忘却への扉

 日記? 気づいたこと 何気ないひとこま 明日への伝言 願い 子供たちに 孫たちに そしてあなたに・・ 

いきなりあくしょ

2013-08-31 | 平和を
 地方紙1面の「地軸」2013.8.29より [木の周りをトラが駆ける。前のトラのしっぽをくわえ、目にも止まらぬ速さで。あとに残ったのはたっぷりの黄色いバター ▲トラが溶けてバターになる、その鮮やかな発想。お母さんが焼いたホットケーキを親子でたらふく食べる幸せ。「ちびくろ・さんぼ」は大好きな絵本だった。日本中で子どもたちに愛された。それが突然、姿を消した。25年前のこと。
 ▲黒人差別に関する米紙報道や日本のある市民の抗議を発端に、出版社がこぞって絶版にした。図書館の多くが自由に手に取れないようにした。学校や幼稚園、保護者に廃棄・焼却を指示通達した自治体すらあった。
 ▲悲しかった。大切な本がいきなり悪書だとされ、母から読み聞かせてもらった温かな時間も、楽しんだ自分も悪だと言われている気がした。納得できず新聞の論争や検証本をむさぶり読んだ。何が起きているのか知りたかった。
 ▲書き手や読者に意図がなくても傷つく人がいることを知った。海外では人種差別が根強いことも知った。と同時に、目の前から本を消すのでは解決にならない、と学んだ。教科書では得られない貴重な経験だった。
 ▲松江市で描写が過激だとして閲覧制限された「はだしのゲン」が子どもたちの手に戻った。騒動に揺れた子どもたち、どうか思いをじっくりかみしめ大人にぶつけてほしい。大人はしっかり受け止め、ともに語り合いたい。平和の語り部ゲンを生き続けさせるために。]
 わが家の本棚にも両方ある。「ちびくろさんぼ」は昭和1981年 第14刷の講談社版・幼稚園百科 1988.12.23 朝日新聞の時々刻々切り抜きを挟んであった。
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よそのでも

2013-08-30 | 共に
 山に新しい倉庫の建築工事が始まってから、わが家のではないのにずっと気になっていた。1人で邪魔にならない時には、バイクを止めて眺めもする。
 しだいに家の形ができると、基礎だけを見ていた頃に比べずいぶん大きく感じる。断熱材が貼られた屋根と壁にスレート板が重なると完成間近でなおさら大きく思える。
 今日も仕上げ前の業者が来ていたが、あいにくの雨で雨宿りの最中だった。私も小雨模様を草刈りをしに上がってきた途中に、家から「早よ 帰らんかな」の電話指示を聞いてはいた。
 でもついでに山の様子を見ておくつもりもあったので、車の窓ガラスを下ろし世間話を数分した。気持ちが通じる仲間の気分。
 建物の主とも現場やそれ以外でも取り留めない話はした。新しい家が建つのはどこのでも子どもの頃から嬉しかった。古い建物が無くなるのは寂しく残念なのに、新しい家が出来て行くのが好き。
 好みを言えば立派でなくても、建築に関わった大勢の人たちの汗とか心のぬくもりを感じさせる家がいい。
 人間にも多大な責任のある自然大災害や確信犯の人災原発事故に同じく悪意の軍事力むら等々、この国と国民の心と生活を駄目にしてでも金銭欲で蝕まれた権力に群がる連中との、正しい矛盾を目にすることができる。山に完成する新しい農家の建物が強すぎる人災に合わずに活用でき続けてほしい。
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おなじことを

2013-08-29 | 日々
 また携帯電話をなくしたと気づいたのは昨日の夕方。山仕事から帰りトラックの荷台に積んでいた大きなポリタンクとエンジンを下ろすつもりで準備していたが相棒が来ないので犬の散歩に行き戻った時。
 たしか山には持って行ったはず、でも1日使ってはいない。家のどこかにあるとしても、私は番号を覚えていないので家族の協力をえなければ呼び出し音も無理。
 家族には朝から叱られっ放しで、ケイタイをなくしたと言えば火に油を注ぐようなもの。食後黙ってスクーターに乗りライトだけ持ち山に行く。
 先日落とした山よりは雑草は少ないのでライトで照らせば見つかるのは簡単と思っていたが当てがはずれ、昨夜は諦めた。
 今朝は電話で娘に呼び出し音を頼んで山に行くと聞き耳を立てるが、聞こえてくるのは虫や鳥の鳴き声と雑音だけ。ケイタイを持つのを止めるのも不便だ。
 今回は移動途中に落とした可能性は少ないので、販売店に一時使用停止の連絡をするのも止めた。昼帰って昼食後、昨夜のままにしていたトラックのポリタンクとエンジンを1人でなんとか下ろし、トラックを一階の倉庫兼車庫に移動した。
 最後の望みとトラックを置いていた二階に戻ってみると、トラックを止めていた車体の下の位置に赤い携帯電話があった。トラックは何回か移動しているのに、ケイタイが踏みつぶされなかったのは奇跡に近い。
 山に行って娘に報告をして礼を言う。電話の向こうに孫が友だちと遊ぶ歓声とネコ・メルの挨拶も聞けた。
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ありつづけるために

2013-08-28 | 平和を
 つらくても想い出し体験を伝えようとする人たちを、このような世の中だからこそなお立派だと思う。私も身内や知人の男女からいろいろな戦争体験を聞いた。いつも夏になり敗戦記念日が近づくと改めて平和の大切さと脆さを特に感じるのだが、今後は安倍内閣と維新やみんな民主も含め反省どころか戦争を美化する勢力の危険な言動に戦争への暴走を警戒する。

 [【つらかった満州での暮らし】 (81歳) 女性 新聞読者の広場への投稿より。
 ◇終戦の1年後、満州(現中国東北部)に住んでいた私たちは、一家で朝鮮半島を経て引き上げ船に乗り、船上から祖国日本の明かりを眺めていた。ところが、上陸目前になって、船内で腸チフスの患者が出たため、船は約1カ月沖に停泊し、期間はお預けとなった。
 ◇引き上げ船は元駆逐艦で「福音輸送を大使命とす」と乗組員から聞いていた。船が停泊中は、船内で演芸会なども開かれ、楽しませてもらった。やがて九州の佐世保港に上陸でき、同情の人たちとの別れを惜しみつつ郷里に帰りついた。14歳の秋のことだった。
 ◇あのとき一緒に引き上げた両親と弟2人も亡くなり、私は80歳を超えた。終戦の日が近づくにつれ、異国での動乱に遭遇したことや、シベリア行きを逃れ職を失った父と家族が離散して暮らしたことなど、つらかった思い出がよみがえる。今憲法改正が取り沙汰されているが、私たちは憲法を守り、戦争のない平和な国であり続けることを願っている。]  
 
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誕生日は いつ…?

2013-08-27 | 追憶
 [1999年8月17日 撮影 こんな写真が出てきました。 残念ながら 連れて帰った日にちは 分かりません。] 宿毛の道の駅で「どうか もらってください」と飼われていた子犬。
 店のご主人は最後のおしっこに連れて行き小さなダンボール箱に布を敷き、寂しがらないようにの気配りまでして見送ってもらった。
 竜串の海中公園にも立ち寄ったが私は駐車場で犬と居残り、帰りもずっと膝の上に乗せていた。道の駅ではまだミルクを飲んでいたが、捨て犬なので誕生日は分からない。あの小さな子犬は中型犬に変身しちょっとでぶでぶ。 
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さがしもの

2013-08-26 | 日々
 山仕事中にたぶん携帯電話を落としたはず…と山にいる時に気づいたのはよかった。午後から夕方までケイタイを見たり使ったりはしていない。あちこち移動したので、明るい内に見つかればいいのだが。
 家を出る時にはポケットに入れたはずバイクで山に来るまでに落としたか、木に登り複雑な姿勢を続けていたこともありケイタイの落ちる可能性は多かった。
 枝に引っかかっているかも知れないしおまけに地面は雑草や枯れ草で探すのもたいへん。目立つようにと赤い色を選んだが、分からなくした時はいつも呼び出し音では見つけるが色では無理。
 あるはずもないけど帰りは路面をよく 見ながら走る。もしかして家に忘れているかもの期待は、呼び出し音が聞こえず消えた。誰かに拾ろわれてもないか。
 厳しく叱られたので呼び出し用のケイタイも借りれず、軽自動車でライトとイノシシ防止に2mの長柄の鎌(カマ)を持って行く。この数日不気味なほど多数のカラスが飛び回る山だが夜は静か、イノシシの行動範囲で荒らされてもいる。出会わないようにと同じ場所も探し回る。
 呼び出し用のケイタイさえあればと、手探りはマムシに咬まれかねないので長柄のカマを使う。家から電話してくれれば…とは思いながらも諦めていた。
 あれ?どこかでケイタイが鳴っているような。気のせいか、耳障りかと疑いながらも音がよく鳴る方に歩いてみた。光で見つけたのは、木から落としたならこの木と予想し特別多く探した場所だった。
 ケイタイで呼び出してくれたのは、私を心配してではなく、出かけるのに軽自動車が必要だから早く帰れの指示だった。家の近かくから長柄の鎌を肩に歩いて帰る。
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あの頃しょいのみ

2013-08-25 | 追憶
 [◇=「奥さんおる。」 〇=「おるよお上がりや」  ◇=「お昼ご飯の途中やった あれっ 白ご飯にひしおのせて 食べよん、懐かしいねぇ」 〇=「そうよよう食べよったろがねぇ」 ◇=「昔は醤油の味いうて言よったわいねぇ 子どもたちも美味しい美味しい言うておかわりガンガンよ」  〇=「そうや おまけに花かつおのせてあげるけん あんたもお食べよ」  ◇=「あれ どしたんご飯に合うねぇ」  〇=「ギノーのひしおじゃけんね」]

 ユニークさや笑いと方言など心に残るCMの少ない県のラジオ局の中で、方言は異なるのだけれど私の印象に残る懐かしい気分にさせるCMだ。
 この辺りの方言では「しょいのみ」と言っていて、わが家は祖母が手作りしていた。材料はすべてわが家の畑で採れた品だった。
 祖母が元気で食事の実権を握っていた頃、ご飯は主に麦飯、麦に芋やそら豆などを混ぜても食べた。麦に米を少量、それが次第に増え白ご飯になった。
 祖母の「しょいのみ」は玉ねぎを入れ煮ながら混ぜたもの。玉ねぎの甘味加わり大好きおかずは1品か2品、貧しいとも思わず「しょいのみ」もご馳走だった。
 祖父母と父が亡くなり結婚後にあの「しょいのみ」を食べたことはない。子ども心には敗戦後の平和を感じさせた味。原子力むらに軍事力むら、どちらも米国や財界の手先で動く強欲集団。貧乏人と見下げる連中は、「しょいのみ」おかずに麦飯を食べたことことなんかあるか?美味しいぞ。
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はだしのゲンに学ぶ

2013-08-24 | 平和を
 【「はだしのゲン」 公による閲覧制限ゆるされない 2013/8/24 社説を転記】
 [「図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右することなく…国民の利用に供する」。現在約2300の公立や学校の図書館が、過去の「思想善導」の反省から、1954年に採択した「図書館の自由に関する宣言」だ。
 国民の知る自由を保証するこの理念を、ないがしろにしたと言わざるを得ない事態が起きている。松江市教育委員会が漫画「はだしのゲン」の閲覧制限を私立小中学校に求めた問題である。公権力による、知る権利や表現の自由への干渉は断じて許されない。憲法違反の疑いも拭えない。松江市教育委員会に要請の撤回を求めたい。
 「はだしのゲン」は実体験を基に、原爆や戦争の悲惨さと、たくましく生き抜く少年を描く。40年前に連載が始まり、約20カ国語に翻訳され世界で読み継がれている「平和の語り部」だ。それがなぜ、いま突然に閲覧制限なのか。不可解だ。
 昨年、作品の歴史認識を問題化する市民が学校図書館からの作品の撤去を求める陳情をし、市議会は不採択とした。その時、ある市議が「過激な文章や絵が占める不良図書」と発言。市教委が図書の扱いを検討したという。
 市教委は全校長を対象にアンケートを実施したにもかかわらず市教委は学校に閲覧制限を求めた。しかも、教育長ら事務局が、重要事項に当たらないとして教育委員に諮らず独自判断した。この経緯は不透明で、納得できない。
 終戦の日に「不戦の誓い」を口にしなかった安倍晋三首相。右傾化が指摘され、戦後処理をめぐり日中、日韓関係がぎくしゃくしているいま。だからこそ、この時期の要請の背景を解明する必要がある。市教委に明確な説明を求めたい。
 教育現場の問題も根深い。同市内で「はだしのゲン」を所有する全ての小中学校が市教委の要請に従い、閲覧に教員の許可が必要として貸し出し禁止にも踏み切った。これまで平和の学習教材として子どもたちに薦め、自由に手に取れるようにしていた本を、突然棚から消したのだ。
 公権力が校長権限の学校運営に介入しても「上意下達」がまかり通る体質を根本から変えなければならない。
 今回、市教委は過激な描写を問題とするが、むごい戦争の真実としっかり向き合い、考えることが必要だ。
 この県でも「はだしのゲン」をきっかけに戦争体験者や被爆者らと対話し、平和の尊さを学ぶ子どもたちがいる。ゲンと同じ目線の子どもたちだからこそ見えるものがある。戦争を知る人たちが少なくなった現代、平和を築く大事な機会を奪ってはならない。]
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平和ノート

2013-08-23 | 平和を
 広島で暮らす小学生の孫に聞いてみたくて電話した。「はだしのゲンの本を持ってるか?読んだことは?映画は観たことある?」『はだしのゲン』は知っているけど家にはなくて、図書館で借りたこともないとの返事は意外だった。
 小学校に入学する前から原爆の絵本や写真集を見たり、平和公園の原爆資料館にも何回も行っていたので早すぎるのではと多少気にしていたほど。
 わが家には非戦の平和のために集めてきた写真集から証言記録に絵本やマンガに小説とビデオなど多数あり、もちろん『はだしのゲン』全巻もある。アニメ映画は劇場で観た。
 家に来た時に戦争関連の本を見ることもある。孫との長話に限界を感じたので、お母さんに変わってもらう。「6分も話した」とグチったようだ。
 「おじいちゃんちに、はだしのゲンあるよと言ったら『そうなんって』」 「小学3年生の〇〇(孫)は 原爆や戦争と平和を小学1年生から 毎年 平和ノートに書いて 学習してるよ」と娘が言う。
 孫は今年「はだしのゲン」について話し合った。学習ノートに書いている内容を聞いたが、要点を的確につかんでいたのには私も驚かされた。
 被爆地ヒロシマのお隣り島根県松江市教育委員会は、その漫画「はだしのゲン」を市議会決議も無視し独断で私立小中学校に閲覧制限を求めた。
 戦争や原爆の悲惨さの日本軍の首を切る場面などわずか数こまが、過激で小中学生が見るには不適切とは偏った大人目線で教育者とは思えない。その後、下村文部科学相は市教委の指示を「問題ない」と容認し「子どもの発達段階に応じた教育的配慮は必要」と理解を示す情けなさ。
 中沢啓治の【はだしのゲン】 汐文社/発行 [読みつがれ、語りつがれる不滅のロングセラー! 400万部突破! 発刊以来13年 ’87年春、ついに全10巻完結!] [ 戦争のばかたれ! 原爆のばかたれ! つらくてもいつも明るい われらの麦っ子ゲン つよく生きぬけ! ] 【10】は1987年3月に初版が出て、同年8月10日の第5刷がわが家にある。アマゾンで検索するといまもあった。
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大半が若者たち

2013-08-22 | 平和を
 こだま 読者の広場 [終戦記念日に思う] 地方紙特集投稿の転載が続くが、あの戦争を美化し再度の軍国化での暴利を企む輩を叩くには戦争体験者の正直な証言が役立つ。
 【戦没者の大半が若者 胸痛む】 82歳 男性 (農業) [◇終戦の日の昭和20年8月15日、あの日も残暑厳しい日だった。それまで「鬼畜米兵」 「欲しがりません勝つまでは」 の教育を受けて、私たちは戦時下を過ごしてきた。その年の3月、国民学校卒業を目前にして学徒動員で神戸の三菱造船所に徴用工として送り出された。
 ◇たびたびの空襲で神戸の街は焼け、そのたびに電車は不通となり、寮まで歩いて帰った。その道すがら、焼け焦げて誰かも分からない多くの遺体が横たわっており、子ども心に戦争の悲惨さを痛感した。
 ◇終戦から50年たった平成7年、私たちの地区に、日中戦争や太平洋戦争の戦没者慰霊碑が建立された。全戸の浄財によるもので、戦没者100人余りの名前が刻まれた。
 そのほとんどは20代、30代の人たち。前途ある将来を閉ざされた若い人たちのことを思うと、胸が痛む。老人クラブが碑の清掃をし、毎年、終戦の日には、遺族や地区の人たちが碑に詣で、犠牲者を哀悼し不戦の誓いを新たにしている。]
 戦争がかっこいいとか勇ましいとゲーム感覚の他人ごとだと、日本国憲法・9条改悪を支持や無関心でいる人たちに言いたい。故郷でもどこでもいいので、古い墓地を見つければ立ち寄ってみるとわかる。戦争で死んだ年齢の若さに外地のどの戦闘でどのような死に方をしたかが石に刻まれている。敗戦間近の死が多のと敗戦後の帰国途中の機雷による沈没や病死など意外と詳しく、故人に想いを馳せる価値がある。
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