忘却への扉

 日記? 気づいたこと 何気ないひとこま 明日への伝言 願い 子供たちに 孫たちに そしてあなたに・・ 

薄れる色

2005-08-31 | 平和を
 色への違和感もあって、テレビドラマを見るのを途中であきらめた。【広島】その街に原爆が投下されるまでの20日間の物語。
 被爆前の爆心地の街がよみがえっていた。当時の暮らしを窺い知ることができた。でも綺麗すぎると思ってしまう。
 敗戦直後に生まれたのだが、戦時中の品々はまだ身近にあり生活の中に戦前の色彩が、色濃く残存していた。
 住所氏名を墨で書いた小さな布を縫い付けたカーキ色の服や、空襲から身を守るための防空頭巾。父が朝鮮を歩いた靴等など。想えばその感触や匂までもが浮かんでくる。
 物資の乏しさも、欲しがりません勝まではの戦時中の暮らしを引きずっいて、生活の色はモノクロに近かった。
 今は撮影で使用する衣裳も、化学繊維が多いだろう。洗濯も漂白剤入りの洗剤では白すぎて、まして使い捨て時代では洗い晒しの古着の再現も無理なのか。

 新藤兼人監督の【原爆の子】はやっと復興を始めたばかりの被爆地広島で撮影された。焼け出された住民のバラック小屋を使ったり、ケロイドの傷跡が残る被爆者たちも協力出演したという。
 その映画を観たのかさえ記憶にないが、ビデオに入れた【広島】といつか見比べて見たい。


母のことばと

2005-08-30 | 平和を
 敗戦が色濃くなった頃に生まれたその人の同級生には、父親のいない人が大勢いると言う。軍隊にとられ帰ってこなかったのだ。
 その一人である友達のお母さんが亡くなって、葬儀に参列した時の話を聞いた。悪友時代からの付き合いとか。
 その友達があいさつの中で、母の口癖を紹介したいと『戦争をしてはいけない』という話をした。
 あのような席では聞いたこともない話を、あの友達が口にしたことに驚いたという。大切な母親の想いを伝えたかったのだろう。

 夫を戦争で亡くし再婚することもなく、子供たちを育てるために耐え働いた母たちがたくさんいたことを知っている。
 戦争に負けてみれば、あのお偉い御方たちが戦争さえ始めければとも思っただろう。戦争にこの子の父親を奪われなければ・・・。
 その思いは、再びわが子を孫を戦争で奪われたくない不幸にさせたくないとの願いになる。母なればこそ。


虫時雨

2005-08-29 | 日々
 外が暗くなっているのに気付き壁の時計を見上げると七時、まだこんな時間なのにいつの間にか昼間が短くなっている。
 帰り支度をして外へ出る。正面の扉を閉めようとして、山が鳴いているのかと感じるほど虫の音が聞こえているのに気がついた。
 虫の名前は知らないが、一種類だけの高い虫の音が続いている。その虫の音の中を家へと走る。橋を渡って家に近づいても、まだ続いていた。

 あれは何だったのだろう。電気を消して寝床に入り、窓の網戸の外から聞こえてくるいろいろの虫の音がいつもの夜よりやさしく聞こえた。


増えた親戚

2005-08-28 | 共に
 どちらがついでか初めての話の中で、あなたの家とも遠い親戚になるのでよろしくと言われ別れた。
 気になり帰って聞いてみると、妻方の遠く離れた親戚だった。その後選挙に立候補した。一票の縁だけなのは寂しくもある。
 選挙の候補者親戚は何人もできたが、それから広がる親戚を思い巡らすと実感はないが楽しくなる。
 DNAを辿れば本来人間は、誰もが同じ祖先に辿り着くのか。そう考えるとほんとに人間皆兄弟なのだと気に入っている。
 選挙でなくても同じ町でなら、会話を交している人と「あれっ、じゃあ遠い親戚」となることはたまにある。先日もそんな話があった。選挙時の親戚の押し売りと違い、その人への親しみが増す。親戚の親戚も皆親戚だ。
 人間の寿命から見れば、日本人が言っている血縁の遠い近いの年月など百年そこそこのことでたいして長くはない。知らない人とも、以外に近い血縁なのかも知れない。同じご先祖につながる人が大勢いると思うと、いい加減なことはできないか。


期間限定で

2005-08-27 | 日々
 これが選挙運動かと疑問符も付くが、電話がかかってきたり郵便物も届く。後援会名簿への記入や名刺配りの個別訪問もある。
 選挙ともなると何かと慌ただしくなり、無関係ではいられない。でもそのほとんどは、候補者の名前の押し売りだけ。
 国政でも地方議会にしろ、議員個人が私たちのために普段どう活動してきたのかさえ知らないまま選挙を迎えがち。
任期中議会で一度も発言しなかった議員名がずらりと報道されたりする。選挙中にあなたのためにと幾つも公約を並べ聞かされても、議員になっての市民に向けた顔は見えない。
 ほんとにそうはいかないが、原則として選挙選に入ってからの、候補者や政党などの声は聞かないようにしている。それまで何をしていたかの方に関心を持つようにしていたら、自ずと候補者の当選後が見えてくる。
 とは言っても、自分のためへの一票を行使しにくい。一票しかないのだから、投票所で鉛筆を手にしてからもまだ躊躇している。


原点の祈り

2005-08-26 | 平和を
 古新聞がなによりのおみやけだと言ったら、笑われるだろうか。この夏、子供たちは広島の新聞を私にくれた。
 中国新聞の、七月下旬から八月上旬までは長女から。欠けていた肝心の八月五日と六日は次女たちを迎えに来る際、孫のパパが持って来てくれた。
 敗戦後六十年の今年、あの被爆をそしてそれをもたらした戦争を風化させてはならないとの強い熱意が伝わる紙面だ。
 さすが広島の新聞、共感するたくさんの願い。だがそれは購読者である広島県民の想いであり支援でもある。戦争で奪われたものの大きさと重さを、決して忘れるものか忘れさせはしないと誓っている。
 紙面に溢れる過去の戦争の傷跡は、この国の戦争準備への流れに対する抵抗にも見える。この気持ちが地域限定だなどと言わせてはならない。
 この県のローカル紙も、いつもの年よりは戦争に多くの紙面を割いていたようだ。それでも読者の声などに見る市民の戦争に対する嫌悪や非戦への願いの濃さには、かなりの落差を感じてしまう。
 新聞をくれた子供たちにありがとう。お返しには、孫たちの時代にも平和を残したいのだが・・。


捨て犬たち

2005-08-25 | 日々
 数人で話していて、全員犬を飼っているのが分かり、犬の話になった。それから自分の犬の報告が続いた。
 皆自称一家の主人なのだが、中には飼い犬に認めてもらっていない人もいる。ほんとに好きな人、それほどでもない人。でもそばに犬がいる。
 「犬を見れば飼い主の性格がわかる」・・言われてみればなるほどと思う。わが家の犬も何匹も代わってきたが、犬の個性だけでなく私が変わってきた違いもあったのかと頷く。誤魔化せないようだ。
 犬好きが知られているのか場所柄か、よく近くへ犬や猫が捨てられると言う。飼えないので、時にはまた別の所に捨てに行く。
 猫はそのままだが、犬は帰って来ることがあり再度遠くへ捨てたのにそれでも戻って来た。ここに帰らないで、自分の家に帰れよと思ったと言うので、可哀想になり飼うことにしたのかとホッとした。
 ところがしかたないから保健所への結末は残念だった。私も保健所行きの決まった犬を何度かもらって育てたことがある。
 だが救えても数匹だけ、飼い犬が徐々に野良犬になっていくのを見るのは辛い。捨てるなら飼わなければよいだけなのに。


言ったじゃない

2005-08-24 | 共に
 たんなる世間話の中であることを尋ねると、「言ったじゃない!」と返ってきた。思い出した。確かに聞いている。
 だが日常会話の端々まで、覚えている必要も記憶力もないと思う。言ったという相手は別の人のこともよくある。
 確認のためにも繰り返しは役立つ方法だ。私の身近には、同じことを連続三回は言う人がいる。他にも時間差なら同じ話を数十回と聞くこともよくある。
 同じ人との会話など、同じ話を何度もすることになっても当たり前だと思う。長く付き合っていれば、おのずと回数も増えていく。
 なかには記憶力さえよかったら、この人の正確な人生や地域の歴史が書き残せるのにと悔しい話もある。
 聞かれて繰り返すくらいなんでもないだろう。言ったじゃないとは言わないから、聞かせて欲しいしこちらの話も聞いて欲しい。
 ただ人の悪口を繰り返し聞かされるのだけは苦手なので遠慮したい。


寝た子起こすな

2005-08-23 | 共に
 『』問題で「寝た子起こすな」と云う行為はダメだとよく聞くが、どうも分からない。起こして、どう本気で行動しているだろう。
 私も寝ていた一人なのか、大人になるまで『』を知らずにいた。学校でもや人権教育も無かったけれど、問題など感じることはなかった。
 敗戦でそれまでの軍国主義教育から解放され、民主教育が実践されつつあった時代。『』を意識することなく、共に野山を駈け家にも行き来した友達。
 子供のころも中に違った目を向ける子はいたが、無関心なので知らないできた。『』を特別視する家族もいなかった。
 二十歳を過ぎて新たな知人から聞くまで、特に意識することもなかった。
その感想は、バカバカしいの一言。
 その後はたぷっり差別を見聞きした。『』を差別することで、自分たちの人権も無視される状態は今も続いている。
 眠ってしまってはいけないのか。寝た子を起こして狸寝入りさせ、利用している部分がありはしないのか。


慰霊碑の公園

2005-08-22 | 平和を
 赤ちゃんを連れ公園に来ている。やっと首もすわった赤ちゃんは、慰霊碑の傍で眠っている。と子供からのメール。
 アパートから数分の場所にある公園。木陰のベンチで二人が休んでいる姿が見えるよう。孫に会いに行った時、歩いた所だ。
 その時も、赤ちゃんや子供連れの若いお母さんが何組もいた。近くに建っている大きな自然石の原爆慰霊碑が、その地の過去を語る。
 周囲やあちこちに樹木もあるのにグランドのせいか殺風景に映る。よそ者で通りすがりには、違和感もあった公園。あの時そこに被爆後の町を、ふと想像していた。
 出口に向うと、ちょうどやって来た女の子といかにも暇つぶし中のおじさんが話を始めた。
 それを見てなぜか救われた気持ちになった。日常の光景に安心があるのだろうか。平和であることが安心をもたらす。