歳を重ねるということは、名人になり、人間国宝にもなるが、凡人の自分にとっては、両親や家族を看ながら思うことは、時間は残酷だということだ。できることが出来なくなる、やりたいことが奪われていく。
しかし、考えたら生きているうちに何かを次世代へ繋げたらそのことが価値がある。大それたことではなく、小さなことでも役割を果たしていれば十分な活躍だ。そこに意味を持たせたい。 親から子でも、先輩から後輩でも。芸術でも、技術でも。後輩はそれを越えて行けばいい。つなげる役割は大切だ。繋げたことが意味があると思ったりする。
よく「生きる意味を知りたい」とか、「自分探しの旅に出る」とか言うが、旅に出かけなくても自分を考えることは出来る。しかし、自分が何者かはなかなか答えは出てこない。ついでに、生きる意味などなくても、生きていける。しかし、何かにつまずいたり、先が見えにくくなると考えるのだ。
誰かに認められなくても自分の心に誇りを持つことが、生きていく糧かもしれない。若い頃は希望があったが、年をとると選択肢が狭くなる。そこには、絶望ではなく誇りを持つことで埋めなくてはならない。過去の栄光にすがるのではなく(過去の栄光もないのだし)まだまだ出来ることを精一杯やり遂げなくてはならないのだと思う。
旦那が退職して、とりあえず肩の荷を降ろした。まずはお疲れ様と慰労を兼ね功績を称えよう。身内が称えなくて誰が称えるか。そういえば、わたしは仕事をしてよく自分で褒めている。「何をさせてもすばらしいわ・・」と、ひとりごとを言わなくては最近は誰も褒めてくれないのだ。それはそれで、自分の耳に心地よい。今日も小百合は美しいとか。誰にいうでもなく鏡の前でにっこり笑っていても罪はない。他人が見たら恐怖かもしれないが。
自分の生きがいなどは、他人には関係ないのだから、楽しくおおらかに生きなくては。愚痴は何も生まない。