どんな弓を引きたいかというと、ふんわりと大きく引いて、小気味よく離したいという感じ。以前は、弓は格闘技だと思うほど必死に引いていた。そして、格闘技であるように全身で力みを前面に押し出すため、いらぬところに力が入り、本来の縦横の伸びあいのない射をしていたように思う。肩や手先に力が入るのだ。それで、よけいにビクが来る。
どこにも、力みがなく自身を弓にゆだねてしまうような、弓が身体か身体が弓かというようなそんなふうに引きたい。
殿が最後に引いていた弓がそうだった。弓と闘っているような感じではなく、優しく穏やかに柔らかな弓を引いていた。離れも自然にするりと妻手が飛んでいた。
先日、蟹の漢字の話から、中国は漢字や語源の宝庫だと思った。そこで思い出したのが、(荘子)の話の中で、「遊」という字が出てきたことだ。漢文学者の白川静先生によると「遊」は、「神と人が一体となった境地、人間の分別を越えたところ。」という。
弓と遊ぶ。
そして、もう一つは「包丁(ほうてい)」の話だ。牛の解体をする包丁は、牛を見ない。心の眼で牛を見るのである。牛刀さばきは見事であったという。技ではなく道である。自然体で牛と向きあう。虚心に向き合うのは遊につながる。
さて、一生懸命遊んでいるような弓。本来は、武道であって、命のやり取りをする飛び道具であるのだが、ここへきて気持ちが少し違ってきた。弓と無心に遊ぶ。無意識とは自分がなくなるということで、達人はこの無意識の境地に入っていくのではないか。
なので、ここで格闘してはならないのではないか。
意識しているときは臭いらしい。学者臭いとか、茶人臭いとか、さしずめ弓道人臭いとか。
では、どういうのが臭くないかといえば、濯ぎができた状態をいうのだそうだ。本当の学者は、学者くさくないとか。では、ここでこういうことを論じているわたしは、超臭いのである。いかん、遅い時間になったので、風呂に入って濯いでくることにしよう。