【 地 軸 】 2017.9.28 地方紙1面下段コラムより
[ 「国難とも呼ぶべき問題を、国民とともに突破していく」。安倍晋三首相は今週初めの会見で、衆院解散という「伝家の宝刀」を抜き、きょうの解散を表明した。だが、当の国民は首をかしげたのでは。「国難って何?」
▲会見で挙げた少子高齢化と北朝鮮情勢は、政府がずっと有効策を打てず、問題を大きくさせてしまった。いうなればマッチポンプの「政難」。
▲首相が「国難突破解散」と命名したのに対し、野党は「疑惑隠し解散」と攻撃する。森友・加計学園問題などを説明できていないのに、審議抜きの冒頭解散だから「乱用」との指摘は当然。
▲冒頭解散は過去3回あり、首相の大叔父、佐藤栄作首相の1963年が最初。自民党の相次ぐ不祥事に、野党が審議を徹底拒否したためで「黒い霧解散」と呼ばれた。今回は逆に「疑惑」解明に向けた野党の審議要求を、首相が拒否。逃げる時に忍者が使う「煙幕解散」か。
▲解散権議論の歴史は古い。吉田茂首相時代の52年、両院放棄委員会が「恣意(しい)的判断によってなされることのないよう」と勧告した。安倍首相に解散を働きかけたとされる麻生太郎副総理は、吉田氏の孫。今回の解散に「恣意的」との批判が自民からも出るが、麻生氏は当時のことを祖父から学んでいないよう。
▲「伝家の宝刀」はいざというときの、とっておきの手段。「乱用」が続けば、解散権の効果は薄れ、切れ味の悪い「なまくら刀」に変わる。]
( 忘却への扉 ) 国難とは安倍晋三首相の関わる、森友・加計学園疑惑の真実が明らかになることなどであり、安倍首相個人と安倍政権が隠し通そうと、衆院解散で逃げ切る狙いの狡い「伝家の宝刀の悪用」。
国会で慎重審議し疑惑解明と責任を取れば、不必要な衆院選挙に無駄な国税を使う必要もなかったのである。策士の政治屋とそれを目指す候補者たち、選挙を利用し元は古い一つ穴の貉?がこの期間ばかりはきれいごと。
国民に、ガマの油売りの口上のように「抜けばたま散る氷の刃…」。「なまくら刀」を名刀と偽るが、実のところは模造刀。何度もだまされないよう気をつけなければ国民は怪我を負う。
【 いじめ克服に助け合い大事 】 今治市 男性( 71・無職 )
◇いじめによる引きこもりや自殺などが社会問題になっている。弱肉強食は生物の本能だが、人間は本能を抑え理性を持って助け合って生きていかねばならない。いじめる側を非難しても、それでいじめがなくなるだろうか。
◇私たち団塊の世代は空き地で遊んだり、海では泳ぎを年上の者に教えてもらったりした。たまには逆らって、げんこつをもらったこともあった。上下関係を遊びながら教わり、地域の行事には集落の男児全員が参加しし、運営を仕切っていた人たちに憧れたものだ。いじめらしきものもあったが、互いにかばい慰めあった。社会や組織では上位下達だ。いじめらしきものは生涯付いて回る。
◇本当に大切な良い友達を持つことと、人間らしく生きることが大切だ。たった一人でもいいのだ。悩みは人に聞いてもらうことで大方は解決すると思われる。周りには同じような境遇にいる人や性格の似ている人がいる。友達になろう。友達になってあげよう。一人で悩まず助け合おう。老いも若きも肩肘張らず、自分の人生を頑張って生き抜こう。]
《 こだま 読者の広場 》 地方紙「投稿欄」より
( 忘却への扉 ) 海辺の町と山里の違いや年上の人に拳骨をもらうことやいじめに遭うこともなかっただけで、私もほとんど同じ体験をした。
年下や弱い者は守り指導するのが当たり前と年上の人たちは思っていたようだ。今日も、20歳ころ死亡した兄の友だちから親しく声掛けられた。別な同年の人には私の方から話しかけた。
年の離れた人に未だに仲間と身近に感じられる幸せ、同じ村や集落での家や年齢を問わず自由な言葉があり、励まされたたあのころを今も懐かしく思い出す。
このブログ『忘却への扉』も、最初は日記を兼ねた文章を主に書いていた。これほど長く続けられるとは思ってもいなかった。時々読み返してみるが、懐かしさで詰まっている。
今はもう会えない人も多い。プライバシー侵害を避けて、人名はほとんど書いていないが読めば誰だかすぐ分かる。画像も入れてよかった。わが家の犬とメールで届く猫その他、ペットがいっしょって気持ちも温かい。
途中で地方紙の記事や投稿文を転載するようになったが、これは仕事が忙しい時期になると夜なべ作業も増え、深夜にその日のブログを書くのに無理になったから。
地方紙の内容と、私の考えが近くなったこともある。大手全国紙が政権に媚(こび)を売り始めても、逆に政権批判や脱原発記事が増えて行く。
むかしのように、毎日自分の言葉で書きたいとも思うが、考えるのに時間がかかり、他にしておきたいこともある。終活期に入り、どう残りを生きるか迷っている。先日も80半ばを越した父親を亡くした知人の涙をたくさん見た。いい親子関係だったのだろうと思う。
【 闇を背負わされた兄の錯乱 】 今治市 女性( 81・無職 )
◇私が小学4年生の夏に戦争は終わった。その秋、5歳上の兄が予科練から帰ってきた。私はうれしくて兄に付きまとった。もっと話がしたくて、予科練のことも聞きたくて、兄への興味は尽きなかった。
◇そんな日常での夕食時、突然兄がチャブ台をひっくり返した。力の限りたたきつけた。私はただ怖いだけで何もわからない。母は兄をしっかり抱き締め、私をにらんでいる。「さっさと片付けなさい!」。母の声は鬼のようだった。母は知り尽くしていたと思う。厳しい規則や訓練の中で、どんなに苦しい思春期を兄が過ごしてきたかを。指導という体罰に耐え、身も心もズタズタにゆがめられていたことを。
◇幸せを受け入れる準備などできていない兄の錯乱した心の闇が理解できるようになったのは、だいぶ後のことだった。戦争には行かなかったけど、予備の兵士として駆り立てられた少年は全国にどれほどいたのか。年端もいかない少年たちが背負わされた重荷の代償は小さくない。]
《 こだま 読者の広場 【 終戦の日に思う 】 》 地方紙「投稿欄」より
( 忘却への扉 ) 私も職場で、兵隊上がりの先輩から、殺戮(虐殺を含む)や軍隊内部のいじめ体験を苦々しく語るのをよく聞いた。
黙っていられないのだが、誰にでもは話せない。私は口が堅くできるだけ聞き役に徹し、戦争(非戦)に深く関心があると分かってのこと。だが戦地に出兵体験を持つと分かっていても、黙ったままの人もいた。喋れないほど重い傷を背負っていたのだろうか。
戦争体験者に精神的に追い込まれた人が多数いるのは、昔も今も同じだと思う。政府に軍部、軍需関係会社や戦争をさせる側は平気かもしれないが、させられる立場には命の保証も奪われ、精神的にも追いつめられる。他国だから簡単に破壊し、殺せるものでもないはず。
【 戦争の悲惨さ 後世に伝える 】 伊予市 女性( 24・会社員 )
◇終戦から72年。私は戦争を体験していないが、子供の頃から先生や親からいろいろな話を聞かされてきた。外国の例では、ユダヤ人たちは死の収容所へ送り込まれ、ガス室で大勢が殺されるなど、とても残酷な目にあわされた。
◇日本では各地が空襲で焼け野原になり、広島、長崎では原爆が落とされ、街が一瞬にして破壊された。そして多くの人が犠牲になった。こうした悲しい歴史を決して忘れてはならないと思う。戦争を経験した方の話によると、おなかいっぱい食べたいというのが切なる夢だったそうだ。今は食べ物が豊富にあるが、粗末にしないようにしたい。人々の幸せを奪う、つらく悲しい戦争が日本でもあったことを忘れてはいけない。戦争の悲惨さを後世に伝えていくことが私たちの使命ではないかと感じる。
◇戦争の悲しみと辛さを知るとともに、当たり前にご飯が食べられ、友達や家族と過ごせる今の平和がどれほどありがたいかを考え、伝えていきたい。]
《 こだま 読者の広場 【 終戦の日に思う 】 》 地方紙「投稿欄」より
( 忘却への扉 ) 戦争と平和や憲法9条などに関する、20代前後の人の投稿を見ると、まだ将来に期待が持てるとうれしくなる。
戦争から目を背けるのではなく、実体験はしていなくても、私も同様に母や母方の叔母たちと周囲の人々、同僚たちから戦争の悲惨さ苦痛を聞き、疑似体験は染みついている。
残し伝えていかなければと、関係書籍やDVDほかたくさん集めている。近年、終活期を迎えこれらをどう処理すればいいかと悩んでいる。
先日も蔵書を多数持っていると聞いていた年上の女性に尋ねてみた。「知人に譲るか、ごみ収集時に出す」との答えが、分かってはいても残念だった。
先輩にも聞いていたが、古本屋は一山数百円単位、受け取り拒否もある。図書館や学校等も非戦や非核に憲法擁護系は、保守的な地方だけに無理だろうと遠慮する。
【 平和の意味考え憲法論議を 】 八幡浜市 男性( 86・無職 )
◇昭和20年7月24日、突然グラマン戦闘機の機銃掃射をうけ「あわや」というところで一命を拾った。私は、この年の8月30日にわずか14歳で最後の予科練生「海軍少年航空兵」として松山海軍航空隊へ入隊することに決まっていた。しかし、敗戦により入隊することはなかった。
◇1週間の体験入隊で若い教官は叫んだ。「きさまらの乗る飛行機は一機もない。人間魚雷に乗って敵艦に突入するのが諸君の任務である」「はい、わかりました。日本帝国のため一命をささげます」と何のためらいもなく叫んだ。今思うといかに軍国教育が怖いものだったか。敗戦が決定的になってからも、多くの有為な人材を南海の果てに散花させたのである。こんなことが二度とあってはならない。戦後の国民は日本のために必死で働き学び、努力を重ね、今日の日本の基礎を築いたのである。
◇この72年間の平和のありがたさを改めて認識してほしい。戦争の本当の怖さを知らない今の政治家に「平和とは何か」を真剣に考え、憲法論議を重ねてほしい。]
《 こだま 読者の広場 【 終戦の日に思う 】 》 地方紙「投稿欄」より
( 忘却への扉 ) あの人は私を知らず、挨拶を交わす程度の関係ではあったが、この投稿欄で身近に感じるようになった人。
軍国主義日本の教育で洗脳され、14歳で命を捨てる覚悟とは。私の知人は数年年上か?だが、試験に落ち、その後受けずに生き延びた。
米国のために戦争をする国へと憲法改正を言う、日本会議と神社本庁系の政治屋たちらが、憲法論議などすべきでない。まずは日本国憲法の原点に立ち返ることこそ必要で、自らを反省すべきでなのだ。
【 忘れられぬ「野火」の一場面 】 西条市 女性( 61・主婦 )
◇6月27日付本紙の「あのころ、映画があった」に市川崑監督「野火」が紹介されていた。紙面を広げて写真と見出しが目に入った瞬間、吐き気を抑えながらも最後まで見た白黒映画の記憶が脳裏によみがえった。
◇原作は大岡昇平さんの小説。弱った兵士に「俺が死んだらここを食べてもいいよ」と自分の体を指さして言われ、主人公が逃げていくシーンは忘れられない。記事にもあった塚本晋也監督のリメーク作品を見て、史実を伝えようとした意図は分かったが、あの時代を生きた人たちの真情まで行き着くことはできまいと感じた。あの狂気の時代を生き延びた人たちの「人間として生きる力」によって日本は驚異的な復興を成し遂げたと思う。
◇しかし、実際はこの映像以上の異常なことが行われたのだろう。それは文章や映像では再現できるはずもないと思う。私たちが生きている今が戦前に戻らないことを祈り、あの時代を生きた全ての人に手を合わせたい。]
《 こだま 読者の広場 》 地方紙「投稿欄」より
( 忘却への扉 ) 「野火」は、大岡昇平さんの原作を何度も読んでいる。市川崑監督作品が紹介され、再度読み返してみようかとも思ったがやめた。
凄惨なその場面が、ただの創作ではなく実際にあったとの認識が重過ぎるのだ。私の読んだ書物だけでなく、嘘か眞か海外に出兵し飢えに苦しんだ体験を持つ元兵士の何人もが、「生きるためには、何でも食べた」とよく口した。その中には人肉を食べた話も聞いた。
身の毛もよだつ狂気の時代の再来を待ち望んでいる組織と政権がある。被害に遭うのは他人事。戦争もただ巨万の富を得るための道具で、人命も代替えのあるちっぽけな部品の一つとしか見ていない。
《 長編アニメーション映画「火の雨がふる」より 》 【 火の雨がふる 】 1989年3月・初版発行1995ねん6がつ第28刷発行
金の星社 キャラクター原案・長谷川法世 おとなの人は ほんとうのことをおしえてくれなかった――。
1945年6月19日の夜、福岡県博多の町は、火の色、灰の色。こんな町にしたのは、本当はだれ!? 平和がだいすき! だから 戦争について考えてみよう
火の雨ーーそれは、戦争がふらす雨。町をもやし、人をもやし、楽しいお祭りをもやしてしまうーー。
1945年6月19日の夜、友次たちの住む博多の街は、まっかなほのおに、つつまれたのです。
【 火の雨がふる 】 ● もくじ
▲汽車にのって博多へ ▲山笠の町 ▲兵隊になるんだ ▲空襲は、おそろしい? ▲お祭りができる! ▲ほんとうのことなのに…… ▲つらい思い出 ▲火の雨がふる ▲まっ赤にもえる町 ▲ほのおの中へ ▲頼ちゃんは、生きている!
立ち寄った店の小さな本棚の1冊に目が行く。たくさんの人たちによく読まれたのが分かる状態だ。私も手に取り読み始めた。100㌻に満たない小学校3・4年生向けの本に、戦争と空襲の怖い場面を思い浮かべる。
もっと悲惨な現実、危険になった東京から頼子は1人博多に住むおじを頼って列車に乗った。体験した空襲を話すことさえ非国民。
日本国憲法や戦争に関する本などをあちこちで手渡している。もしかしてこの本も?とも思ったが記憶は曖昧。帰宅してわが家の本棚を探して数日後に見つけ再読した。外国でも同じ、火の雨がふることのない平和を願う。
[ 玩具のネズミで 遊んでます。]
ゴキブリ退治は聞いたことがあるけど、ネズミは玩具。私の子どもの頃わが家に居た猫は、大きなドブネズミや野鳥など獲物を捕まえると、自慢するのか、わざわざ咥(くわ)えて持って帰ることがよくあった。
有難迷惑で後始末をするのは私たち。猫も家の食事で満足しているので、獲物を食べる気はなく、本能としての捕獲。
あの時代、わが家もそうだが、猫はペットというよりネズミ駆除が猫の大切な仕事だった。犬は防犯が役目で家族の一員。犬や猫はどの家にも飼っているというわけでもなかった。食糧難の時代に貴重な食べ物を分け合っていた。