シネマと虎とグルメたち

犬童一心監督作品に「ジョゼと虎と魚たち」があった。オイラは「観た映画が面白くて、美味いもの食って阪神が快勝」を望んでる。

聖地には蜘蛛が巣を張る

2023年04月30日 | 映画
先日観た映画です。

「聖地には蜘蛛が巣を張る」 2022年 デンマーク / ドイツ / スウェーデン / フランス0427


監督 アリ・アッバシ
出演 メフディ・バジェスタニ ザール・アミール=エブラヒミ
   アラシュ・アシュティアニ  フォルザン・ジャムシドネジャド

ストーリー
イランの聖地マシュハドで娼婦ばかりを狙った連続殺人事件が発生する。
犯人は娼婦を汚らわしい存在として、街を浄化するために行っていると宣言する。
女性ジャーナリストのラヒミが取材を開始するが、市民の中には公然と犯人を英雄視する者も少なくなかった。
そんな中、同じ犯行が続いているにも関わらず、警察の動きが鈍いことに苛立ちを募らせていくラヒミだったが…。


寸評
中東イランで女性に義務づけられている髪の毛を覆う布「ヘジャブ」の着用をめぐり、22歳のマフサ・アミニさんが2022年9月1日当局に逮捕された後に死亡し、警察官による暴行が疑われてイラン国内が騒然としたニュースを思い浮かべる。
この映画でもラヒミが髪の毛が見えているとへジャブ着用をめぐり注意されるシーンがある。
さらにラミヒが予約したホテルを訪れると、宿泊客が独身の女性一人という理由だけで宿泊拒否にあうシーンも描かれている。
ラミヒは自分がジャーナリストであることを示し泊まることが出来たが、「女性に対する嫌悪や蔑視」を意味するミソジニーの世界に、これから彼女がひとり乗り込んでいくことを示し緊迫感を一気に高める。
舞台はイランの聖地マシャドであるが、聖地と呼ぶのをはばかられる、売春や麻薬の売買が横行している暗黒街のようなところだ。
マシャドは宗教都市として聖地であることは間違いはないのだろうが、作品から受ける街のイメージは全く違う。
貧困が根底にあるのだろうが売春が横行していて、女性は夜になると通りで客引きを行う。
ミソジニーストのサイードはそのような女性が許せず、街の浄化のために売春を行う女性を次々殺していく。
映画は先ず売春の様子が描かれ、続いてラミヒとサイードの行動が交差するように描かれていく。
サイードは殺人鬼だが、殺人の動機を浄化としていて普段は普通の男だ。
家庭では良き夫であり、良き父親でもある。
さらには良きイスラム教信者でもあるのだろう。
サイードに関してカメラはごく普通な家庭人としての彼の日常と、異様な犯行を淡々と描いていく。
彼の犯行は家族が留守の間に自宅に連れ込んで殺すぞんざいなやり口なのだが、そのぞんざいさがミソジニーを浮かび上がらせていく。
女性が落としたリンゴの存在などはサスペンスフルだが、この作品はそこを追及しているわけではない。
街の浄化を行っている人間を警察は捕まえる気はないとの街の声もあるし、当の警察官もラミヒに言い寄るミソジニーの世界に居る。
屈辱的な仕打ちを受けたラミヒは自らが囮となって犯人に近づくことになる。
サスペンス性が高まる場面だが、真の問題はその後に描かれていく。

犯人は逮捕されるが、その後に起きることの方がおぞましい。
しかし、それが現実でもあるのだろう。
街ではサイードを英雄視する人々が出現するし、サイードの妻も夫が犯罪を犯したとは思っていない。
更には警察内部でもサイードに協力する者が出てきて、ムチ打ちの刑では芝居を演じ、逃亡を手助けするようなことも言う。
サイードという小さな蜘蛛は、より大きな蜘蛛すなわち国家の都合によって抹殺される。
もっとも恐ろしいことは、サイードの子供たちによって殺人が再現されることであり、息子のアリが2代目サイードになれと言われていて、彼がそのようになりそうなことだ。
日本でも初めて女性参政権が行使されたのは昭和21年4月10日のことだったことを思えば、ミソジニーという蜘蛛はイスラム社会だけではなく、文化に根付いて世界各国で巣を張っているのだろう。
我々も心しなくてはならないと思う。
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JR大阪駅の新ホーム

2023年04月28日 | グルメ・他

上映時間が変わってしまうので「聖地には蜘蛛が巣を張る」を見に行った。
イスラム社会の人たち、イランの人たちはこの映画をどう見たのだろうと思った。
こういう映画を見ると自分は日本人でよかったと思ってしまう。


帰りの電車は劇場の立地からJR大阪駅の新ホームから東大阪線で帰宅。
久宝寺行で新大阪を通過し放出で乗り換え。
連絡しているので乗り換え時間はなしで、非常に便利なルートであった。
グランフロント方面に行くときはこのルートを利用するようにしよう。
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ザ・ホエール

2023年04月11日 | 映画
今月初めて映画館い足を運び「ザ・ホエール」を見ました。
アカデミー賞でブレンダン・フレイザーが主演男優賞を取った作品です。


「ザ・ホエール」 2022年 アメリカ


監督 ダーレン・アロノフスキー
出演 ブレンダン・フレイザー セイディー・シンク ホン・チャウ
   タイ・シンプキンス サマンサ・モートン

ストーリー
恋人を亡くした悲しみから立ち直れずに過食症に陥ってしまった同性愛者のチャーリー。
歩行器なしでは移動すらできないほどの肥満となった今も入院を頑なに拒み続けていた。
大学で教える英作文の授業はオンラインでのみ行っていたが、自らの容姿を恥じてウェブカメラのスイッチを切っていた。
チャーリーは唯一の友人である看護師のリズに何かと世話をしてもらっていた。
ある日ニューライフ教会の宣教師トーマスがチャーリーを訪ねて来て、それからはトーマスもチャーリーの状況を心配して訪ねてくるようになった。
チャーリーは頻繁にピザを注文していたが、受け取りは対面で行われず、注文のピザはドアの外に置かれ、料金は郵便箱から持っていくという形式をとっていたが、ある日宅配ドライバーはダンと名乗り会話を交わすようになる。
チャーリーは、ずっと会っていない娘のエリーとの再会を願っていて、思い悩んだ末、エリーと再会することにした。
そして、母親に内緒で定期的に会ってくれれば12万ドルの預金を譲ると提案した。
エリーはその申し出を受け、彼女が学校の単位を取得するために提出しなくてないけないエッセイを手伝うことを条件に加えた。
チャーリーは、エリーに何か文章を書くことを条件に付けた。
リズはトーマスが頻繁にチャーリーを訪問することに不満を持っていた。
リズはニューライフの主任牧師の養女であることを明かし、チャーリーが心を病んでしまった出来事を話した。
自殺したリズの兄アランはチャーリーのボーイフレンドだったのだ。
ボーイフレンドの自殺が原因で、チャーリーは制御不能の過食症になってしまっていたのだ。
過去の出来事を話したリズのはトーマスにチャーリーへの救いはいらないと念を押す。
しかし、トーマスは自分の使命はチャーリーを助けることだとより強く信じ込む。
リズはチャーリーのために車いすを手配した。
病状は急速に悪化し死期が近いことを悟ったチャーリーは、17歳の娘エリーとの関係を修復したいと願うのだったが…。


寸評
過食と引きこもりで極度の肥満症となってしまった男が疎遠だった娘と関係を修復する話だと思っていたが、見終ると色々なテーマが盛り込まれている哲学的な作品だったとの感情が湧いてきた。
最初は肥満症となったチャーリーが、歩行器がないと歩けず床に落とした物も拾えないなど彼の身体的特徴による不自由な生活が描かれていく。
キリスト教系のニューライフからやってきた宣教師トーマスが出現してからストーリーは複雑化していく。
チャーリーは同性愛者で、生徒だったアランと関係を持っていて、そのアランは自殺しているという事実が示される。
リズはアランの妹で、家族が新興宗教であるニューライフに入信していて、リズが早々に宗教への信仰心を捨てたが、アランは親の期待に応えるように真面目に取り組んでいたことも明かされる。
なんだか統一教会の宗教二世を連想させる家族関係だ。
トーマスは、アランは祈りを神に捧げなかったから死んでしまったと言っているが、僕はそうは思わない。
アランは登場しないので彼の苦悩は想像するしかないのだが、同性愛を良しとしていないキリスト教徒の信者であるアランは、信仰とチャーリーとの同棲生活の板挟みになった結果だったのではないかと僕は思った。
チャーリーは妻と娘を捨てて1人の男性を選んだことを悔いているし、アランを救えなかったことも悔いている。
その結果として、自分のしてきたことが全て間違っていたのではないかと考えるようになってしまっている。
人には誰にだって長い人生の中では公開することの一つや二つはあるものだ。
僕にだって、あの時ああすればよかったとか、あの時もう少し手助けしてやればよかったと思うようなことはある。
それは僕の人生の中における後悔でもあるのだが、チャーリーのように自分の人生を全否定しようとは思っていない。


トーマスはエリーによって救われるが、エリーは本当にトーマスを救おうとしていたのだろうか。
僕にはたまたまそうなっただけのように感じられた。
僕にはエリーの不遇の境遇からくる悪意の方を強く感じ取られたのだ。
大麻を吸って盗撮するし睡眠薬を飲ませたりもし、点数不足のエッセイをチャーリーに書かせようとする。
そんなエリーでも、チャーリーにとっては彼女が自己肯定できる唯一の存在であることが強調されていたのだと思う。
換言すれば、チャーリーは自分の存在意義をエリーに求めたのだと思う。
その気持ちがエリーがトーマスを救った事実を聞いて、エリーは正しいと信じさせたのだろう。
それはチャーリーの希望でもあったのだと思う。
己の存在を皆から否定され続け、メアリーとの関係もうまくいかず、アランにも先立たれた彼にとって、エリーがまっとうに生きられることが自分の生きた証だと思ったことを僕は切なく思う。
自分の子供だけは真っ当に育て上げたと思って死にたいのだろう。
親にとって子供は唯一無二の存在なのだ。
小説「白鯨」が度々登場するが、僕はグレゴリー・ペックの船長を思い浮かべていた。
あの片足の船長は自分の未来を信じて白鯨を追い求めていたのだろうか。
映画を見る限り、そんな風には思えなかったけどなあ・・・。
死ぬ前にエリーに白鯨を読ませたのは、エリーに自信を持って欲しいという想いと共に、自身にも救いを求めた結果であろう。
家族で行った海辺のシーンを見た彼は死ぬ直前に救われたのだと思う。
そう思うと実に宗教的な映画であった。
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