忘却への扉

 日記? 気づいたこと 何気ないひとこま 明日への伝言 願い 子供たちに 孫たちに そしてあなたに・・ 

袋の中に

2006-02-28 | 日々
あれっ、開けてなかった。何日も前に買った本の袋を、部屋に入ってすぐの所に置いているのは覚えている。何の本かも分かっているが、帰ってから中を見ていなかったのか。
 袋を開け本を確認する。表紙に大きめの株の字のある本が一冊目にある。なぜこんな本が?今回は購入前に本を確かめ、店員に渡している。
 どうやらレジにあった本を、店員が間違えて余分に入れたようだ。レシートでお金は支払っているのも分かる。
 今更返すには遅いだろうと諦めたが、どうせならこの値段を他の本に使っていたのにとは思った。短い月に少し本を買い過ぎた反省も必要だ。

食器洗い

2006-02-27 | 日々
 このところ夕食後の食器洗いを続けている。だからなにと言われることなのだけれど、私にとっては今までとの違い。
 周りにも家事をしたり、毎日弁当持参の男性は何人かいる。一人暮らしや家庭の事情、役割分担や料理が好きな人もいた。
 でも全くと言ってよいほど家事をすることのない人が多いようだ。仕事を忘れたっぷり遊んで帰りたいのも、酒が待っているから早く帰るのも分かる。だが当然の行為とは思ってはいないだろう。
 私が台所に入るのを嫌い禁じていた妻も、だいぶ心変わりしたのか優しくなったのかたいして言わなくなった。
 頼まれ始めたことではない。「後でするから、洗わなくていい」と声かけてくれるが、洗い残りが翌日もそのままになっていたりする。忙しさと息抜きと休みたいのも分かる。
 夜の食器洗いくらい続ければいいのだが、できる自信はない。嫌なのでもない、あまり意識することでもないのだから、自然になれたらとは思う。

梅にウグイス

2006-02-26 | 日々
 菜の花から水仙と梅に花桃、他にもいろいろな花が咲き始めた。昨日は山で騒々しいほど、鳥たちの鳴き声を聞いた。
 ウグイスの今年初めての声は、三週間ほど前になる。倉庫のそばの梅の木で鳴いていたが、花はまだ数個で残りは蕾のままだった。
 ここ数日続けてウグイスの声を聞いているが、同じ小鳥かどうなのか。我が家の梅も満開だと、昨日子供たちにメールを送った。
 いつも家の前を通って散歩している人から「もう桜も散ってるね」との言葉を聞いた。知らなかったが、昨夜の雨で道路を白くする花びらが。ウグイスの鳴き方も上手になってきている、もう二月も終わり。

ふるさとを

2006-02-25 | 平和を
 【戦争とふるさと】 編「戦争とふるさと」発刊委員会 文芸社発行 [戦後60年。私たちは何を見てきたのか 風化させてはいけない記憶、語り継いでゆくことの大切さ。戦争を知る世代、知らない世代の想い88編をまとめました。]
 [今、平和な時だからこそ 読んでほしい「想い」が ここにはあります。]とは帯に書かれている言葉。400ページを超える重さを感じる本である。
 高山パークシティホテル「私のふるさと文庫]で三年程前から「戦争とふるさと」と題してエッセイの公募を行い、十代から九十代まで六百編余りの応募を得た。とあとがきにある。
 自費出版なのだろうか。全国各地からの伝えたい想いの中には、近い地名も見付けうれしかった。この本に会え運が良かったと思う。
 この本にも書かれていたが、あれ程の辛い体験をした人たちがまだ生きている間に、その事実が忘れられようとしているのが哀しい。
 意図的に消し去ろうとする勢力さえ見えてきたような世の中なのに、自身を文章で伝える意志を持つ人たちがいて出版するホテルがあるのだ。

はんてん

2006-02-24 | 日々
 知人が袢天(半纏)を着てやってきた。「いいの着てるな」私も大好きで、家では毎晩着ていることを話す。
 『恥ずかしいから、着るなと言われている』のも似たようなものだ。外へ着て出ることはないのだから、気にすることはないのにもうやめたらとの声。
 時代劇に出るような本物ではない。赤ちゃんのおんぶに使ったねんねこ袢天のようなもの。綿は入っていないが、冬には持って来いである。
 起きてはいるのだけれど、布団に入っている気分になれる。おちつく暖かさが身体を包む。まだまだ袢天の季節が続く。

小声の挨拶

2006-02-23 | 共に
 今年の人権・同和の集会にも、動員のための割り当てがあった。まずは人数集めからにせよ、多くの人が関心を持つ社会に変化すればよい。
 あれだけ大勢の人が集まり、善い意見を述べ善い話が聞けるのだ。それは毎年繰り返されているが、差別など人権問題が過去の事とならないのはなぜ。
 大会等には参加したいが、人権に無感覚の世話役からの依頼など、躊躇することもある。あなたの本音は違うじゃないと言いたくもなる。
 出かけはしたが建物入り口から受け付けや会場にも、相手によって態度を変える人を何人も見たのも淋しかった。
 行って良かったことは、入る前にあった。裏側から会場に入ろうと歩いていると、向こう側からも女性が一人。見たことのあるような人で、もしかして同じ大会へと思い軽く頭を下げた。
 先に上がるが後ろに姿はなく勘違い?忘れ物に気付き戻りはじめた、らせん階段の途中であの人とすれ違う。
 小さな声で「こんにちは」のことばをもらった。やっぱり、問題の集まりでよく見かけた静かな人だが近い気持ちを思い出す。この人とも一緒と感じられる久しぶりの出会い。

携帯メール新人

2006-02-22 | 日々
 連れ合いが長男から、携帯電話をもらった。ずっと前から携帯を持とうかとは口にしていたが、不安か面倒からか言うだけになっていた。
 どちらかと言えば熱しやすく冷めやすい性格だが、家族が相手なのでこれなら大丈夫だろう。ゲームさえまだ毎晩かかさずやっているのだから、やればはまるだろう。
 中高年齢者の携帯入門の本も買ってもらいやる気は十分だ。おもにメールに使うつもりだ。いままでの感覚での長電話を心配したが、それには普通電話を使うそうだ。
 メールを始めても長電話をやめる予定はないのだ。使い方の訓練か、受信メールも増えている。入ってきた孫の写真を見せてくれた。子供たちの携帯料金も、しばらくは余計にいるか。でも携帯はいつも居間の電話器のそばにある。

同じことも

2006-02-21 | 共に
 長い年数の間にではあるが、同じ人から同じ話を数十回の単位で幾つも聞いている。近くにそのような人が数人いる。
 歳を取ればそうなるだろうと、たいして気にせず聞いている。他人事ではなく、世間話をする相手に「前に話したかも知れないけど」との前置きを今日も入れた。
 何人もに自分の気持ちを話そうとすれば、中にはもう伝えている人かどうかの確認もいる。「同じ事を間違えずに何度も話せるなら、いいだろう。話に矛盾が増えたら問題だけど」
 そう言ってもらうと安心する。友人などごく近い人だと、意識して同じような話をすることがある。その中に新しさがプラスされるから、お互い深く理解ができるともいうものだ。
 ブログも同じ長くやっていると、似たこと書いたかなと気になることがある。それも含めて今の私だとの言い訳にも、この文を。

現住所が二つ

2006-02-20 | 共に
 この数日は一人でいた。家族は他の県にお出かけだった。一人だからといってのんびりもできないが、あちらからのメールはいつもより多く届いた。
 子供たちや孫たちは、同じその県で暮らしている。それ以前から親戚はあるのだけれど、距離としては遠い県だと感じていた。
 子供たちが住むようなっても、しばらくは遠さがあった。でも出会いがあり孫が生まれその土地で生活するのが当然となり、いつのまにか遠さを忘れてしまっている。
 あちらでは山と海との違いはあるが行き来の機会は、適当に作っているようだ。申し訳ないけど、一番行かないのは私。
 それでも広島市内に行けば、平和公園や資料館にも立ち寄る。戦争はイヤの気持ちの支えは、ヒロシマを知り強くなった。
 その心を忘れずより大切にと思うのは、広島に子供たち家族が生活しているからでもある。欲張りはしない日常の平和の中で、小さな幸せがあってほしいだけ。
 子供から平和公園が見えると、メールが入った。私も一緒にそばに居る気持ちになる、身近を感じる場所。そこも私の現住所と言える。ここと広島に数ヶ所の現住所。携帯メールがさせるそんな実感。

赤い実が

2006-02-19 | 日々
 玄関のすぐ前にある記念樹の下で、小さなたくさんの赤い実をつけている。重すぎはしないかと気になるほどだ。
 万両なのか千両だか名前ははっきりしないが、幹の様子からするとどうやら万両のようだ。この木も野鳥が植えてくれたもの。
 いつもの年ならヒヨドリなどがやって来て、すぐに食べてしまうのに今年はまだ一粒も減っていない。
 せっかくの赤いたくさんの実が、少なくなるのはもったいない。でも庭で自由に遊び食事をする鳥たちを、部屋の中からこっそり見ているのが好き。