忘却への扉

 日記? 気づいたこと 何気ないひとこま 明日への伝言 願い 子供たちに 孫たちに そしてあなたに・・ 

言うことを探してる

2010-02-28 | 平和を
 こちらから話しかけようとするとき、まず何をどう話すか頭の中で再確認することが多い。大人になってからはごく親しい友人知人と仕事仲間を別にして、特に会話がなくてもあまり気にならずにいた。
 ブログを始める以前からだが、近年になって誰かに話しかけたい気分になることが増えた。不慣れでどう何から話せばいいかもわからないまま、まずは小さな会話で話しかけてみた。
 不特定多数の人に無理だと出会った時と場所を考え、波長の合いそうな人に親しい気持ちで言葉にする。私も長くするつもりはないが、意外に会話になっているのがうれしい。遠慮がちでも私を含め多くの人は、話しをしたい聞いて欲しいの気持ちと共にある。
 会話と言うほどではないが、先日広島平和公園の原爆ドームの前で呼び止められて振り向いた。どうやら私に用がある。他の場所だったらびびりそうな、かなり強面の大きな体格の男性と目が合い彼は何か言って地面を指差す。見れば私の落とし物、笑顔でお礼の心を伝え男性からもとてもいい笑顔をもらった。
 挨拶だけでもうれしい想い出にもなる。だが話上手な人の中にも見聞きするとか話しかけまでを、批判非難の道具に使おうと探し憂さ晴らしに待ち受ける人もいる。そんな人に限って自分に蓋をしているつもりでいるが、ほんとはみんなにバレている。無理しないで仲良くすれば本音を話せる共もできるのになぜ‥。

かたづけようか

2010-02-27 | 共に
 『ちょっとは片づけたら』よく言われるがお互い様だ。いつも整理整頓を心がけていれば掃除もせずにはいられない。基本は動かせば元あった所に戻すことと 、いらない品は処分する。
 そんな簡単な方法でさっぱりした生活環境が維持ができるのは知っている。過去には長い年月それを実行できたのに、現在は乱雑な状態に安らぎを感じる気分になれる。
 いつ行ってもきれいに片づいている娘たちの家は、のんびりを実感できるうれしい家庭。でもそれは猫をふくめた家族が居てだ。猫が来るまでは自分が選択して外出しなかったのに、1人になると行けば良かったとも思った。
 片づき過ぎて生活を感じないのも淋しい時がある。孫の部屋のドアを開け覗いて見て、少しでも散らかっている遊び道具にほっとした。あれがあの家だからあのままでいいが、わが家はもっと片づける必要がある。
 本の行き先も決めておきたい。押し入れや物置に倉庫には、祖父母や父母たちの使用していた用具などたくさん残してある。片づいてはいても私の他の家族にその品々についての想い出はまずないだろう。
 それ以上に価値のある品ではない、場所は多く使用している。そろそろ処分しなければとは、何年も前から考えてはいたが、家の周囲や室内の片づけと違い想い出をゴミとして丸ごと処分するには抵抗がある。でも潮時とは感じている山育ちの私‥。

知って欲しくて

2010-02-26 | 共に
 散歩帰りの知人が挨拶代わりに話しかけて来たのに、応答しているのを私は近くで聞いていた。たぶん道路端の知人は10mほど離れた場所に立ち私たちを下に見る位置関係だが、木々の中にいる私たちがどう見えるのかはわからない。
 どうやら会話も終わりかけたころになって、飼い猫が死んだの報告があった。「どこで!」 『ストーブの前』 「大往生よ」 『‥そうよ』 そこで私も何歳だったか聞いてみた。
 22歳との返事に聞き間違いかと再度問う。答えは同じで人間だとおよそ105歳になるという長寿をまっとうできたのだ。家の中だけで飼われいたのではなく、わが家の外も自由気ままに行動しての歳月だけにびっくりする。
 「猫どうしてるかな」と聞くのは私の方からで、知人夫婦が先に話題にすることはまずなかった。だが尋ねればうれしそうに話してもらって、犬好きであり猫好きの私には親しみを持つ猫だった。昨年の秋だったか、私の足に体を擦り付け甘えてくれたのを想いだす。
 家の猫が死んだと知って欲しい、みんなに言いたい話したい気持ちは私にもわかる。家族の1部であったペットの死を、人の死去と同様な感情を持って当然でもある。死を知らせるのではなく、共に生きた想いを知らせたいのだ。

憩いの場所に

2010-02-25 | 日々
 『帽子を買う?』『どこで』『帽子屋さん』『ないじゃろう』から、他県をずっと走った街のショッピングモールに入った。よく来ていた店だが、もう懐かしい感じがする。
 1階の広い食品コーナーには大勢の買い物客と思って、エスカレーターと幅広い階段に別れて2階に上がる。なにこれ、たくさんの売り場があるのにまるで開店前のような客の居ない空間を見たのは初めてだった。
 もう1つの駐車場からの通路でもあるのに、私たちを含めて数人だけとは淋しい。帽子も何カ所かにあったが特に気にいる品もなく、最初に見た売り場で初めてかぶる帽子を選ぶ。
 『ほんとにこれでいいの』とお金持ちに聞かれるが、他の所にいいのは見たけどここには安い品1つでもの熱心さがあった。支払いが済み私1人残り頭に合った帽子に調整してもらう。『この街の方じゃないのでは』1人だけの店番もおしゃべりできる余裕がある店の暇。
 1階に下りテーブルと椅子が何組みか並ぶロビーで、昼食までの待ち合わせ。私の隣りではもっと高齢の男女の顔見知りたちがテーブルを囲み雑談の最中。おれおれ詐欺の体験を何人かが話すのには、この町にもあるんだとつい聞いた。
 椅子は隣りに集まって、私の前はテーブルだけなる。この休憩コーナーも広い通路の1部だが、楽しくにぎやかなのは隣りだけ。買い物のための来店なのか、安らげる憩いの場所と時間つぶし目当てかさてどちら? 親しそうに話しかけ空いた席に座った男性は、全員に無視され独り言をつぶやきながらどこかに行った。早朝帽子を忘れて家を出て、高齢者の安らぎの憩いと厳しい現実の両方を見る。

通話時間の短さで

2010-02-24 | 共に
 昨夜は幾つもの電話がかかって来た。その内で妻が出て私に手渡されのは友人からの久しぶりの声だったので、いつもの場所と違う?とは考えた。自分の意志ではないが電話から遠ざかっている後ろめたさを持ち続けていた。
 はっきりはしているが少し抑えた感じの言葉は、公衆電話かそばに誰かがいるのだろうと思わせる。彼の電話料金と通話時間、それに会話の内容まで彼も私も何となくぼかしているがわかること。
 また行ったのか、今度は長くなりそうだ。出かけた理由も 今いる場所もあえて聞かない。あれからいろいろあったんだ。たいへんな中に電話をかけてくれただけで、その気持ちが嬉しい。
 何の役にもたたないのが悔しくなる。話したいことを我慢して彼はとても短い時間で『帰ったらまた知らせるから‥』と電話を済ませた。実行すればどうなるかわかっていての結果、元に戻るには時間と努力を必要とする。戻ったとの電話をかかるのはいつの日になることか、いつまでも待つ。 おやすみなさい

ザクッ、ザクッ、と

2010-02-23 | 追憶
 関東地方に暮らす弟からの電話で、周囲の山々の白さと寒さを聞いた。こちらは今日の昼間は暑苦しくなるほどで、今年初めて3枚脱いだがそれでも汗をかいていた。
 つい数日前には家の横にある高い石垣の上の段で、苔と雑草に霜を見た。でも太陽が当たってすぐ消えた。たぶんあれがこの冬最後だろうと、昔は毎年できた霜柱はとんと見なくなったと懐かしい想っていた。
 弟の話に霜柱を見て、ザクッ、ザクッ、ザクッと踏む音も聞いた。まだ足は地面を押し上げた霜柱と、麦踏みなどの感触を覚えている。

どうしてるかな

2010-02-22 | 共に
 『こんにちは』の声に私も同じ挨拶を返すが、木々の間からちらっと見えた後ろ姿では誰だかわからない。散歩以外で歩く人などない道路 、私だと知ったのか立ち止まり振り向いた。
 『○○さん元気?』妻の様子を聞いて来たのは、私たち2人の知人女性。こちらを向いての声だと、顔を見る前に特徴をはっきり覚えている。『近頃なかなか○○さんに会える機会がなくて気になってたの。また会って話そうって言ってたと伝えて‥』
 「ありがとう」と私からお礼。やはり散歩でかなり長い距離だが、自分に合わせての早さなのだろう。しばらくすると再びあの人の声がした。『今日は暖かくて いいわね。 さようなら 』今度は足を止めずに通り過ぎる。私も振り向かずちょっと一言にさようならを加えた。
 気分的な暖かさを声かけられて感じた一時、会いたい気持ちと人を何人いるのか考える。毎日思っている人に月に年に数回想う人、きっかけで会いたくなる人といろいろある。
 ほとんどの人とはどうしてるのかなと会えないままにもなりそう。相手にこちらがどう想われているのかもわからない。私より先に亡くした大切な 人も多くなった。だが会いたい気持ちは変わらない。片思いとも異なる想い。 ありがとう で生きている。

日の丸 ニッポン

2010-02-21 | 平和を
 バンクーバーで開催中の冬季オリンピックは日本チームや選手関連の報道が過熱気味。日本のためにぜひともメダル獲得を、日の丸を背負って、胸に日の丸を‥ニッポン!! ニッポン!! ニッポン!! と
 まるでオリンピックは日の丸・ニッポンが主役で日本国のためにスポーツはある。日本からの選手を応援し期待はするが、特にテレビ番組での過剰な報道と応援ぶりをこれでもかこれでもかと見せ付けられると、もう少し静かに観たい気持ちになる。
 冬季オリンピックに出場上するチームや選手と聞くだけで、寒さの苦手な私は誰にも声援を送りたくなる。世界規模のスポーツ競技の大会であって闘争の勝ち負けを戦う場ではないはず。
 古代ギリシャにあった都市国家スパルタの競技場では命をかけた闘いと観客の場面が。まだ60有余年前に日本では侵略戦争への出征兵士を日の丸を振り送り出した。それは日本人に限っても約320万人からの犠牲者を出したのだ。
 白黒のニュース映画や報道写真に見た戦時中の日の丸の旗を振る人の群れや当時の身近な大人たちの話と重なっている記憶が、現代の日の丸をいまだきれいだとは認められないでいる。
 外国人選手の活躍も日本もメダル有力候補以外も同様に知りたい。あくまでも競技で国対国の力の差を確認するのが競争目的ではないと思っていたい。

短い日もある

2010-02-20 | 日々
 たいした手伝いはしていないのだけど、一番先に帰り睡眠導入剤?を飲み寝ることにした。今日は2回目になるが効果のもある時ない時があり、昼間は昼食だと何度も呼び起こされたので今夜が頼り眠れればいいのだが‥‥。 ぐっすり眠れる夜がほしい。
 

ワンス&フォーエバー

2010-02-19 | 平和を
 最初の部分を見ていなかったのでアメリカ軍兵士たちの会話や行動場面に、第2次世界大戦はヨーロッパ戦線でのドイツ軍とのアメリカ軍小隊だか中隊のテレビ戦争映画かと思っていた。
 ヴィックモローのサンダース軍曹が印象的な『コンバット』?に似ていて、しばらくし突撃して来る兵隊たちの衣服や顔を見てようやくベトナム人だとわかった。見終わって映画名を【ワンス&フォーエバー】と知る。
 関心を持ちウィキペディアなども見た。[2002年のアメリカ映画でベトナム戦争初期の戦闘を題材にし、 映画は実話を元に制作された。 原作者の1人は実際にその戦闘に従事し、もう1人の作者はUPIのジャーナリストだった]とある。
 [戦場で戦う兵士たちとその帰りを待つ恋人や家族など人間の心理を アメリカ側だけでなく、ベトナム側の視点からも描写している]とも。現在アメリカが海外で繰り返す戦争と異なり、ベトナム戦争当時は戦争報道はわりに自由があった。
 もちろん命がけの行動で、それを知ることで真実の重さを一般市民が感じ、ベトナム戦争反対の声日本でも次第に大きくなって行く。あの頃の、日本に暮らし直接ベトナムの国土を戦場を見聞きしていた日々。
 それに比べればこの映画も戦闘シーンは遠慮がちだが、これ以上の実際の場面は望まない。だがこれが日本もアメリカに荷担した戦争でもあったのを忘れてはいけない。