忘却への扉

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あなたが行くのはいつ・・・

2016-12-02 | 平和を

 【 今振り返る悲惨な敗戦体験 】 松山市 男性( 94・無職 )

 ◇今年は戦後71年。戦争の恐ろしさをもう一度振り返りたい。戦争体験者はだんだん少なくなり、私の部隊でも帰ってきた人はほとんど亡くなった。戦友会もあったが、昔に解散した。
 ◇インパール作戦に従軍した私は昭和19年4月、インド北東部のコヒマに入り、2か月間、昼夜を問わず戦いが続いた。真夜中に120人が敵の陣地へ攻めて行き、朝になって帰ってきたのは4人だけだった。昼は敵の戦車が来る。日本軍には戦車が一台もない。命令により肉弾攻撃班が編成された。爆弾を背負って戦車に向かって行くのだが、戦車に行きつくまでにほとんど死んでしまった。たまに戦車まで行く兵もいたが、戦車の下敷きになった。弾薬、食料もなく、5月末、撤退の命令が出た。
 ◇撤退を開始して1週間するとアラカン山系は雨季となり、連日の豪雨。道はぬかるみ川はあふれた。しかも敵機を避けての夜行軍だ。軍服は破れ放題、立ち上がることもできず精根尽き、餓死した人たちは数知れない。それが敗戦の悲惨な姿であった。]
                                    《 こだま 読者の広場 》 地方紙「投稿欄」より
 ( 忘却への扉 ) 情報社会の今、どれだけの若者たちが、国民が日本国憲法を持つ以前の、明治憲法の大日本帝国が、侵略戦争の足を遠くインドにまで伸ばしていたことを知っているだろうか。投稿者は「白骨街道」を歩いた過去を持つ。
 インパール作戦の無謀さと悲惨さは、私も書物や記録報道としてその有り様の知識はあって、それに戦地名は忘れたが南方各地で戦闘に参加し、無事帰還できた戦闘作戦体験者の命がけの話はよく聞き、多少の様子は分かるつもり。
 今と昔は全く違うと言うだろうが、人ひとりの命の価値に違いはないはずである。一人の個人が戦争で命を失えば、その個人は生き返りなどしない。
 先の大戦で国は、戦場で兵士がいくら多く死のうと、1銭5厘の赤紙で、幾らでも追加可能と敗戦を引き延ばし、犠牲を増大させた。
 「生めや増やせよ」が国策だったあの時代と異なり、今は少子化。低賃金で働かせる「経済的徴兵制」。あれは「聖戦」だったと、戦争法で再び海外派兵をする日本。戦場が他人事だと思わないこと、そこにあなたが行く日がいつか…。