Altered Notes

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養老孟司氏自身の「バカの壁」 昭和天皇の真実

2023-11-20 06:00:00 | 人物
それまでも一種の「知の巨人」として知られていた東京大学名誉教授の養老孟司氏の著作である「バカの壁」(2003年4月発行)は当時の社会的話題になりベストセラーとなったことで知られている。
本書の帯に記されたキャッチコピーには「『話せば分かる』なんて大ウソ!」と書かれており、「バカの壁」は誰にでもある、と著者自身が語っている。後年のインタビューで養老氏は『「バカの壁」とは「人は知りたくないことに耳を貸さず情報を遮断すること」』と述べている。

「バカの壁」というタイトル自体は編集者が付けたものらしいが、養老氏自身がそれをかなり気に入っているのは、箱根にある養老氏の別荘の敷地内にある離れの壁に馬と鹿(=馬鹿)の漫画絵(描いたのは漫画家・南伸坊氏)が描かれていることからも分かる。


さて、この養老孟司氏だが、2022年08月19日にBS日テレの番組「深層NEWS」に出演した時に、「日本の壁」や「戦争」をテーマにキャスターや他の出演者と共に語った。この中で、養老氏は戦時下の天皇陛下(昭和天皇)について語った短い言葉に筆者は引っかかった。(*1)

養老孟司氏は昭和天皇についてこう言った。

「天皇の開戦の詔勅の次の文章なんか酷い。
「暗に朕の志ならんや」
俺のつもりじゃないんだけどそうするって言ってる。
そんなこと言うリーダーがいます?世界に。」

こうである。完全に上から目線で馬鹿にして下に見ているのである。

養老氏は昭和天皇を「無能で無責任な日本のリーダー」として捉えたが故にこのような発言になったものと考えられる。

昭和天皇がそう言ったのなら、そう言わざるを得ない事情と前後の流れがある筈であり、養老氏はそこを無視して言っているのである。誤解しているのだが、自分が誤解している事に気づいていない。要は「真実を知らない」からそんな間違った思い込みをしているのである。付け加えると、「真相を知ろうともしていない」事は、養老氏の表情や喋り方、つまり半笑いで人を小馬鹿にする時の表情をしながらそのように言った事でよく分かるのである。養老氏は前提が間違った状態で思考し判断しているのであり、前提が間違っている段階でその後の思考や判断が無意味であることは言うまでもない。


また、戦後、米軍が入ってきて、『WGIP:ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム』を日本国民に施した結果として養老氏がそのような態度を取るようになった事は容易に推察できるものである。簡単に言えば、「戦争責任は全て日本にあり、日本が全て悪いんです」という思想を日本国民にあまねく広めた再教育計画なのである。若き養老氏もその陥穽に落っこちたということだ。いとも簡単に。

そこに加えて、日本を貶めて破壊したい左派勢力のプロパガンダに乗せられてしまったが故の養老発言と見る事ができるのである。

養老氏は天皇陛下という存在、役割等を実は何も知らないに等しい。無知なのだ。養老氏自身は「僕はその時代に生きていたので知っている」と自慢げだが、実は養老氏自身も知らない大きな真実があるのだ。当時のマスコミ(=左派系メディア)から発信される情報ばかり受け取っていたらますます真実を知っている筈がない。養老氏は本当の真実を知らずして昭和天皇を見下しているのである。そして、これはまさしく養老孟司氏自身の「バカの壁」に他ならないであろう。


なぜそう言えるのか、の理由を以下に記す。


以下、昭和天皇の真実について記す。これは知らない人の方が圧倒的に多いのだが、大東亜戦争時の昭和天皇の発言や姿勢は科学者の武田邦彦氏による解説や作家の百田尚樹氏の著作である日本国記にも記されている厳然たる事実である。


まずは養老孟司氏が発言した開戦時の御前会議(昭和天皇が臨席された会議)の模様だ。真実を知れば、養老発言が全く的外れであることが分かる。

そもそもの前提として、天皇陛下は
「君臨すれども親裁せず」
を貫いたのである。

親裁とは「君主自らが政治的な裁決を下すこと」であり、昭和天皇は国民が選んだ内閣の決定には口を挟まないという原則を自らに課していたのだ。親裁を行えばその瞬間に立憲君主ではなくなってしまい、専制君主になってしまうからである。かつての帝政ロシアのニコライ二世のような存在になってしまう、ということだ。養老氏はこの前提から理解できていない。

大東亜戦争が始まる時も昭和天皇は開戦にはずっと反対であった。なんとか開戦を阻止できないかと考えて、開戦を回避するために水面下で努力されていたのだ。アメリカとの戦争を回避しようとしていた昭和天皇。水面下で頑張っていたわけだが、御前会議で開戦が決まってしまった。この時、昭和天皇は一言も「反対」だとは言わなかったが、その代わりにこの開戦には反対だという意味の歌を詠まれたのである。明治天皇が詠んだ歌と同じ歌を昭和天皇は改めてそこで詠まれたのだ。

「君臨すれども親裁せず」を貫いたから政府や軍部の決定について何も言わなかった、というのが本当の真実なのである。養老孟司氏はこうした真実を知らない。知らないが故に上から目線で昭和天皇を「~そんなこと言うリーダーがいます?世界に。」と半笑いで見下すのだ。まさに左翼のプロパガンダに染まりきった情報弱者の姿である。客観的に見て情けないしみっともない事この上ない。さらに一種の選民意識すら感じる傲岸不遜な態度だ。




こうして昭和天皇の意に反して大東亜戦争は始まってしまったのだが、今度は終戦時の本当の実態を記す。


1945年8月9日。長崎原爆の日である。その夜の御前会議のことは歴史の教科書にも出てこない。知らない人の方が圧倒的に多いのである。

その8月9日の23:50から御前会議は開始された。これは百田尚樹著の日本国記にも書かれている。

大東亜戦争は3年8ヶ月戦って8月15日に終戦したというのが一般的な認識だが、終戦日がいつであるかは諸説ある。一般的には玉音放送があった8月15日が終戦の日とされている。

ポツダム宣言があって日本は無条件降伏を受諾した。

この時、日本政府はソ連に仲介を依頼して少しでも良い条件で終戦に至る事に望みをかけていた。日ソ中立条約があったからである。ところが、8月9日にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に攻め込んできたのである。


その8月9日の23:50に宮中御文庫附属の地下10mにある防空壕内の15坪の一室に主要閣僚が集まって御前会議が行われた。
内閣総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、枢密院議長ら重要閣僚7人が集まって天皇陛下の前でポツダム宣言の受諾について話し合ったのである。

ポツダム宣言受諾すれば無条件の敗北となり、その後の国や国民がどうなるかは分からない。皇室が解体させられて天皇陛下が処刑される可能性もあったのだ。

会議の司会は鈴木貫太郎首相。首相は出席メンバーに意見を聞いた。

「受諾すべき」という意見は3人(外務大臣、海軍大臣、枢密院議長)であり、陸軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長は「ポツダム宣言の受諾は認められない」、と徹底抗戦を主張し、3対3で分かれたのである。

受諾すれば天皇は戦犯として処刑される可能性もあったが、会議中に昭和天皇は一切発言しなかった、昭和天皇は生涯に渡って「君臨すれども親裁せず」を貫いたが故、である。(*2)

ポツダム宣言を巡っての会議は徹底抗戦派とポツダム宣言受諾派が共に譲らず、完全に膠着状態となり、両者は全く譲らなかった。徹底抗戦派は無条件降伏を回避してなんとか日本の国体を維持する形で戦争を終わらせたいと考えていた。

ポツダム宣言受諾派は「これ以上は戦えない 一刻も早く戦争を終わらせるべきだ」とした。

会議は2時間以上に渡ったが、両者は全く譲らず、会議は長引いた。日付も変わって10日午前2時を過ぎた頃、司会の鈴木貫太郎首相はこのように言った。

「時間的猶予はありません。誠に恐れ多いことですが、陛下のお考えをお伺いして意見をまとめたいと思います」

昭和天皇はずっと沈黙を守っていたが、2時間後に「それならば自分の意見を言おう」ということで初めて口を開いたのである。

「自分は外務大臣の意見に賛成である」

外務大臣はポツダム宣言受諾派だ。日本国の敗戦が決まった瞬間である。その部屋に居た全員が泣いた。

昭和天皇は続けて言った。

「大東亜戦争が始まってから陸海軍のしてきたことを見ると予想と結果が大いに違う。今も陸軍大臣、陸軍参謀総長と海軍軍令部総長は本土決戦で勝つ自信があると言っているが、自分は心配している。本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまうのではないか。そうなれば、どうしてこの日本という国家を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい。その人達が将来再び立ち上がる以外にこの日本を子孫に伝える方法はないと思う。そのためなら自分はどうなっても構わない」

このように述べたのである。養老孟司氏の傲岸不遜な態度とは大違いであり、人としての器の大きさが桁違いであることが分かるだろう。

この時の御前会議の様子は国立国会図書館に録音テープが残っている。この録音を文字起こしした文章を読めばこの夜の異様な緊迫感が伝わってくるのである。


終戦時、昭和天皇は44歳だった。普段、昭和天皇はオールバックだったが、少し髪の毛が乱れて眉のあたりに髪の毛が垂れていた。

ポツダム宣言を受諾すれば天皇の命が無くなる可能性がある。自分の命がかかっている会議であるにも関わらず、昭和天皇は一言も自分の意見を言わずにじっと2時間閣僚達の意見を聞いていたのだ。

日本政府は10日朝、連合国軍にポツダム宣言受諾を伝えるが、この時、国体護持を条件に付けている。つまり「天皇陛下を処刑しないでくれ。皇室を守ってくれ」という条件を付けたのである。ポツダム宣言は無条件降伏だが、敢えて条件を付加したのだ。


連合国から31日に回答が来たが、国体護持を保障する文言はなかった。つまり天皇陛下が処刑される可能性があるということだ。

政府は8月14日正午に再び御前会議を開いた。この時の列席者は、9日の7人に加えて全閣僚を含む23人が出席した。この席上、「陛下を守れないなら本土決戦やむなし」という声が上がった時に、昭和天皇は静かに立ち上がって言った。

「私の意見は変わらない。私自身はいかになろうとも国民の命を助けたい」

列席者は泣いた。

そして、昭和天皇は最後にこのように言った。

「これから日本は再建しなくてはならない。それは難しいことであり時間も長くかかるだろうが、国民が皆一つの家のものの心持ちになって努力すれば必ずできるであろう。自分も国民と一緒に努力する」

同日、ポツダム宣言受諾は閣議決定され、午後11時、連合国へ通達された。こうして大東亜戦争は終結したのである。


この歴史的な出来事の経緯と昭和天皇の言葉が文科省が選定したどの歴史教科書にも書かれていないのは不可解としか言いようがない。従って、このことを知っている日本人が殆んどいないのが実情である。(*3)

戦後、昭和天皇の戦争責任について色々な意見が出た。

昭和20年9月27日、昭和天皇がアメリカ大使館でマッカーサーと初めて会談した時、マッカーサーは「昭和天皇が命乞いしに来た」と思っていたのだが、ところがそうではなかった。

昭和天皇は次のようにマッカーサーに言った。

「私は戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためにお尋ねした」

この言葉はマッカーサーの対戦回顧録に記されている。

「陸軍大臣であろうが文部大臣であろうが、あらゆる大臣は私の任命するところだから彼らに責任はない」

昭和天皇はこのように言ったのだ。

「私はどうなろうと構わない。私はあなたにお任せする。この上はどうか国民が生活に困らぬように連合国の援助をお願いしたい」

マッカーサーは昭和天皇のこの言葉に深い感銘を受けた。

マッカーサーは次のように言っている。

「死を伴うほどの責任、私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきものではない責任を引き受けようとしている。この勇気に満ちた態度は私の骨の髄まで揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が日本国の最上のジェントルマンであることを感じ取ったのである」


この時、車で訪問した昭和天皇をマッカーサーは出迎えなかった。天皇は戦犯候補に挙がっていたので当然だったと言えよう。しかし帰る時にはマッカーサーは玄関まで見送りに出ている。恐らく会談中に昭和天皇の人柄に感服したのだと思われるところだ。

「君臨すれども親裁せず」という存在でありながら、同時に日本国の統治権の総覧者であった昭和天皇の戦争責任というテーマはイデオロギーや政治的な立場によって見方が変わり、永久に結論が出ない問題である。


戦争中、天皇は一度も皇居から離れることがなかった。東京は何度もアメリカ軍の大空襲を受けて周囲の者は疎開を勧めたのだが、しかし天皇は

「目の前で君臣が次々と死んでいくのになぜ私だけが疎開などできようか」

と言って頑なに拒否したのである。



昭和天皇とはそのような人物だったのである。しかし、養老孟司氏はこうした本当の真実を全く知らないし知ろうともせず、左派系のプロパガンダに洗脳されている自分を自覚することもできず、常に他人を鼻で笑って見下すような人物である。選民意識が強いのだろう。(*4) 本当の真実を知れば、昭和天皇がいかに格の違う尊い人物だったかが分かるのだが、もう今の養老氏にはこれを認識することは無理だろう。まさにこれが養老孟司氏自身の「バカの壁」である。言わなければ分からない人間には「言っても無駄」なのだ。(*5)







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(*1)
番組自体が左派系の色合いを帯びており、司会を努めたアナウンサーも養老孟司氏発言に「本当にそうですよねー」などと無知丸出しで同意していたのである。

(*2)
昭和3年に張作霖爆殺事件が起きたが、その時に当時の内閣の報告書を見た昭和天皇は、かなり露骨にその報告書に不満を述べていた。陛下に不満を与えたということで内閣は総辞職した。その時に昭和天皇は「しまった、自分は政治に口出ししてはいけなかったのだ」と反省した。それ以後は拒否権も含めて親裁は行われなかった。

唯一の例外が軍事クーデターである2.26事件の際に「制圧せよ」と命じたことである。この時、陸軍は反乱軍を制圧することができなかった。同じ陸軍だから青年将校の気持ちも理解できたからである。だから「彼らを処刑することはできない」と言っていたのだ。
しかし昭和天皇は「自分の大事にしていた信頼すべき人間を殺害した反乱軍は許せない。陸軍が動かないなら自ら先頭に立って反乱軍を制圧する」とまで言ったのだ。それを聞いて陸軍は陛下にそんなことをさせることはできない、ということで2.26事件が制圧されたのである。この時が昭和天皇が政治に自ら口を出したたった一つの例外なのである。

(*3)
だから2019年に愛知県で開催された「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展」で昭和天皇の写真を燃やして足で踏みつけるという映像を展示した極左活動家のような愚かな人々が湧いて出てくるのである。

(*4)
養老氏を呼んで講演会を開催した人の証言では、養老氏は聴衆を前に終始 上から目線 の態度で「無知なお前らには判らんだろうが」という姿勢が垣間見られた、という話もある。
養老氏は基本的に「自分」と「昆虫」にしか興味がない、悪い意味で内向的かつ排他的で無責任・無神経・傲岸不遜な人物という印象である。だから他に対しては常に壁を作ってコミュニケーションを遮断する方向に状況を持っていく。しかも知識は持っているので、それが上から目線や選民意識に繋がってゆく・・・そういう印象が強いのである。それにしてはマスコミ受けが良い理由は、養老氏は無自覚的な左派系であり、マスコミにとって都合が良い人物だからだろう。
以前、養老氏はジャズ音楽家の山下洋輔氏とTV番組で対談したことがあったが、見ていて直感的に思ったのは、「養老氏は山下氏や山下氏の音楽には全く関心が無く、関わる事さえ鬱陶しく思っているのだろう」、という事。そうした養老氏の本音が丸見え(平然と無礼な発言をする)であったことでも前述の内容を確信したのである。

(*5)
山下洋輔氏との対談中で、養老孟司氏は「自分への批判は単なる雑音としか思ってない」という趣旨の発言をしている。全く「バカの壁」をそのまんま体現しているのが養老孟司氏その人なのである。







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