忘却への扉

 日記? 気づいたこと 何気ないひとこま 明日への伝言 願い 子供たちに 孫たちに そしてあなたに・・ 

あいさつを考えたこと

2004-08-31 | 共に
 「おはようございます」「こんにちは」普段何気なく交わしている挨拶なのだが、ふと其処に差別意識はないのかと自分に問いかけ悩んだ時期があった。いつも出会う人たちへのいつもの挨拶、私の方から声をかけることが多い。
 問題を考えていた頃ではあったが、挨拶をしながら『』を意識しそうな自分がいるのではと、気にしていた。なんでもないことへの答えなど私の頭では簡単には出ない。
 もやもやを残したまま数ヶ月が経ったある日、ただいっしょを感じたいから挨拶をしているのだから、それだけでいいではないか。べつに考えることもないと思った。それで、やっと以前のよう自然な挨拶ができるようになった。
 
 
 
 

嵐の後の静けさ?

2004-08-30 | 日々
 朝からあんなに吹き荒れたのに、奥地区への道路は18時から通行禁止のマイク放送。川幅いっぱい橋も浸かりそうな水。道路に倒れた木を脇に除け帰ってきた。家が揺れた。
 今、雨も風も止み、虫の声が聞こえる。ぐっすり眠ろう。でも明日の朝、外を見るのが怖い。

被爆体験記3号 葛城

2004-08-29 | 平和を
 広島県北部の庄原市山内地区原爆被害者の会発行の冊子は、長女から私へのこれまでで一番嬉しいみやげだった。

 広島市を遠く離れたその地にさえ、多数の被爆者が列車で着き、治療を受けたのだ。だが多くの人が亡くなった。地区の人々は看護、食事、洗濯、火葬と献身的に協力した。広島市内の焼け跡整理にも行ったのだ。庄原市では現在も千人余の原子爆弾の後遺症をかかえる人が暮らしている。
 いままで原爆との関りが少ない町だろうと思っていた。申し訳ない誤解だった。「二度と戦争があってはいけない。若い人に当時のことを伝えなければいけない。これが私たちの責務であると思います」と手記に残した人は、今は病で話ができないが、長女もよく知っている人だなどと聞くと山内をより身近に感じ、頭が下がる思いだ。
 8月6日には毎年慰霊碑の前で法要がおこなわれ、その日は学校も登校日で孫も話を聞いたそうだ。いつか孫たちとこの本について、語り合う日を待っている。



部落への道

2004-08-29 | 共に
 小さい頃町へ行く途中母とそのを通ると、「おお、いいな」「母ちゃんといっしょか」何人もの人から声をかけてもらった。母も嬉しそうに話をしていた。
 後にそのの近くに母が結婚前、家族で住んでいたと聞いた。べつに用事があったわけでもなく歩いてなのに、わざわざかなりの遠回りをするその道を選んだのだ。
 他所から移り住んだ母たちはその隣りの人々にやさしくされたのだろう。だから私を見てもらいたかったのだ。懐かしさと温かさを感じたくて、時に私も、母の真似して遠回りをする。

 特別の地域と意識させるから被差別、地区などのことばを使いたくない。だからここでは、『』を使った。私にはいっしょを感じる共有語でもある。人権を無視できなければ戦争も始めることができないという。戦争にとって差別意識はだいじな意味があるみたいだ。他人事ではない。

こわいおはなし

2004-08-28 | 追憶
 古い武家屋敷という感じの幼稚園に私は通った。まるで城門のような入口を抜け広場の端の少し登ったところに、屋根のある大きな井戸があった。周囲は手入れがされてなく、近寄ってはならないと言われていた。
 その井戸から幽霊がでるというのである。主人が大切にしていた皿の一枚を、誤って割ってしまったさつきという女中が、許しを請うが怒った主人に切り殺された。それを怨んで化けて出るのだとか。毎夜現れいちま~い、にま~い、と皿を数えるのだと、大人たちから何度も聞いた。
 怖いもの見たさに何度もこっそり覗いたが、落ち葉の沈んだ水中にはイモリや蛙が泳いでいた。そこに幽霊を見ることは無かった。
 中学になって疑問がわいた。殺して投げ込み埋めたにしては、大きすぎる井戸。あれは井戸?そして話は、怪談番町皿屋敷と同じと知る。
 長い間半分信じていた。あの頃、大人は子供に嘘もあったがよく話をしてくれた。今もほとんど当時のままに幼稚園はあるがあの頃のような大人はどうだろう。

 
 

朝のコーヒーがなくなった。

2004-08-27 | 日々
 朝食時の一杯のコーヒー。出勤前のギリギリの制限時間を、テレビ画面で確認しながらコーヒーを飲む貴重な数分間。ずっと続いていた日常の一こまだった。
 だが数日前、コーヒーが出なかった。今日だけかなとの期待に反し、次の日もそして今朝も、出ないと決定していることを、もう認識せざるを得ない。
 でも身体は、朝のコーヒーを要求する。仕事の途中で、自動販売機に立ち寄る。飲みはするが、飲みたいのはこんなのではない。
 外で缶コーヒーを飲むのは、付合いか眠気覚ましの薬代わりだけと決めている。失って初めて知る、あのひと時のコーヒーの大切さ。
 そう「自分でいれたら・・」最近そんなことばが多くなっていた。入れてもいいのだが、普段なるべく飲むの減らしているのだし、いま以上の早起きも限界。しかたない忘れるまでには、しばらく小銭が必要だ。あっ休日はパンだから、二人でコーヒーが飲める。?
 

これだよ入道雲って

2004-08-26 | 平和を
 山の上に青空を遮る、大きな入道雲を見る。光りに照らされこんなにきれいな白で、自らを主張するかの雲を見たのは、ずうっと過去のことだったような気がする。
 そういえば、子供の頃はよく入道雲を見た。空を見上げた。夕立が来るぞと気になった。いまより空がきれいだった。雲の色や形や動きを見ているだけで楽しかった。
 でも当時はこの村の空にも、よく占領軍の米軍機が飛んで来た。我が物顔で低空を飛ぶこともあった。毎回不安と好奇心の目で、爆音を残して機影が見えなくなるまで後を追った。
 用事を済ませさっきの場所に戻った時、入道雲はもう崩れかけていた。いま青空に戦闘機は似合わないと思う。
 
 

夏・戦争・・・焼きついて

2004-08-25 | 平和を
 今年の夏ほど「戦争」を見聞きしたのは、しばらくぶりだった。過去に現実を重ねた報道に、平和の不安定さ実感し、焦りさえ感じる。
 例年の8月6日の墓参り。投稿が載り思いがけない話も聞けた。本やDVDで涙も流した。
 そんな中、二つの強烈な出会いがあった。一つは、長女夫婦が手に入れてくれた、被爆体験記 葛城。そしてあと一つ、NHK戦争特集で元兵士が言った、「思い出なんかじゃない、焼きついているんです」のことばである。『焼きついている』とのことばで、なぜ体験者が戦争をあれほど鮮明に語るのかがなっとくできた。
 どうか長生きして、話してほしい。伝えてもらいたい。平和を崩さないために、お願いします。
 
 

手向けの花

2004-08-24 | 日々
 雨の中久しぶりに走る道路の脇に、下半分を花で包んだ小さな石碑を見る。あぁご両親は健在なんだろうなとほっとする。だがそれは私の願望にすぎない。高校生の一人息子を、その場所で急な病で亡くされたのだ。
 いつも通る道路脇には、他にも幾つかの小さな地蔵さんや仏さまが奉られている。かけがえの無い我が子を、つれあいを・・・。供えられた花などを見かけると、地元だけになにかと思い出される。やすらかにと軽く頭をさげる。 だれの命も同じに大切なのに・・。
 
 

ヒロシマとの出会い

2004-08-23 | 平和を
 中学校には、通路を挟んで職員室の向い側に図書室があった。教室の3分の1ほどの細長い小さな部屋で、窓の下には川が流れその向こうに山の木々の緑が見えた。
 右側の入口を入ると、教材の手回しの電話機がかかり、黒板。とにかく蔵書は少なかった。今の我が家ほども無かったように思う。そんな時代だった。
 窓の左側、小さな本棚の3段目に二冊の原爆被害の写真集があった。新たな発見をしたような気持ちだった。とにかく今でも何ページかの影像が浮かんでくる。これは私の本、くらいの気分で図書室に行く度にのぞいていた。