忘却への扉

 日記? 気づいたこと 何気ないひとこま 明日への伝言 願い 子供たちに 孫たちに そしてあなたに・・ 

岬の砲台跡

2007-08-31 | 平和を
 その地方で二番目に大きく長い岬に出かけた。その度距離が長くなり走り方も違える。半島の付け根にトンネルがあり、ある場所までは左右別の海岸線を選ぶことができる。
 集落や学校など施設もあるが、出会った人は数人で、寂しさを感じる。半島の先端までは道路も無いとわかっていた。
 少し引き返した所で狭く急傾斜の石段に、神社を想像して登ってみた。息を切らすほどの距離に神社はあった。一対の狛犬がいなければ、近寄れないほど木々に囲まれ陽射しは僅か。海も見えない。
 その後テレビで、行けなかった半島の先端を見た。敗戦までそこに日本軍の監視所や砲台があり大勢の兵隊がいたのを知る。
 今も廃虚となって残っている。戦争末期には半島に平和とは矛盾した賑やかさもあったのだろう。私持っている戦争遺跡の本にも、この廃虚が載っているのを今日見た。近くに戦争がある。

犬になれ

2007-08-30 | 共に
 犬が可愛いく大好き。だが「犬」の言葉は別の意味を持っている。ひそかに人の隠し事を嗅ぎ付けて告げる者とかまわしもの。犬が知ったら怒るだろう。
 私も過去に「犬」にされかけたことが何度かある。お人好しを見抜いて、利用しようと考えているのはすぐわかる。
 人をバカにするのも、されるのも嫌い。相手は自分の方が力を持ち、最初に口を濁せば後は理解し動くはず。元々人を信頼できないからの発想だ。
 「犬」となる人使う人どちらも立場が違うだけで貧しい性格だと思ってしまう。私の場合は人の欠点を庇い過ぎると「犬」失格にされたようだ。
 かわりに喋ら無いからと、いろいろ聞かせて貰った。人「犬」の名前と理由に見返り。「犬」と「飼い主」どちらもお喋りだった。
 そう「犬」も役目の情報収集と言い訳か、よく話しかけるが他のみんなは知っている。空元気が淋しく見える。
 犬が嫌いだから人を「人犬」と利用できるのか。それは人権を否定している。互いが疑いあっている上下の矛盾。
 たとえ裏切られ野良犬となっても、人を信じている犬に何度も出会った。犬にも劣るとは使いたくない言葉。
 



うるさいけど

2007-08-29 | 日々
 ツクツクボーシ・ツクツクボーシ・ツクツクボーシ・ツクツクボーシ・ツクツクボーシ・ツクインヨー・ツクインヨー。

 暑い日が続く。玄関の戸も全開の毎日だ。上がりかまちに腰かけてガサゴソしていたら、突然のセミの声にビックリした。
 このセミこんなに大声で鳴いただろうか。忘れてしまったほど久しぶりだ。数メートル前の庭木の上から聞こえて来る。
 すぐ真下に犬が横になって寝ている。聞こえているはずなのに、知らんぷりか熟睡か。アブやハチとは違い、危険が無いのがわかっている。
 このまま続けて鳴かれたらうるさいがと思っていると、二度目は疲れたのか低くなった。それでどこかに飛んで行き、やっと聞こえる声になる。
 犬はセミの方が自分よりも歳上だとも知っているのかも。短いセミの老後をジャマしない犬の態度、と見るにはちょっと寝相が悪いか。


マザーテレサ

2007-08-28 | 平和を
 「私たちは平和のために何をすればいいのですか」の問いに「家に帰ったら、家族を幸せにしてあげて下さい」とマザーテレサは話している。

 心の貧しさが無くなれば、争いが無くなり平和な世の中になるとの意味だろうか。幸せな家族の暮らす町になり国であれば、平和な国ともなれる。
 いま宣伝し造ろうとしている美しい国日本は、国民への自由の幻想用撮影セットにすぎない。まだ裏側を軍事力で支えるだけとしても、裏側が前進すればいつでも美しい日本のセットは潰される。
 [家族を幸せに・・・]平和は誰もが願う家庭の幸せからも育ち根を張る。極小さく身近な場所だが、力強い平和の種はたくさんある。
 「平和」の言葉さえ言えない日本があったことを、どれだけの国民が知っているだろう。たとえ家族の出兵でも、「無事に生きて帰って」の一言を口にできない辛さ。戦争では生活の貧しさだけでなく、心の貧しさまで強制させられたのだ。
 マザーテレサの言葉に出会い、他にも探した。優しさを身近に感じる会いたい人が、遺したものは大きい。

おじいちゃん!

2007-08-27 | 日々
 買い物に付き合い車に乗ったが、駐車場で待っているには暑すぎる。クーラーを入れ車の中に残るのも嫌いで、店内へと歩く。
 いつも時間をつぶすのはショッピングセンター2階のブックコーナーだ。でも行動範囲は広くない。書店予約はしていない定期購読の本を見つけ手にする。
 もう一冊新聞記事になっていた本を探すが無いようだ。「おじいちゃん!」駆け寄った小さな男の子が、私のズボンを引っ張った。
 見下ろす私を見て「違った」と呟き「おじいちゃーん!」と大声で呼びかけながら店内を駆け回る。店員に言ってみようか。でもわかっているはず。
 一緒に来ているおじいちゃんも店内には必ず。しばらくしておじいちゃんを見つけたようで、一緒に戻って来た。
 すれ違う時男の子によかったねの笑顔を見せると、嬉しそうに小さく頭を下げた。私の孫だったらどうするだろう。孫も一緒にいるような、気持ちの良い待ち時間となった。



だじゃれ特集

2007-08-26 | 共に
 ラジオで笑いと方言を楽しんでいる。この二つを大切にしているラジオ大分が好きになり、大分が好きになる。
 毎週土曜日の夕方なしかも楽しみの一つ。ときには番組とスポンサーとリスナーが一緒になって賑やかな祭りも行われ、臨時列車も出る。
 番組への暮らしの会話の投稿を集めた本まで、年に一回発行される。もちろん方言の説明もあり、方言の笑いを満喫できる。
 他に年に二回は午前午後通して駄洒落特集があり、これにも方言が混じっている。笑いが本業ではあるまいし、普段何しているのかと大分県人が気にもなる。
 番組で歳を取るほど駄洒落を言うようになると言っていたが、投稿の年齢差も幅広い。私も子供の頃から好きだった。
 ただ駄洒落も、あの頃の子供と大人に距離感はなかった。例えば落語の江戸時代でも明治でも、子供は大人と一緒に笑って楽しめたのだ。
 今、中年以上で駄洒落を言えば、さむーいとか親父ギャグで無視されがち。それが子供や若者仲間だと笑いになっても親父たちは別。
 駄洒落特集や方言の笑いに、社会への皮肉やCMまである地方局にうらやましさと身近さを感じる。他所の県なのがいつも残念。

知ってる?

2007-08-25 | 日々
 「お久しぶり○○子です」と挨拶されて、どうにかわかる。その日同じ場所にいて何度かすれ違っているはず。彼女が他の人に教えてもらってできた立ち話。
 お互い急いでいて、ほとんど挨拶だけだった。次に出会っても顔を思い出せないだろう。本当はもう記憶がはっきりしないのだ。
 学生時代の笑顔が浮かぶだけ。それでいい今度会えればその時のこと。白髪混じりが新しい印象に残った同い歳。
 そこから別の場所に移動した。知人の集まる食事会で、空いていたすぐ前の席に遅れて来た人が座る。私にとっては顔見知りの間柄。
 小人数での世間話を楽しんでいたが、もしかしてと前の席の彼に、私を自分で指差し聞いてみた。「(誰だか)知ってる?」
 「知らない」との返事。同窓生だと言っても頭をかしげている。そこで名乗って証拠を話すと、「ああ」とやっとわかってもらった。
 彼は車で私はバイクの違いはあるが、同じ町に暮らし度々すれ違いその度ちょっと頭は下げていた。もうこれからは大丈夫。こんな面白いこともあるのか、同じ日に二つの再会。

毎回おなじ

2007-08-24 | 共に
 私たちだけでもよく行く場所が、孫たちが来た時にも毎度お馴染みで出かけることになる。出無精で場所数は限られている。
 他に孫と一緒に楽しめる所はと、考えもするのだが代わり映えしないまま。主役の孫が大人たちに合わせてばかりかと気にはする。
 今回もまずはいつもの所に行く。孫たちは初めて自分で釣った川魚を食べたのだが、わかっていたのだろうか。
 養魚池の釣り堀だからかすぐ釣れる。賑やかな釣りに付き合うおじいちゃんは釣りが未経験で、釣り針を外すこともできない。店の人に手伝ってもらうばかりとは。
 池に落ちないかと注意はしていたが、これも泳げるのは孫たちの方で危ないのは私。食事や遊びに来たのだからのんびりすればいいとも考えない。
 平日のためか店も周囲も私たちだけ。一緒に食べ川遊びもして、幸せだと思う。数ヵ月見ない間の孫たちの成長。
 毎回同じ場所でも何かが変わって行く。共有できる大切な想いでを、これからも残せる場所であって欲しい。

イノシシが来た

2007-08-23 | 日々
 孫たちが帰って行き静かになった夜、縁側に居る犬が甘えた声で鳴いている。小声で一緒に遊びたいと言っているかのよう。
 私は見なかったが、前の日の夜にイノシシが来た時の鳴き声に似ている。外に出ると、家の裏から水を飲んでいる音がする。
 持って出たライトがこんな時にはどうしても点灯しない。その間もメダカの入ったタンクで水の音が続いている。
 他の家族が別のライトで照らすと、一匹のイノシシがタンクの段を飛び降り里道を横切り木々の間に逃げて行った。
 私は初めて見た野生のイノシシだ。近年畑や山を荒らしてる。わが家も全てに近く、やられている。地域でも害獣駆除の許可を受け対策が取られているが、行動範囲も広く効果は少ないようだ。
 雨の降らない暑い夏が続いている。イノシシも水を飲まなくては生きれない。イノシシの味方になってはダメだろうが、どちらも被害者。まだ子供のイノシシに生きて欲しいと思ってしまう。「またおいで」と言いたい気持。

セミの叫び

2007-08-22 | 平和を
 山にいると他の音が聞こえないほどアブラゼミやクマゼミの声が、その山全体を覆うほどに聞こえる。もう忘れたが、いつの頃からか長年静かだった気がする。
 木陰に置いた自動車の方に歩いて行く。小さな可愛い小鳥の声がする。上手になったウグイスも鳴いている。梅にウグイスと春を思う鳥だが、それでも夏は暑い。
 少し移動すると、こんなに変化を教えてくれる場所がある。蝶やトンボも飛んでいる。そのずっと上には白い雲が浮かんでいる。その雲のずっと上の方なのか、姿は見えないが飛行機の爆音が聞こえる。
 蝉の声より負けている。この山で飛行機の音を聞くと、戦争を思ってしまう。村の空に米軍機だけが飛んでいた頃を覚えている。
 日本の敗戦後に生まれた私だが、当時まだ戦争が飛んでいると知っていた。国家による悲惨な過去を体験した国民が多数いた。
 今も辛すぎて、言葉にできない人がいる。涙と共に心に焼き付いている戦争を、やっと語り始める人もいる。苦しみはいまだ消えることは無い。
 山の上空の爆音が聞こえなくなった時、一瞬セミたちが大声で戦争を追い払ってくれたような気持ちがした。