Altered Notes

Something New.

絶対音感は必要じゃない

2018-05-12 00:23:12 | 音楽
テレビ番組で音楽家を紹介する時などによく「彼(彼女)は絶対音感を持ってるんですよ。凄いですねー」として紹介されることがある。
テレビ番組の制作者などはほとんどが音楽の素人であり、絶対音感があることが「凄い」ことで、だからその人の音楽は「素晴らしい」という賛美になるらしい。

実にありがちで安直なパターンである。

音楽をやる上で絶対音感を持っていることはそんなに大きなメリットがあるのだろうか。
TV番組の制作者は絶対音感を持つことが具体的にどのように素晴らしいのか、そこは言わない。いや、言えないのである。なぜなら何がどうメリットなのか全然判ってないからである。馬鹿ですね。

番組制作者たちが無知で馬鹿である証拠に「絶対音感を持つメリット」として必ずやらせるのが「何かの音を鳴らしてそれが何の音程なのかを当てさせる」または「街中の偶然聞こえてきた音が何の音なのかを音名で言わせる」という茶番。子供だましのお遊びのようなことだけやらせて、絶対音感が音楽の創造においてどのように役立つのかは一切説明できないのである。これがテレビ屋の”程度”なのだ。

絶対音感の「要不要」について、結論から言えば、音楽を創造(作曲、演奏)する上で絶対音感は必要ではない。
むしろ邪魔になる時さえある。

なぜか。

音楽を作ったり演奏したりする時に最低限必要な感覚は「相対音感」である。ひとつの基準の音に対して目的の音が何度離れているのか、或いは現在の調性と別の調性が何度差の関係にあるのか、といった音程の相対的な位置関係が把握できていれば何の問題もない。実際、優れた音楽家で絶対音感を持たない人などごまんと居るのだ。(*1)
だがしかし、テレビ屋はそうした事を何一つ知らないので絶対音感を持っていると聞いただけで「へへー」と平伏してしまうのだ。阿呆である。

そして、絶対音感が「邪魔になる事がある」とはどういうことなのか?

世界には様々な音楽が存在し、それぞれの民族毎に独特の音程・音階が存在する。日本の伝統音楽もまたその一つだ。中には音程が定まっていず、音程が動く事を認める場合も多々ある。この辺は民族音楽学者の小泉文夫先生の研究を是非お読みいただきたいのだが、核音とそれ以外の音の関係が流動的で西洋音楽の平均律では捉えられないものがたくさんある。

世界に数多存在する様々な音楽の中で西洋音楽というのは決してマジョリティーとは言えない。グローバルに音楽を捉えようとする時、ピアノの鍵盤に示されるような西洋平均律の音程が絶対音感として身体に染み付いているのはマイナスでしかない。その平均律の絶対音感が邪魔をして他民族の音楽における微妙なピッチの差が「判らない」かまたは「間違った音(不快な音)に聴こえる」といった受け取り方になってしまう恐れが多分にあるのだ。

また、日本の伝統楽器(三味線や琴、尺八等々)を演奏する若手音楽家には日本音楽が本来持っている微妙な音程(西洋音楽には無い音程)が「判らない」人が多くなってきている。これについては拙稿の「日本人と西洋音楽・邦楽」で書いているので参照されたい。

日本において音楽ビジネスの中心は西洋音楽であるが、だからといって全ての音楽を無理矢理西洋音楽に寄せて捉えようとするのは乱暴としか言いようがない。グローバルな視野で見るならば西洋音楽もまた一つの民族音楽でしかないのであり、地球規模で見るかぎり、そのシェアは決して高くないのが実態だからだ。


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(*1)
音楽家ならば永く演奏している内に、例えば「このピッチ(音程)はG(ソ)だな」といった絶対音感的な感覚は自然に身についてくるものである。それで充分なのだ。


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<2018年12月9日:追記>

日本の音楽学生は絶対音感が優れているが相対音感が弱い、という研究結果が発表された。
下記リンク先を参照されたい。

日本の音楽学生は絶対音感が優れているが 相対音感が弱いことが国際比較から明らかに 〜日本の音楽教育の見直しを示唆する結果〜



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<2022年12月15日:追記>

ピアノのベテラン調律師が当記事内容と全く同一の意見を述べている。参照されたい。↓

「調律師に絶対音感は必要か?」