのかと観念すれば、それも致し方ないことになりますが、支払うコストが高いですね。

 官僚依存打破といた意見は、新しい政党には強いようです、しかし官僚を使いこなすには沢山の経験が必要なようです。民主党ではありませんが、巧くいかずに官僚依存に戻れば、当然それが最も保守的、この困った日本の状態がまだまだ続くでしょう。

 どの党にも、官僚にも学者・評論家にも、無欲で、「純粋に」日本を良くし、世界を良くしたいと考えている方々は居られるはずです。今の民主主義という社会政治制度のもとではそういう方が集まるということは至難の業のようですね。
 (今回は泣き言になってしまいました)


加害者と被害者

2012年08月26日 12時11分08秒 | 社会
加害者と被害者
 加害者がいなければ被害者は発生しません。そういう意味では加害と被害の総計は純理論的にはゼロサムのはずです。
 例えば、ギャンブルでは、得した人の総額(胴元の儲けも含む)と損した人の総額は同じでしょう。振り込め詐欺でも、損した人がいれば、その同額を誰かが儲けているはずです。国際間のマネーゲームでも同じです。

 金銭の場合は、通常こういう解り易い計算になるのですが、これが心理的な問題になると、全く違うようです。通常、被害者はたくさんいて、加害者はあまりいないということが多いようです。
 つまり、加害者には「加害者意識がない」が、被害者は「被害を感じている」というケースが沢山あるという事です。

 「いじめ」の問題を例にとってみれば、加害者にはほとんどその意識がないが、被害者は死ぬほど苦しんでいるといった様子がはっきり見えて来ます。
 以前は、いじめの問題では、いじめられた方だけではなく「いじめた方の心にも傷を残す」などと解説され、「確かにそうだ」という意見も多かったように感じます。

 しかし最近の事件を見ると、いじめる方には、ほとんどそうした意識がないことが多いようです。いじめる方の感受性の欠如でしょう。ですから当然反省の意識もなく、いじめが繰り返されることになるようです。

 最近の身勝手な傷害や、殺人などの事件でも、加害者は、自分の事だけしか考えず、相手のことを考えるという人間らしい感受性が殆どあるいは全くないといったことを感じさせる事件が増えているような気がします。

 論語にも「己の欲せざるところを人に施す勿れ」などとあって、そういった思いやりの心を教えた歴史は、中国にも、日本にも、恐らく世界のどこにもあったのでしょうが、最近は人間社会が余裕がなくなり荒んできたせいか、権力やカネの力が横行し、行き過ぎた自由を肯定するような風潮が強まり、他人の気持ちが解らない「勝手な行動」が多くなったとすれば、それは、人類にとって「人間性の退歩(劣化)」でしょう。

 経済でも、最近は、黒字の国は、赤字の国のために金を出して当然といった金融理論が公然とまかり通っているような気もします。だから赤字削減にも本気になりません。
 円高で日本がいかに苦しみ、(その分、アメリカ経済は救われ) 日本経済・社会が劣化しても、アメリカが加害者意識を持つことはなさそうです(注)。

 こうした人間社会の退歩(人間性の劣化)は、どこかで逆転させないと、犯罪の増加、さらには、かつての植民地政策や労働者搾取と同じように、いつかは大きな悲劇を引き起こすことになるのではないでしょうか。
 さて、いかにして、どこから治していくべきでしょうか。
 
(注)アメリカの次期大統領候補のロムニー氏が「我々は日本ではない」「日本の様にはならない」と言っています


トラブルメーカーとトラブルシューター

2012年08月20日 11時18分17秒 | 社会
トラブルメーカーとトラブルシューター
 歳をとったから特に感じるのかもしれませんが、最近、新聞やテレビを見ていて感じるのは日本でも、最近また、トラブルメーカーが増えてきているのではないか、ということです。
 戦後かなり長い間、思想的な対立や貧しさなどから来る社会的混乱の中で、トラブルメーカーが社会的勢力の一部をなしていた時期がありました。

 労使関係でいえば、経済社会を混乱させればそれで良いのではないかといった考えの人たちが労働運動を率いた時期もありました。混乱、転覆、革命が物事を進める道筋だと思っていた人たちです。

 こうしたトラブルメーカーがグループを作って行動する方式は、しかし、急速に不人気、になり、問題を解決して、先に進もうという、いわば落ち着いた合理的な考えが主流になりました。日本的労使関係が注目されたのは、労働組合も、トラブルシューターの方向に舵を切ったからでしょう。

 学生運動や社会運動もそうでしょうが、日本社会の成熟は、より多くの日本人が、トラブルシューターになった、言い換えれば、「解決指向の日本人が増えた」という事だったのではないでしょうか。
 今回の大震災後の多くの日本人の行動は、巧まずして世界にそれを示し、改めて世界の注目を浴びたという事だったように思います。

 不満があれば、デモや投石、破壊、略奪といった行動が、日本より先進国だと思っていた国でも頻発するのを見て、日本人は今、なにを考えているのでしょうか。
 なんだ、欧米先進国と思っていたが、我々よりおよそ未成熟だったのか、と思っている人たちが多いのか、それとも、我々は温和し過ぎると考えている人が多いのかです。多分、前者が圧倒的に多いと思います。しかし、マスコミにも、日本人は温和し過ぎるという論調が多々見られる事も事実です。

 竹島や、尖閣の問題も同列でしょう。トラブルメーカーになったとしても、結果はいざ知らず、当面、自分は気が済む・・・。考えるのはそこまでで、後は思考停止、という人が、長年の閉塞状態の中で、何となく増えているような気がするのです。
 例えば、隣の家と喧嘩をしようと思ったら簡単で、地境の問題を持ち出せば、平穏な隣人関係も、通常、簡単に争いに発展します。国同士も同じです。

 ただ日本人の伝統的性格を考えれば、縄文以来、トラブルシューターとしていかに知恵を磨くかというのが、本来の日本人の性格だったように感じるのです。力ずくの争い(戦争)に持ち込むというのは、海外から教わった知識ではなかったでしょうか。

 戦争をしない独立国として、今、日本はその本来の知恵を本格的に試されているのです。


最低賃金と生活保護

2012年07月14日 12時24分11秒 | 社会
最低賃金と生活保護
 御承知のように最低賃金とは企業はこれより安い賃金で人を働かせてはいけないというもので、生活保護は、働かない(働けない)で受け取る生活のための最低費用という事でしょう。
 
 時給換算で、最低賃金が生活保護費を下回るという問題は従来からあるのですが、そういう県が11県に増えたというのが最近の報道です。
 最低賃金は全県一律で、生活保護費は県内通常6区分で金額が違いますし、社会保険料などは生活保護の場合は免除されるといったこともあるので、本当はもっと詰めた議論が必要なのでしょうが、ここでは今回の報道機関のものの言い方が従来と微妙に違うという点に気が付いたので取り上げてみました。

 従来から、マスコミの多くは、「働いているのに、生活保護より低い収入というのはおかしい。当然最低賃金を引き上げるべきだ。」といったものが殆どでした。しかし今回は、生活保護が少し甘すぎるのではないかといった、今までと逆のニュアンスが、報道の中に垣間見えるという感じを受けた方も多いのではないでしょうか。

 誰もが(本人も)不正受給だと認めるような事件もあったりしたせいもあるのかもしれませんが、同じ省庁(厚労省)の管轄でもなかなか調整がついていない問題です。

 もともと最低賃金というのは、毎年、政労使三者の審議会で市場賃金を参考に決めます。厚労省主導、中立、労働の意向が強く反映され、いつも一般賃金より上ずって決まるようですが、それでも、市場で決まる賃金と全く乖離するものではありません。
 しかし、生活保護費は、いわばマーケットバスケットで、理論的に決まります。

 マーケットで決まるものと、制度で決まるものでは当然動きに差が出ます。マーケットで決まるものは(人知を超えた)柔軟性があります。制度は人間の頭の中で決まりますから、頭が固ければ硬直的です。

 今回の微妙な変化というのは、最低賃金が、高く決めすぎると、企業がいなくなり(海外移転)雇用そのものがなくなる、という日本経済の限界にぶつかる中で、制度の方は、官僚の頭の中で、誤った環境認識から勝手に膨らんできた結果という事に、マスコミが漸くいくらか気づき始めたという事なのでしょう。

 マスコミにしてみれば、「弱者の味方」という正義感は大事かも知れません。しかし常に合理性という判断基準も、併せ持つ必要がありそうです。
 同じことが官僚の最賃行政、生活保護行政についてもいえるのかも知れません。


出生率回復に注目しよう

2012年05月14日 12時30分33秒 | 社会
出生率回復に注目しよう
 このブログでは、今日の日本のデフレの原因は、
「円高によって国際比較で高くなった日本の物価が、国際水準にさや寄せするプロセス」という極めて単純で分かりやすい説明をしてきましたが、もっと複雑で分かりにくい説明をする人も大勢います。

 そうした中には、少子化、人口減少で長期的に消費が減るといった要素を重視するものもありますし、それが日本経済の長期低迷の理由だといった説明もあります。
 イギリスから発したらしい「ジャパンシンドローム 」という日本経済の長期低迷状況を表現する言葉の説明の中にも、少子化、人口減少という要素が入っています。

  このように、デフレ、経済低迷の問題には論議の混乱が続いていますが、その中で、ご存知の方も多いと思いますが、合計特殊出生率(女性が生涯に産む子供の数)は、このところ、2005年の1.26を底にして2010年の1.39まで上がってきています。
 遡れば、1.39というのは、1997年の水準で、この5年間で、そこまで回復したという事です。

 厚労省は、いわゆる「いざなぎ越え」で、景気が幾らか回復を見たことによるのではないかといった見方も示し、今後を注目すべきだという慎重な見方のようです。
 その後のサブプライム・リーマンショックでの更なる円高の進行、景気の落ち込みがどう影響するか、確かに心配されるところですが、2011年の合計特殊出生率の発表(今年12月)が待たれます。

   ただ、低下の一方だった日本の合計特殊出生率に回復の動きが見えたという事については、日本中がもっと注目すべきではないでしょうか。
 低下の理由も良く解らなかったのですが、いずれにしても回復の動きが見えたという事で回復の可能性は「ある」という事が明らかになったのです。

 この回復の動きを、日本全体で大事にし、さらに育てることが出来れば、日本の社会の雰囲気も変わるのではないでしょうか。20年後には、その人たちが社会に出始めるのです、出生率の上昇という動きに、国民全体がもっと関心を持つことが、更なる出生率の回復にプラスの効果を持つこともないとは言えません。

 こうした明るい動きの情報を出来るだけ国民全体で分かち合い、混迷状態に日本社会に、少しでも明るい面を見出すこと自体が、社会を明るくする面もあるのではないでしょうか。


多様な社会の共存を考えよう

2012年04月23日 21時38分03秒 | 社会
多様な社会の共存を考えよう
 前回は鳥の巣箱についてか書かせていただきました。その中で、鳥の巣箱の専門家の方が、人間は巣箱の方が絶対環境がいいと思って作っても、鳥には鳥の事情があって、すぐに入るとは限らない」言われたとご紹介しましたが、写真の通り、我が家でも巣箱は空き家で、「こんな所に」と思うようなところに、現実に小鳥は巣作りをしていました。
 
 小鳥と人間では、考え方が違うのは当然ですが、人間の間でも、考え方は違います。ブータンの国王ご夫妻が来られて「国民の最大幸福」について語られました。多くの日本人が強い共感を感じました。やはり人間の本質に触れたものだからでしょう。

 共感しつつも、我々の多くは、ブータンの人々のような生活をしようとは思わないでしょう。そして、それはそれでいいのではないでしょうか。我々はブータンの人にない生活を持っています。しかしブータンの人は我々にない生活を持っています。
 お互いにそれを尊重し合い、尊敬しあい、理解しあって共存することこそが、本当に意味のある、最も大事なことでしょう。

 生物多様性については、近年、人間は理解を深めてきたようです。人間社会の多様性については、もともとアジア人はそれなりの理解を持っているように思います。
 ところが残念なことに、世界のリーダーであるアメリカの最近の様子を見ると、どうも世界を皆アメリカのような社会にしないと気が済まないような、異常な執念を持っているように思えてなりません。

 日本は戦後、アメリカに多くを学んで来た国です。そのアメリカが戦後から随分変質しながら、その変化に世界中を従わせることに余りにもこだわっているように見えてなりません。
 
 日本は小泉政権以来の規制緩和で、社会の質がかなり変わり、一部には強い反省の機運があります。しかし今回のTPP問題に見るように、アメリカは日本にさらなる規制改革の徹底を迫りたいようです。
 しかし社会が違えば、人間の意識も違い、生活様式も違う中で、すべてアメリカ流がいいと言い、それを強いるのは、些か異常でしょう。

 アメリカをそうさせるものが、アメリカの行き過ぎた親切心なのか、それとも切羽詰ったアメリカの焦りなのか、十分に読み取る必要はありましょう。
 
 その上で、これは日本の判断として、我々の学んできた本来のアメリカは、も少し違った国ではなかったかと、忠告するぐらいの意識を持ちたいものです。


舶来崇拝からの早期脱出を

2012年04月12日 22時09分01秒 | 社会
舶来崇拝からの早期脱出を
 「日本人は自信を」と言った方がいいのかもしれませんが、敢て「舶来崇拝脱出」にしました。もう少し嫌な言葉ですと「島国根性からの卒業を」なんて言えるのかもしれません。

 折に触れて書いてきましたが、日本人は、独特の自虐的な側面を持っているようです。一部の知識人に特有なのかもしれませんが、日本は駄目だと「発言する」事に快感を感じているように見えることすらあります。

 最近の研究で、日本が世界でも最も豊富なDNAを持つ国の1つであることが見えてきたようですが、日本が大陸と陸続きだったころから、ユーラシア大陸のいろいろなところやアジア、オセアニアから多様な人々が流入し、住んでいたのでしょう。その後海面上昇で閉じた日本列島の中で、この人たちは争わず奴隷制もなく仲良く暮らしていたようです。
 そして縄文時代約1万年をかけて均質な日本人になったのでしょう。

 その後、進んだ技術や文化や宗教は、すべて海外から入ってくるようになり、稲作や織物、陶磁器、青銅や鉄器、武器(ついでに戦争も)、漢字も仏教も海外から入って来ました。そして日本人に、「優れたものは海外から」という舶来崇拝の意識を植えつけたのでしょうか。

 一方、本来の縄文時代が育てた日本人は、こんな日本人ではなかったかとわたくしは思っています。
 
・「世界で最も多様なDNAが争わずに平和共存し混血し、純血化 (薄衣佐吉「日本学宗」)してきた。
自然と最も巧みに共存 してきた(自然は人間の働き掛けでより豊かになることを実践、山を育てれば海も育つなどなど独特の知恵を持ち、自然を最も多く残してきた)。
・異質を平和裏に同質化し社会を安定させる文化を作ってきた(仏教と神道の習合)。

 こんな素晴らしい実績を上げながら、この千数百年は、舶来崇拝を繰り返し、周回遅れの植民地主義で大失敗。焦土から立ち上がり、国土は狭く資源は無くても生産性さえ上げれば、世界一豊かになれることを実証しながら、まだ自信が持てず、円高も自分の能力不足のせいと諦め、マネーゲームの勉強をしたり・・・、と舶来崇拝が抜けないのです。

 最近では、自分たちで考えてやっていることは立派だが、外国に言われたり真似をしたりすることは殆ど失敗です。
 このIT時代、島国などという条件は雲散霧消です、少し自分の信ずるところに従って、本来の日本人らしい行動をやってみませんか。


里山の知恵

2011年07月30日 10時38分11秒 | 社会
里山の知恵
 里山という言葉は、「村里に近い山」という意味で昔から存在したようです。戦後の武蔵野でも平地の雑木林を「山」と呼んでいました。今のように人里に近い山裾と山裾に近い人里をひっくるめて「里山」と呼ぶようになったのは、京都大学の四手井綱英氏が、質問に答えて咄嗟に山里をひっくり返して「里山」といったのが始まりといわれています。

 語源の探索は別としても、この、いわゆる里山が、豊かな自然を育む場所として広く認識されるようになったことは素晴らしいと思います。
 里山と奥山は違います。奥山は自然そのものですが、里山は人里に近く、人の手が入った、自然と人工が一体になった場所です。 

 この里山が、今注目を集めている理由は何かというと、多くの意味で、自然にも人間にも大変役立っており、大事な意味を持っていることが気付かれ始めたからのようです。
 
 具体的な例を挙げれば、訪れる人に心の安らぎや癒しを感じさせる環境と景観を生み出している、野生動物と人間の棲み分けを巧みに調整する役割をしている、洪水などの自然災害を自然自体の働きを活用して防いでいる、今世界で求められている生物多様性の宝庫としての役割を極めて効果的に果たしている、などなどです。

 北欧や中国南部にも里山に類したところはあるようです。しかし(たぶん起源を共有する)中国大陸南部や日本の里山は、単なる自然ではなく、「人間が手を入れた自然」というところに特徴があるのではないでしょうか。

 そこに里山の本質があるように私は感じています。自然は、自然のままより、それを理解した人間が手を加え、手入れをすることによって、「さらに豊かな自然」になるという事を実証しているのが里山だと考えるからです。

 人間は自然の子として生まれ、自然の中で生かされています。その人間が自然の恩恵に「有難う御座います」とお礼をする、お返しをする事で、自然をより豊かなものにするよう努力するのです。そうすれば、自然は、さらに豊かな稔りを人間にもたらしてくれます。これが里山です

 このブログの本来に照らして、これを企業に当てはめれば、経営者や従業員が協力して、自分たちの企業に、 資本や技術や人間集団としての強さを蓄積すれば、企業は、より大きな成果を生み、ステークホルダー達により大きな恩恵をもたらしてくれるのと同じです。
 経営者や従業員や株主が争って企業を収奪すれば、企業は疲弊し、倒産に至るでしょう。

 人間はこの所、エネルギー問題を典型に、自分たちの生みの親である地球を収奪したり、ゴミ捨て場にしたりして、それによって自分だけ豊かな生活をしようと狂奔して来ています。

 そして、漸くにして今、その誤りに気付き、それへの反省の心が生まれ、地球の自然の復活、生物多様性などの主張が言われ始めました。
 地球の自然を豊かにすることが、本当の意味で人間生活を豊かにする王道であることに人間社会が気付き始めたのです。

 日本人が、自然と共生しようとする長い生活の歴史の中で生み出してきた「里山の知恵」をより広く世界に知ってもらうことが、今こそ必要のようです。
 あえて繰り返しますが、地球の自然は、「人間からのお礼」を受け取れば、必ず、より大きな自然の恵みを人間にもたらして呉れるでしょう。


リサイクルとむすび

2011年07月27日 13時59分53秒 | 社会
リサイクルとむすび
 多少観念的になりますが、再生可能エネルギーの再生可能という言葉は大変大事です。リサイクル可能なエネルギー利用という意味で、人類社会のサステイナビリティーを考えた場合、この概念は、地球環境の本質的な問題につながるものだからです。

 再生、リサイクルという言葉は、物事の連鎖の最初と最後がつながっているということでしょう。古い言葉で言えば、輪廻の思想です。日没と日の出、月の満ち欠け、冬至から夏至へ、人類は発生以来、こうした繰り返しを信じて暮らしてきています。この繰り返しを信じるからこそ、人類は、安心して暮らしてきたのでしょう。

 ところで今のエネルギー問題はどうでしょうか。一方通行、消費のみで再生なしの分野が主力です。 化石燃料も、原子力も、片道切符しか人類は持っていません。「自然」が用意してくれた人類生存の条件であるリサイクル(再生)を全く無視した、いわば大変思い上がった行動で、一時の繁栄を謳歌しているのではないでしょうか。

 宇宙は生成と破壊を繰り返しています。熱力学のエントロピーの法則を単純に適用すれば、宇宙は、いつかは何も起こらない定常状態(死の世界)に落ちていくことになるのでしょう。
 しかし現実に宇宙は自ら生成(多様なリサイクル)を繰り返し、地球も生まれ、人類のような、大変精緻な奇妙なものも生成されているのです。(「自己組織化する宇宙」 E..ヤンツ)

 日本の古い言葉で言えば、これは「むすび」(結び、産霊)でしょう。古事記では、宇宙そのものの象徴と思われるアメノミナカヌシノカミ(天御中主神)が最初に生まれ、続いてタカミムスビノカミ(高御産巣日神)、カミムスビノカミ(神産巣日神)が生まれています。ともに「むすび」の神で、「むすび(産霊)」はすべての創造をつかさどる言葉です。(日本創造経営協会『日本学宗』)

 紐も結ばれ、人間も結ばれ、物質も結ばれ(化合)、知識も結ばれて、そこには新たな展開、新たな生命や新たな発展、つまり創造が生まれます。

 宇宙も、地球も地球上の生態系も、すべて、リサイクル、結びや再生によってサステイナビリティー(安心できる安定した存続)が可能になっているのです。
 今、片道切符を振りかざして、かりそめの宴を謳歌しようとする考えが、特にエネルギー利用の場において顕著です。

 宇宙そのものの活動、地球の自然の存続、それを何が可能にし、そのためにいかなる自然の営みが行われているかを考えた時、今日の驕り高ぶった人間だけが、消費と破壊の一方通行をよしとし、宇宙の基本原理というべき「リサイクル」と「むすび」を無視して、自らの足元すら見ない行動を際限なく続けることが、如何に愚かなことか、改めて、よく考えるべきでしょう。


神話を信じるか見破るか

2011年07月20日 12時54分49秒 | 社会
神話を信じるか見破るか
 昭和一桁生まれのわれわれの世代は3つの大きな神話を経験したように思います。

 その第一は、皇国史観です。日本は神の国で、戦えば必ず勝つ、日本の戦いは聖戦であり国民はそれに命を捧げなければならない・・・・、などなど。
 1945年8月15日、これは作られた虚構であることが明らかになり、物心がついてから正しいと教えられていた価値観の崩壊を経験することになりました。

 第2の神話は土地神話です。地価は何時までも上昇を続けるものだから、土地を買っておけば必ず儲かる。 金を借りてでも土地を買ったほうが得ですよ。
 この神話は、1960年代の高度成長期から1991年まで続きましたが、バブル崩壊で破綻し、多くの悲劇を生みました。

 第3の神話は、原子力発電所の安全神話です。原発がエネルギーの大量安定供給を支える救世主として生まれ、それに付随して語られることになったこの神話は、日本の高い技術力への信頼とともに広く信じられてきましたが、今回、残念ながら崩壊することになりました。

 こうした神話は、すべて作られたものです。神話が虚構であったことがハッキリしてからよく考えてみれば、辻褄の合わないこともたくさんあり、なんで信じてしまったのかなということになるのですが、多くの人にはなかなか見破れないのです。だから神話になりうるのでしょう。

 しかし、こうして何回も騙されてくると、だんだん知恵がついてきて、だまされなくなる人も多くなるのではないでしょうか。
 かつては、戦争に反対した人も、土地バブルの崩壊を見通し、土地政策に反対した人もいました。原発についても同じと思います。
 しかし、世の中の多くの人が神話を信じてしまいますと、神話が真実として機能し、反対意見を制して、世の中を動かしてしまいます。

 では何故神話が生まれるのでしょうか、神話は「こうあってくれればいい」という多くの人の願望に沿ったもだからこそ、信じられるのでしょうが、そこには、そうした社会の願望に便乗したり、最初から意図的に神話を作り上げたりして、その神話を推進していく集団が必ずいるようです。

 誰が、何のために神話を広めるのかがわかれば、神話が真実か虚構か、神話を信じるべきか、その虚構を見破るべきかの判断にも役立つでしょう。

 もちろん神話もすべてが誤りであり、虚構であるわけではありません。
 古事記も神話です。古事記には、おかしなこと、奇妙なこと、真実とは考えられないことがたくさん書いてあります。しかし古事記から読み取り、学ぶべき大事なこともたくさんあります。
 神話のレベルが違うかもしれませんが、神話を如何に理解すべきか、神話に如何に対すべきか、よくよく考えなければならない問題のようです。


緊急課題と長期課題は分けて

2011年07月16日 11時12分17秒 | 社会
緊急課題と長期課題は分けて
 前回、「緊急課題と長期課題をごっちゃにしてはいけません」と書きました。
 緊急課題は、あくまで「被災地、被災者対応」です。その範囲も現実にはどんどん広がっています。

 稲藁飼料と牛肉汚染の問題が新たに発生しました。汚染経路の追及も大事です。汚染拡大による被害の拡大を防ぐためです。汚染によって、経済的損失を蒙った人たちへの経済活動の健全な継続、人心の荒廃阻止のための援助や賠償も喫緊の課題です。
 こうした事で、経済活動が停滞してしまいますと、地域経済のベースがくずれ、災害復旧が更に長期に停滞してしまう怖れがあるからです。

 福島1号機の安定化もなかなか進みません。故障や事故があまりにも多すぎます。外国製品を日本品と同じように使おうとしても、製品のキメの細かさが違うのかもしれません。緊急に国産装置も作られていますが、この動きの一層の促進も必要でしょう。

 これらにはすべてお金がかかります。政府の政策として、経済が停滞せず、復興が加速するような政策を取り続けることが必要です。そのための法律が必要なら、挙国一致でどんどん国会を通すべきでしょう。
 日本には おカネはあるのです。震災直後、いみじくもアメリカの財務長官のガイトナーが上院で発言したように、日本は VERY RICH COUNTRY なのです。

 東電も、国民の共感を得ようと思ったら、徹底して賠償に力を入れるべきです。国民の支持なくしては会社の明日はありえません。この際きめ細かい賠償を迅速にやってこそ、東電の明日につながるのです。

 東電の支払い能力は、すでに見てきましたように、こうした従来の想定の外にある問題に対応するにはあまりにも脆弱 です。しかし電力供給は、必要不可欠なものですから、誰かがやらなければなりません。最終責任は政策担当者としての政府にあるのでしょう。東電はその中で経営理念に掲げる責任 を果たすためにも利用者のためにベストの努力をしなければなりません。

 今後、原発をどうするかは、将来こうした災害とその後始末の苦労をしなくて済むように、しかも現在の経済活動をきちんと続けながら対策を考えるという問題の検討です。それを考えるためにも、起こってしまった災害対応をきちんとすることが対策を考えるベースになるのです。

 先ずは燃え盛っている火を消してください。少なくとも、長期問題の論議における混乱が、喫緊の問題対応の促進の邪魔になることがあってはならないと思います。

喫緊の課題は被災地、被災者対応

2011年07月15日 12時14分44秒 | 社会
喫緊の課題は被災地、被災者対応
 原発を止める、止めないの論議が続いています。確かにこれも大事なことでしょう。しかし喫緊の課題は、原発問題でいえば、原発事故の被災地、被害者対応でしょう。

 特に問題は福島第一原発で、綱渡りのようなつぎはぎ工事で水漏れを防いだりしていますが、汚染水の海への流出、新たな水素爆発、放射能汚染瓦礫や汚染水処理で生じる汚染物質の保管や処理は、ちょっとした自然災害でも、新たな大きな被害をもたらす可能性が高い状態です。

 汚染水除去の配管などの工事は、新たな自然災害などは想定せずに緊急対応として行われているのでしょうが、何もなくても事故が多発しています。何かあれば、危険度は被災していない原発に比べれば、格段に大きいでしょう。

 更に、被災地には、すでに起こってしまった問題があるのです。現実に人々が困っているという問題と、今から困る人が出てくるかもしれないという問題とは、はっきり分けなければいけないと思います。

 被災地には義捐金もなかなか届かないし、賠償金支払いも極めて不徹底な状況のようです。原発対応論議の迷走が、それに拍車をかけているようですが、いま、最大限の努力を傾注しなければならない問題は、地震、津波、原発事故の被災者に対しての救援と被災地の復興です。
 最近、被災者の中からの半ば諦めにも似た不満の声が報道されたりします。大変残念です。

 これに比べれば、エネルギー選択の問題は、喫緊というより、長期の問題です。長期の問題は長期の問題として、緊急課題とは別に論議するのでなくてはなりません。
 ポピュリストという立場であれば、原発被災者の悲劇を掲げて、原発停止を謳いあげることに意味を見出すかもしれません。しかしそれは今の原発被災者に役立つものではありません。
 緊急課題と、長期課題をごっちゃにしてはいけません。

 長期の問題は、結局は確率の問題です。明日巨大地震が送るかもしれないし、100年後かもしれません。この辺りは未だ人知の及ぶところではありません。ここでは、理論性や合理性は、判断材料にはなっても、結局多数者の納得性で決めるよりないのでしょう。例えそれが間違っても、それが人間の限界です。

 緊急課題は違います。やるべきことはハッキリしています。それの手を抜いて、長期の問題で不毛の論議をするのは如何なものでしょうか。緊急課題対応のベストを尽くしながら、長期課題については、多少時間はかかっても、「本音の論議」をしてほしいと思います。


原発か自然エネルギーか: 二元論は不毛

2011年07月13日 11時40分31秒 | 社会
原発か自然エネルギーか: 二元論は不毛
 原発対策は、多くの国民の目から見れば、迷走そのものです。いろいろな要素が重なっているのでしょうが、個人に関するような問題は出来るだけ避けながら、日本人らしい思考方法で、問題の本質と対応を考えてみたいと思います。

 多くの日本人は、原子力は化石燃料エネルギーの代替の旗手と教えられてきました。低コストのエネルギーとして、また、CO2を出さないエネルギーとしてです。
 今回の事件をきっかけに、その神話に明らかにひびが入りました。

 先ず原子力発電が低コストというのは、原子力発電の「安全神話」によって支えられたものでした。今回の災害時の代替電源確保の論議の中で「あらゆるケースを想定して安全を考えていたら、コストが上がってしまって不可能」という意味の発言がありました。

 不十分な安全対応、しかも巨大災害のコストは算入されていないことも明らかになりました。さらに、核廃棄物の最終処理まで見通したコスト計算はできていない(技術開発自体が未開発?)という問題も出てきました。原発は本当に低コストのエネルギーなのかが解らなくなりました。

 地球温暖化問題に関しては、原発はCO2は出しませんが、冷却が最も大事ということも広く知られるようになりました。以前、アメリカで「アメリカのエネルギーを原発で賄おうとしたら、アメリカ中の川(河川水で冷却)が干上がる」という論文が書かれたことがありました。
 日本なら海水の温暖化でしょう。原発50機の沿岸海水の温暖化効果はどのくらいでしょうか。

 こうして、原発はまだ開発途上の技術であり、特段の支障なく平穏無事に運転でき、将来、技術開発が順調に進展すれば、コストの安い、環境にもよい発電技術であろうという「見込み・仮定」を前提に成り立っていた面が明らかになりました。安全神話でそれを支えようとしたのですが、世の中はそう甘くはなかたのです。

 こうして、原発についての真実が解ってくれば、当然、もう原発は要らない。原発は止めて自然エネルギーに帰ろう。そのための不自由は、本来の人間のあり方を取り戻すことなのだ、といった論議が出てきます。

 現実に、私自身を含め多くの人は、「原発の持つ恐ろしさ」と「不自由な生活への不安」の間で戸惑うことになりました。

 この問題も、他の多くの問題と同じように、二元論(マルかバツか、神か悪魔か)では現実には解決が不可能な問題でしょう。日本人にはもう少し知恵があるように思います。


人口減少: 50年先が予測できるか

2011年07月10日 20時53分40秒 | 社会
人口減少: 50年先が予測できるか
 前回は、少子・高齢化、人口減少が続いたら、日本経済・社会は衰亡するしかないのかという問題を取り上げてみました。
  ところで、前回の計算は、合計特殊出生率の中位推計、1.26人を使ったものです。実際の動きは2005年に1.26人を記録した後、2010には1.39人まで上昇していますから、そのあたりは、皆様方の適切なご判断をいただきたいと思います。
  因みに、合計特殊出生率1.22人の韓国経済は、日本よりよほど元気です。

  この、合計特殊出生率の動きをどう見るか、というのが今回の問題です。
 戦後のいわゆるベビーブームの頃4.5人だった合計特殊出生率は、その後急下降、第二次ベビーブームで2.2人に回復しましたが、その後は1980年代の前半に多少の回復を見たものの、一貫して下がり続け、2005年に1.26まで低下、その後多少の反転上昇という経過です。

 戦後、世界の主要国では、合計特殊出生率はいずれも急速に低下し、2人(人口静止には2.08人が必要)を割り込み、その後、1980年代後半ないし、1990年代に反転上昇して2人の近傍に回復しつつあるというのが大きな傾向のように見られます。

 日本で見ますと、低下傾向の中で、多少の回復を見たのは、戦後のベビーブーム世代が親になる第二次ベビーブーム時代、そしてその後は、ジャパンアズナンバーワンといわれた1980年代前半と、最近の日本経済が「いざなぎ越え」に入ってからです。
 もちろん、景気が良くなれば出生率が増えるとは言いませんが、昨今の状況を見ると、それも1つの要因かもしれません。

  こうしたものは、人間社会の大きな営為であり、自然と人間の関わり、その時点の人間社会の姿などが人の心に反映して生じる人間の意識と行動の結果によるものでしょう。
 人間も動物の中の1つの種であれば、人知を越えた、本能に根ざした動きもあるのかもしれません。

 自然が身近なほど出生率は高まるという見方もあります。自然エネルギーへの回帰といった問題も今後は関係してくるかもしれません。
 いずれにしても、出生率低下は不可避であるなどと固定的に考えるのではなく、それは、われわれ日本人の心が決めるものだ、という意識を持つことが大事でしょう。

 そうすれば、そのために何をすべきかという積極的な意識が、また、これからの経済、社会、環境を考える上での日本人の行動指針になるかもしれません。


国民意識変化の兆しか

2011年06月01日 14時07分14秒 | 社会
国民意識変化の兆しか
 東日本大震災は、日本人の意識に、何か大きな変化をもたらしてることが明らかになりつつあるように思われます。
 特に、日本の将来を託す若者や、社会とのつながりが希薄になりつつある中年世代などの心に、何か本来の人の心に帰るような変化をもたらしているのではないかと感じられます。
  
 最近、「無気力」などといわれた若者が、決してそうではないという事が、ボランティア活動への積極的な参加や献身ではっきりしてきました。
 加えて、家族の大切さ、ご近所とのつながりの大切さ、地域社会活動への参加などいろいろな面での変化が、被災地だけでなく、広範に見られています。
 更に結婚につての意識が大きく変わったようです。婚活などという決して語感のよくない言葉が流行るような状態から、若者が自然に結婚を選択するという、本来の人間らしいあり方に戻るような動きが強まっているようです。

 こうした動きというのは総じて、過度に人工的なものに依存してきた世界から、改めて自然の世界に回帰する動きではないかと感じられます。
 もともと人間は自然の一部なのですが、人工の世界が余りに進んできたため、人工構造物、人工的な環境、ますます人工的な自然の中で、自然の一部である人間が、人工的な世界の中だけで生活できるといった、慢心、あるいは錯覚に囚われていたのではないでしょうか。

 この所の変化の本質は、本当の自然の力、自然の有難さ、自然の恐ろしさに改めて目覚め、本能的な感覚の中で、自然への畏怖を強め、人間の生活は、矢張り自然と共存する、文字通り「自然な」ものでなければならないという感覚への回帰でしょうか。もしそうであれば、それは、本来の日本人らしい、日本人の心根の復活という事が出来るような気がします。

 「やおよろず」の神々を持つ日本人は、もともと、「自然は征服すべきもの」という考え方ではなく、自然と共存 することが人間のあり方だと考えてきたといわれます。そして、今、西欧文明も、本来の自然を残そうと、生物多様性などを主張するようになっています。

 大震災をきっかけにして日本列島に起こりつつある種々の変化を、改めて、われわれにとって大変大事な変化だと感じ、災害からの復興を超えた、あるべき日本の再建への契機として捉えることが必要なのではないかと感じる人は多いのではないかと思います。

 この変化を日本人本来の心根への回帰として、何十年、100年の長期的な将来を目指すものになるよう、国民意識、国民的活動につなげることができればと願うところです。