忘却への扉

 日記? 気づいたこと 何気ないひとこま 明日への伝言 願い 子供たちに 孫たちに そしてあなたに・・ 

今ごろ疑問に

2008-06-30 | 平和を
 人でも物事にでも関心の変化は有り得る。周囲にも何年もの恋愛から親の反対も乗り越え結婚し、ひとまず子育ても片付き…と来た所で夫婦不仲になった数組がある。
 夫婦をたとえにするのは筋違いかも知れない?先日私が長年大切に思っていることに関して、つながりが切れかねない文章を読んだ。
 著名な筆者の指摘する批判点の意外性にショックを感じた。筆者の批判対象を私が特別に思っているのでもないはずなのに、冷静でない自分に驚く。
 私は今まで何を思って来たのかが、わからない。このままでは自分を崩してしまいそう。気持を取り戻すためには、真実を知りたい。
 著者の数十年間の批判対象に直接問うのは、解決に疑問を残しかねない。でも答えはできるだけ早く見つけたい。
 事典や検索サイトなど利用して数日かかって、なんとか自分に納得できる歴史の経過を知った。過去の時点では筆者の文章に誤りはない。時の流れで変化する。私も好きな人だけにほっとした。
 まあ自分の気持を忘れないことだ。あのショックが片思いからかどうかは分からない。ただ浮気は苦手な性格ではある。

少しの気持に

2008-06-29 | 共に
 見頃で小雨に行くかと、あじさい祭りに出発となる。昨年初めて出かけ広さと住民たちに手入れの丁寧さに感心した場所だ。
 ここ数日、身体と頭に疲れが貯まったのか眠れず薬を2度飲みボーッとしたまま参加する。半分寝た状態では、道案内も去年のことなど忘れいる。
 さすが指導者と運転手のおかげで、あまり迷う事なく無事到着した。休日だからかすごい見物の人の多さ。
 アジサイも全園満開で満足できる景色だ。今回は行列のできたモノレールには乗らず、歩いて写真を撮りながら上の広場を目指す。 カメラ持参のグループや男女2人その他大勢と道を譲り合う。4ヘクタールに2万本の咲き誇るアジサイに、心も和やかになれる。
 でも登る途中でカメラケースを落としたのに気づく。諦め切れずに広場に着き、しかたがないとアジサイを眺める。
 横に紫陽花のためにと募金箱があり、少しの小銭を入れた。音を聞いたのか後ろのベンチ座っていた数人の女性が「気持でいいのよね」と財布からお金を・・。
 小さな賛同のきっかけになったのが嬉しい。あじさいの里の小道を下の方まで来た所で、桜の枝に私のカメラケースが吊り下げられていた。

これも夜遊び

2008-06-28 | 日々
 車の無いせいもあって昼間もそうだが、夜はなおさら自分のために出歩くことはなくなった。市民の1人なのに、この何年も夜の中心街さえ知らないでいる。
 酒は長期休暇中でもあり、他に街に行きたい理由も忘れ始めているが、懐かしさとその後の変化に関心はある。
 街までなど離れていないほんの近くだが、夜遅く寝る時間になると、遊びに行こうと誘うのがいる。少し嬉しくまたかと少し迷惑。 気を使って付き合っていたら毎晩行くのが当たり前、そわそわして玄関を出ようと尻尾を振っている。一軒家の近所を散歩する。
 人に出会う場所でもない着替える必要もなく小遣いも持たない。不審者扱いは心配無要、でもライトも持たずマムシに注意。
 犬は夜出歩くのが好きなだけ。こんな時間にやめてくれと言いたくなる。無視してやろうかとも思う。そんな夜に限って犬は、嬉しそうないい表情をみせる。私もグチを言いながら嫌いじゃないからお付き合いする。

好きなんだもん

2008-06-27 | 日々
 犬や猫など一般的なペットでも、人によって好き嫌いや苦手意識などそれぞれだ。わが家にもその他、ウサギと亀にカナリヤや文鳥やヒヨドリにインコを飼っていた。金魚やメダカにイモリもいるがペット気分とはズレがある。気持が通じるようには思えない。
 先日の雨の中、小グループで近くの山を廻る行事があった。集合場所には若いおじいちゃんと一緒に、幼い女の子が1人他は全員大人の男女。
 お母さんがお出かけでの特別参加。傘や雨具での時間も長く、歩くこともある。ずっとガマンできればよいが。
 ちょっと心配。それよりピンクの雨傘の似合う可愛いおじいちゃん大好きの女の子は大歓迎。集まりに花が咲いたようで、主役はどっちと迷うほど。ずっと静かに付き合っている。退屈しないのも感心だ。
 と見ていると、女の子に遊び相手ができていた。数匹のカタツムリを手に乗せ嬉しそう。雨の日だからカタツムリも元気。
 車で移動してもカタツムリは友だちと手のひらから腕で遊んいる。おじいちゃんが女の子の上着にくっつけると、自分でも付けて喜んでいる。さあお母さんだとどうするか。カタツムリは山が好きだから、もう帰してあげようとおじいちゃんは頼んでいたが、女の子は仲良しペットをどうしただろう。

平気になりたい

2008-06-26 | 平和を
 私一人で居る夜に、孫たちから電話がかかる。会えば当然気軽に話せるのに、声だけだと会話に戸惑ってしまう。
 何からどう話してよいのかわからない。さすがお姉ちゃんはおじいちゃんの癖を知っていて、自分で話題を用意してくれる。
 「おじいちゃんの日記見たよ」え~っと気づくのも鈍い。先日ブログに書いた絵本ミサコの被爆ピアノ(著者・松谷みよ子)の孫との思い出。
 「3回読んだ」「おじいちゃんはまだ1回だけ」同じ本を読んだから、こうして気持を話し合うこともできる。
 「学校でアンネのお話も読んでるよ」気になり、アンネの日記のアンネかと尋ねた。あの大戦の悲劇も、感覚では共有できる部分があるとうれしく思う。
 「アンネの日記はおじいちゃんも何度も読んだ。あの頃本当あった厳しい毎日を1人の少女が書いたこと……」
 私が戦争と平和に関心があるとは知っているだろうが、私から孫に話してはいない。いつの日にか孫の方から話題にするのを楽しみにしている。電話も平気で話せるようになりたいのだが…。
 これからも読書が好きに育って欲しい。絵本にも童話でも読む年齢制限などない。親子で孫たちとおじいちゃんで、同じ本を読むのは思い出作りともなる。

表紙にスカート

2008-06-25 | 平和を
 何度開いて見てもしばらくジーンと寒気を感じる。それは怖れとは違う、過去の人たちからの呼びかけが聞こえそうな気分だ。ページ毎に一点、主に衣服の写真集。
 ワンピース ブラウス スカート ズボン シャツ セーラー服 下着 靴下 軍足 腕時計 変形した化粧クリーム瓶 佐々木禎子の草履など。
 最後の方のページに被爆資料リストとして寄贈者名がある。被爆当時に着用していた品々を、生き残れた家族が大切な遺品と保存していたのか。
 【 ひろしま 】 著者 石内 都 発行所・集英社 [より鮮明になる記憶(井上ひさし)]など数人のエッセイも付録にある。
[冬、春、夏、秋の撮影が終わって、初めてだずねた広島の町から、固定された広島なるもののイメージが解きほぐされていった。私の計った距離の短長が像となり、自由が許されて写真となった。――― 石内 都]
 広島平和記念資料館の売店で出会った本だが、その後人混みの中で見た実物の展示品よりも今はこのひらがなで[ひろしま]と表現した写真集に強い衝撃を感じる。

持つ気はない

2008-06-24 | 日々
 ケータイを持っているのが珍しい頃があったことさえ、忘れてしまいそう。電話機能は当然だが時計にカメラにメールもでき、その他全てを使いこなすのは無理なほど。
 便利で手軽、大人は誰もが持っていると思いがちの昨今だ。だが私の周囲にはケータイを持っていない人もいる。
 もう歳だから今さらとか私には無理とも聞く。個人的にも仕事上でも絶対に必要な立場と思える人が、束縛されるのは嫌いと持たないで他人のケータイには便利と活用するのはどうか。
 勤めを辞めたのを機会に番号を変えた話も聞いた。持っていてももたなくても、どちちらでもいいことではある。
 最近別々の友人から、ケータイを持つつもりはないと聞いた。その時、持っていないと相手に伝えておく気づかい知った。
 一度言っていれば、そう何度も聞かれることもない。持たなくても、たいした不便があるだろかと考えてしまう。
 充電と入浴中以外はいつもケータイと一緒にいる生活を続けてきて、もう逃げる勇気もない。それでも持たない友人を尊敬したくもなる。

なれないでいる

2008-06-23 | 日々
 2日休んで3日目のシャワー。風邪ひきだったり夜の集まりで、ここのところ風呂も飛び飛びになっていた。その前から湯を溜めず、シャワーでと代わり始めている。
 入浴からシャワーだけの夜に、まだ気分の切り替えができていない。浴槽に湯があると思えば、毎日でもゆっくり湯に浸かり本も読んでいた。
 シャワーでは読書は無理だが、いつでも時間を選ばず簡単に済ませる。便利なのだが丁寧に洗っても急いでいる感じがするのが不満。
 その分、後で自分の好きなように時間を有効に使えるのだがまだ納得できない。なんて無駄なこと考えている。

 窓を開けたままだと、少し寒さを感じる日もある。同じシャワーを浴びる毎日になれば、それがまた当たり前にもなるのだがまだ慣れないでいる。シャワー好きの人の気持が理解できない。これってわが家の犬も同じだ。

あの日から

2008-06-22 | 平和を
【ミサコの被爆ピアノ】 松谷みよ子[文] 木内達朗[絵] 発行所・講談社 机の上にある中で一番早く読めると、絵本を選んだ。
 反省から気持は落ち込んでいた状態だが、軽くはならなくてもいい。昨年発行の本の帯には[――あの日から62年、ピアノは今も 音を響かせている。]とある。
 (ヤマハ製アップライトピアノ) ● 製造番号18209 ● 製造年 1932(昭和7)年 ● 被爆状況…爆心地より1.8km広島市中区千田町の民家で被爆。
 1945年8月6日、 [広島原爆を書いた『ふたりのイーダ』にはじまり、 長年わたって戦争を見つめてきた作家、 松谷みよ子が 書き下ろした、 平和への確かな願い。]
 広島で待ち合わせをしていたある店の書籍コーナーで、この本を手にしていると孫が「私も持ってる」と言った。
 ピアノの練習をしている小学生の孫も推薦。同じ本を読めるのも嬉しい。読んでどう感じるかはまた別のこと。孫は何回読むだろう。
 長い年月を経て音楽を止めていたピアノが、調律師に救われ被爆ピアノとして多くの人たちに平和の音を聞かせてくれる。平和を重いと感じている。

だったんだ

2008-06-21 | 共に
 数十年の長いつき合いだが、近くに暮らしていても出会う機会は滅多にない。それでも親友とか友人だとの気持はずっと続いている。
 友から電話がかかって来た。先日出した手紙の返事で始まる。彼からは手紙はもちろん年賀状も届くことは一度もない。
 逆に私が彼に電話することも無いと言ってよいほどの数。今回のもとくに返事の必要な手紙でもなかったのだが、すぐ電話するのも彼の性分だろう。
 個性的にお互い自分を生きている。だがそれが自然に見える関係だからのつき合いと言えば、私には自惚れになる。知識も行動も足元にも及ばない。
 無視や批判にもめげす、いつも懸命に自分を生きている彼だ。それはけっして自分勝手ではない。周囲のことも思って動いている。
 よくあそこまでやれるなと、私には絶対に真似できないとは思い助けられてはいる。たまにの会話なのに、昨日の続きの気分で話している。
 毎回何か新しいことに出会える。またその追加。彼の性格で私にないうらやましい部分が、彼の苦手なことだと今になって知った。いつまでも元気で驚かせて欲しい。