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Altered Notes

Something New.

「逃げ恥」に聴く「ブルーノート」

2020-10-09 17:57:17 | 音楽
「ブルーノート」の話をする。
ブルーノートと言ってもニューヨークや東京などシャレオツな大都市にある、あの有名なジャズクラブの事ではない。音階(スケール)/音程の話である。

ブルー・ノート・スケールとはおおよそWikiの説明に書かれた通りのものなのだが、「メジャースケールの第3音、第5音、第7音を各々半音下げた音程がブルーノートである」というのはややシステマティック過ぎる説明であり、本当は「半音下がるか下がらないか…くらいの微妙な音程」である。

西洋音楽の理論とは決して相性が良いとは言えない音程でありスケール(*1)なのだが、しかしそれがブルージーかつ憂鬱で気だるい雰囲気を醸し出す音程として後から理論化されてジャズ、ブルース等で普通に使われるようになったものだ。

例えば、Cメージャー(ハ長調)のスケールの第3音である「ミ」は基準となる「ド」からみて長三度の音程である。この「ミ」を半音下げると「ミ♭」になるが、これはCマイナー(ハ短調)の第3音であり、「ド」からみて短三度になる。

ハ長調なのに第3音を半音下げて演奏するとそれがブルーノートとして認識される。但し、これには条件があって、メロディーラインが「ある流れの形」に沿っている場合のみ「ブルーノートとして認識される」のである。この辺は別の機会に説明したい。


そんなブルーノートだが、ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」のエンディングテーマでおなじみの星野源「恋」に於いてもこのブルーノートが出現しているのをご存知だろうか。

歌詞で言うと
「夫婦を超えてゆけ」
「二人を超えてゆけ」
「一人を超えてゆけ」
の部分のメロディーに登場する。

上記歌詞の部分のメロディー、星野源が実際に歌唱している旋律は下記の通りである。



赤い矢印が指している音(*2)はこの曲のキーであるA(イ長調)の第3音である。イ長調だから第3音は「ド#」(C#)である筈だが、実際に星野源が歌唱している音程は「ド♮」(C♮)である。つまりAのメジャースケールで綴られたメロディーであるにも関わらず、第3音が半音下げられて短三度になっているのだ。


次に、劇中に挿入されるBGMで、この「恋」のインストゥルメンタル版(ストリングスに依る演奏)の場合である。
その時に演奏される同じ場所のメロディーは下記の通りである。



赤い矢印の音がキーのAに対して長三度(C#)になっている。イ長調なのでメジャー・スケールから考えればこちらが正統的な第3音ということになる。


・・・ということは、原曲の譜面に記されたメロディーは「長三度(C#)」になっているのだが、実際に星野源が歌唱した旋律では「短三度(C♮)」になっている、ということだ。

察しの良い人は既に気づいているだろうが、これが「ブルーノート」なのである。

星野源はこのメロディーを歌唱する時に、メロディーのこの部分を長三度(C#)ではなく短三度(C♮)にした方がメロディーの流れ上もスムーズであり、しかもブルージーな雰囲気が醸し出せるので半音下げて歌唱した、ということになる。

実際に聴いてみると、このたった一音だけの事なのだが、曲想に対する貢献度はかなり高いものがある。


ちなみにこの部分(2小節分)の和音は

| Bm7 E7 | A    |

であり、キーでもある「A」に解決する為の「Ⅱm7-Ⅴ7-Ⅰ」である。(*3)



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(*1)
厳密に言うと、スケール(音階)と呼称するのもどうか?という微妙な存在である。

(*2)
歌詞で言うと「こえて」の「こ」の部分である。

(*3)
「E7」のコードは、演奏において実際に鳴っている和音は「Bm7/E」である。分数コードで表記している。これは機能的にはE7であり、そこに9thと11thのテンションが加えられたサウンドである。



音楽を語れない日本人

2020-09-25 15:01:15 | 音楽
残念なことに大方の日本人は音楽を語る言葉を持っていない。ほとんどの日本人にとって音楽とはヒットチャートの流行歌でしかなく、そしてそれがすべて。それだけのことなのだ。

テレビ番組等で「◯◯さんの曲を語る」「△△さんの曲を分析する」といったテーマで扱ったとしても、せいぜい「歌詞」の言葉を分析して終わりである。その曲の音楽面には触れないのだ。歌詞だけを語って、それでその曲を語ったつもりになっているのが日本のテレビ番組の「程度」である。

歌詞は言葉であって音楽ではない。歌詞を分析したところでその曲の音楽面(メロディーや和音・リズム・サウンド等)を語ったことにはならない。「曲について詳しく語るというから音楽的な側面を語ってくれるのかと期待したら、歌詞の分析だけだった…」というがっかりな事例はそこかしこにある。腐るほどある。(*0)

これは一般的な日本人が「音楽を語る言葉を持っていない」「音楽を語れない」事に問題の根幹がある。

それでも最近はごく一部で「曲の音楽面にスポットを当てる番組」(*1)があり、曲の音楽的構成要素等について語る番組もなくはない。しかし、現状ではそうした傾向が一般的になっているとはとても言えないのが実情だ。(*2)

音楽家の坂本龍一氏は歌曲を聴いても「音楽だけを聴いており、歌詞は聴いてない」と言う。それが普通であり当たり前のことだ。音楽家ならば差し当たってその曲の音楽的な構成がどうなっているのか、について聴いて分析する…そういう捉え方であり思考回路ができているからだ。その際に歌詞がどうだとかワードがどうだという問題は全く関係ないのである。歌詞は言葉であり音楽ではないので当然である。

かつてジャズピアニストの菊地雅章氏はこうした「音楽を語れない日本人が一般的である事」について「日本は文化果つる国だね」と残念そうに語っていた事を思い出す。

どうしてそうなってしまったのだろうか。恐らく音楽教育の問題でもあり、マスコミの音楽に対する理解度の浅さにも問題があるのだろう。一般大衆はマスコミが流す情報に左右される度合いが高く、従ってそのマスコミが音楽を全然理解していなければ、流れてくる情報も非音楽的なそれ(例えば歌詞の情報のみ)にしかならないのは必然的な帰結であろう。

音楽教育も様々な変遷があったとはいえ、まだ十分な役割を果たしているとは言えないだろう。学校で教える以上、「音楽」ではなく「音学」になってしまっている側面もあるだろうし、そうなると子供たちは拒否反応を示したり、そもそも関心が持てない状態になるのだ。

ここで大事なのは、例えば「和音の音の積み方」(*1)を語る場合でも、実際の事例を先に示して「感性的な関心」で惹きつけておいてから、実はこの和音はこんな構造になっていて、だから魅力的に聴こえるのだ…といった具合に「惹きつけておいてから、その仕組を理解させる」という順序が大切になってくるのではないだろうか。そしてその素材はヒットチャートの曲で構わない。なぜなら児童・学童が関心を持つ音楽は正にヒットチャートの曲だからである。入り口としてはそれでいいのだ。

無理やりクラシック曲を素材に、その成り立ちを理論的に説明したところで子どもたちはキョトンであろう。日本では長らくクラシックを素材に音楽教育をやってきたが、昔の欧州のようにクラシック音楽がその時代の主流だった時代にはクラシック曲が素材で良かったのだ。なぜなら一般大衆が普通に聞き普通に好むのがそのクラシック曲だったからである。今はどうだろうか。ここはヨーロッパではないしクラシック曲が主流の時代でもない。ならば、今の主流の曲を素材にすれば良い。それでいいのだ。曲を聴かせて、関心を持たせた上で、その音楽的な成り立ちを解説すれば子供にとっても理解は速いだろうし、何より子供の側にモチベーションというものが生まれることが大きいのである。

例えば文科省的にどうしてもベートーベンやバッハを入れたいのなら、現代曲を素材にした学習を続けて基礎を培った後で「実はベートーベンという作曲家が居てこんな曲を作った」とやれば一層深い理解に結び付けられるであろう。誤解しないでほしいが、西洋音楽を学習するのならクラシック曲を学ぶことは大切なことである。なぜなら現代の西洋音楽の基礎となる部分を構築したのは間違いなくクラシックの時代の作曲家たちだからだ。サザンオールスターズの曲の和音進行やメロディーが魅力的であることはよく知られているが、実はそれがバッハ作品の中に既に存在していた手法である事を後から知るのは楽しいのではないだろうか。


もう一つ重要なことがある。

ここは日本であり、我々は日本人である。日本にはいわゆる「邦楽」と呼ばれる伝統音楽がある。邦楽は西洋音楽とは全く異なる。音階も違うし、その音程自体も西洋音楽のそれとは大幅に異なる。しかし、近年は邦楽の演奏者も西洋音楽に寄せていく流れが強くなってきており、邦楽器で西洋音楽曲を演奏する事例も多くなってきている。それに伴って色々と致命的な問題が生じてきている。ここでは詳しく説明しないが、関心のある人は下記リンク先の拙稿を参照していただければ、と思う。

「日本人と西洋音楽・邦楽」


このように、邦楽を含めて総合的に音楽を語れる文化的な土壌が今の日本には皆無と言って過言ではない。もう、呆れるほど無いのだ。こうしたあまりにも情けない現状が少しずつでも変わっていくことを願ってこの稿を終わることにする。




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(*0)
「歌詞を語る」としても、その歌詞が聞き手の心にヴィヴィッドに伝わったとしたら、それは旋律や和音といった音楽的な要素抜きには語れない筈である。その「歌詞」が特定の「旋律」「和音」「リズム」によって彩られてリスナーに伝わるのだから。

(*1)
関ジャニの冠番組では曲の音楽的な成り立ちにスポットを当てる企画を頻繁に取り上げており、例えばその中で椎名林檎が曲の和音の構成について「なぜその積みにしたのか~」といった発言がそのまま流れるのは面白いと思ったが、こうした切り口をどのテレビ番組でも恒常的に扱うようになる事は現時点では考えられない。なお、「積み」というのは和音を構成する一つ一つの音の積み重ね方を具体的にどうするか、という事を言っている。平易に説明するなら、Cというコードがあった時、それを下から「ドミソ」と積むのか「ミソド」と積むのか「ソドミ」と積むのか、あるいは「ドミソドミ」にするのか、具体的にどれにするのか?また、その積み方にした理由は?…といった問題を椎名林檎は語っていたのだ。

(*2)
もっとも、音楽を売って利益を生み出す音楽産業に従事している人たちにとっては、一般大衆が音楽に詳しくない方が都合が良いのかもしれない。音楽制作における手抜きや盗作疑惑がバレにくいからである。アイドルグループで商売する秋元康Pから出てくる曲が実は音楽面で盗作的であったり他曲のパクリが多い事に気づかれたら困ってしまうだろう。彼らにとって消費者は音楽的無知でいてくれた方がありがたいのは間違いないところ…と推察される。





シカゴ「イントロダクション」

2020-08-10 09:06:09 | 音楽
シカゴは長い歴史を持つバンドである。デビューは1969年だが、最初はバンド名は「シカゴ」ではなく「シカゴ・トランジット・オーソリティ」だった。意味は「シカゴ交通局」である。イリノイ州シカゴ市内には有名な高架鉄道が走っているが、あれを走らせているのがシカゴ交通局だ。

1970年前後はアメリカでいわゆる「ブラス・ロック」というジャンルが生まれ、BS&T(ブラッド・スウェット&ティアーズ)と共にそのジャンルの嚆矢となる存在がシカゴであった。

シカゴについては、筆者個人的には5枚目の「シカゴⅤ」までは聴いていたが、その後はポップス路線が強くなっていったので自然と聴かなくなったのであった。初期のシカゴは音楽的にもモダンかつジャジーで刺激的なコンセプトと作曲に魅力があり、特に「シカゴⅢ」までは政治的にリベラルな姿勢を強く滲み出させていたのが印象的であった。この辺は当時アメリカがベトナム戦争に深くのめり込んでおり、国内で厭戦気分が蔓延していた、という時代背景に強く関係している。こうした姿勢は彼らの音楽に対する作曲上の姿勢にも良質な影響を及ぼしていたようである。良い意味で刺激的でモダンな音楽を作り得ていたと思う。

記念すべき最初のアルバム『シカゴの軌跡』 (The Chicago Transit Authority) は1969年4月にリリースされた。そのファーストアルバムの1曲目が「イントロダクション(Introduction)」である。シカゴは正にこの曲からスタートしたのだ。

「イントロダクション」は組曲風な構成になっており、次々に異なる色彩の場面が展開してゆく楽しさがある曲だ。また、冒頭から管楽器のアンサンブルが前面に出てきてこれから始まる音楽に聴く者が惹き込まれていくのである。作曲はテリー・キャスであり、ロックリズムを用いていながらもどこかジャズ的なイデオムを感じさせるところが大人の音楽として魅力的だ。ちなみにテリー・キャスはジャズにも通じるギタリストであり、かつてはケニー・バレルの影響を受けたこともある、とどこかで読んだ記憶がある。

冒頭、管楽器が彩るイントロから始まって、次にテリー・キャスのボーカルが入ってくる。キーはGm(ト短調)である。このボーカルパートではGmが8小節続いた後で
|B♭m7|A♭m7|Fm7|Fm7|
と進行する。

このボーカルが入った部分は12小節ある。テリー・キャスがこの同じメロディの2巡目を歌唱している途中、Gmが続く部分の6小節目(動画の1:02付近)でピーター・セテラのベースがミスをする。コードがGmの部分でベースがB♭を弾いてしまう。B♭はGmの構成音なので理論的にはおかしくないが、この曲のこの流れの中では明らかにおかしいのだ。ピーターはまだGmが続いている時に上掲のB♭m7のつもりでB♭の音を鳴らしてしまったのだ。譜面上ではまだその位置まで来ていないのに。もちろんピーターはB♭を一拍半弾いたところで瞬間的にミスに気づいて即刻修正してGの音を弾き直している。

不思議なのは、これだけあからさまにベースがミスっているのにどうしてこれがOKテイクとしてレコードになってしまったのか?である。流れ的にはB♭を一拍以上鳴らすのはタブーな場所だが、和声の理屈的にはコードトーンなので「まぁいいか」になってしまったのか。それともバンドもプロデューサーも気づかなかったのか?そんな筈はないと思うが、筆者的にはピーター・セテラ自身が自己申告してリテイクすべきであった間違いだよな~と思うのであった。

曲は冒頭の歌唱パートが終わるとリズム体+管楽器全体で仕掛けの部分に入る。この部分の後半は三拍子でドラムはジャズワルツのリズム型を刻む。ドラム奏者のダニエル・セラフィン(*1)は技術的に優れたドラマーだ。ジャズ的なセンスを持っており、この曲に相応しいリズムとサウンド、そして良い意味のリズム的緊張感を提供できる人物である。

バンド全体に拠る仕掛け部分が終わると次は穏やかな8ビートのパートで、ジェイムス・パンコウが演奏するトロンボーンがリードメロディを綴る。ゆったり感のあるトロンボーンのメロディーとバックアンサンブルで鳴らされるテナーサックスとトランペットのサウンドも美しい。

それが終わると次はトランペットのショーケースである。前パートよりもさらにもう少しテンポが落とされた8ビートの上をトランペットに依るメロディーがしっとりと綴られてゆく。このパートの和音や和音進行の形もジャズを感じさせる。普通、ロックでは聴かれない代理コード等の使われ方は正にジャズ的である。

そのトランペットのパートが終了に近づくとともに曲は少しずつクレッシェンドしてテンポも少しアップする。雰囲気が完全に変化してロック色の濃い8ビートになる。コードがFm7になり、さらにGm7に移行したところでテリー・キャスのギターソロが始まる。このギターソロの出だしは秀逸である。これは凄い。テリー・キャスがコードを強めのピッキングで鳴らしてしかもその直後に下方にピッチベンドさせる。このソロの出だしは非常にインパクトがあり音楽的でしかもモダンだ。

その後、ロックイデオムの8ビートの中をギターソロが続く。そのアドリブ内容はジャズを感じさせるものでもあるが、そのフレーズや音の並びを見ると意外にロックイデオムでマイナースケールまたはブルーノートスケールを感じさせるラインになっている。

そうしている内に曲は終わりに近づく。ギターソロがクライマックスを迎える頃、バックに管楽器のアンサンブルが入ってきて、しばらく管楽器アンサンブルが中心の進行になる。この間もコード進行は次々に展開しており、聴く者を飽きさせない。

管楽器メインのアンサンブルが終了すると短いドラムソロの区間を挟んで冒頭の歌唱パートに戻る。このあたりの展開も自然な流れで作編曲の上手さを感じさせる。

歌唱パートを経てラストの仕掛け部分でB♭7(#9)の和音を管楽器が執拗に刻みながら鳴らす。最後に弦楽器・鍵盤楽器・管楽器が総合して二度音程と短三度音程が入り混じったクラスター(房状和音)風の和音がロングトーンで鳴らされて曲は終了する。



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(*1)
初期のシカゴの音楽上の傾向を決定づけていた大きな要素の一つがこのダニエル・セラフィンのドラムである。ジャズ・イデオムを身につけた彼のドラミングがシカゴの色合いをロック一色にしなかった大きな理由である。1971~72年頃の日本武道館公演で見た(聴いた)のだが、この時のドラムセットはクラッシュシンバルの数が多目だったのが印象的であった。



ディープ・パープル「ファイア・ボール」(DEEP PURPLE "FIREBALL")

2020-08-02 09:00:00 | 音楽

イギリスの有名なロックバンド「「ディープ・パープル」」に「ファイア・ボール」という曲がある。

1971年7月に発表されているのだが、筆者はこの曲がディープ・パープルとの出会いであった。あの名作アルバムとして知られる「マシン・ヘッド」が出る前の時代である。この曲自体はファンの間でもそれほど評価はされていないようで、ディープ・パープルの歴史が語られる時には曲名が出てこない(省略される)場合も多々ある…というくらい、地味な存在の曲である。

だがしかし…。

確かに作曲的な面では特に「音楽的な作品」とは言えないものだが、この曲の真価は実は”演奏”にある。リズムのグルーブ感(ドライブ感)が秀逸なのである。リズム…特にドラムである。バンドの創立時から在籍しているイアン・ペイスが演奏するドラムが生み出すリズムのグルーブ感はこの曲の最高の魅力である。

イアン・ペイスは非常に上手いドラマーだ。まず技術的に大変しっかりしており、ジャズ的な技術・センスもマスターしている。(*1)そしてドラムという打楽器を非常に音楽的に演奏できるドラマーなのである。ディープ・パープルはいわゆるハードロックと呼ばれているが、イアン・ペイスのドラミングは全く力み(りきみ)がなく、必要最小限の力でスムーズにリズムを刻み、そして圧倒的なグルーヴ感を醸し出す。そして軽快かつスリリングにフィルインを決めていく。筆者にとって「ディープ・パープルとはイアン・ペイスのことである」と言っても過言ではない。

この曲(Key=Bm)のヴォーカルがスタートして17小節目(A7のところ)から8小節分のパートでドラムは16小節目までのリズムとは若干形を変える。この曲はそもそも速いテンポでスタートするが、その速さにも関わらず、17小節目からの8小節は非常にゆったり感を感じさせる4ビート的でややシンコペーテッドなリズム型(スネアが表拍と裏拍交互に打ち込まれる)になって心地よいグルーヴ感がある。そのせいで一緒に鳴っているベースも4ビートを演奏しているようなイメージで聴こえてくる。ここがジャズ的で浮遊感があり、大人な雰囲気を感じさせる部分として気に入っていたのである。 

普段のイアン・ペイスは1バス(バスドラムが一つ)で演奏するが、この曲を演奏する時だけ2バス(バスドラム2つ)で演奏する。この速いテンポでバスドラムを8分音符で打たなければならない曲なので2バスが必要だったのだ。もっとも現代なら1バスでもスピードペダル(*2)を使うことで同じ演奏は可能ではある。(*3)


参考までに、ディープ・パープルのコンサート映像も紹介しておく。ここでは恐らくアンコールの場面で「ファイアーボール」を演奏する為に新たに追加のバスドラムを持ってきてセッティングして2バス体制に変更している様子が映っている。

Deep Purple - Fireball (Live)


もう一つ。1996年のモントルー音楽祭での演奏動画がある。こちらでは1バスを両足で…つまりスピードペダル使用で鳴らしている。

Deep Purple Fireball Live At Montreux (1996)

 



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(*1)
ディープ・パープルが出てきた頃のロックドラマーはたいていジャズを演奏した経験を持っている。彼らにとってのアイドルもジャズドラマーだったりする。例えばEL&Pでおなじみのカール・パーマーのアイドルはバディ・リッチである。実際にカールの演奏スタイルにはバディ・リッチ的なイデオムが見られる。今の時代ならロックドラマーがアイドルとする先達はやはり同じロック畑のドラマーである場合がほとんどだろうが、ディープ・パープルなどが出てきた1960年代から1970年代の時代だとお手本になる先達はロック畑にはいなかったのである。なぜなら、ロックという音楽自体が成立・成熟に至る途上の過程にあったからだ。したがって当時のロックドラマーがお手本にしていたのは必然的にジャズドラマーである場合が多かったのだ。

(*2)
1バスを2つのビーターで打つことができる仕組み。通常はバスドラムには一つのペダルが設置され一つのビーターがバスドラムを打つ。しかしスピードペダルでは一つのバスドラムに対してフットペダルが2つ用意され、左足をハイハットシンバルからバスドラ用の第2ペダルに移して両足で交互に踏むと1バスなのに2バスのような連打が可能になる。1バスを左右両足で打つスタイルである。なお余談だが、イアン・ペイスは左利きのドラマーなので、彼の場合は普段ハイハットシンバルを踏んでいるのは右足である。

(*3)
比較的新しい演奏(2016年頃?)で、ジャム・セッションとされているが、楽器のアンサンブル授業の模様のようにも見えるビデオ映像があった…のだが、現在は非公開になっているものがあり、それが視聴可能な時代に見た限りではイアン・ペイスは1バスで”FIRE BALL"を演奏していた。足元を見ると、案の定、スピードペダルを使用している事が確認できたのだ。また、バスドラは必ずしも八分音符で打ちっぱなしではなく、曲の場所によってはバスドラのパターンを変えて、その部分はハイハットも踏んでいたりする。音楽なので、こうした演奏のヴァリエーションもその時の状況や成り行きによってはあるのである。[2023年11月21日修正]




”練習せずにいきなり演奏”はできる

2020-05-12 17:57:09 | 音楽
楽器をやっている方なら判るかもしれないが、「一度も練習したことがないメロディー/フレーズがいきなり演奏できてしまった」という経験はないだろうか。ちょっとした長さのフレーズがいきなり演奏できてしまう、という体験である。

新しいメロディーやフレーズを自分が演奏できるようになるには、まず遅いテンポで演奏してみて、やがてその曲のテンポまで上げていくのが普通である。

これは脳の中に新しい神経回路を構築するようなものであろう。対象のフレーズを演奏するにはその演奏に相当する神経回路を脳の中で作られなければならない。遅いテンポで練習を開始するのはその回路作りの初めの一歩である。

これは逆に考えると、脳の中でそのフレーズを演奏する為の回路が予めできていれば練習という段階を踏むことなくいきなり演奏出来る筈である。そしてそれは可能である。

要は頭の中でイメージトレーニングを行うのだ。まずは対象のフレーズを頭の中で鳴らしてみて、きちんと歌えるようにする。その時、五線紙上でどんな譜面になるかを具体的にイメージし認識する。次に自分の楽器でどんな指使いをすればそのフレーズになるのか、を実際的なイメージとして捉える。これらを脳の中で繰り返し行うのだ。

これをしっかりやっておくことで前述の「脳の中の回路」が構築されるのである。その状態で実際に楽器を演奏すると不思議なことに練習無しでいきなりそのフレーズが演奏ができてしまう・・・事が多いのだ。

これは音楽を演奏する上で基礎的な意味においても、ジャズの即興を行う上でも重要な事実である。