忘却への扉

 日記? 気づいたこと 何気ないひとこま 明日への伝言 願い 子供たちに 孫たちに そしてあなたに・・ 

片側だけの眺め

2016-10-07 | Weblog

 10数年ぶりに電車に乗った。今月の小遣いを出すつもりがないようなので、安定性に欠け、法定最高速度30㌖バイクで行くつもりでいた。だが、当日朝に皮肉とともに今月分をもらう。トンネルがいくつもある長距離の往復は、不安もあり正直ほっとする。
 時刻表が読めず駅員さんに尋ね、1時間待ちの「普通」より先に来る「急行」を選ぶ。線路をまたぐ階段のある屋根付き橋を下りると2番・3番ホームだが、待ち人は私一人。
 乗った電車内も空席が目立つ。座る席は煙を吐いて進む汽車の時代から、人家や時には海の見える側と決めている。もう一方の側の景色は大半が山々なのだ。ほかは農村地帯と街、ほとんど懐かしく感じる昔ながらの住宅なども残るが、空き家だと分かる家も増えているようだ。
 外の景色に見とれている間に昔の城下町に到着。駅も駅前通りも大きくわが町とはずいぶん違う。急行電車で来たので時間に余裕ができ、よく歩いたアーケードのある商店街を歩き城山を目指し天守閣内も見学する。
 営業を始めた商店街は、ご多分に漏れずシャッターの閉まったままの店舗が多い。目的を達し駅に戻り、帰りはすぐ来る予定の「普通」に乗った。
 市内電車のように双方の窓際に向かい合わせに固めで長い椅子があり、通路にはつり革。乗客の多くは高校生たち、座ろうと思えば座れるのに立っていたのは1人か2人。
 私が良く利用していたころは、座席は急行と同じに並び、つり革もあり、車両も長く連結されていたのに、満員すし詰め状態のことも多かった。自家用車で出かけるのも便利ではあるが、汽車や電車もいいものだと思う。あの日バイクで行っていたら、時間的にも間に合わなかった。


天国からの電話

2016-10-05 | Weblog

 【 手の込んだ「おれおれ詐欺」 】 西条市 男性( 72・無職 )

 ◇前期高齢者になってから、手の込んだ詐欺まがいの電話がかかってくるようになった。先日、久しぶりに古い手口の「おれおれ詐欺」の電話があった。11年前に亡くなった息子を名を語る電話である。「会社の金を使い込んだので100万円振り込んでもらいたい」と涙声で演技する。が、ピンときた。家族の構成、愛犬の名を問い「天国にAТМができたのか?」と言うと、一方的に電話が切れた。
 ◇それから数か月後、似たような手口の電話があった。「付き合っている女性を妊娠させた。50万円必要」と、今回も息子の名前で依頼があった。電話に出た妻が血液型、妹の名前など問うと、その瞬間、電話が切れた。
 ◇そばで聞いていた私は不思議に思い「電話番号や息子の名前はどんな方法で調べるのだろう」と言うと、妻が「大学の卒業名簿よ」と言うので納得した。不審電話や訪問販売、商品の一方的な送り付けは警察、消費者ホットラインで確認するつもりだ。古希を過ぎたが、まだぼける年ではない。]
                                    《 こだま 読者の広場 》 地方紙「投稿欄」より

 ( 忘却への扉 ) 定年近くまで声のせいとは分かっていたが、「お父さんと代わってください」とか「お母さんはいらっしゃいますか?」と電話がかかることが時々あった。
 妻の知人、友たちからも「お母さんを…」との間違われることもあったが、物品の勧誘目的はこれはとすぐ判る。そんな場合には「父・母はなくなりました」と返事すれば、大抵は「失礼しました」とかで相手の電話は切れた。
 訪問販売や勧誘の電話はあるが、おれおれ詐欺の被害を受けたことがまだ1度もないのは寂しくもある。天国からの電話でよいから、ぜひとも声を聞きたい近い身内もいるが、心の中に、いい思い出だけを残して生きている。


18歳以上の学生に政治活動参加の自由を

2016-05-20 | Weblog

 【 若者に夢与える真の教育を 】 鬼北町 男性( 78・農業 )

 ◇今年の夏に予定されている国政選挙では選挙権年齢が18歳以上となり、高校在学中で資格を得る人もいる。本誌報道によると、県内の全ての県立高校、特別支援学校、中等教育学校で、校外での政治活動の事前届け出を義務化し校則に盛り込んだようだ。教育者を自任するのであれば他になすべきことがあるのではないだろうか。
 ◇私が中学生の時「新しい憲法の話」という冊子を教材として週1時限、校長の特別授業があったことを記憶している。この本を片手に、時にはうれしそうに、また時には自分の教え子たちが戦場に散ったのを思い出すかのような授業で、今でも片隅に残っている。
 ◇憲法23条は「学問の自由はこれを保証する」とある。文部科学省の省令や通達だけが教育ではない。また時の政治家の顔色をうかがうのも教育者のやるべきことではない。生身の人間として、未知の社会へ飛び立つ若者たちに夢と希望を与えるのが真の教育者ではないだろうか。]
                                    《 こだま 読者の広場 》 地方紙「投稿欄」より

 ( 忘却への扉 ) 「日本国憲法」を私自身のものであり、全ての国民暮らしを守る大切で身近な存在だと気づかせてくれたのは、1982年に小学館の初版第1刷のページをめくった時ではなかったかと思う。ビニールカバーに保護された表紙、見開きや片方のページだけとかのカラー写真が生活や自然を数多く見せる。憲法条文なども太字で読みやすく子どもでも読めるようにフリガナ付き。下部には言葉の詳しい説明もある。日本国憲法の後に、大日本国憲法の全文が表示されていて、自民党の憲法草案を連想させるための皮肉のようにも思える。
 私の本棚にある小学館発行の「日本国憲法」は2013年の第2版第3刷だが、この本自体は初版本から10数冊買って知人ほかに配っている。
 本棚を見まわしざっと数えると、いろいろな日本国憲法の本が30数冊あった。その中には復刻版「日本国憲法」 (永絵夢社=出版局・新泉社=発売 1987年4月第1刷発行、私の持っているのは同年5月の第3刷)もある。
 この本の帯には、『 今、憲法を初心に帰って考える 』として、「この本は、昭和22年、日本国憲法施行直後に文部省によって発行された新憲法についての公式解説書で、義務教育となった中学一年生向けの社会科用教科書として刊行されたものの完全復刻です。当時、新憲法はどのように受け止められたのか! 憲法制定時の生々しい国民感情と初心の憲法理解のありかたをつたえて、私達が今、憲法を考えるためのすぐれた道標の役目をはたしてくれます。」とある。
 私の中学時代は日本国憲法に、投稿者のような教育は過去のものになり、先生たちも憲法を正しく教えられない日米政府の圧力を感じ、委縮する教育現場と変化していた。
 だが、私の周囲には母や叔母をなど、戦争体験を語る大人たちが大勢いて戦争は怖いと知り、子どものころからの戦争は嫌が出発点。非戦や国民主権、真の自由と平和には「日本国憲法」をこれからの若者たちのためにも、安倍自公暴走政権らに改悪させてはならないとの思いは熱くなる。 


あの頃は

2015-09-06 | Weblog
 左側からと直線道路の間にある大きな建物と敷地内は私の子供のころには海だった。桟橋があり小型の定期船などが運航していた。倉庫や倉に商店や食堂が並ぶ。
 農産物の市場があり、祖父の引くリヤカーを押しトンネルのない山を幾つか登り下りし来たことがある。
 中央の細い直線道路はすぐ上下半の転L字形となり外は河口というより海だろう。大型船舶の行き来する桟橋乗り場の手前に対岸への客待ちの手漕ぎ船がいて、漁師に嫁いだ叔母の家へ行き帰りの都合でよく乗った。
 昔は平地のほとんどが海、大半が人力で埋め立てられた私の知る海の広い部分も陸地となったが、今も残る建物で当時のにぎやかさを偲ぶ。フェリー乗り場のある通過点でもあり、お客さんは何人でも大歓迎だろうだが、軍用車両や大勢の軍服姿の自衛隊員は、日本国憲法で真の平和を守るためにも見たくない。

極限の苦しみと命の危機を体験し

2015-08-19 | Weblog
 【 苦しみと波乱に満ちた青春 】 松山市 男性 (88 ・ 無職)

 ◇私の青春時代は終戦前後だったため、苦しみと波乱に満ちたものだった。16歳から2年間は軍隊におり、極限の苦しみと命の危機を体験した。
 ◇18歳で復員してからの1年間は自暴自棄になり遊びまわった。時に進駐軍の指示により海中に砲弾を投棄する作業もした。19歳になると父も強い勧めで、嫌だったが、職人として弟子入りした。20歳になって、父が闇米を融通して私は商業学校5年編入を許可された。同級生は既に卒業していた。軍服を着て煙草を吸っていたら、先生から「学校では吸うな」と叱られた。22歳、大学2年生の時、父の会社が倒産し送金がなくなり退学した。私は夢も希望も失ってしまった。
 ◇終戦という大きな渦に巻き込まれ、どうしようもない青春だった。最近は老いとともに物忘れも多くなった。だが、青春時代の思い出だけは歳月が流れても私に寄り添い、いまも私をいたわり、慰め、励ましてくれる。]
                     《 こだま 読者の広場 》 地方紙「投稿欄」 【 戦後70年に思う 】 より

 ( 忘却への扉 ) 軍隊体験を私が聞いた人たちの多くは南方各地や中国大陸など海外の戦略戦争に参加した期間が長かった。職業軍人ではないが、何度も徴兵された人などは青春時代真っただ中を含めシベリヤ抑留もされ帰国できたのは中年になってから。
 人生一番自由で有意義に過ごせるはずの青春時代を、意に反して軍国主義国家と軍閥の欲望のために、天皇とお国のためだと洗脳(マインドコントロール)されて奪われた。
 だから、私の周辺にいた人の青春は軍隊生活と戦争が唯一の思いで、よく体験談を聞いたものだ。安倍首相的極右思想と立場は違うが敵の兵隊は当然、民間人を殺したことさえ自分では勇ましい行為と認識していた。
 慰安所での従軍慰安婦をずらっと並んだ順番待ち、若い性欲をを発散したのも楽しい思い出、勝ち戦だった時期の戦場と隠れて仲間とする犯罪行為。その話をした人も歳を重ねるにつれ罪悪感を持ちだすのか、反省の言葉も聞いた。
                     《 こだま 読者の広場 》 地方紙「投稿欄」 【 戦後70年に思う 】 より

 

海を背にして

2015-01-16 | Weblog
     胸の泉に

     かかわらなければ
          この愛しさを知るすべはなかった
          この親しさは湧かなかった
          この大らかな依存の安らいは得られない
          この甘い思いや
          さびしい思いも知らなかった
     人はかかわることからさまざまな思いを知る
          子は親とかかわり
          親は子とかかわることによって
          恋も友情も
          かかわることから始まって
     かかわったが故に起こる
     幸や不幸を
     積み重ねて大きくなり
     くり返すことで磨かれ
     そして人は
     人の間で思いを削り思いをふくらませ
     生を綴る
     ああ
     何億人の人がいようとも
     かかわらなければ路傍の人
          私の胸の泉に       
     枯れ葉一枚も
     落としてはくれない