「ブラック・クランズマン」 2018年 アメリカ
監督 スパイク・リー
出演 ジョン・デヴィッド・ワシントン アダム・ドライバー
トファー・グレイス コーリー・ホーキンズ
ライアン・エッゴールド ローラ・ハリアー
ヤスペル・ペーコネン アシュリー・アトキンソン
ポール・ウォルター・ハウザー アレック・ボールドウィン
ストーリー
1970年代半ばのアメリカ。
ロン・ストールワース(ジョン・デヴィッド・ワシントン)は、コロラド州コロラドスプリングスの警察署で初の黒人刑事として採用される。
ロンの最初の仕事は資料室勤務だったが、そこで他の白人警官から嫌がらせを受け、嫌気がさしたロンは配置換えを希望する。
情報部に配属されたロンに対し、上司は歌劇とされる黒人活動家化―マイケル(コーリー・ホーキンズ)のイベントに潜入させることを計画する。
イベント会場に到着したロンは黒人学生グループのリーダーのパトリス・ダマス(ローラ・ハリアー)と出会う。
カーマイケルはクワメ・トゥーレとアフリカ系に名前を変え、黒人であることの誇りと白人との戦いを訴える。
イベント後に再び会った二人は気が合い、パトリスから白人警官による人種差別を打ち明けられたロンは警官であることを言えない。
ロンは新聞広告に掲載されていた過激な白人至上主義団体KKKのメンバー募集の新聞広告を見つけるや自ら電話を掛け、支部代表相手にまんまと黒人差別主義者の白人男性と思い込ませることに成功する。
徹底的に黒人差別発言を繰り返すロンは、やがて入会の面接まで進んでしまうのだった。
騒然とする所内の一同。
だが、どうやって黒人がKKKに会うのか。
そこで、ロンの同僚の白人刑事フリップ・ジマーマン(アダム・ドライバー)に白羽の矢が立つ。
電話はロン、KKKとの直接対面はフリップが担当し、二人で一人の人物を演じることになる。
任務は過激派団体KKKの内部調査と行動を見張ること。
こうして黒人のロンと白人のフリップがコンビを組み、前代未聞の潜入捜査が開始される。
署ではデビッド・デューク(トファー・グレイス)というKKKの大物の動向が話し合われる。
フリップはKKK会員のフェリックス(アシュリー・アトキンソン)の家に行くが、疑い深いフェリックスはフリップがユダ人かどうか確かめようとする。
またフェリックスの妻コニー(アシュリー・アトキンソン)は黒人の危険性を訴える白人至上主義に凝り固まっていた。
果たして、型破りな刑事コンビは大胆不敵な潜入捜査を成し遂げることができるのか・・・。
寸評
アメリカの人種差別問題を扱った作品は手を変え品を変えて描かれてきたが、アカデミー賞の作品賞を取った「グリーン・ブック」と同様にこの作品も逆転の発想によって描かれている。
「ブラック・クランズマン」はサスペンスとしての緊張度も高いし、クライマックスの展開にも驚かされる。
高い物語性が作品のテーマと表裏一体なのが新鮮な描き方で、出来栄えとしては「グリーン・ブック」よりも高い。
差別を受けている黒人のロンがKKKに電話をかけるのだが、白人を装っているために黒人のアイデンティティを否定するかの如き言葉を浴びせ続ける。
同じく差別を受けているユダヤ人のフリップもKKKに潜入するためにユダヤ人をバカにする言葉を発し続ける。
黒人であるロン、ユダヤ人であるフリップの二人が黒人やユダヤ人を誹謗中傷する言葉は、すなわち現在受けている黒人やユダヤ人への差別なのだと思う。
この映画の魅力は差別する側を悪、被差別側を正として単純に描いていない点にある。
KKKの加入式典後に、メンバーやその家族が和気あいあいと見ている映画はグリフィスの「国民の創生」である。
1915年に制作されたこの作品は映画手法に優れ映画表現を基礎づけた作品とされているが、同時に人種差別を推奨する作品でもある。
参加者は娯楽大作でも観るかのように、ポップコーンを食べながら歓声を上げて観ているという体たらくを見せる。
一方で、白人警官にセクハラされたパトリスは、すべての警官を人種差別主義者・権力の手先と見なし”ピッグ(豚野郎)”と呼び続ける。
ロンが「警官みんなが人種差別主義者だと思うのか」とたしなめても、パトリスは「1人でもいれば十分よ!」と取り合おうとしないし、敵であるロンとは寝ることが出来ないと言う偏狭さを持っている。
パトリスに代表される黒人解放運動に取り組む人々を単純に英雄視していないのが新鮮だ。
KKKのメンバーであるフェリックスの妻コニーは人種差別主義に染まっている。
普通の主婦が白人至上主義をあそこまで唱えていることに僕は驚きを隠せない。
彼女はベッドの中で「ありがとう。私をあなたの人生に連れてきてくれて。私に生きる目的と方向を与えてくれて」と人種差別がひどい夫に囁くのである。
彼女は黒人やユダヤ人を見下すことで、取り柄がない自分の活躍場所を見出しているような感じがする。
彼らを敵視し排除することに自らの生きる意味を見いだしているというモンスターでもある。
夫のフェリックスも恐ろしいが、僕は妻のコニーの軽薄さの方が恐ろしかった。
KKKは今も活動を続けていて、覆面の中から鋭い眼光を放っている。
黒人解放運動のクワメは武器を取れと扇動している。
その間に暴力が存在していることは紛れもなく、今の世の中にあっては正体不明のテロリストが身の回りに平然と存在していることを感じさせられた。
エンタメ性にも富んだ作品だが、描かれている内容は恐ろしいものである。
監督 スパイク・リー
出演 ジョン・デヴィッド・ワシントン アダム・ドライバー
トファー・グレイス コーリー・ホーキンズ
ライアン・エッゴールド ローラ・ハリアー
ヤスペル・ペーコネン アシュリー・アトキンソン
ポール・ウォルター・ハウザー アレック・ボールドウィン
ストーリー
1970年代半ばのアメリカ。
ロン・ストールワース(ジョン・デヴィッド・ワシントン)は、コロラド州コロラドスプリングスの警察署で初の黒人刑事として採用される。
ロンの最初の仕事は資料室勤務だったが、そこで他の白人警官から嫌がらせを受け、嫌気がさしたロンは配置換えを希望する。
情報部に配属されたロンに対し、上司は歌劇とされる黒人活動家化―マイケル(コーリー・ホーキンズ)のイベントに潜入させることを計画する。
イベント会場に到着したロンは黒人学生グループのリーダーのパトリス・ダマス(ローラ・ハリアー)と出会う。
カーマイケルはクワメ・トゥーレとアフリカ系に名前を変え、黒人であることの誇りと白人との戦いを訴える。
イベント後に再び会った二人は気が合い、パトリスから白人警官による人種差別を打ち明けられたロンは警官であることを言えない。
ロンは新聞広告に掲載されていた過激な白人至上主義団体KKKのメンバー募集の新聞広告を見つけるや自ら電話を掛け、支部代表相手にまんまと黒人差別主義者の白人男性と思い込ませることに成功する。
徹底的に黒人差別発言を繰り返すロンは、やがて入会の面接まで進んでしまうのだった。
騒然とする所内の一同。
だが、どうやって黒人がKKKに会うのか。
そこで、ロンの同僚の白人刑事フリップ・ジマーマン(アダム・ドライバー)に白羽の矢が立つ。
電話はロン、KKKとの直接対面はフリップが担当し、二人で一人の人物を演じることになる。
任務は過激派団体KKKの内部調査と行動を見張ること。
こうして黒人のロンと白人のフリップがコンビを組み、前代未聞の潜入捜査が開始される。
署ではデビッド・デューク(トファー・グレイス)というKKKの大物の動向が話し合われる。
フリップはKKK会員のフェリックス(アシュリー・アトキンソン)の家に行くが、疑い深いフェリックスはフリップがユダ人かどうか確かめようとする。
またフェリックスの妻コニー(アシュリー・アトキンソン)は黒人の危険性を訴える白人至上主義に凝り固まっていた。
果たして、型破りな刑事コンビは大胆不敵な潜入捜査を成し遂げることができるのか・・・。
寸評
アメリカの人種差別問題を扱った作品は手を変え品を変えて描かれてきたが、アカデミー賞の作品賞を取った「グリーン・ブック」と同様にこの作品も逆転の発想によって描かれている。
「ブラック・クランズマン」はサスペンスとしての緊張度も高いし、クライマックスの展開にも驚かされる。
高い物語性が作品のテーマと表裏一体なのが新鮮な描き方で、出来栄えとしては「グリーン・ブック」よりも高い。
差別を受けている黒人のロンがKKKに電話をかけるのだが、白人を装っているために黒人のアイデンティティを否定するかの如き言葉を浴びせ続ける。
同じく差別を受けているユダヤ人のフリップもKKKに潜入するためにユダヤ人をバカにする言葉を発し続ける。
黒人であるロン、ユダヤ人であるフリップの二人が黒人やユダヤ人を誹謗中傷する言葉は、すなわち現在受けている黒人やユダヤ人への差別なのだと思う。
この映画の魅力は差別する側を悪、被差別側を正として単純に描いていない点にある。
KKKの加入式典後に、メンバーやその家族が和気あいあいと見ている映画はグリフィスの「国民の創生」である。
1915年に制作されたこの作品は映画手法に優れ映画表現を基礎づけた作品とされているが、同時に人種差別を推奨する作品でもある。
参加者は娯楽大作でも観るかのように、ポップコーンを食べながら歓声を上げて観ているという体たらくを見せる。
一方で、白人警官にセクハラされたパトリスは、すべての警官を人種差別主義者・権力の手先と見なし”ピッグ(豚野郎)”と呼び続ける。
ロンが「警官みんなが人種差別主義者だと思うのか」とたしなめても、パトリスは「1人でもいれば十分よ!」と取り合おうとしないし、敵であるロンとは寝ることが出来ないと言う偏狭さを持っている。
パトリスに代表される黒人解放運動に取り組む人々を単純に英雄視していないのが新鮮だ。
KKKのメンバーであるフェリックスの妻コニーは人種差別主義に染まっている。
普通の主婦が白人至上主義をあそこまで唱えていることに僕は驚きを隠せない。
彼女はベッドの中で「ありがとう。私をあなたの人生に連れてきてくれて。私に生きる目的と方向を与えてくれて」と人種差別がひどい夫に囁くのである。
彼女は黒人やユダヤ人を見下すことで、取り柄がない自分の活躍場所を見出しているような感じがする。
彼らを敵視し排除することに自らの生きる意味を見いだしているというモンスターでもある。
夫のフェリックスも恐ろしいが、僕は妻のコニーの軽薄さの方が恐ろしかった。
KKKは今も活動を続けていて、覆面の中から鋭い眼光を放っている。
黒人解放運動のクワメは武器を取れと扇動している。
その間に暴力が存在していることは紛れもなく、今の世の中にあっては正体不明のテロリストが身の回りに平然と存在していることを感じさせられた。
エンタメ性にも富んだ作品だが、描かれている内容は恐ろしいものである。