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おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

さようなら

2025-05-31 08:13:55 | 映画

長い間ご覧いただきましたが11月18日でgoo blogサービスが終了するようです。
こちらへの投稿は今日を持ちまして終了させていただきます。
「おじさんの映画三昧」はAmebaの方で形を変えて掲載を始めました。
よろしければお立ち寄りください。
 https://ameblo.jp/zanmaiykt/



クレイマー、クレイマー

2025-05-27 07:49:00 | 映画
過去に照会した作品を振り返っています。
私が見た映画の中で記憶に残るベスト&それに続く作品を紹介しました。
今はそれらに続く傑作を再度紹介しています。
さすがにこのクラスの作品となると多くの映画を思い出します。

「クレイマー、クレイマー」 1979年 アメリカ


監督 ロバート・ベントン
出演 ダスティン・ホフマン メリル・ストリープ ジャスティン・ヘンリー
   ジョージ・コー ジェーン・アレクサンダー ハワード・ダフ
   
ストーリー
ジョアンナ・クレイマーは結婚して8年、今日も夜通し帰らぬ夫を持ってついに夜明けを迎えていた。
最初は幸せだった結婚生活も、今ではもう無意味なものに感じられていた。
夫テッドは仕事第一主義で帰宅はいつも午前様だ。
7歳になる子供ビリーのことを気にしながらも、ジョアンナは自分をとり戻すために家を出る決心をした。
上機嫌で帰って来たテッドは、妻のこうした変化には気がつかず、妻の別れの言葉も耳に入らない。
テッドの生活はその日から一変し、これまでノータッチだった家庭の仕事をまずやらなくてはならなくなった。
上役の心配は的中し、テッドは家の中にまで仕事を持ち込むはめになり、しかもその場もビリーに邪魔された。
父子2人の生活はうまくかみ合わず、まるで憎み合っている関係のように感じられることもあったが、そんなことを繰り返しながらも、少しずつ互いになくてはならない存在になっていった。
ところが、テッドに思いもかけない出来事が待っていた。
公園のジャングルジムから落ちて、ビリーが10針も縫う大ケガをしたうえ、1年以上も音沙汰なかったジョアンナが突如現われて、ビリーを取り戻したいと言ってきたのだ。
失業中のテッドは東奔西走してやっと職はみつかったものの、裁判は予想通りテッドには不利に運び、結局ビリーはジョアンナの手に渡ることになった。
ビリーなしの生活は考えられなくなっていたテッドは狂乱状態に陥った。
2人が最後の朝食であるフレンチ・トーストを手ぎわよく作りはじめたころは、ビリーの目は涙であふれていた。
そんなビリーを見て、テッドも悲しみをこらえることはできなかった。


寸評
離婚とその後に起きる子供の親権問題が抑えた演出で切々と迫ってくる秀作だ。
離婚に関しては、妻の悩みを仕事にかこつけて全く理解していない夫に愛想をつかせる形でケリがつく。
テッドは仕事に没頭して家庭を顧みないような所があるものの、暴力をふるうわけでもないし、酒乱でもない。
浮気をしていることもないし、子供への虐待も行っていない。
テッドは妻を家庭に縛り付けていることを除いてはごく普通の夫である。
子供を残して、妻は自分らしさを求めて出ていってしまう。
サービス残業に追い詰められている日本のサラリーマンから見ると、これで離婚されたらたまらんという状況だ。
シングルファーザーとなったテッドにはたちまち困難が降り注ぐ。
幼いビリーの世話と仕事の両立という問題だ。
テッドは優秀なので重要な仕事を任されているのだが、このような状況になると優秀な人間ほど大変になるという教訓でもある。

先ずは子育ての大変さが描かれるが、やんちゃぶりを見せるビリーのジャスティン・ヘンリー が、ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープという芸達者に一歩も引けを取らない演技を見せる。
大人びた発言や行動がたまらなく可愛い。
仕草の可愛さも手伝って、テッド、ジョアンナの元夫婦がビリーを欲しがるのも無理はないというものだ。
ギクシャクしていた父子だったが、よきパパぶりを見せていくダスティン・ホフマンの奮闘ぶりが微笑ましい。
フレンチ・トースト作りでは家事の大変さを象徴的に見せる。
雑貨の買い出しでは、母親の子供への影響力をこれまた象徴的に見せている。
僕も孫と食料品の買い出しに行くと「いつもママはこの牛乳を買っている」とか、「こっちの方が安くて美味しい」などとアドバイスされ、母親べったりな関係を微笑ましく感じたものだ。
テッドはそんな気分には浸っていられない切羽詰まった状況に置かれていることを上手く表現しているシーンだ。

テッドの奮闘ぶりが描かれることで妻のジョアンナの登場シーンはなくなっていたのだが、再び登場した時のメリル・ストリープの表情は天下一品だ。
ビリーが通う学校の向かいの店からビリーの姿を眺めているのだが、ビリーを手放してしまった後悔が無言のうちに伝わってくるものだ。
裁判劇でもメリル・ストリープは、微妙な心の内を戸惑いの表情を見せながらジョアンナを演じている。
ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープは上手い!
マーガレットのジェーン・アレクサンダーもいい役をもらっていて、ジョアンナの友人というだけでなく、彼女もシングル・マザーとなっていて元夫婦を気遣う良心的な女性である。
彼女の顛末も省くことなく付け加えているのも心温まる。
親権問題で決着がついて物語は最後を迎えるが、ここからの展開とクレイマー一家三人が見せる表情は感動的。
ビリーに会いに行くジョアンナがビリーに告げる言葉を想像しながら、マーガレットが出来たなら、クレイマー夫婦だってできるだろうにと思わせる。
離婚と親権問題を描いた作品の中では出色の出来だ。

グラディエーター

2025-05-26 07:24:22 | 映画
過去に照会した作品を振り返っています。
私が見た映画の中で記憶に残るベスト&それに続く作品を紹介しました。
今はそれらに続く傑作を再度紹介しています。
さすがにこのクラスの作品となると多くの映画を思い出します。

「グラディエーター」 2000年 アメリカ


監督 リドリー・スコット
出演 ラッセル・クロウ ホアキン・フェニックス
   コニー・ニールセン オリヴァー・リード
   リチャード・ハリス デレク・ジャコビ
   ジャイモン・フンスー デヴィッド・スコフィールド

ストーリー
西暦180年、ローマ帝国の治世。
歴戦の勇士として名声を馳せる将軍マキシマス(ラッセル・クロウ)は、遠征先のゲルマニアの地で、時の皇帝マルクス・アウレリウス(リチャード・ハリス)から次期皇帝の座を託したいと要請を受ける。
だが、これを知った野心家の皇帝の息子コモドゥス(ホアキン・フェニックス)は、老父をひそかに殺して自ら後継者を宣言、マキシマスは処刑を命じられた。
処刑者の手を逃れたマキシマスだが、故郷に帰り着くと愛する妻と息子は惨殺されていた。
絶望と極度の疲労の末に倒れた彼は、気づけば奴隷商人に捕らわれの身となった。
剣闘士を養成する奴隷商人プロキシモ(オリヴァー・リード)に買われたマキシマスだが、持ち前の技量で一躍剣闘士として頭角を現す。
いっぽう、皇帝となったコモドゥスは元老院の反対を無視し、首都ローマの巨大コロシアムで剣闘試合を開催。
プロキシモに連れられ、図らずもローマへ帰還したマキシマスは、死闘の果てに勝利をおさめ、仇敵たる皇帝コモドゥスと対面を果たす。
その夜、かつて恋仲だったコモドゥスの姉の王女ルッシラ(コニー・ニールセン)の訪問を受けるマキシマス。
コモドゥスはルッシラの息子ルシアスを亡き者にしようとしており、彼女はそれを阻止するため、彼に協力を求めたのだ。
姉の裏切りを察知したコモドゥスは策を弄した末、コロシアムでマキシマスと直接対決をする。
かくしてマキシマスはコモドゥスを倒し、自らも果てるのであった。


寸評
古代史を題材にした作品は数多く作られてきたが、この時代を描く作品の中では出色の出来だ。
時は五賢帝最後の皇帝アウレリウスの時代で、マキシマスは架空の人物であるが本当にいたような錯覚に陥る。
モデルはマクシミリアヌスだとされているが、僕はむしろシリア属州総督のアヴィディウス・カシウスを想像する。
カシウスはアウレリウス病死の誤報を聞いて、後を継ぐのは息子のコモドゥスではなく自分だと皇帝宣言をして謀反を起こしたが3か月後にほろぼされた。
アウレリウスは4人の息子を亡くしていたのでコモドゥスを後継に指名したが、彼の12年に及ぶ治世は「ローマ帝国の災難」と評されるくらいだから悪帝の一人だったに違いない。
アウレリウスがコモドゥスを評価していなかったことは史実通りのようだが、映画はドラマ的に愛されたマキシムと愛されなかったコモドゥスという構図を生み出している。

冒頭から見せる。
辺境の地へ遠征中のローマ帝国軍が蛮族と呼ばれた相手と死闘を演じるが、当時の最新兵器を駆使した彼等は武力でも勝っており敵を全滅させる。
ローマ軍は平地戦を得意としていて、数を頼りに攻めてきたとされる蛮族との戦いとは様相が違うが、それでも当時の戦闘をうまく再現していたと思う。
実際の戦闘もこのようなものだったと想像すると、島国の日本が弥生時代だったことを思えば彼等の先進文明に驚いてしまう。
皇帝アウレリウスは後継者にマキシマスを指名したいと漏らすが、息子のコモドゥスによって殺害されてしまう。
この父親殺しのシーンは迫力ある演出だったし、マキシマスの家族が殺される場面も悲劇や憎しみを無理強いするものでない上手い描き方だ。
コモドゥスが「お前も父を愛し、私も父を愛した。だから我々は兄弟だが、お前は父から愛された」というのは今の世の兄弟においても引き起こされる兄弟の確執の構図そのもので胸が痛い。

ここからは第二部とも思える剣闘士(グラディエーター)としてのマキシマスが描かれる。
人よりも動物の値段の方が高いという奴隷状況が描かれ、マキシマスは地方から剣闘士としての名声を高めていくのだが、それはまるで演歌歌手が地方巡業からのし上がってくるような感じだ。
マキシマスは首都ローマの巨大コロシアムでの剣闘試合に登場したところローマ市民から喝さいを受ける人気者となり、コモドゥスはマキシマスを殺すことが出来ない。
なんとか抹殺しようとするコモドゥスに姉のルッシラが絡んでいく展開は見る者を引き付ける。
コモドゥスは、「父が望んだようにマキシマスが皇帝についていたら帝国は崩壊しただろう」と述べるが、当時の状況からすれば実力者と言うだけでマキシマスのような男が皇帝に就けば、おそらく内乱が起こって帝国は崩壊に向かって行っただろうから、コモドゥスの読みもまんざらでもないと思う。
コモドゥスは自らの名声を高めようと卑怯な手を使ってマキシマスとの剣闘士試合を行う。
剣闘士皇帝と称されるくらい剣闘士試合が好きだったらしいが、映画ではマキシマスを含めてほぼ予想通りの結果となるが、史実のコモドゥスは31歳の若さで入浴中を暗殺されている。
それでも、本作は歴史絵巻としても十分に鑑賞に堪えうる作品となっている。

祇園の姉妹

2025-05-24 11:04:18 | 映画
過去に照会した作品を振り返っています。
私が見た映画の中で記憶に残るベスト&それに続く作品を紹介しました。
今はそれらに続く傑作を再度紹介しています。
さすがにこのクラスの作品となると多くの映画を思い出します。

「祇園の姉妹」 1936年 日本


監督 溝口健二
出演 山田五十鈴 梅村蓉子 久野和子 大倉文男
   深見泰三 いわま桜子 林家染之助 葵令子
   滝沢静子 橘光造 三桝源女

ストーリー
京都の祇園乙部の若い芸妓「おもちゃ」(山田五十鈴)は、 男に尽くしぬく昔気質の同じく芸妓の姉・梅吉(梅村蓉子)とは正反対で、 自分らを慰み物にする男たちから出来るだけ搾り取ってやろうという考えである。
梅吉を世話していた古沢(志賀迺家辨慶)が破産して 「おもちゃ」たちの家に転がり込んでくると、「おもちゃ」は姉の意に背いて古沢を追い出す。
そして、何人もの男たちに甘言を弄して自分と梅吉の旦那になってもらい、金品を得ようとする。
しかし、結局は男からの報復を受ける。
だが、「おもちゃ」は男には負けぬと悲憤の叫びを発するのであった。

寸評
1936年の製作とは思えないようなテンポの良さで男に翻弄される女たちの生き方を描いている。
ファーストカットからして流れるような語り口に引き込まれてしまう。
語り口に負けないのが流麗なカメラワークである。
オープニングはタイトルバックの軽快な音楽には似合わないもので、事業に失敗した木綿問屋の古沢の家財道具が競売にかけられている殺伐とした光景だ。
カメラは滑らかに横へと移動して日本家屋の中を隅々まで見渡すかのように長廻しによって捉えられる。
奥まった部屋で主人の古沢が番頭(林家染之助)にのれん分け出来なかったことを詫び、嫁入り道具を売り飛ばされて実家へ帰る妻と言い争いをして家を出ていってしまう。
面倒を見ていた梅吉の家に転がり込むのだが、道楽者ともいえるこの古沢の滑稽さに違和感がない。
一気に見せるこの導入部は秀逸だ。
カメラは京都の町家が並ぶ細い路地を、これまた古沢の姿を捉えながら流れるように切り取っていく。
八坂の塔が見える通りは時代を感じるものの今の風景と大して違いはない。
京都の裏通りを縦の構図に捉え、花売りの声が聞こえたり、着物姿の通行人とすれ違ったりする薄暗い路地に日差しがスポット的に当たり、カメラが建物の影の中を通り抜けて移動していくのは何とも言えず、古き良き日本映画を感じさせる。

芸妓でありながら人間らしく生きることは不可能なことなのか。
姉妹は二人揃って男からひどい目に合わされるわけだが、姉の梅吉は男を恨もうとはしない。
一文無しになった古沢を世話になった義理から見捨てることが出来ない。
梅吉は本当に古沢を好いていたのかもしれない。
骨董屋聚楽堂の主人(大倉文男)の世話になろうとしているが、古沢の居所を聞いて思わず妹と同居していた家を飛び出しそちらに走ってしまう。
結局、古沢に捨てられてしまうのだが、それでも梅吉は古沢を気に掛ける女である。
反対に妹のおもちゃは若さも手伝ってドライに生きる女で、嘘方便を使って男をたぶらかしチャッカリ生きて今の貧困生活からの脱却を願っている。
妹のおもちゃは、姉の梅吉をふがいないと思っている。
姉は世間体を気にするが、妹の方は、世間がいったい何してくれたというのだと開き直っているのである。
妹のおもちゃは男に呼び出され、日本髪のカツラをつけて出かける準備をするが、この時の山田五十鈴は日本の女の色気を集約したような色っぽさを見せる。
聞けばこの時、かの大女優山田五十鈴はまだ10代だったそうである。
大女優の片りん既にありで、彼女の見事なタンカが心地よく、男を手玉に取っていくのを許してしまえるのだ。
それに比べれば芸妓の世話をしようとする男たちも、芸妓に入れ込む男達もみな情けない。
おもちゃは悔し涙を流すが、きっとそんな男たちを見返すことになるのだろう。
男どもを見下してやるという心意気が、山田五十鈴の表情からは伝わってくる。
男に虐げられている女たちであるが、どっこい女はしたたかで強いのだと思わせる。
何処がフィルムの喪失ヶ所なのかもわからないし、今見ても十分すぎるくらい堪能できる作品だ。

家族ゲーム

2025-05-23 07:52:49 | 映画
過去に照会した作品を振り返っています。
私が見た映画の中で記憶に残るベスト&それに続く作品を紹介しました。
今はそれらに続く傑作を再度紹介しています。
さすがにこのクラスの作品となると多くの映画を思い出します。

「家族ゲーム」 1983年 日本


監督 森田芳光
出演 松田優作 伊丹十三 由紀さおり 宮川一朗太
   辻田順一 松金よね子 岡本かおり 鶴田忍
   土井浩一郎 白川和子 佐々木志郎 伊藤克信
   加藤善博 清水健太郎 阿木燿子

ストーリー
中学三年の沼田茂之(宮川一朗太)は高校受験を控えており、家中がピリピリしている。
出来のいい兄の慎一(辻田順一)と違って、茂之は成績も悪く、今まで何人も家庭教師が来たが、誰もがすぐに辞めてしまうほどの先生泣かせの問題児でもある。
そこへ、三流大学の七年生、吉本(松田優作)という男が新しく家庭教師として来ることになった。
最初の晩、父の孝助(伊丹十三)は吉本を車の中に連れていくと、「茂之の成績を上げれば特別金を払おう」と話す。
吉本は勉強ばかりか、喧嘩も教え、茂之の成績は少しずつ上がり始める。
茂之は幼馴染みで同級生の土屋(土井浩一郎)にいつもいじめられていたが、勉強のあと、屋上で殴り方を習っていた甲斐があってか、ある日の放課後、いつものように絡んでくる土屋をやっつけることが出来た。
そして、茂之の成績はどんどん上がり、ついに兄と同じAクラスの西武高校の合格ラインを越えてしまう。
しかし、茂之はBクラスの神宮高校を志望校として担任に届け出る。
これに両親は怒り、志望校の変更を吉本に依頼する。
吉本は学校に駆けつけると、茂之を呼び出し、担任の前に連れていくと、強引に変更させる。
腐れ縁で結ばれていた土屋は私立高校に行くことになり、茂之は西武高校にみごと合格した。
吉本の役目は終り、お祝いをすることになった。
その席で、孝肋は、最近ヤル気を失くしている慎一の大学受験のための家庭教師になって欲しいと話す。
しかし、一流大学の受験生に三流大学の学生が教えられるわけはないと吉本は断った。
そして、吉本は大暴れをして食事は大混乱となるのだった。


寸評
生活の中で家族を感じさせるのは一家だんらんの食事時である。
そこではテーブルをはさんで色んな話題が提供されて会話が弾み、そして家族が和み安らぎを覚える。
しかし沼田家のテーブルは横長で、家族が一列に並んで食事をとるので話は一方的だ。
誰がこのアイデアを思いついたのか、森田監督の指示だったのかは知らないが、映画の中では象徴的である。
この映画を代表するイメージにもなっている。
冒頭から一人ひとりの食事シーンと共にキャスト名が表示されるが、食事の効果音が誇張されて各人の性格を想像させる。
作品中で描かれる食事シーンは滑稽なシーンばかりで、一家だんらんの象徴を笑い飛ばしているようだ。
受験生を抱えて普段と違う状況に置かれている家庭だが、そんな時期にピリピリするのは沼田家に限ったことではなく、少なからずどの家庭でも経験している、あるいは経験したことだ。
森田芳光監督はそんな家庭の出来事を、非日常的な会話と出来事で笑いを誘い、ブラックジョーク満載の傑作コメディに仕上げていて、森田監督の最高傑作はこの作品だろう。

登場人物がおかしくて、キャラクターが際立っている。
家庭教師の吉本は登場シーンから変な行動をするし、大学7年生でいつも植物図鑑を抱えている。
この吉本を演じた松田優作の所作と言い方がとてつもなくユニークで面白い。
伊丹十三の父親は元々不思議な味を持つ彼のキャラクターを生かしたもので、目玉焼きを「ちゅうちゅう」と言ってすすりながら食べるのがおかしい。
それに輪をかけるのが母親で、実におっとりとした話し方をするどこか頼りない母親を、歌手である由紀さおりが彼女のキャラを生かして好演している。
由紀さおりがこんなに芝居ができるのかと驚かされたし、ラストシーンの表情もいい。
兄である慎一はまだまともな方で、問題児である茂之の宮川一朗太と松田優作の掛け合いは、まるで上質な漫才を見ているようである。
宮川一朗太、一世一代の演技かも知れない。

思わず笑ってしまうシーンはどれもこれも強烈な印象を残す。
冒頭で茂之が仮病で学校を休むシーンでの母親とのやりとりや、個人面談での先生とのやり取りは序の口。
父親から成績を1番上げてくれたら1万円出すと言われた時の吉本の態度。
車で話し合う時の「まさか化粧するんじゃないだろうね」と言われた由紀さおりの表情。
挙げたらきりがない爆笑シーンの連続だが、何かしらの問題提起を含んでいるので単なる喜劇とはしていない。
出来の悪い子ほど可愛いとはよく言われることだが、出来のいい兄は構ってもらえない淋しさを内在させている。
吉本が屋上で茂之に喧嘩の仕方を教えているときに、天体望遠鏡を持ってきた兄の慎一が二人に近寄っていく行為は自分もその中に加わりたい気持ちの表れだったと思う。
そのように何かしらの問題などを感じさせるシーンがユーモアを加味されて随所に散りばめられている。
最後に吉本がこの家庭の学歴偏重主義、人任せにする無責任さを蹴散らすように食卓テーブルを無茶苦茶にし、全員をノックアウトして立ち去る。
松田を優作は上手い!
早逝したのは何としても残念だった。

家族

2025-05-22 07:49:24 | 映画
過去に照会した作品を振り返っています。
私が見た映画の中で記憶に残るベスト&それに続く作品を紹介しました。
今はそれらに続く傑作を再度紹介しています。
さすがにこのクラスの作品となると多くの映画を思い出します。

「家族」 1970年 日本


監督 山田洋次
出演 倍賞千恵子 井川比佐志 笠智衆 前田吟
   富山真沙子 春川ますみ 寺田路恵 三崎千恵子
   塚本信夫 梅野泰靖 花沢徳衛 ハナ肇

ストーリー
東シナ海の怒濤を真っ向に受けて長崎湾を抱く防潮提のように海上に浮かぶ伊王島。
貧しいこの島に生まれた民子(倍賞千恵子)と精一(井川比佐志)が結婚して10年の歳月が流れ、剛、早苗が生まれた。
精一には若い頃から、猫の額ほどの島を出て、北海道の開拓集落に入植して、酪農中心の牧場主になるという夢があったが、自分の会社が潰れたことを機会に、北海道の開拓村に住む、友人亮太(塚本信夫)の来道の勧めに応じる決心をする。
桜がつぼみ、菜の花が満開の伊王島の春四月、丘の上にポツンと立つ精一の家から早苗を背負った民子、剛の手を引く精一の父源造(笠智衆)、荷物を両手に持った精一が島を出る。
北九州を過ぎ、列車は本土に入り、福山駅に弟の力(前田吟)が出迎えていた。
苛酷な冬と開拓の労苦を老いた源造にだけは負わせたくないと思い、力の家に預ける予定だったが、狭い2DKではとても無理だった。
家族五人はふたたび北海道へと旅立ち、やがて新大阪駅に到着し、乗車する前の三時間を万博見物に当てることにしたが、結局入口だけで引返し、この旅の唯一の豪華版である新幹線に乗り込んだ。
東京について早苗の容態が急変し、救急病院に馳け込むがすでに手遅れとなり早苗は死んでしまう。
東北本線、青函連絡船、室蘭本線、根室本線、そして銀世界の狩勝峠、旅はようやく終点の中標津に近づいていった・・・。


寸評
僕がこの映画の一番好きなところで、しかもいつも大泣きしてしまうところがある。
それは笠智衆の息子で井川比佐志の弟役である前田吟が、福山の駅で別れたあと涙を流しながら車を運転するシーンだ。
狭い団地に住んでいる彼は、引き取りたくても父を引き取れない。
ちょっとした手土産を渡すのがやっとだ。
そんな自分を思ってか、帰りの車を運転しながら涙を流す。
ぬぐってもぬぐっても流れる涙を止めることができない。
自分を育ててくれた家族がいる一方で、自分がまず守らねばならない家族がいて、してあげたいと思っても出来ない父へのいたわり。
僕には、そんな彼の気持ちが痛いほどわかって、いっしょに泣くことしかできない。 

典型的なロードムービーで日本列島を縦断するような形で物語が進行していく。
その間に起こる出来事はこの家族がしょってしまっているのか辛いことばかりである。
北海道には連れて行く気のなかったおじいちゃんも結局連れて行かざるを得なくなる。
田舎者の彼らには1970年の大阪万博も、梅田の地下街も疲れるだけのものでしかなかった。
持参している金額のこともあって贅沢はできない旅である。
東京では末娘の早苗が死んでしまう。
どうしてこんなにも不幸がこの家族に訪れてしまうのかと思う悲しい出来事だ。
早苗の死は今後の不安も重なって、家族間に、特に夫婦間に波風を立てる。
夫の精一には家族を養う責任がある。
見込みのない故郷の伊王島を捨てたが、目指す北海道で成功が約束されているわけではない。
そんなイライラが民子に辛く当たらせるが、民子は家族を守っていかねばならない。
普段は大人しいおじいちゃんは精一の父親でもある。
不甲斐ない精一を「お前がしっかりしなくてどうする」と叱り飛ばす。
笠智衆は日本のおじいちゃんといった感じで、いつもながらいい味を出す。

やっとの思いで北海道についた一家は歓待を受ける。
おじいちゃんはその喜びの表現として酔った勢いで炭坑節を歌う。
朴訥としたその歌声はなぜか心にしみる。
しかしそれでもこの家族に最後の悲しみが覆いかぶさる。
悲しい物語だ。
まったく明るさの見えない物語だが、最後にあすへの希望を描き出す。
それが子牛の誕生だ。
民子のお腹にも新しい生命が宿っている。
新し生命が、やっと、やっと、この家族に光を照らす。
倍賞千恵子の弾んだ声がいつまでも耳に残る。
僕はやっと救われたような気分になれた。

隠し砦の三悪人

2025-05-21 07:07:48 | 映画

長い間ご覧いただきましたが11月18日でgoo blogサービスが終了するようです。
どうやら投稿が可能なのは9月末までとなりそうです。
ということで、過去に照会した作品を振り返っています。
私が見た映画の中で記憶に残るベスト&それに続く作品を紹介しました。
今はそれらに続く傑作を再度紹介しています。
さすがにこのクラスの作品となると多くの映画を思い出します。

「隠し砦の三悪人」 1958年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 千秋実 藤原釜足 藤田進 志村喬
   上原美佐 三好栄子 樋口年子 藤木悠 笈川武夫
   土屋嘉男 高堂国典 加藤武 三井弘次 小川虎之助

ストーリー
戦国の乱世、秋月家は隣国の山名家と一戦を交えて敗れ去った。
秋月家の侍大将・真壁六郎太(三船敏郎)は、世継の雪姫(上原美佐)を擁して数名の残党と隠し砦にこもった。
砦近くの泉には、薪の中に仕込んだ軍資金黄金二百貫が隠されている。
同盟国の早川領へ脱出の機会を狙っていた六郎太は、砦近くの沢で出会った二人の男、百姓の太平(千秋実)と又七(藤原釜足)を利用しようと考えた。
六郎太は雪姫を口がきけない村娘にしたて、太平・又七とともに砦を後にした。
木賃宿で一夜を明かした六郎太は、姫の願いで、人買いに買われて行く秋月の百姓娘(樋口年子)を救った。
六郎太の前に、山名の侍大将・田所兵衛(藤田進)が立ちふさがった。
激闘数合、兵衛は六郎太の槍を太腿に受け首をさしのべるが、六郎太は兵衛に別れを告げ馬にとび乗った。
山名方の山狩りで一行に危機が迫り、雪姫と六郎太は捕えられた。
山名と早川の国境にある関所の牢の中で、雪姫と六郎太は最後を待っていた。
姫・六郎太・百姓娘の三人は、縛られたまま馬にのせられて曳き出された。
続いて黄金をつんだ五頭の馬。
その時、六郎太に不覚をとったため主君に弓杖で打たれたという兵衛が現われて、黄金をつんだ馬の尻をなぐりつけたので、馬は早川領へ走り去った。
続いて兵衛は六郎太の縄を切り、三人は早川領へ走り去る。


寸評
黒澤が「俺なら痛快娯楽時代劇はこう撮る」と叫んでいそうな作品で、娯楽としての要素が前面に出ている。
映画が娯楽として始まったことを思えば当然の思いだが、黒澤はその当然のことをとことん追求している。
あの手この手の追って逃れのストーリーが痛快だし、スカットするようなここ一番のシーンも備えている。
三船敏郎のカッコ良さはあるのだが、この映画を思い出すと真っ先に浮かぶのが雪姫の上原美佐だ。
日本人離れしたエキゾチックな顔立ちと均整のとれたボディで、立ち姿そのものが光となりえる存在感だ。
しかしながら甲高いセリフの言い回しがぶっきらぼうで下手くそではある。
ところが、それがまた世間慣れしていないお姫様役にピッタリで・・・。
「私には才能がない」と2年で引退してしまったから聡明な人でもあったのだろう。

三船敏郎演じる侍大将の、それこそスーパーマンのような超人的活躍がこの映画の見所となっている。
関所破りとそれに続くシーンで山名から追っ手を駆けられるシーンが出てくるが、その中で馬に乗った六郎太が敵方を追いかける場面があり、それがまた迫力満点。
立ち姿で馬にまたがって疾走しながら、両手で持った刀で逃げる敵を一刀のもとに切り捨てる。
これを三船自身がやっているというから、彼の乗馬の腕は並大抵のものではなかったはずだ。
乗馬のかっこよさはその後にも用意されていて、雪姫が先頭で馬で走りゆき、続いて六郎太が逃げ惑う元・城下の百姓娘の体を馬上へ引き上げ逃げ去るシーンでは、当時の映画館で観客から拍手が沸き上がったという。
いま観ても思わず拍手喝采したくなる爽快なシーンだ。

物語としてそのまま無事に逃げおおせる訳もなく、一行は敵方に捕らえられてしまう。
雪姫、「装わぬ人の世を、人の美しさを、人の醜さをこの目でしかと見た。六郎太、礼を言うぞ。これで姫は悔いなく死ねる」
六郎太、「姫!」
雪姫、「六郎太、とくに、あの祭りは面白かった。あの歌もよい」と云って祭りの歌い出す。
いい場面だ。
それを聞いていた敵方の兵衛は昨夜雪姫が歌っていた祭りの歌
♪ 人の命は 火と燃やせ 虫の命は 火に捨てよ ・・・・・
を歌いながら、六郎太と雪姫の腕を縛っていた縄を次々と斬り解いてやる。
雪姫に「兵衛!付いて参れ!」と言われ、かたじけないという顔をして大きく頷く。
そして自らの軍勢に向かって「裏切り、御免!」と言い捨て、馬に飛び乗って六郎太と雪姫と共に逃げていく。
いやあ~、痛快!
宿場の女郎が秋月領の女だと知って、雪姫が買い戻すように六郎太にせまるヒューマンなシーンもあるし、狂言まわしのような役柄を演じている千秋実と藤原釜足の凸凹コンビも面白く喜劇としても十分に楽しめる。
ただ欲の塊のような人間として描かれていた彼らが最後にはさっぱりと欲を捨て、欲よりも互いの友情の方が大事だなどと言い出すのはどうだったのかなあ・・・。

2025-05-20 07:42:21 | 映画
過去に照会した作品を振り返っています。
私が見た映画の中で記憶に残るベスト&それに続く作品を紹介しました。
今はそれらに続く傑作を再度紹介しています。
さすがにこのクラスの作品となると多くの映画を思い出します。

「顔」 2000年 日本


監督 阪本順治
出演 藤山直美 豊川悦司 國村隼 大楠道代 牧瀬里穂
   佐藤浩市 内田春菊 早乙女愛 九十九一
   渡辺美佐子 岸部一徳 中村勘九郎

ストーリー
1995年1月。
幼い頃から家に引きこもっている正子は冴えない40過ぎの女性で、母親が営むクリーニング店の二階で洋服のかけはぎの仕事をしながらひっそりと暮らしていた。
ところが、そんな彼女の生活が母親の急死で一変する。
通夜の晩、ホステスをしている妹が正子に向かっていつものようにきつい言葉をぶつける。
カッとなった正子は妹を殺してしまう。
香典袋を手に、35年間閉じこもっていた家を飛び出した。
突然の大地震も手伝って逃亡に成功した正子は、離れて暮らす父親の行方を探してやって来た大阪を経て、やがて別府へ流れ着く。
そこで、親切な中年女性・律子に拾われた彼女は、律子の店でホステスとして働くことになるが、その仕事はそれまで内向的だった彼女の内面を変えていった。
そして、いつしか生きる意欲を見出すようになった正子は、池田という男にも秘かな想いを寄せるようになる。
だが、律子の弟でヤクザ者の洋行が殺され、店に警察の捜査が入ったことから、彼女は再び逃亡生活を余儀なくされた。
律子や池田に別れを告げ、小さな離島へ逃げる正子。
しかし暫くすると、そこへも警察の追っ手は迫ってきた。
捕まってなるものか。
必死に逃げようと海へ飛び込んだ正子は、やっと覚えた平泳ぎで泳ぎ出す。


寸評
私はこれを大阪の場末の今はなくなってしまった映画館で見た。
場末の映画館で見てよかったと思っている。
この映画への効果バツグンで、随分と雰囲気を盛り上げてくれた。
生きるバイタリティのようなものを映画館全体が感じさせてくれたのだ。
4、5人も乗れば一杯のエレーベータを降りると、薄暗い通路に切符の自動販売機があった。
2館ある映画館の共通のモギリとして愛想の悪いおばちゃんがいる。
木製の棚にチラシが置いてあったので、切符を買う前に取ってみると、このチラシを持参した人は200円割引と印刷されていたので、「割引になるんですか?」と聞くと、「1400円で入って」とぶっきらぼうな答。
なぁーんだ、それなら皆割引ではないか・・・(でも前の人は通常料金のチケット買ってから、チラシを取っていた・・・インチキがまかり通ている)。
中は100席程度で、試写室に毛の生えたような雰囲気。
扇風機だか、換気扇だかがブルルンと回わっている音が聞こえる。
なんだか妙に懐かしくて、「好きだなぁ・・・この雰囲気・・・」とつぶやきそうになったものだ。

映画はいい!
藤山直美さんはもちろん、出ている人が皆素敵。
うまいなぁ・・・、いい雰囲気出してたなぁ・・・。
阪本監督がこのようなユーモアとペーソスを持った映画を作ると、やけに輝いた作品になる。
小さい頃から劣等感の中で育ってきた結果として、自閉症気味な正子が自分をなじった妹を絞殺しての逃避行によって、生きることの喜びを見出していく姿が感動的。
自分の意思表現をうまく出来ないでいた正子も、実はしっかりとした自己形成は行っていたのだ。
それを周りが気付かなかっただけなのだ。
そのことは冒頭の、動物柄の縫い物をする正子が想像する、動物達に囲まれた食事シーンに表現されているし、あるいは自分を犯した、そして初めての男である酔っぱらいの中村勘九郎に金を渡すところなどに象徴的に描かれている。
「取っとけ!」と怒鳴るところなどは、犯されたんじゃない、男を買ったんやの心意気なのだ。
自転車に乗ることも、泳ぐことも出来ず、走ることさえしなかった正子が、世の中の人々と出会うことで変化していく様が愉快だ。
彼女の生き様に触発されるように、周りの人間達もその生き様にケリをつけていく。
「走ることもあるんやな」と言われ、自転車の練習に付き合ってくれたラブホテルの経営者・岸部一徳は自殺。
カラオケ・スナックのママ(大楠道代)の弟(豊川悦司)は、正子と違って逃げることを拒絶しヤクザに殺される。
初めて好きになった男(佐藤浩市)は、リストラの腹いせに持ち出した社内データを捨てざるをえなくなってしまう。
みんなそれぞれ逃げ切れないものを背負って生きてきたようなのだが、正子と違って、本当に逃げ切れなかった末路なのだ。
自殺未遂の経験があるらしい大楠道代を慕うあたりはいじらしくもある。
彼女の「逃げて逃げて生きなあかんよ」という言葉に「ありがとう」を繰り返すところなどは泣けた。
なじる女房(早乙女愛)に対し、「別に許してもらわんでもええよ」とはき捨てた正子。
その当の亭主(國村隼)に教えてもらった泳ぎでもって、追い詰められた正子は海を泳ぎ切って島からの脱出を図るのだが、思わず応援したくなる。
がんばれ正子、逃げろ正子!
Cobaの音楽・・・ええやないかぁ!

男と女

2025-05-19 07:34:56 | 映画
長い間ご覧いただきましたが11月18日でgoo blogサービスが終了するようです。
どうやら投稿が可能なのは9月末までとなりそうです。
ということで、過去に照会した作品を振り返っています。
私が見た映画の中で記憶に残るベスト&それに続く作品を紹介しました。
今はそれらに続く傑作を再度紹介しています。
さすがにこのクラスの作品となると多くの映画を思い出します。

「男と女」 1966年 フランス


監督 クロード・ルルーシュ
音楽 フランシス・レイ
出演 アヌーク・エーメ ジャン=ルイ・トランティニャン
   ピエール・バルー ヴァレリー・ラグランジェ

ストーリー
アンヌ(アヌーク・エーメ)は夫をなくして、娘はドービルにある寄宿舎にあずけている。
パリで独り暮しをし、年はそろそろ30歳。
その日曜日も、いつも楽しみにしている娘の面会日だったがつい長居してしまい、パリ行きの汽車を逃してしまった。
そんなアンヌに声をかけたのはジャン・ルイ(ジャン・ルイ・トランティニャン)という男性。
彼も30歳前後で、息子を寄宿舎へ訪ねた帰りだった。
彼の運転する車でパリへ向う途中、アンヌは夫のことばかり話しつづけた。
その姿からは夫が死んでいるなどとは、とてもジャン・ルイには考えられなかった。
一方、彼はスピード・レーサーで、その妻は彼が事故を起したとき、ショックから自殺への道を選んでいた。
近づく世界選手権、ジャン・ルイは準備で忙しかったが、アンヌの面影を忘れられなかった。
次の日曜も自分の車でドービルへ…と電話をかけた。
肌寒い日曜日の午後、アンヌ、ジャン・ルイ、子供たちの四人は明るい笑いに包まれていた。
同時に、二人はお互いの間に芽生えた愛を隠し得なかった。
二人は砂浜で身体をぶっつけ合い、その夜は安宿のベッドに裸身をうずめた。
だが、愛が高まったとき、思いもかけずアンヌの脳裡に割りこんできたのは死んだ夫の幻影だった。
二人は黙々と服を着て、アンヌは汽車で、ジャン・ルイは自動車でパリへ向った。
しかしアンヌを忘られぬ彼は、彼女を乗換え駅のホームに待った。


寸評
ラブロマンスなのだが、そんじょそこいらの恋愛映画とは違う映像詩で語り掛けてくる。
少なくとも僕はこの映画を公開時に見て衝撃を受けた。
恋愛ものに付き物の燃え上がるような会話はない。
フルカラーの映像はもとより、画面はモノトーンになったり、セピア調になったりしながら現在と過去を紡いでいく。
時にシャンソンの歌声でその時の心情を表現したりするが、フラシス・レイの音楽と流れるようなカメラワークが別世界へと観客を誘う。
色調を代えてとらえられる風景はロマンチックな雰囲気を醸し出していく。
総合芸術としての映画を感じさせる、クロード・ルルーシュ会心の一作だと思う。
僕はこの一作に衝撃を受け、その後もルルーシュ作品を何本か見たのだが、ついに「男と女」を超える作品に出会うことはできなかった。

アンヌは愛し合っていた夫を映画の撮影事故で亡くしている。
ジャン・ルイと結ばれた時に、愛し合っていた夫のことを思い出すのだが、その事を語ることはなく、また衝動的にジャン・ルイをはねのけるような行動もとっていない。
かつての楽しい思い出を音楽に乗せながら無音の映像で見せ続ける。
かなり長い時間そんな場面を流し続けることでアンヌの苦悩を表現している。
直接的な言葉でなく映像で語り掛けてくるのは全編を通した手法である。
音楽と映像のテンポ、さらにはセリフのテンポも絶妙にマッチしており、それゆえセリフすらも音楽の一つに溶け込んだように心地良く響いてくる。
「ダバダバダ、ダバダバダ・・・」というスキャットが心地よい。
恋愛映画の金字塔の一つだと思うが、若いカップルのラブロマンスでないところも雰囲気に貢献している。
急激に燃え上がるのではなく徐々に高まっていく感じがよく出ている。
子供たちを交えた海辺のシーン、肩に手を掛けそうで掛けない食事のシーン、その間に割り込むように挿入される犬と散歩する人や、水墨画のような海辺の風景がリズミカルに感情の高まりを感じさせていく。
監督のクロード・ルルーシュが撮影にも参加しており、パトリス・プージェと共にもたらすカメラワークにうっとりとしてしまうし、音楽担当のフランシス・レイのスコアがたまらなくいい。
こんな組み合わせの奇跡が起きるものなのかと思ってしまうほどの見事なアンサンブルである。
ジャン・ルイには母親になっても良いと思っている女性がいそうで、二股をかけているような描写もある。
アンヌはモンテカルロ・ラリーに出場しているジャン・ルイに「愛してる」と電報を打つ積極性を見せたかと思うと、夫の幻影に出会い男のもとを去る。
逃げれば追いたくなるのが人間の性なのか、男は二股女性を棄ててアンヌを猛追する。
去った女は男に未練たらたらでという、そんな中年男女が最後にストップモーションで締めくくられる。
見事というほかない。

お葬式

2025-05-18 07:30:59 | 映画
過去に照会した作品を振り返っています。
私が見た映画の中で記憶に残るベスト&それに続く作品を紹介しました。
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さすがにこのクラスの作品となると多くの映画を思い出します。

「お葬式」 1984年 日本


監督 伊丹十三
出演 山崎努 宮本信子 菅井きん 大滝秀治 奥村公延
   財津一郎 江戸家猫八 友里千賀子 尾藤イサオ 岸部一徳
   津川雅彦 横山道代 小林薫 池内万平 西川ひかる
   海老名美どり 津村隆 高瀬春奈 香川良介 藤原釜足
   田中春男 佐野浅夫 左右田一平 井上陽水 笠智衆

ストーリー
井上佗助(山崎努)、雨宮千鶴子(宮本信子)は俳優の夫婦だ。
二人がCFの撮影中に、千鶴子の父が亡くなったと連絡が入った。
千鶴子の父・真吉(奥村公延)と母・きく江(菅井きん)は佗助の別荘に住んでいる。
その夜、夫婦は二人の子供、マネージャーの里見(財津一郎)と別荘に向かった。
一行は病院に安置されている亡き父と対面する。
佗助にとって、お葬式は初めてのことで全てが分らない。
お坊さん(笠智衆)への心づけも、相場というのが分らず、葬儀屋の海老原(江戸家猫八)に教えてもらった。
別荘では、真吉の兄で、一族の出世頭の正吉(大滝秀治)がやって来て、佗助の進行に口をはさむ。
そんな中で、正吉を心よく思わない茂(尾藤イサオ)が、千鶴子をなぐさめる。
そこへ、佗助の愛人の良子(高瀬春奈)が手伝いに来たと現れる。
良子がゴタゴタの中で佗助を外の林に連れ出し、抱いてくれなければ二人の関係をみんなにバラすと脅したので、しかたなく佗助は木にもたれる良子を後ろから抱いた。
そして、良子はそのドサクサにクシを落としてしまい、佗助はそれを探して泥だらけになってしまう。
良子は満足気に東京に帰り、家に戻った佗助の姿にみんなは驚くが、葬儀の準備でそれどころではない。
告別式が済むと、佗助と血縁者は火葬場に向かった。
煙突から出る白いけむりをながめる佗助たち。
全てが終り、手をつなぎ、集まった人々を見送る佗助と千鶴子だった・・・。


寸評
お葬式という暗い題材をここまで明るくまとめあげた手腕はスゴイ。
義父の葬儀の体験を映画化したらしいのだが、ラスト近くに出てくる森の中に突き出た煙突から出る煙を見上げるシーンは現実にもあって、まるで小津映画に出ているみたいだと感じたのがきっかけになっていると聞いている。
実際、ここからラストに至るシーンはいい。
予算の都合でセットではなくご自身の別荘を使用して撮影しているとのことであるが、それが幸いしたのか限られたアングルから撮られた映像に臨場感がある。
部屋のどこかに据えられたカメラで収めたシーンに趣があり、自宅から出棺する雰囲気がよく出ていた。
亡くなった真吉の兄で口うるさい正吉が北枕を気にして、家族を背景に棺の前で一人芝居をするシーン、棺と遺影が安置された前に母親と娘の千鶴子が布団をサッと敷くシーンなどは映画を感じさせる。
会館での葬儀や家族葬が増えてきて、ご近所の夫婦が手伝っての葬式は少なくなってきたが、小規模ながらもご近所付き合いの中で出す葬式の雰囲気はよく出ていた。
通夜の様子やお手伝いの様子なども見事に活写されている。

途中で侘助の付き人らしい青木が手伝いで加わり、カメラを回して記録映画を撮り始める。
その映像がモノトーンで記録映画のように挿入されるのだが、これがまた何とも言えない雰囲気を生み出していて、とてもいいアクセントとなっている。
若い人や子供のお葬式は沈んだものであるが、老人のお葬式は順番だからとのあきらめもあり、「やれやれ」という気持ちもあり、悲しいはずの葬式で笑い声があったりするものである。
ここに集まった人々の笑顔は正にそのような笑顔で、親族の葬儀に参列した者なら経験があるものだ。
どこかに喜劇的なものがあって楽しませるのだが、その最たるものが高瀬春奈の良子の登場である。
彼女は侘助の愛人なのだが、まるで千鶴子に当てつけるように葬儀に現れ侘助にせまる。
本妻と愛人の修羅場は起きなかったが、もしかすると千鶴子は愛人の存在を感じていたのかもしれない。
宮本信子がブランコで揺れるシーンは印象に残る。

死体役といってもいいぐらいの真吉さんを演じた奥村公延さんは、本当に死んでいるみたいで隠れた功労者だ。
宮本信子さんは久しぶりの出演で、役者にカムバックどころか完全にトップ女優の仲間入りである。
葬儀屋の海老原を演じた江戸家猫八も飄々とした演技を見せて大いに存在感を示し、侘助を陰から支えるマネージャーの里見を演じた財津一郎もいい。
総じて脇役が充実している作品だ。
多分に喜劇的要素も含まれていたが、最後に喪主であるばあちゃんの挨拶でしんみりさせるのもいい構成だ。
伊丹十三さんはあらゆる分野で才能を発揮した方だが、この作品は映画監督としての才能が最初に発揮された作品だ(第1回作品だから当然だ)。
映画の中で、「俺が死ぬのは春にしよう。皆が待っている時に花吹雪だ」と言わせているのだが、寒い時の葬儀も暑い時の葬儀も、雨の日の葬儀も大変なので、僕の葬儀はそんな日でありたい。
できれば賑やかに見送ってほしいものだ。

おくりびと

2025-05-17 08:21:04 | 映画
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「おくりびと」 2008年 日本


監督 滝田洋二郎
出演 本木雅弘 広末涼子 山崎努 余貴美子
   吉行和子 笹野高史 杉本哲太 峰岸徹

ストーリー
所属していたオーケストラが解散して、失業したチェロ奏者の小林大悟。
やむなく彼は妻の美香と二人で実家である山形へと帰った。
その家は、2年前に死んだ母親が残してくれた唯一の財産だった。
新たな職を探す大悟が行きあたったのは、佐々木が経営する納棺師という仕事だった。
死者を彩り、最期のときを送り出すという業務の過酷さに、大悟は戸惑いを隠しきれない。
しかし、佐々木と事務員の百合子の持つ温もりに惹かれて、大悟は「おくりびと」となった。
故郷に戻った大悟は、幼い頃に通っていた銭湯で同級生の母親であるツヤ子との再会を果たす。
銭湯を経営するツヤ子は、廃業を勧める息子たちの声を押し切って、ひたすら働き続けていた。
やがて、大悟の仕事を知った美香は、我慢できずに実家へと帰る。
死者を扱う夫の業務をどうしても納得できなかったのだが、それでも大悟は納棺師を辞められない。
唐突に倒れて、この世を去ったツヤ子の納棺も担当した。
どこまでも自身の仕事に誇りを持つ大悟の気持ちをようやく美香も理解し、二人の関係は修復した。
そんなとき、父の訃報が大悟のもとに届く。
家庭を捨てた父親には深いわだかまりを抱いていた大悟だが、佐々木や百合子からの説得を受けて死去した老人ホームへ美香と向かう。
そこには、30年ぶりに対面する父の遺体があった・・・。


寸評
死体に触れることに戸惑いながらも、とりあえずの就職口として納棺師を続けている大吾は、社長の仕事ぶりを見て、それが決して卑しい仕事ではなく荘厳な儀式であることを知る。
しかしながら世間の認識はそうではない。
友人からもさげすんだ目で見られることで、世間のこの職業に対する差別意識を目の当たりにする。
妻に面と向かって「汚らわしい」と言われ愕然とする。
このシーンは美香がいままで明るく献身的だっただけに強烈だった。
上村がいう隙間産業である納棺師という仕事に携わる主人公たちは「人の死で飯を食ってるくせに」と罵られる。しかし、その男も全てが終ったあとは心から「ありがとう」と涙を流す。
誤解されやすい職業なのだと俄然興味が湧いて映画の世界に引き込まれる。
人の死は誰であれ悲しいもので、美しく化粧を施された遺体、ルーズソックスをはかせてもらったおばあちゃん、沢山のキスマークをつけられ泣き笑いでおくられる者。
涙、涙、涙の連続で、泣ける映画でもある。
しかし、全体的にはお涙頂戴映画ではなくて、冒頭の納棺の儀式のように緊張感が漂う中で、すぐに笑えるオチが付くなどコミカルな展開である。
それがなぜだかリアルに感じてしまうのは、実際のお葬式もそのような要素を持っているせいだと思う。

社長の佐々木は大悟の繊細な指先にその才能を見出したと思うのだが、納棺の仕事が大悟の天職と見抜いたに違いない。
実際大吾を演じた本木雅弘の所作は流れるようで、実に色気がある。
この色気を表現できる役者が少なくなってきていると思うので、彼は実に貴重な俳優だと思う。
また山崎務の絶妙な演技が、登場人物すべての生き様を引き出していて、コミカルなシーンを演出しながらも物語に深みを与えていたのは流石だ。
劇中に度々食事シーンが登場するが、それらの食材はすべて生き物だ。
それらの意味は高級食材の白子を食べる場面に象徴的に描かれている。
動物は動物を食べて生きながらえている。
「死ねないなら食べることだ。同じ食べるなら美味いものを」と佐々木は言う。
佐々木は食べるという儀式を納棺の儀式に重ねていたのではないか。
感謝しながら食べることで生き物の死を有益なものにする。
荘厳な納棺の儀式の中で、故人を敬い、そして見送る人々の悲しみを納めるからこそ、その人の死を乗り越えることができるのではないだろうか。

吉行和子がやっている銭湯に通い続けていた平田さんも、見送る仕事をしている人だとわかり、彼が言う「死は門です」という言葉にジーンとくるあたりから一気にラストに向かう。
幼少期に自分を捨てた父親へのわだかまりが解ける終盤は感動を呼び、温もりを持って父をおくりだしす主人公の姿は、夫婦や親子、周囲の人々の絆を感じさせる。
人の死は別れでもあると共に、残された人々の生でもあらねばならないことを教えてくれたようで、滝田洋二郎久々の作品だったと思う。

インファナル・アフェア

2025-05-16 09:08:17 | 映画
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「インファナル・アフェア」 2002年 香港


監督 アンドリュー・ラウ アラン・マック
出演 アンディ・ラウ トニー・レオン アンソニー・ウォン
   エリック・ツァン エディソン・チャン ショーン・ユー
   サミー・チェン ケリー・チャン チャップマン・トー

ストーリー
1991年、ストリート育ちの青年ラウは香港マフィアに入ってすぐ、その優秀さに目を付けたボスであるサムによって警察学校に送り込まれる。
一方、警察学校で優秀な成績を収めていた青年ヤンは突然退学となる。
彼は組織犯罪課のウォン警視に能力を見込まれマフィアへの潜入を命じられたのだった。
ラウは香港警察に潜り込み、10年で内部調査課の課長に昇進しベストセラー作家メリーとの結婚も内定していた。
一方、ヤンはサム率いるマフィアに潜入し、今では麻薬取引を任されるまでになっていた。
しかしヤンは長年に渡る内通捜査で自分を見失い、精神科医リーのもとに通院している。
いつしかヤンはリーを愛し始めていた。
ある夜、ヤンから大きな麻薬取引を行うとの情報を得たウォン警視は水面下で調査を始めるが、同時に警察の動きがラウからサムに伝わって検挙も取引も失敗に終わる。
双方にスパイがいることが明らかになった。
ラウとヤンは、それぞれ裏切り者を探すよう命じられる。
やがて争いの中で、サムの手下にウォン警視が殺された。
サムの残忍さに嫌気がさしたラウは、サムを射殺。
そしてヤンは、ラウがマフィアのスパイであることに気づくが、やはりサムの手下にヤンも殺されてしまう。
残されたラウは、ヤンの分まで警官として生きていくことを決意するのだった。


寸評
組織への潜入物はよく映画化される題材だが、この作品の特異なところははマフィアと警察にそれぞれスパイを送り込んでいることで、それも10年という長い年月をかけたスパイであることだ。
その二人をトニー・レオンとアンディ・ラウが演じていて、二人が対照的な人物を渾身の演技で熱演しているのがこの映画の魅力となっている。
ヤンの上司であるウォン警視役のアンソニー・ウォンもなかなかいい。
潜入者は一体誰なのかを伏せておいて、そのなぞ解きをメインに据える手もあったと思うが、この映画ではそれをせずに当初から潜入者を明らかにしている。
あくまでもお互いの潜入者を介在させたマフィアと警察の攻防に重点を置き、その中で二人の人物像を浮かび上がらせていく演出の巧みさは、本作を香港映画界が生み出した超一級品の香港ノワール作品に仕上げている。

まずはオープニングがいい。
究極の地獄を示す仏教用語(無間道)が語られ、この物語の全体像が暗示される。
続いて、仏の前でマフィアのボス・サムが、これから警察学校に潜入しようというラウたちに語りかける「自分の道は自分で決めろ!」というこの言葉があとあとの展開を左右する重要なキーワードになる。
その後は、潜入捜査官ヤンと警察に潜入したラウの姿が並行して描かれるのだが、その緊張感がたまらない。
前半の麻薬取引の場面は手に汗握るシーンとなっていて、パソコン、携帯電話、無線機などのアイテムを効果的に使用しながら一気に映画世界に観客を引きずり込む。
はでなドンパチがあるわけではなく、雰囲気でもってスリル感を盛り上げていくのがいい。

そして映画はサスペンス劇だけではなく、好対照な二人の人物像をじわじわと描いていく。
ヤンはマフィアに潜入した警察官だが、どこかワイルドな風貌で10年間の潜入生活に疲れ始めている。
ラウは警察に潜入したマフィアの一員なのだが、エリート然としていてスマートで幸せな新婚生活を控えている。
それに反して、ヤンは恋人とも別れてボロボロの生活の様だ。
元恋人が連れていた子供はたぶんヤンとの間に出来た子供の様なのだが、ヤンはそれも知らない。
もちろんラウの恋人のメリーはラウの素性を知る由もない。
しかしどちらもそんな中にあって、悪の中の正義、正義の中の悪という矛盾に苦しみ始めている設定が重厚感を出している。

クライマックスも、ありがちな展開とはいえ少しも陳腐な感じを抱かせない。
善と悪が交差する微妙なエリアで、情感漂うドラマを展開している。
勧善懲悪の世界が描かれるのではなく、善人だけど悪人、悪人だけど善人という複雑な設定が、ここで一挙にはじけ散る。
無間地獄とは絶え間ない責め苦を受け続けることであり、他人と自分自身を一生あざむいて生きることの苦しみは、どこにも属さない地獄の苦しみなのだ。
ラウはその無限道を歩いていくことになるのだろう。
「香港映画、恐るべし!」と思わせる作品だ。

イージー・ライダー

2025-05-15 08:00:03 | 映画
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「イージー・ライダー」 1969年 アメリカ


監督 デニス・ホッパー
出演 ピーター・フォンダ デニス・ホッパー
   ジャック・ニコルソン アントニア・メンドザ

ストーリー
マリファナの密輸で大金を手にしたキャプテン・アメリカとビリーは、大型オートバイを買って旅に出た。
2人は自由の国アメリカの幻影を求めて、フロンティア精神の母体ともいえる南部をめざし、気ままにオートバイを走らせた。
途中で一人のヒッピー、ジーザスを同乗させた二人は彼の案内でヒッピー村に入っていった。
しかし、村の住人たちは行動で自由を表現する2人を拒絶するのだった。
再び旅を続けた彼らは、許可なしでパレードに参加しただけの理由で警察に留置されてしまった。
そこで知り合った酔いどれ弁護士ジョージと意気統合した2人は、彼をつれて謝肉祭を見物すべく、ニューオリンズへオートバイを走らせた。
3人は、マリファナを吸い、野宿をしながら旅を続けた。
そんな3人を、保安官をはじめとする沿道の村人は悪口と殺意をもって迎えた。
彼らを国境から出すまいとする村人はある夜、野宿をしていた3人を襲撃。
キャプテン・アメリカとビリーはかろうじて逃げのびたが、ジョージは惨殺されてしまった。
二人はアメリカの保守性を呪訴し、自由のカケラも見当たらないことを悲しんだ。
やがて、オートバイで州境にさしかかった彼らに、2人の農夫が乗った1台のトラックが近づいて来た…。


寸評
この映画を思い出す時に真っ先に思い浮かぶのがピーター・フォンダの乗った格好いいバイクである。
この作品はピーター・フォンダがプロデュースし、デニス・ホッパーが監督し、そして主演の二人でもある。
言い換えれば ピーター・フォンダとデニス・ホッパーの映画なのだが、バイク同様に印象に残るのはジャック・ニコルソンが演じた変な弁護士の強烈なキャラクターである。
何故なんだろうと思い返すと、彼の主張がこの映画の主張そのものだからだったと気づく。
映画自体はロックのリズムに乗って若者がバイクでツーリングしているだけのものである。
しかし、三人が野宿して語り合う場面は強いメッセージを残す。
彼らは行く先々で拒否されるが、ジョージはビリーに「彼らが恐れているのはお前だ」と言う。
ビリー達が行動で示している自由な生き方なのである。
そして語る。
「アメリカという国は、子どもから老人まで自由、自由と口にする。しかし、本当に自由に生きる人間を見るのは怖いんだ」と。
映画が公開された当時、世界の若者たちは既存の世の中にNoを突きつけていた。
世界中で巻き起こっていた学生運動もそうだし、風俗的にはヒッピーと呼ばれる人種を生み出していた。
ヒッピーたちの主張は今までとは違う自由な生き方である。
その意味で、まさしくこの映画は時代を反映したヒッピー映画だと思う。

彼らが唱える自由とはFreedomである。
あらゆる束縛から解放される自由で、ロスアンゼルスからニューオリンズを目指しているだけのキャプテン・アメリカやビリーの行動そのもので、彼らは時間の制約さえ拒否して旅立っている。
しかし、彼らの出会う人々の考える自由とはLibertyであり、法と秩序に守られた自由なのだ。
普通の人々は彼らの様に自由を謳歌したいが、家族もいれば生活もあり、そうはいかないという現実の中にいる。
人々は制約の中で生きながら自分は自由を得ていると納得している。
ジョージは彼らが拒否される理由と同時に金星人の話をする。
宇宙人は地球に住み着いていて、世界のあらゆる人と接触している。
その為に災いが起きていると言うのだ。
金星人がいるとは思えないが、ジョージは自分の自由だけを主張し相手を拒否していることが世界を混とんとさせているのだから、アメリカの唱える自由は欺瞞なのだと言っているのだろう。
二人はヒッチハイクの青年を乗せて農耕生活を営むヒッピー村へやって来るが、そこでも拒否されている。
農耕生活者は定住者であり、バイクで旅する彼らを受け入れない。
保守的色彩が濃い南部地区に入ってくると拒絶の度合いが強まってくる。
パレードに飛び入り参加しただけで警察に捕まってしまう。
モーテルには泊めてもらえないし、レストランでは差別的な言葉を浴びせられる。
若い女の子たちは受け入れる余地を持っているが大人たちは完全拒否である。
後は悲劇的な結末が待っているだけだ。
アメリカと言う国は潜在的に差別と言うことから逃れることができない国なのかもしれない。

アンタッチャブル

2025-05-14 07:36:45 | 映画
長い間ご覧いただきましたが11月18日でgoo blogサービスが終了するようです。
どうやら投稿が可能なのは9月末までとなりそうです。
ということで、過去に照会した作品を振り返っています。
私が見た映画の中で記憶に残るベスト&それに続く作品を紹介しました。
今はそれらに続く傑作を再度紹介しています。
さすがにこのクラスの作品となると多くの映画を思い出します。

「アンタッチャブル」 1987年 アメリカ


監督 ブライアン・デ・パルマ
出演 ケヴィン・コスナー ショーン・コネリー アンディ・ガルシア
   チャールズ・マーティン・スミス ロバート・デ・ニーロ
   ビリー・ドラゴ リチャード・ブラッドフォード

ストーリー
1930年、9月。
エリオット・ネス(ケヴィン・コスナー)が、財務省からシカゴに特別調査官として派遣されてきた。
禁酒法下のシカゴでは、密造酒ともぐり酒場は実に10億ドル市場といわれ、ギャングたちの縄張り争いは次第にエスカレートし、マシンガンや手榴弾が市民の生活を脅やかしていた。
中でもアル・カポネ(ロバート・デ・ニーロ)のやり方はすさまじく、シカゴのボスとして君臨していた。
カポネ逮捕の使命感に燃えるネスは、警察の上層部にも通じているカポネがそう簡単には手に落ちないことを実感する。
そんな彼に、初老の警官ジミー・マローン(ショーン・コネリー)が協力することになる。
多くの修羅場をくぐってきたマローンから、ネスは多くのことを学んだ。
やがて、警察学校からの優秀な若者ジョージ・ストーン(アンディ・ガルシア)がスカウトされてやってくる。
さらに本省からは、ネスの部下としてオスカー・ウォレス(チャールズ・マーティン・スミス)が派遣されてくる。
巨大なシンジケートをかかえるカポネと、ネスら4人との対決が始まり、最初の摘発は郵便局だった。
彼ら4人が散弾銃を片手に摘発し、翌日の新聞では初めての大量逮捕を大きく取り上げ、彼らは“アンタッチャブル”(手出しのできぬ奴ら)という異名を馳せる。
だが、そのことはカポネの怒りを買い、カポネの右腕と呼ばれる殺し屋フランク・ニティ(ビリー・ドラゴ)がネスの身辺に現われる。
妻キャサリン(パトリシア・クラークソン)と愛娘の安全を苦慮したネスは家族を直ちに脱出させた。
アンタッチャブルの捜査は続き、ネスはシンジケートの帳簿を手に入れる。
それこそカポネに致命的なダメージを与える証拠となるものだった。


寸評
「アンタッチャブル」は僕の子供の頃の人気テレビ番組で、当時は多くのアメリカのテレビドラマが吹き替え放映されていたが、「アンタッチャブル」もそのひとつだった。
エリオット・ネス役はロバート・スタックで、日本語の吹き替えは日下武史が担当していて、渋い声が決まっていた。
僕にとっては本当に久しぶりの「アンタッチャブル」だったのだが、ブライアン・デ・パルマが奇をてらわないで、はでな銃撃戦を極力抑えた手堅い演出を見せ十分に堪能できる作品に仕上げている。
この作品を公開時に劇場で見たきっかけはファッション評論家でもある立亀長三氏から「衣装が素晴らしいので見るように」と勧められたからだったのだが、その衣装はジョルジオ・アルマーニが担当している。
ファッションもそうだが、1930年代の街並みの再現も雰囲気作りに貢献しているので美術担当も評価できる。
ケビン・コスナーの正義感あふれるエリオット・ネスが主人公だが、なんといってもショーン・コネリーのマローンに存在感がある。
アル・カポネのロバート・デ・ニーロと共に、恰幅のいい二人が画面を圧倒している。

マローンは初老の警官で、「警官の仕事は手柄を立てるのではなく無事に家に帰ることだ」とエリオット・ネスに教えたのだが、命の危険を感じながらも警官としての生き方を貫くことを決意する渋い役回りである。
ネスのもとに警察学校の生徒だった新米のジョージ・ストーン、財務省から応援にきた簿記係のオスカー・ウォーレスが加わり、四人が揃ったところでマローンが全員に銃を持たせて密造酒の摘発に向かう。
進んだら後戻りできない修羅の道へと踏み出していくカッコイイ場面だ。
事実上はマローンがリーダーと言っても過言ではない活躍を見せる。
密造酒取引で逮捕した一人の口を割らせるために、すでに死んでいる男の口に銃を突っ込み、あたかも生きているように尋問し、男が口を割らないために射殺したように見せかける凄みは彼の決意の表れでもある。
そのマローンが襲われ、瀕死の状態で会計係の乗る汽車を知らせるくだりも迫力あるものとなっている。
警官のお守りを欲しがっているように見せながら、それを拒絶し何とかネスに知らせようとする姿に、僕は思わず力が入り拳を握りしめていた。
対決物では相手にも存在感がないと盛り上がらないものなのだが、ロバート・デ・ニーロが貫録を見せて責任を果たしている。
その表情にアル・カポネという傲慢なギャングのボスの異常な性格がにじみ出ている。
郵便局での密造酒製造を摘発され、ヘマをした部下をバットで殴り殺すシーンも圧巻だが、オペラシーンで見せる涙と笑いの複雑な表情が化け物的な不気味なものを感じさせている。

駅のシーンで乳母車が階段から落ちるシーンは、公開時からエイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」における階段落ちと比較されて話題となっていたが、僕は乳母車を映すショットが少しくどいように感じた。
モンタージュとしての効果も薄かったようにも思うが、ここでのアンディ・ガルシアはカッコいい。
脚本的に不思議に思うのは、非情なカポネがなぜ重要参考人であるはずの帳簿係を殺さなかったのだろうということで、エリオット・ネス達が必死で追い求めている帳簿係なら、消し去ってしまうのがカポネ一味にとっては一番安全だと思うのだが、なぜかマイアミへ逃がそうとしている。
それにしても「禁酒法」などという悪法がよくも存在したものだ。
ときどきとんでもない法律が出来上がったりするから注意しなくてはならない。
このことは現在の日本においても言えることである。

あるいは裏切りという名の犬

2025-05-13 07:38:20 | 映画

長い間ご覧いただきましたが11月18日でgoo blogサービスが終了するようです。
どうやら投稿が可能なのは9月末までとなりそうです。
2019/1/1から始めておりました過去に照会した作品を振り返っています。
私が見た映画の中で記憶に残るベストに続く作品を再度紹介しました。
それらに続く傑作を再度紹介しています。
さすがにこのクラスの作品となると多くの映画を思い出します。

「あるいは裏切りという名の犬」 2004年 フランス


監督 オリヴィエ・マルシャル
出演 ダニエル・オートゥイユ ジェラール・ドパルデュー
   アンドレ・デュソリエ ヴァレリア・ゴリノ
   ロシュディ・ゼム ダニエル・デュヴァル
   ミレーヌ・ドモンジョ フランシス・ルノー

ストーリー
パリ警視庁のレオ・ヴリンクス警視とドニ・クラン警視は、かつて親友であり、同じ女性カミーユを愛した仲だった。
しかし彼女はレオと結婚、以来二人の友人関係は崩れ、互いが従える部署も対立していた。
パリでは現金輸送車強奪事件が多発し、その指揮官にレオが任命される。
事件をずっと追ってきたドニは、ライバルに手柄をさらわれることが面白くない。
そんな中、レオに情報屋シリアンから連絡が入り、大きな情報と引き換えに30分だけ行動を共にして欲しいと告げられる。
そしてシリアンは、自分を刑務所に送った男をレオの目の前で殺害する。
アリバイに利用されたことに激怒するレオだが、シリアンはアリバイを証明するなら強奪犯を教えると言う。
主犯格は、フランシス・オルンとロベール・“ボブ”・ブーランジェだった。
レオの指揮下、犯人グループのアジトを取り囲むが、突然ドニが単独でアジトへ近づき銃撃戦に発展。
定年間近だったレオの相棒エディが殉職する。
失態の責任を問われ調査委員会にかけられるドニと、オルンを追いつめ逮捕するレオ。
事件解決と出世への道を祝福されるレオを憎悪するドニは、シリアンの起こした殺人事件にレオが絡んでいることを突き止め、レオは牢獄送りとなる。
牢獄で妻の訃報を聞いたレオは7年後に刑期を終え出所し、カミーユの死の真相を探り始める。
全てを失ったレオと、パリ警視庁長官に就任したドニ。
ドニの就任パーティー会場へ向かったレオはドニと対面し、銃口を向けるが復讐を思いとどまる。
去ってゆくレオを追うドニだったが・・・。


寸評
映画の冒頭はバイクに乗った二人組が街頭標識を盗み警官に追われるシーンから始まる。
並行してギャングの兄弟が登場し、訪れたバーでミレーヌ・ドモンジョ演じる元娼婦のマヌーに暴行を加える。
二人組は、実は刑事で、彼らはパリ警察の標識にサインをし、退職間近のベテラン刑事へプレゼントするために窃盗を働いていたのだ。
この二つのシーンが交差するオープニングから緊張感がみなぎり、観客の心を捕らえて離さない。
暴力とバカ騒ぎで、どちらだがどちらともいえないカットの連続なのだが、その騒動が一方の当事者である警官たちの結びつきの強さを表現していて全体を通した伏線となっている。
やはり映画においてはオープニング・シーンが占める割合は高いと思う。
この冒頭で登場した元娼婦は、映画の結末に至る大事な役割を担い、さらに彼女に夫の死に様を語らせることによって歳月の中にあった空しさと、アウトローの末期の寂しさを表現するスパイスになっている。
このあたりの心憎い演出が余韻を膨らませているし、出所したヴリンクスが昔の部下に会って「うるさいところには慣れていない」とか「大勢のところは苦手だ」などのセリフは刑務所での孤独な生活をにじませる洒落た会話だし、それらを通じたわき腹をくすぐられたような気分になる演出が小粋だと感じて、思い込みかもしれないがフランス映画を実感する。
クランがかつてカミーユを愛していたという回想シーンはないけれど、思わぬところでそのことが暗示される。
そこで再びヴリンクスとクランの屈折した関係を、観客の我々が逆に回想する形で理解する事になる。
そんな奥深い演出は脚本のなせる技かもしれない。
であるからにして、公式ホームページ及びパンフレットで、窃盗を働いているのが警官であること、またヴリンクスとクランの二人がカミーユを愛していたことがストーリー紹介などで記載されているが、これは伏せておくべきだったと思う。
オープニングの対比シーンは導入部としてスリルに満ちているし、観客の心を一気に掴む演出だったと思うので、予備知識なしで見たほうが映画の雰囲気を深く味わえることが出来たと思う。
同じことがクランも昔カミーユを愛していたことにも言える。
こちらの方がネタバレにした罪は大きい。
それと思わせるシーンは無くて、終盤なってカミーユが初めてクランと対面して彼に発した言葉と、ラストでクランがヴリンクスに叫ぶ言葉でもって、実はクランもカミーユを愛していたのだと推測される構成になっている。
うっかりしていると、そのことに気づかない観客もでてくるような仕掛けになっている。
最初からそのような関係だと思って二人を見るのと、あとから実はそうだったのだと理解するのでは映画の成り立ちが違うと思うし、それが作品の奥深さとでもいうものだと思うのだが・・・・。
そしてクランにもエヴのような少しは彼の存在を認めている女性を絡ませ、クランその者の存在を最初から否定していないので、対立軸が成り立っていたと思う。
結果的にはその彼女もクランのもとを離れていくので、その辺りからクランの不条理さが顕著になっていくけれども。
あまり登場しないが、この二人の女性は重要な役割を担っている。
そして、あまり登場しないといえば、ミレーユ・ダルクのマヌーも雰囲気があって存在感がある。
映画全体としては全編に流れる重厚なシンフォニーと共に物語がスピーディに展開していく。
そのテンポのよさに最後まで引き付けられたままだった。
ローアングルから見上げるようなカット割りは底辺から上層を夢見る人間の視点とも一致していたのかもしれない。
ティティの最後の姿と、その彼が最後まで憎み軽蔑していた相手への仕打ちの処理もピタリとはまっていた。
音楽、映像、ストーリー、芝居など映画のもつ醍醐味をすべて完備した一級品だと思う。