忘却への扉

 日記? 気づいたこと 何気ないひとこま 明日への伝言 願い 子供たちに 孫たちに そしてあなたに・・ 

やさしい君で

2010-09-30 | 共に
 幼い頃はとても明るくほがらかな女の子だったのを覚えている。豊かな表情と行動は意外性もあり楽しませてくれた。あの時期を思えば成長するにつれ生活環境の変化もあり、性格を変化させるきっかけがあったのもわかる。
 なんとか持ち崩すことなく来れたが、ひねくれ者のところはあると自称する。本人から聞くまでひねくれてると意識した場面には出会っていない。そんなに自分を卑下するのは考え過ぎ。
 社会の常識を外れているでもなく自分なりの筋を通すだけなのだから、ひねくれ者とは全く異なる。自分の筋を押し通すのは控えている日常に対する欲求不満を、ひねくれてると勘違いしているのでは。
 気配りのできるよい個性なのに、人間関係に焦っているのか。最近ちょっと見せる明るさの度合いが減ったようで気になる。自分の中に閉じこもらないで気分転換に挑戦するなどすれば、もっと気楽な気持ちになれるはず。
 血液型占いなど信じないけど私の場合はそれを利用して血液型に自分を合わせることで、弱点の1つを脱出できた。自分に暗示をかけたようなもの。プラス思考の有効は知っていても自信はない。
 気分次第で物事の切り替えや乗り越えも上手くいく。現在薬を必要としている件でも、欠陥だけでなく私にはよい性格上の変化だと感じていることもある。自称ひねくれ者の家が私にとっていちばん安らぎに入れる場所、だからあの自然の明かりをまた‥‥。

リラックス

2010-09-29 | 共に
 甘えたいのに緊張からか警戒心か、会うとすり寄って来て体を撫でさせるのにすぐ逃げる猫メルの写真が届く。人それも女性の来客が特に好きど聞いている。
 人見知りの性格なのか、私と気が合うまでには数日かかる。だからリラックスしたメルを見る機会は少ない。写真のメルはのんびりよりはカメラ目線でちょっぴり悩ましいポーズを真似てるげど、男の子には無理がある。また会えるね よろしく。

あいたいけど

2010-09-28 | 追憶
 里道に草の育つことなどなくいつも地面は踏み固められていた頃、祖父母や母たちとよく山の畑仕事に行った。わが家から1番遠い山の畑は、少ない平らの部分とほとんどは上り坂の細い道。
 わが家を離れた人家の集まった辺りからの里道は、現在でも利用されている。でも祖父たちと歩いて一休みしたり湧き水飲み、そばの住人に会えば必ず長話になる大人たちの会話 の横に私もいた。ゆっくり時間の流れるあの頃の住民は今あの場所に居ない。
 道路の延長で歩いて通ることもない私だが、空き家に倒壊した家に崩壊寸前の家に解体され空き地になった家の跡などを別々の遠くから見ることはできあの頃を想う。
 記憶にある家々は数軒を除き、代替わりはしたが同じ内の下の方に居を移し暮らしているのもうれしい。今日は1番早くに土地を得て住宅を建てた人に出会えた。
 軍隊の体験がありもう80歳を過ぎているはずだが、現役で仕事にはげみ運転もする。その車の窓越しに短い会話で元気な声を聞けた。現在の住居はいつも車で走りすぎる場所にあり話をする機会はあまりなく、山で出会えば話す程度。
 山の道路からはその人の家族が昔住んでいた家や物置などを見下ろせる。私も入ったことのある家で通り道のすぐ横だ。他の人もそうだけど、話をしているその人の現在でなく昔の住居と家族を頭の中では思い浮かべることがある。あの頃の私の家族と家も見えて来る。

忘れることも

2010-09-27 | 日々
 飲んだ薬の効きはじめるのに時間がかかるのか、朝食をすませ少し休んで仕事に出かけるのに抵抗を感じる。頭はもう一眠りを求めていても、それを実行できる日は少ない。
 自覚はしていないが欠陥人間らしい私はよく注意され続ける毎日で、自分の無心の時間は夢を見ず眠りに入っている間だけ‥‥。夜は何回かは目が醒めて起きる。
 楽しい夢ではなくてもいい想いで場面を見ることはある。朝すっきりした気分で目覚めればよいのだけど、もう薬も切れ始めるのか毎朝特にぼぉ~としていて夢に浮かれるゆとりは皆無に等しい。
 眠りに入って見る夢はすぐ忘れてもしょうがないけど、起きてからの物忘れには私自身不便で動揺することもある。過去も記憶力・判断能力・実行力に人間性、どれもお世辞にもほめられなくて当然で来た。
 仮に以前のように多少でも記憶できる範囲と関心が広ければ、この数年間は考え悩みうろたえ戸惑い怒り苦しむ日々だったかもしれない。覚えられないこと忘れることの多さで今日がある気持ちにもなっている。
 眠りの薬は飲んでいるが、こうしてブログを考えるのも睡眠を早くするのに役立っている。考えようともせずにいた思いだそうとしても思い出せなかったことが、ブログになると浮かんで来るのを不思議に思う。

ほっとする

2010-09-26 | 共に
 室内犬の無駄吠えは困るが、犬にとっては吠えるのも仕事のようなもの。街で飼われている犬の鳴き声は、隣り近所住民とのトラブルにもなりかねずどの程度の距離まで聞こえるか気になる。
 ほとんどが山を含む集落の点在するこの町は、斜面のあちこちにも人家がある。上下に左右と場所によっては直線距離で2~300mほど離れていても、犬の吠えるのがよく聞こえてくる。
 その声や方角でどこの犬だかわかることもあるのに、山で聞くとわが家の犬と近所の犬の鳴き声で戸惑うことがある。若い近所の犬が次第にわが家の犬の声に似てきたので、仕事中に不意に犬の声を聞けばわが家にお客さんかと間違えてしまう。
 その近所の犬が最近よく吠えるようになったのが気になる。犬の姿は見えず家の近くよその人も居ないような時でも声だけ聞こえるのは、ストレスを発散させているのだろうか。
 今日は用事があってその家の横を歩いた。家の角少し手前で吠えはじめる。曲がると犬は隙間から顔だけ見せて吠え続けるので、ちらっと目を見て手をふり通りすぎた。吠えるのを止めたのは数回遊んだ私とわかったからか。帰りは1回ワンと言っただけ‥友だちだもんな。
 わが家に以前いた犬はいまでも話題になるほどよく吠えたが、私との触れ合いの足りなさもあったかと反省する。人も 優しさとか明るさをは失えば、回復には時間がかかる。過去から現在、犬にもいろいろ教えられ救われて来た。

風景ともに最終回

2010-09-25 | 日々
 NHKの連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』は今日が最終回。モデルの水木しげる夫妻は昨日もテレビ番組に登場して健在ぶりを披露した。原作は読んでいないが、テレビドラマの結末には心残りの違和感をいだく。

 わが家の近所でも咲き始めたが赤色の曼珠沙華(彼岸花)の数多く咲いた林の中を2人だけで水木夫妻は歩くうちに、妖怪たちに出会い会話をし見送られてのあっけない幕切れ。見方は人それぞれだろうが、私は物足りなさを感じた。
 昨日までのドラマはそれなりに楽しませてもらったが、もう1つ最終回を残念に思うのは調布の風景や人々が見れなくなること。毎日ドラマの最後にはつづくとあった。
 ドラマの後に画面の1部分で調布の町の各所が日々紹介されるのを楽しみにしていた。最初の頃はゲゲゲの舞台というだけ見ていたが、再会した友人から彼の町だと確認できて尚関心が増し好きになっていたのに‥‥。

窓を開けて

2010-09-24 | 日々
 朝晩ちょっぴり寒さを感じるようになり、夜は窓など閉めて寝はじめた。一昨日の夜はそれでも寒く、昨日は昼間も寒かった。まだ油断はできないが、数日前まで熱中症の心配をしていたのを忘れそう。
 先ほど庭に出ると秋風が涼しく吹いていたが外に長くいると風邪をひきそうで、まんまる月を見上げて家に入る。虫たちもお月見を楽しんでいるのかたくさんの歌声は玄関や縁側でも聞こえる。
 寝るまでは玄関は開いたまま窓も開いて網戸だけ、扇風機とクーラーは止まっている。暑すぎた数日前までの居間は人がいれば扇風機が回り続けていた。もちろんどの窓やドアに引き戸も開けっ放し。
 傾斜地の一軒家だが近くに出かける場合は鍵などかけず玄関の戸だけを閉めれば、時には猛犬?を暑さ避けと留守番役に家の中。まあ吠えるのを聞いて帰れば宅配便も受け取れる。
 夜、寝る時もどこも開けたままで寝室も同じ自然の外気を頼りになんとかこの猛暑の夏を乗り切った。窓や玄関を開けたまま暮らせるのは田舎だからの幸せと思う。

 今年の夏は安全のためにと窓を開けられず、熱中症で亡くなる老人が何人もあったが人事ではない。温暖化による異常気象に殺されたとも言えるのでは、真犯人はこれほどの事態になってもどこかで大儲けをし溜め込んでいるのか‥。奪った気温を四季を自然と安心を返して欲しい。

太ったぎたい

2010-09-23 | 平和を
 自分では枯れ枝そっくりに、擬態を見せているつもりの尺取虫(シャクトリムシ)がいた。でも登った小枝の数倍は太っているので、じっと動かず我慢してても目立ちすぎ。
 葉っぱを食べるので摘まんで捨ててもよいのだが、ばれないように頑張っているので見逃がすことにした。太った政治屋や官僚に軍事関連人脈とか先日は地方検察庁幹部の疑惑にまで、嘘つき人間の擬態は見過ごせば禍根を残しかねない。

偲ばれてこそ

2010-09-22 | 共に
 『人は2度死ぬ。1度目は亡くなったときで、2度目は忘れられたときである。』 お彼岸だからか最近ラジオ番組と新聞の4コママンガで見聞きした言葉に共感する。
 『お墓掃除してハナエダあげといてよ』と言われていたのに、水を持って行ったのは数日遅くれた。墓地を軽視するつもりはないが、墓前や仏前で合掌することは習慣になっていない。
 お天道様や身近にある里の神仏に日常手を合わせ拝んでいた祖父母といっしょに暮らしていたころは、私も同じに手を合わせていた。あの頃村のみんなが、周囲のどこにでも存在した神や仏に尊敬と親しみと時には恐れも感じていた。
 大人になると純粋な信仰としての神仏と言うより、宗教を名乗る団体の生臭い部分も知ってくる。水木しげるの描く妖怪たち同様、貧乏な村人家族も共に見守り時には罰を与えた身近な神や仏にとっても住みにくい現代社会だと思う。
 もともとキリスト教系幼稚園で聖書を聞き家にも母が持っていた。そのせいなのか祖父母の拝む神棚や御室にお堂に地蔵さんは否定しないが、仮にこの世に神や仏が実在するのなら生臭さ宗教など天罰の対象だろうと思う。
 歳を重ねるにつれ私に関わる人たちにも亡くなる人が増えてくるのは寂しいが、知人とか生前よりもその人物が見える気分になる人もある。身内となればそれ以上で、毎日のように過去を偲ぶ。
 拝むよりは想う方が、より故人を身近にいる気持ちでいれる。忘れない時間が私に後どれだけ残されているか、私も受け継いだ部分がありそれを含めて偲んでもらえる人になれればと思っているが、さて。

へんなこだわり

2010-09-21 | 日々
 ブログで報告するほどのことでもないのだが、なんとなくいたずら小僧に戻った気分になりちょっと満足感を楽しめた。
 浴室では体洗い用のタオルを特に大切に長く使用していると言えば聞こえはいいが、じっさいに昨日タオルは私の身長より長くなった。タオルかけに掛けるとタイルの床までとどきそう。
 前回使っていたタオルは、擦り切れてレースか網状に透けて見えるようになり取り替えた。そして現在使用中のタオルになったのたが、新品でなく普段使っていたのを利用した。
 そのためか早ばやと2つに千切れる。それを2カ所で結んで、また1枚のタオルとして使う。次は別の部分が千切れ、また結ぶを数日ごとに繰り返した結果は身長よりも長くなる。
 お湯に濡れると穴も空いた小さめのハンカチ2枚大が広い部分で、他は結び目の幾つもある紐のようなもの。皮膚を擦る感触が健康にも良さそうとは、やせ我慢。
 しだいに長くなってきたのでそれなりに使っていたが、それでも最近では体の部分によって力の配分など技術も必要になる。今夜も体を洗っていてタオルが千切れ結んだが、長くならずに短くなった。
 タオルと私、お互いしぶとく頑張ったけど そろそろ別れの潮時かとは思っていても裸になる前は忘れている。おつかれさんとありがとを言いたい気持ち。