川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

松阪市議会議会運営委員会視察

2009-01-15 19:56:17 | 日記
 1月14日、15日、松阪市議会議会運営委員会(議運)で神奈川県小田原市と秦野市に視察に行きました。この視察には議運の委員8名と議長、副議長、それに議会事務局2名が参加しました。

 この視察は他市の議会運営のやり方を学んで、今後の松阪市の議会運営に生かしていこうとするものです。それぞれの市で行政の運営の仕方が異なる以上に、議会の運営の仕方は千差万別です。

 例えば一般質問のやり方をみても、持ち時間、対面方式かどうか、一問一答方式かどうかなどいろいろであります。今回視察した秦野市では委員会でその関係部署に予算に関係のない一般質問ができるということでした。

マニフェスト松阪市長選

2009-01-14 06:56:14 | 日記
 松阪市長選挙は1月18日告示、25日投票が行われます。今回の市長選には2人の候補が出馬予定していますが、二人のマニフェストが出そろって、旧の松阪市を含めて初めての「マニフェスト選挙」なりました。マニフェストについてまとめてみました。

◆マニフェストとは
 マニフェストは首長選挙に立候補する候補者が「自分が当選したらこのような政策をやります」とか、政党が「政権を取ったらこの政策をやります」という有権者との契約です。
 マニフェストは政党とか首長選挙に立候補する人が作るもので、議員がつくるものではありません。ただ県議会などの大きな会派では作ってもいいそうです。
 マニフェストは「何を、いつまでに、どうするか、その財源はどうするか」など数値目標を織り込んで、後で検証ができるものです。だから「福祉の向上のために頑張ります」とか「安全安心のまちづくりを推進します」など後で検証ができないものはマニフェストには書けません。

◆マニフェストの起源
 マニフェストは1834年イギリスのピール首相が有権者に「タムワース・マニフェスト」(タムワースはピール首相の選挙区)と題する文書を配布。翌年の総選挙で保守党の基本方針に採用されたのが起源とされています。
 今のようなマニフェストは今から約20年前の1987年、イギリスのサッチャー政権与党の保守党が総選挙に向けて、政策の数値目標や期限を明示したマニフェストの冊子を作ったのが始まりといわれています。

◆公約とマニフェスト
 選挙ではもう一つ「公約」があります。公約もその実現に向けて努力しなければなりませんが、できなかったら「頑張ったけどできませんでしたゴメンナサイ」と許されるそうです。しかしマニフェストは書かれたことは全て実現しなければなりません。「二年以内」とか「三年以内」と期限が設定されていれば、その期限内に、設定がなければ任期内に実現しなければなりません。もしできなければ首長として、政党として失格の烙印をおされます。

◆マニフェストの検証
 首長などに当選した人は自分が掲げたマニフェストの内容が、実現に向けて順調に進んでいるかどうかを検証する委員会を設置して、定期的にチェックしてもらうのがいいそうです。「この項目は順調に進められている」とか「この項目は少し遅れている」とか第三者に判断をしてもらうのです。

 松阪市民の皆さんはマニフェストの内容もさることながら、選挙が終わってからマニフェストの各項目がどのように実現されていくかも関心を持っていただきたい。

まつさか史跡めぐり(2)

2009-01-13 13:48:01 | 日記
 ブログの合間合間に松阪市内の史跡を紹介します。今回は神山城跡です。神山城跡は三重県松阪市中万町川の上地内にあります。南北朝時代には何度か戦のあった貴重な史跡です。

神山城跡
◆あらまし
 神山城は飯野郡(現 松阪市中万町)の櫛田川左岸にある神山山頂に南北朝時代の初めに築かれた山城である。南北朝とは日本に朝廷(天皇)が2人いる異常な状態で、1336年(南朝歴延元元年/北朝歴建武3年)から1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまで56年間続いた。神山城はこのとき南朝側の軍事的拠点として築城された。

◆神山城の築城
 南北朝の対立が始まると北畠氏は伊勢の国司を任ぜられ、南伊勢を支配する。南朝方は軍事的拠点として玉城に田丸城を築き、田丸城を中心とし、多気町の近長谷寺近くに近津長谷城、宮川左岸に岩出城、度会町に一之瀬城を築いた。これらの城とともに神山城はこの時南朝方の城として、1337(延元2年/建武4年)潮田行部左衛門尉幹景により築城されたとしている。

◆神山城の構造
 神山城は標高130mの神山の山頂に築かれている。東西150m、南北120mの城域を有し、東西の2つの台状地からなる。楕円状を呈する西側の台状地は40m×45mの楕円状を呈し、方形状の東側の台状地は20m×25mの方形を呈しており、両台状地の間に堀切、土塁などが配されている。西側の台状地が主郭部と思われる。

◆神山城の戦い
 1338年(延元3年)北畠親房の命を受けた潮田幹景が南朝軍を率いて神山城に籠城した。翌1339年(延元4年)南伊勢において、南朝側のこれらの城を潰そうとする北朝側に対し、城を守ろうとする南朝側の間で激しい戦いが繰り広げられた。

 この年神山城においても南北朝の攻防が繰り広げられ、8月28日より9月10日まで北朝側の高師秋(こうのもろあき)の軍勢が城を包囲した。一方南朝側は城主潮田幹景のほか加藤十郎左衛門尉定有らが城を死守し、時には城外に討って出て戦った。

 このような何度かの激戦の末、1343年(興国4年)北朝側から伊勢守護に任じられた仁木義長らが加わった攻撃によって、田丸城などの城とともに落城した。神山城にはその後仁木義長が入城した。

◆神山一乗寺
 この神山城への道筋に天台宗延暦寺派の神山一乗寺がある。当寺は聖徳太子の草創といわれ、聖徳太子が伊勢神宮に参拝の際に自ら6尺1寸の薬師如来座像を刻み、お堂を建てたのが始まりとされている。

 一乗寺は神山城の戦いのおり、仁木義長により仏殿等が焼かれたので、文明2年(1470)北畠具教により再建された。文化13年(1816)再び火災が起き、本尊、仏殿とも焼失し、天保7年(1836)年に再建された。

 この神山一乗寺に伊勢国司北畠から3枚の神山寺山林 神山一乗寺保護の制札が出されており、1つは延徳2年(1490)4代北畠教具のもの、2つ目は明応5年(1496)5代北畠政具のもの、3つ目は天文2年(1533)7代北畠晴具のものである。内容は軍勢による濫妨狼藉、陣取寄宿、矢銭兵粮米の徴発、竹木の伐採などを禁止し、戦乱に苦しむ民心の安定や、神社仏閣の保護を目的としている。これらは北畠家と一乗寺の密接な関係を伺うことができる。

◆現在の神山城
 一乗寺までは道が整備されている。一乗寺の西側の奥に仁木義久の墓があり、それより奥の道は草木が茂っている。神山城跡の城郭付近も木が茂っており、城の輪郭をつかむことはできないが、山の中に立つと南北朝の軍勢の戦いの喧噪を偲ぶことができる。

(写真ー現在の神山城跡は草木が茂り、城郭の形が認めにくい)

 この資料は私の「川口保のホームページ」「松阪市の史跡10選」から引用しました→クリック


小さな宮さんの祭り

2009-01-12 22:30:21 | 日記
 1月11日、飯南町深野の小さな神社「御剣八幡神社」と「秋葉神社」で中遷宮の祭りがありました。地元の私の後援会の方から話しを聞き、参加させていただきました。

 昭和55年に地元の人がこの神社にお参りをして病気を治してもらったのでそれを機に神社を整備し、この祭りが始まったとのことでした。毎年1月の15日前後の日曜日に開催されます。

 この日はみんなで参拝したあと抽選会や餅まきがあり、地元の人など大勢の人でにぎわいました。

朝起会鏡開き

2009-01-11 09:01:44 | 日記
 今日1月11日、朝起会で鏡開きがおこなわれました。朝起会は毎朝5時から6時まで本居神社で行われている会ですが、今日は鏡開きということでみんなでお汁粉をいただきました。
 
 鏡開きは日本の新年の行事の一つで、神さんに御供えした鏡餅をいただく習わしです。鏡餅は切ると「腹を切る」につながり縁起が悪いということで、槌などで割って食べるのが本来のかたちですが、「割る」も縁起が悪いと言うことで、末広がりなどのように縁起のよい「開く」を用いるそうです。

 この日は多くの子どもたちも参加して、通常の会が終わったあとみんなで輪になって、会の係の人が朝から焼いたお餅が入ったお汁粉をいただきました。

中国のコピー祭り

2009-01-10 10:54:44 | 日記
 昨年の9月25日付けのブログで「中国の知的財産権」というテーマで中国における類似商標の問題を取り上げたが、昨年の暮れに中国の湖南省長沙市の遊園地「世界の窓」で外国の人気キャラクターを無断でコピーしたマスコットが出演する「コピー祭り」などというイベントが行われた。

 中国では以前も国営の遊園地で外国の人気キャラクターを無断で使用したぬいぐるみが出ていて問題になった。今回も同遊園地では「コピーを理解せず、関心を示さない人は落後者」とか「コピーは文化。独特の雰囲気で魅了します」などの宣伝文句で市民をあおっている。

 類似の商標はその元の企業にとっては大変迷惑なはなしであるが、商品そのものは真似る会社が作ることになるが、映画や音楽やコンピュータソフトなどのコピーは商品そのもの横取りされることになり、その被害は計り知れない。

 中国政府が本腰を入れてコピー商品の取り締まりをしないかぎり「コピー祭り」のようなとんでもないイベントがまかり通るだろう。マイクロソフト社のビル・ゲイツ氏が中国政府に対して、次のように警告したことがあったそうです「知的財産権を粗末に扱うと、最後に被害を被るのは中国国家でありますよ」。

(中日新聞 H20.12.29付けコラムを参考にしました)

まつさか史跡めぐり(1)

2009-01-09 13:02:02 | 日記
 ブログの合間合間に松阪市内の史跡を紹介します。今回は松ヶ島城跡です。
 松ヶ島城跡は松阪市松ヶ島町城の腰にあります。もともとは五層の天守閣がそびえる立派な城でしたが、松坂城の築城のおりに、石垣の石や材木、瓦などが新しい城に運ばれたため、今は小さい塚が残るだけです。

松ヶ島城跡
◆あらまし
 松ヶ島はかつて保留久美(細汲・細首・細頸とも書く)と呼ばれ、参宮古道に沿った、海陸交通の要衝であった。松ヶ島城は三渡川の左岸の海岸線から東へ500mほどの所にある通称「天守山」が本丸天守閣跡と考えられている。周囲には他に城の面影を残すものはないが、現在の松阪市松ヶ島町には、城の周辺に付けられた地名が多く残る。

◆最初の築城                            
 永禄10年(1567)年ごろ北畠具教(とものり)は織田信長の南伊勢侵攻に備え、細首(後の松ヶ島)に細首城を築城して家臣の日置大膳亮をすえた。同12年、織田信長の伊勢来攻が迫ったため、日置は自ら城を焼き廃城として大河内城に籠もった。
  
◆北畠信雄の築城
 大河内城の攻防の後、永禄12年(1569)北畠と織田で和議が成立し、北畠に養子に入った織田信長の次男信雄(のぶかつ)は田丸城を居城としていたが、天正8年(1580)田丸城が放火のため焼失したので、細首城を大改修し、松ヶ島城と改称して入城した。この時の松ヶ島城は本丸、二の丸を堀が囲み、本丸には五層の天主をそなえた堂々たる平城であった。

 天守山あたりから金箔の残る古瓦片が出土するが、金箔瓦が発見される城跡は全国的にも少なく、安土城、岐阜城、清洲城、松ヶ島城、神戸城で信長とその息子たちの城郭であり、信長が金箔瓦を親族で独占し、威厳を示す道具として利用していたことが推測できる。
 天正10年(1582)信長が本能寺の変で倒れると、信雄は伊勢の統治と松ヶ島城を家臣の津川玄蕃允に任せ、尾張の清洲城に移った。その後信雄と羽柴秀吉が対立し、津川玄蕃は信雄に謀殺され、代わって滝川三郎兵衛尉雄利(かつとし)が城に入った。

◆松ヶ島城の合戦
 天正12年(1584)羽柴秀吉と織田信長の次男信雄とが不仲となり、信雄は徳川家康と結び小牧長久手の戦いが起こった。この時伊勢も戦場となり松ヶ島城の合戦が起こったのである。小牧長久手の戦い同様松ヶ島城の戦いも、実質秀吉と家康の戦いであった。
 織田・徳川の拠点松ヶ島城を守るは滝川雄利、日置大膳亮(ひおきだいぜんのすけ)、そして家康よりの伊賀鉄砲隊、服部半蔵率いる伊賀、甲賀の武士など三千余兵であった。

一方攻める秀吉軍は秀吉の弟の大和大納言秀長を総大将に筒井順慶(じゅんけい)、織田信包(のぶかね、信長の弟、津城・長野宗家)、田丸具直(ともなお)、秀長家来の藤堂高虎、蒲生氏郷軍の坂源左衛門などが陸から遠巻きにして、海からは鳥羽城主・九鬼嘉隆が攻めたて海上封鎖をした。この時の軍勢は2万。

 合戦の火ぶたをきったのは秀長軍の大和・伊賀を領有する筒井順慶であった。これを日置の武士井田勝蔵が追い散らした。この後織田信包が町に火を放つと、その火が城に迫り、天主も焼けてしまうのではないかと思われたとき、滝川の家臣の中津志摩助が命がけで天主に駆け上がり、火を消し止めた。この勇気には敵・見方とも拍手をおくったと伝えられている。この戦は40日の攻防にもかかわらず、松ヶ島城は落城しなかった。

 この戦を終結に導いたのは慶宝という一人の若い尼僧であった。慶宝は三雲の星合城主の一族、星合仁左右衛門の娘で、嫁ぎ先の夫が戦死したため、御霊を弔うために仏門にはいっていたのであった。この戦で多くの兵が死んでいくのを見るにしのびがたく、攻撃側の秀長に訴えた。この時慶宝は17歳であった。秀長は慶宝の訴えを受け入れ、話し合いで決着をつけることとなり、慶宝が使者となり、松ヶ島城は開城された。城をあけた松ヶ島城の武将たちはそれぞれの土地におもむき、新しい道を求めた。

◆蒲生氏郷の入城
 蒲生氏郷は小牧長久手の戦い、松ヶ島城の戦いでは兵を二分し、自らは小牧の戦いに参加し、松ヶ島城の戦いでは家臣の坂源左衛門に任せた。
 これら小牧長久手の戦いなどで功績をあげた氏郷は、同天正12年(1584)6月秀吉から松ヶ島城を与えられ、日野6万石から29歳の若さで、松ヶ島12万石の大名になったのである。

◆松ヶ島城の廃城
 松ヶ島城に入った氏郷であったが、城が狭く、海岸に近かったため、これ以上の発展は望めないと判断し天正16年(1588)四五百森に松坂城を築城した。
松坂城の築城にあたって、松ヶ島城の木材、石、瓦等の資材を再利用したり、領内の農漁民を除く町民や寺社は強制的に松坂城下に移住させられ、また松ヶ島を通っていた参宮古道も松坂経由に変更された。
 これにより北畠(織田)信雄、蒲生氏郷と蒼々たる武将の居城であった松ヶ島城は廃城となり、松ヶ島はもとの一漁村に戻った。
 氏郷が開府してからは松阪で合戦は起きていない。松阪の戦国時代は幕を閉じた。

◆現在の松ヶ島城
 現在遺構らしきものは残っていなく、畑の中に幅約20mの台地のみを残すだけであるが、地中からは金箔瓦などが出土する。後世の松ヶ島村の古図や検地帳には、天守跡、堀之内、丸之内、城之内、城之外、南之内、南の丸、日の丸などの城郭名や、殿町、本町、西町、紙屋町、ほうく町、鍛冶町などの町名が示されており、現在も丸の内、城の腰、殿町、本町などの地名が残る。

この資料は私の「川口保のホームページ」「松阪市の史跡10選」から引用しました→クリック



中心市街地活性化委員会開催

2009-01-08 16:18:08 | 日記
 今日1月8日、市役所で中心市街地活性化対策調査特別委員会(竹田哲彦委員長)が開催されました。この委員会は松阪市が取り組んでいる松阪市中心市街地活性化事業を議員の立場から対応していこうとするもので、市議会各会派からの代表9人で構成されています。

 この中心市街地活性化事業は今衰退している中心市街地を活性化していこうとするもので、国の認可事業です。全国各地で取り組みが始まっており、すでに約70の自治体が国の認可を受けています。松阪市も国の認可に向けて計画中です。

 松阪市では市内の有識者や各団体の代表により構成された「松阪市中心市街地活性化検討会」により作成されたこの事業の骨子案が平成20年2月に答申されました。これをうけて市では各部の課長などで構成される「松阪市中心市街地活性化基本計画策定委員会」を結成し、また商工会議所や商店街、地域団体等で構成される「松阪市中心市街地活性化協議会」を結成し具体的な検討に入っています。

 ただ今日の段階ではこの計画がいつまでの出来上がるのか、いつの認可を目指しているかは明らかにされなかった。

松阪の教育を語るシンポジューム開催

2009-01-07 17:53:37 | 日記
 今日1月7日、松阪市民文化会館で「松阪の教育を語るシンポジューム」が開催されました。この催しは松阪市教育委員会が主催して行われたもので、「松阪市教育ビジョン(平成19年~平成28年)」が策定されたの受け、このビジョンの実現に向けてということで催されました。

 会場には市内幼稚園、小学校、中学校の先生や一般市民約1000人が参加しました。この日は2人の講師による講演とパネルディスカッションがおこなわれました。

講演会
 講演Ⅰ
  演題 「ユネスコでの経験とキャリア教育」
  講師 三重県教育委員会事務局学校教育分野総括室長 松阪 浩史氏
 講演Ⅱ
  演題 「教育は真剣勝負~子どもに向き合い育てる心~」
  講師 三重県立相可高校食物調理科教諭  村林 新吾氏

パネルディスカッション
 テーマ「夢を育み、未来を切り拓く松阪の人づくり」
  コーディネーター 田川 敏夫(三重中央大客員教授)
  パネリスト     山川 隆志(三重化学工業株式会社会長)
             茅谷千恵子(こぴすくらぶ(絵本)代表)
             中村 真子(三重県PTA連合会副会長)
             村林 真哉(まつさかチャレンジド・ブレイス希望の園延長)

 講演会の相可高校の村林先生の話はすごかった。相可高校の食物調理科の生徒は昨年の料理の全国大会で2000~4000の作品の中で全て優勝しているということであった。また高校生が「まごの店」というレストランをやっているが、調理はもちろん、仕入からお金の計算まで全てやっていて、全国でも相可高校だけであるということでした。一度いって見たい。



歴史小説「徳川家康」購読中

2009-01-06 07:36:26 | 日記
 現在、山岡荘八著の歴史小説「徳川家康(全26巻)」を購読中です。昨年夕刊三重紙が市内の議員や著名人から募集した「私が薦める この一冊」を掲載しました。このとき私はこの徳川家康を推薦しました。
 小説徳川家康は一介の三河の小大名の嫡男として生まれた家康が、時代の荒波にほんろうされながら着実に天下統一への道を歩んでいく、史実に基づいた歴史小説です。

 私は若いときたくさんの本を読みました。今の歴史民俗資料館が図書館であったころ、何冊かまとめて借りてきて、月に10冊、15冊と読みあさりました。本は本田宗一郎、松下幸之助、三鬼陽之助などの経営に関するものや人生論・ノウハウ的なものが主体でした。

 20才代に読んだ本でいまでも印象に残っている本は、リコー三愛グループの創業者市村清著「儲ける経営法儲かる経営法」、経営難に陥った東芝を立て直した土光敏夫を描いた三鬼陽之助著「東芝の悲劇」、CMブリストル著「信念の魔術」、デール カーネギー 著「道は開ける」 などで私の人生に何らかの影響を与えています。

 このころ小説はほとんど読みませんでしたが、先輩から「徳川家康を読め」と言われて読んだのが始まりで、20代で一回、40代で一回、そして現在60代で購読中です。年代によって受け止め方も少し違ってきます。
 

平成21年 新春賀詞交歓会開催される

2009-01-05 14:05:25 | 日記
 今日1月5日、松阪商工会議所大ホールで平成21年新春賀詞交歓会が開催されました。この催しは松阪商工会議所が主催して毎年新春に行われるもので、市内の商工関係者、市役所関係、県議会議員、市議会議員など190余名が参加しました。

 始めに中井均松阪商工会議所会頭の挨拶があり、下村松阪市長が来賓として祝辞を述べました。また来賓として衆議院議員の秘書や4人の県議会議員が紹介されました。そのあと谷川副会頭の音頭によりお茶で乾杯しました。

 この催しには毎年参加していますが、商工関係の人はほとんど知らず、いる場所がない気がして、いつも早々に退散します。今日も議員の中から参加者が名札を付けるといいのではという意見も出ていました。

松阪市消防出初式開催される

2009-01-04 13:04:40 | 日記
 平成21年の松阪市消防出初式が1月4日開催されました。

 式典は午前10時から松阪市民文化会館において、市内各消防団の団員や、県議、市議や消防関係者を来賓として迎え行われました。式典では長い間消防団活動に功績のあった団員に表彰を授与され、そのあと市長式辞、来賓祝辞、万歳三唱などが行われました。

 式典のあと鈴の森駐車場で消防車輌の観閲が行われ、市内各地区の消防自動車が紹介されました。また場所をベルファームの鬼ヶ窪池に移し、一斉放水が行われ、40数台の消防ポンプから一斉に放水されました。

松阪市内のお年玉自動車レース

2009-01-03 17:55:47 | 日記
 松阪市内のオートレース場の山室山ダートコースで1月3日、「2009年山室山お年玉ダートトライアル」が行われました。

 このレースは自らもレーサーである山室町の井田勝也さんが、自分でコースをもって、カーレースを主催しているもので、この日は定められたコースをどれだけの時間で廻るかを競うタイムトライアルが行われました。
 選手は三重県下はもとより東海地方、近畿地方や北陸地方などから約50チームが参加し、コースを砂煙を巻き上げながら疾走していました。

 この日は来場者に豚汁が振る舞われ、また最後にはもちまきも行われて、子どもたちも含めて多くの参加者がレースを楽しんでいました。

 このレース場では年に何回かレースが行われるのですが、タイムトライアルのほか、定められた時間にコースを何周するかを競う4時間耐久レースも行われます。
 レースに参加したい方、見学したい方(無料)は問い合わせを
 三重県松阪市山室町1299  山室山ダート内 井田 勝也  
  TEL 0598-29-6988
  http://www.yamamuro.info/course/index.html

伊勢神宮へ初詣

2009-01-02 14:52:45 | 日記
 1月2日、伊勢神宮内宮へ家内と初詣をしました。結構早く家を出たのでしたが、五十鈴川河川敷の駐車場はもう満杯状態でした。不景気になると神頼みということで神社にお参りする人が多くなるとそうですが、大勢の参拝者でにぎわっていました。

 伊勢神宮の正式名称は「神宮」。他の神宮と区別するために「伊勢の神宮」と呼ばれています。伊勢神宮は内宮の「皇大神宮」と外宮の「豊受大神宮」からなり、内宮には天照大御神(あまてらすおおみかみ)、外宮は豊受大御神(とようけのおおみかみ)が祭られています。

 20年毎に神殿を建て替える第62回目の式年遷宮は平成25年(2013年)に行われます。この式年遷宮にむけて宇治橋の架け替えも20年に一度行われますが、その仮橋が完成し今日2日から使われています。新しい宇治橋は今年11月3日に渡始式が行われます。

 甘酒をいただいたり、おかげ横町を散策したり、露天を覗いたり、五十鈴茶屋で抹茶を味わったりしてお伊勢参りを楽しみました。

2009年明けましておめでとうございます

2009-01-01 07:35:35 | 日記
 2009年、平成21年元旦(大安)。
 皆様明けましておめでとうございます。

 今年は松阪市政にとっても1月に市長選挙、7月ごろには市議会議員選挙もありにぎやかな1年となりそうです。
 国内においても、国際的にも世界的な不況の波をどっぷり浴びそうな大変な一年になりそうです。

 今日は朝5時から本居神社で行われた「朝起会」に出席しました。下村市長や田村代議士、森本代議士、また県会議員、市議会議員、町会議員などの来賓とともに約200名の会員さんが出席されていました。私の2009年はこの朝起会からスタートしました。

 このあと松阪公園の上で初日の出を拝みました。早朝にもかかわらず、数百人の市民が初日の出を見に松阪公園に訪れていました。午前7時10分伊勢の方向から初日の出があがりました。雲もなくいい日の出でした。

 今日はこのあと松尾神社の元旦祭に出席します。

        (写真は松阪公園からみた初日の出)

                                松阪市議会議員 川口 保