松阪市嬉野新屋庄(うれしのにわのしょう)町(94世帯)に伝わる「新屋庄かんこ踊り」が、8月14日に同町内の称名寺で行われました。この踊りは初盆の霊や先祖代々の霊を慰める精霊踊りで、新屋庄かんこ踊り保存会(川合幹雄会長)が中心となって伝承されています。
新屋庄かんこ踊りは江戸時代明和年間(1764~1772)から同安永年間(1772~1781)ごろ始まったとされます。踊りの起源は、7月14日の天王さん(現在の新屋庄神社)の夜に神社で「宮踊り」として始まったとか、あるいは称名寺の住職が始めたという説があります。
昭和30年代に最も盛んだったといわれ、田植が終わる頃には各家々の二十歳前後の長男が集まり、およそ2ヶ月間毎晩練習をして本番を迎えました。当時はかんこ踊りを通して地域がひとつになり地区をあげての祭として盛況でした。しかし昭和40年代になると高度成長の時代を迎え、かんこ踊りに対する人々の意識も変化し、ついに途絶えてしまいました。
平成の時代に入って地域の中からもう一度かんこ踊りを通して地域を盛り上げようという動きが出てきて、平成10年に「新屋庄かんこ踊り保存会(初代会長 南条幸行)」が結成され、再び復活しました。平成11年9月3日に嬉野町指定無形文化財に指定され、平成17年の松阪市への合併により松阪市指定無形民俗文化財に指定されました。
新屋庄かんこ踊りの踊り子は4人1組で、頭に黒い羽根のついた「しゃぐま」と呼ばれるかぶり物をして、紺じばん、紺ばっち、紺のてっこう、脚絆で身を包み、草履はきで、肩から「羯鼓」と呼ばれる太鼓を吊して、両手にバチをもち、左右にからだを揺すりながら太鼓を打ちます。踊り子の周囲には側踊り(がわおどり)といって、地区の人たちが浴衣姿に菅笠をかぶり、シデを先端につけた棒を持って踊ります。
19種類ある歌の中で現在踊るのは4曲で、踊りはまずお寺の外から御寺門入(おてらかどいり)をして、次に「御寺踊り」を踊ります。以前は御寺踊りのあと、初盆の家々を廻って踊る「施主踊り」「踊り込み」をしていましたが、現在は全て称名寺で踊る「式踊り」を行っており、踊りの途中で初盆を迎えた人の名前と戒名が読み上げられます。
今年からかんこ踊りが終わってあと、育成会による花火遊びが行われました。
いろいろ教えていただいた川合幹雄会長さんを始め保存会の皆さんありがとうございました。
新屋庄かんこ踊りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。
新屋庄かんこ踊りは江戸時代明和年間(1764~1772)から同安永年間(1772~1781)ごろ始まったとされます。踊りの起源は、7月14日の天王さん(現在の新屋庄神社)の夜に神社で「宮踊り」として始まったとか、あるいは称名寺の住職が始めたという説があります。
昭和30年代に最も盛んだったといわれ、田植が終わる頃には各家々の二十歳前後の長男が集まり、およそ2ヶ月間毎晩練習をして本番を迎えました。当時はかんこ踊りを通して地域がひとつになり地区をあげての祭として盛況でした。しかし昭和40年代になると高度成長の時代を迎え、かんこ踊りに対する人々の意識も変化し、ついに途絶えてしまいました。
平成の時代に入って地域の中からもう一度かんこ踊りを通して地域を盛り上げようという動きが出てきて、平成10年に「新屋庄かんこ踊り保存会(初代会長 南条幸行)」が結成され、再び復活しました。平成11年9月3日に嬉野町指定無形文化財に指定され、平成17年の松阪市への合併により松阪市指定無形民俗文化財に指定されました。
新屋庄かんこ踊りの踊り子は4人1組で、頭に黒い羽根のついた「しゃぐま」と呼ばれるかぶり物をして、紺じばん、紺ばっち、紺のてっこう、脚絆で身を包み、草履はきで、肩から「羯鼓」と呼ばれる太鼓を吊して、両手にバチをもち、左右にからだを揺すりながら太鼓を打ちます。踊り子の周囲には側踊り(がわおどり)といって、地区の人たちが浴衣姿に菅笠をかぶり、シデを先端につけた棒を持って踊ります。
19種類ある歌の中で現在踊るのは4曲で、踊りはまずお寺の外から御寺門入(おてらかどいり)をして、次に「御寺踊り」を踊ります。以前は御寺踊りのあと、初盆の家々を廻って踊る「施主踊り」「踊り込み」をしていましたが、現在は全て称名寺で踊る「式踊り」を行っており、踊りの途中で初盆を迎えた人の名前と戒名が読み上げられます。
今年からかんこ踊りが終わってあと、育成会による花火遊びが行われました。
いろいろ教えていただいた川合幹雄会長さんを始め保存会の皆さんありがとうございました。
新屋庄かんこ踊りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。