川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

蒲生氏郷の故郷、日野ツアー開催

2010-10-03 22:54:43 | 日記
                    (音羽城跡で説明を受ける参加者)
 蒲生氏郷公顕彰会主催の滋賀県「日野ツアー」(氏郷ウォーク)が10月3日、会員43名が参加して行われました。この日貸し切りバスで松阪を発った一行は滋賀県日野町を訪れ、蒲生家ゆかりの音羽城址、中野城址(日野城址)、馬見岡綿向(まみおかわたむき)神社、近江日野商人館、信楽院(しんぎょういん)などを見学しました。
 音羽城址、中野城址、馬見岡綿向神社は文化財保護審議会会長下村登良男さんと、元本居宣長記念館館長の門暉代司さんの案内で散策しました。また町中にある近江日野商人館、信楽院などは地元のガイドボランテァに案内で見学しました。

各見学地をメモしました。
◆音羽城
 音羽城は応仁の乱(1467)の頃築城された山城で、中世日野谷の領主であった蒲生氏の本城である。城主蒲生貞秀(智閑)の没後、1521年に起こった蒲生家の同族の争いで籠城した貞秀の孫で城主秀紀と、攻めて側の叔父で貞秀の子の高郷(氏郷の曽祖父)の戦いは、籠城3年の末、守護六角高頼の査定で秀紀が降伏した。音羽城は壊され、50数年の城の歴史を閉じた。
 明治以降の公園整備や開墾などで大きく手を加えられていますが、今日の見学では井戸跡や空堀跡などが確認されました。

◆中野城跡(日野城跡)
 蒲生定秀(氏郷の祖父)が天文2年(1533)から3年かけて築城した城で、同時に城西側の荒野に町割りをして日野の城下町をつくった。氏郷は弘治2年(1556)この城で生まれた。天正10年織田信長が本能寺で倒れた時に、安土城にいた信長の妻妾一族をこの城に迎い入れ、明智光秀の軍を迎え撃とうとした。天正12年蒲生氏郷が伊勢松ヶ島に移封となり、中野城と城下町の歴史は終わった。
 昭和40年日野川ダムの建設で城跡の大部分は削り取られたが、本丸と堀の一部が残されている。

◆馬見岡綿向神社
 馬見岡綿向神社は延喜式神明帳にもその名が見える蒲生上郡の総社。鎌倉時代から安土桃山時代には、この地の領主であった蒲生氏一族は氏神として尊び庇護し、歴代領主により社殿の再建や、神領の寄進が続いた。また江戸時代には日野商人達の巨万の財力に支えられ、出世開運の神として崇敬を集めた。
 この神社で嘉応2年(1170)に始まったとされる春季例大祭は、日野祭として5月2日(宵宮)、3日(本祭)に行われ、150年~200年前の江戸時代中期から末期に制作された16基の曳山が町を練り歩く。

◆近江日野商人の館
 近江日野商人の一人・山中兵右衛門の本宅を活用した資料館。日野商人の300年の歴史が展示してあります。
 近江日野商人は、400年前の江戸時代に行商から始まった。初めは柄のない安物のお椀を扱い、日本全国で売られた。富山の薬売りのように各家に薬を置いて貰うような売り方ではなく、人の集まる商店や旅館などに委託して売ってもらうやり方をとった。この行商で利益を得たなら、関東に出て酒、味噌、しょうゆなどを中心に販売した。
 (近江日野商人の気質については別日にまとめます)

◆信楽院
もともとは信楽にあった臨済宗の寺が足利尊氏の時代に日野に移った。蒲生家の菩提寺として、音羽城内に移築され浄土宗に改宗された。城が音羽城から中野城に移った時には中野城に移築された。氏郷は1584年松ヶ島に移封になり、本来ではこの寺は松ヶ島に移転されるところが、父賢秀の死去があり、現在の場所に残った。天井の6枚の絵画は狩野派高田敬輔の作。寺は県の重要文化財。

 蒲生氏郷を通じて結ばれている松阪と日野町、氏郷を語る上でいつも出てくる日野の氏郷ゆかりの史跡を実際に見ることができ、またまちなかも散策できました。帰りのバスのなかで今度は5月3日の日野祭の時に来ようかということになりました。  

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