まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

ピクセル

2016-05-31 | 暮らし

先日、デジカメが壊れた。カバンの中にケースに入れずに放り込んでいたので、きっと電源が入ってレンズが押し出されたままになったのだと思う。近くの量販店に持っていくと、はじめから部品がない場合が多いので・・と、言われ「電気屋さんは、よくそういわれますよね。」と、言ったら「いや、メーカーです。。」と、反論された。

調べたら「2016・5月」まで、部品があるが、修理に出すと10,800円という。まだ部品はあったのだ。見る前から否定的なのはいかん。とはいえ、5千円ほどプラスすれば、今までより画素数は大きく、倍率も高いデジカメが手に入るとなると、新品が欲しくなる。

と、言うわけで新しいデジカメを買ってブログにアップしようとしたら、画像が大きすぎるのだ。無料の縮小のソフトを入れようかと考えたが、前にそれでおかしなものを拾ってしまったので、怖くてダウンロードできない。仕方なく画像を編集した。その時に「ピクセル」というのが出てきて、この数字を小さくしなくてはならない。用紙サイズのピクセル値を求めるツールがあった。ミリとインチとピクセルの関係を読んでいるうちに頭が痛くなった。

ピクセルとはなんだ。1インチの中に何個の点が並ぶかドット数を表すのが「ドットバーインチ」で、「ピクセル・バー・インチ」が、1インチあたりのピクセル数を表す。ピクセル解像度が、あーたら、こーたら。結局、「デジタル画像の1dot」のことを、ピクセルという。縦ピクセルx横ピクセル=画素数

あー疲れた。画素のことを言うのか。遠回りした。結局、編集で 320x240ピクセルとした。

さて、解像度と画素数とドットとピクセルのおさらいをしていたら眠れなくなった。電化製品は古くなると部品がないと言われるが、頭の中も古くなると部品がカラカラ音を立てているような気がする。修理はきかないのである。


豚角煮もどき

2016-05-27 | 料理

テレビで紹介されていた、豚の角煮のような高野豆腐の料理である。高野豆腐を戻して、溶き卵に浸けてから、豚バラ肉を巻いて、フライパンで焼き色をつけてから、酒、みりん、しょうゆで味付けをする。

簡単なうえに好評であった。孫が言うには「とうちゃんと、かあちゃんダイエットしとるし喜んどったよ。」で、あった。

 


税金の目的

2016-05-26 | 暮らし

オイコノミアで、「税金の目的」というのをやっていた。

そもそも税金の目的は、政府が行う「国民の健康と豊かな生活を実現する」ための財源である。活動の内容は、社会保障、医療、警察、消防、ごみ処理などなど。いわゆる、社会で生活するための会費なのだ。

さて、会費の使い道には、どの場面も反対する余地なく使われるんである。伊勢志摩サミットに使われるのは、六百億円だという。 その経済効果もあると言いうが、それより気になるのがタックスヘイブン(租税回避地)所得税や法人税がない一部の国に、ペーパーカンパニーをつくる。大富豪はお金を隠し、明日の米さえあれば良いという、サラリーマンや善良な庶民はきちんと支払うのである。

さて、税金はお互いに助け合うシステムなので、きちんと税を納めることは、社会のためになり、ひいては世界の貧困の子供を救うことができるところまでつながるはずだ。

桁外れのお金は人を麻痺させるのだとおもう。

今日、肉の代わりに高野豆腐を食べた・・・つましい。

 


お弁当代

2016-05-24 | 弓道

女子の講習会のために弁当を注文した。県の方針は600円の弁当とのことで、他の地域との格差もいけないと思いあちこち調べたが、600円では、おにぎりや寿司が中心で、おかずがない。女子は口が肥えている。みんなで一緒においしものを食べることによる結束力。いや、私自身が美味しいものを食べたいのである。最近、量を食べられないので余計に美味しいものが欲しい。

結局、消費税込みで734円、店員さんに顔の利く先輩の口利きで、21人分の配送料を半額にしてもらえた。770円のおまけ。

県の方針は節約である?技能の向上や、育成を問われながらも、講師の先生に着物のクリーニング代も払えない。尽くして求めずというが、これでは若い講師が育たないと思う。こちらも、講師に申し訳ない。

ひとりの弁当が100円程高くなったといって心痛めるわたしの何と小さなことよ。それも参加費1000円をいただくので、お茶代と弁当代は自腹みたいなものだが、どこで突つかれるかと小心者のわたし。

それに比べて、舛添さんはどうよ。善良な市民の代表みたいな母が「あの人は、いい人やと思とったのに・・・」と、本当に残念がっていた。自分の食べるものくらい自分で払わないかなあ。一体どういう料簡をしているのだろう。公私混同の代名詞になるのでは。「いやーーん、あの人、ますぞえしてるよ・・。」とか。

 


弓道教室開講式

2016-05-18 | 弓道

昨日は、弓道教室開講式だった。仕事を終えて食事を掻き込んで着物を着て道場へ出かけた。

会長が腰痛のため、矢渡を副会長がするようにと理事長より電話がかかったので、さあ大変。

新聞社とケーブルテレビが来ていた。今回は6名の女性ばかりの受講生なので、女性の矢渡のほうがよいかという意見もあって引き受けたが、的中はないのでつらいなあ。孫と話していて、「今日は、ばぁばは早く道場へいかなくちゃ、テレビがくるんや。」と、いうと孫が心配していた。「ばぁば、がんばってや。」的に的中せず、孫の心配は的中した。

おまけに、意識しすぎたか動作のひとつを飛ばしてしまった。何食わぬ顔をして終わったが、汗びっしょり。

娘の話では、「ばあばは何段や?」と、食事中話題にのぼったらしい。そして、何を受けに京都へ行ったのかと。現在、錬士六段やと言っても、分からんだろうなあ。おまけに、引いているのを見たら、もっと分からなくなるだろうなあ。教士を受けに行ったのであるが、自分でも不審である。弓道に角番がないことが救いである。

なんのごまかしもありません。弓道って難しいってことを分かってください。自分に負けるとこが怖い。


巻き爪

2016-05-18 | 暮らし

わたしは、父に似ていると思う。せっかちで、正義感に燃えているようで抜けている。おまけに、巻き爪だ。

この爪の形は、母とは違う。足の親指の爪が巻き込んできて痛くなる。まっすぐに切ると良いのだが、まっすぐになるまで伸びずに、肉に食い込むのだ。この爪を見るたびに、父を思う。

父の血液型はO型、母はAB型、弟はA型、わたしはB型だ。輸血しようにも家族ではだれひとり合わず、一家離散といつも言っていた。

今日、病院へ行ったら、わたしの買ったラジオをヘッドフォンをつけて聞いていた。感度が悪い時があるので「聞こえる?」というと、嬉しい顔をしていた。川柳や替え歌が好きな父だが、今では鉛筆も持てないので、もっぱらラジオを聞いている。

そういえば、ことばで遊ぶのも父に似たのだ。わたしが一番気に入っているのは「初孫を こもごもあやす 里の親 あゆみそめしを 指折りて待つ」である。わたしが双子を産んで名前を付けたときに作ってくれた。娘の名前が入っているのだ。ちなみに娘の名前は「亜弓」と「亜矢」である。殿がつけた。殿自身がこの名前に興奮していた。

さて似ていると言えば、殿にいつも言われた。「穏やかな母ちゃんをみて嫁にしたのに、ほんとは父ちゃんに似とったんやなあ。」

いつも、思慮深いという人にあこがれるのである。

 


会社がなぜ消滅したか

2016-05-16 | 読書

買い物へ行って集めた段ボールに、殿の本を少しずつ箱に入れていく作業を始めた。小沢一郎氏の顔写真の本や、政治がらみはぽんぽんと片付けられる。

しかし、時折手が止まる。黄色のマーカーで線を引いてあったりすると、そこからわたしに何か言いたげである。

わたしの読書量は少ないが、気に入ると大いに騒ぐ。それで「64」の時も殿も気に入って、ふたりでしばらく「横山秀夫」ブームのころがあった。後で気付いたが、横山秀夫の文庫本もぞくぞく出てきた。わたしが一冊読んでいる間に、何冊も読んでいるようだった。ただ、妻は読みたくても家事をしていると時間がなかなか取れないのではあるが。

わたしが、この前からはまっていた「しんがり」は、きっと殿も興味があっただろうと思うが、残念なことに「ねえねえ・・」と、遺影に語っても面白くないのである。しかし、彼は返事をくれた。うん・・興味ある・・と。

 整理している本の中に、「会社がなぜ消滅したか」という本があった。副題に「山一証券役員たちの配信」(読売新聞社会部)(新潮文庫出版)という文庫本が、その答えだった。思えば本名で書かれている当時の役員さんたちは、その後もその汚名は消えることなく語り継がれてしまうのだと思うと責任は重大だと思う。会社にとっても、家族にとってでもある。

製造の会社はいいかなと思ったりもしたが、三菱自動車のこともある。経営者の責任は重大だ。不器用でも力なくても、実直であることは大きな武器ではなかろうか。バカ殿だっていいんじゃないか。あっ!バカ殿と言えば「一路」が、また放映されている。何となく観てしまいますわ。バカ殿がんばれーー。前に観たのに。

話が完璧にそれてしまった。これでは、段ボールに収まる本はいつ片付くのやら。

 

 

 


ぞわぞわする

2016-05-14 | 暮らし

なんだか気持ちが悪いという感覚だ。先日、日本体育協会からの情報誌が届けられた時、「メンタル達人に聞く、その境地」という特集に「弓道達人」土佐正明先生の記事が出ていた。昨年、石川の武道指導者講習会で講習を受けたので、興味深く読んでいた。改めて、素晴らしい先生であることを思いながら、どうしても気持ちが落ち着かない。「当てる」という言葉が気になって仕方がないのである。

いつも、「的に中てる。」と書くので、気持ちが素通りしないのである。ぞわぞわする感じ。

テレビのニュースで「外国人留学生が茶道を学んでいる・・」と、流れてきた。

またまた、ぞわぞわするのである。「日本のちゃどう・・・、外国の留学生は・・・ちゃどうの良さを・・・」と、「さどう」とは、言わずに「ちゃどう」と、紹介している。わたしたちは小さい時から「さどう」と言っていたので、やはり違和感を感じる。高校の弓道場の二階は「茶室」だった。茶道部の女子が通ると、弓道部の男子の目は彼女らを追いかけていた。決して「ちゃどうぶ」とは言っていなかった。では、「茶房」は、どうなのか「ちゃぼう」なのか。

いつから、こうなったのか。知らない間に、わたしの許可なく・・?長い間に身に着けてきたものを、放り出さなくてはならなくなってきたようだ。

今まで、何を身に着け、何を捨ててきたのだろう。こういう日は、何も考えずにビールでも飲んだらよろしい。今日は暑かった。今日のビールはうまいっ!ところで、昨日の会議もへんてこな発言あったなあ。わたしたちって、会で預金するために会費を納めてんのかなあ。ぞわぞわする。

金沢へ高速使って行くと、交通費が出ないから持ち出しなのに、もっと節約しろってさ。あーらら、こらら。酔うてますか。


しんがり  その3

2016-05-13 | 映画

ついに、我慢できなくなった。DVDを借りてきたのだ。「しんがり」を、読んだ後、もう一度おさらいのつもりで観たが、完全にはまった。改めて、内部統制の大切さも分かった。顧客相談室の室長が刺殺されるところでは泣けた。また、弁護士の奥さんも殺されるというとんでもない悲劇を生んだ会社上層部の債務隠しだった。

コンプライアンスが叫ばれる世の中になったのは、ほりえもんではなくここだったのね。という感想だ。

社長交代の時に新社長が「含み損は、いくら?300億?」の質問に、「いや、3000億円です。」というあたりから、腰が抜けそうな話ではあるが、実際あった話なのである。実際には、2600億円の債務隠しの話。

こうなると舛添さんも霞むんではないか。いや、それとこれとは別ですなあ。

ここで、学んだのは、にぎり、旗取り、含み損、不良債権、簿外債務、飛ばし、宇宙遊泳などなどの言葉。証券会社ならではのことば。わたしは、製造の会社でよかったなあと思う。ほんとに、実直でごまかせない製品を作るということはいいことだと改めて思う。

証券知識の乏しい個人顧客に、株や投資信託商品を売りつけ、勝手に売買を繰り返し、手数料を稼ぐことを「客を痛める」「客を殺す」などというらしい。痛められないようにしなくては。ただでさえ、別のところで痛められているのに。

 


さくらたまご

2016-05-12 | 料理

母が卵をほしいという。近所の養鶏場がなくなってから、おいしい卵を食べられなくなったというので、前に友達に教えてもらった「さくらたまご」を、買に行くと、お店はすでに草の中に隠れて廃墟のようになっていた。

しかし、その店のそばに自販機があり、おそるおそる入ってみる。310円投入し、黙って買って帰ってきた。自販機としゃべってもいかんが。卵とお菓子を売ってい店がなくて寂しかったが、なんとか母の満足の行く卵を買えた気がする。


失物

2016-05-11 | 暮らし

娘が独身の頃、物がなくなった時「わたしの部屋にブラックホールがある。」と、言っていたことを思い出した。娘の部屋だけ地震が来たかのような散らかりようだった。今では、子供もできて、すっかりお母さんになり、わたしに「雑然としとるんねえ。ここの周りきれいにしたら?」とか、意見を申すようになった。

無意識に物を置いて、どこに置いたか忘れることがある。時折わたしも、ブラックホールが・・と、言いたくなるような気持になるのが分かる。整理をして、物の住所は決めたので、探し物は少なくなったのだが、慌ててどこかに置いて分からなくなり、もう一度来たみちをたどるようなことがある。いよいよかなと心配になる。たいがい、考え事をしていたり、慌てて無意識にどこかに置いたりで、あとで「おやおや。ここにいたのね。」と、語り掛けそうになる。なので、なるべく物を決めた場所に置くか、キッチンのテーブルに仮置きする。しまい込み過ぎて分からなくなることもある。

さて、失物でもうひとつ厄介なものかある。中たりだ。どこかへ置いたわけでもなく、しまい込み過ぎたわけでもなく、ましてやブラックホールでもなく。どこへ行ったのだろう。道場へ探しに行くのである。審査や試合の場所にはないことが分かった。

 

 


ごみの重さは心の重さ

2016-05-10 | 暮らし

予定をバンバン入れるのは、寂しさからか。それで疲れて今日などは、朝起きられなかった。腰が痛い。久々にどこへも出ずに片づけをした。前に服を処分し、家の中を整理したが、実はまだ本が片付いていない。数えられないのである。100や200ではない。千とか2千とかいう単位だ。数えられない。

パソコンの中に殿のフォルダーがあるのを覗いた。読書録というのがあった。35歳114冊・・・と、あって、毎年100冊以上は読んでいる。そして64才まで。(最後の年は30冊だった。)そして、記録外の34歳までの本もあるはずだ。恐ろしや。

「ごみの重さは心の重さ」と、いう。身の回りに何もなくなるとすっきりするのか、寂しいのか。思い出はいつかゴミになるとすると、これは悲しい。やはり自分の身の回りのゴミを何とかすることから始めなくてはならないのだろうが、わたしの本は殆どない。

放下着(ほうげじゃく)という禅の言葉がある。下着をほったらかしにしておくということではない。「執着心こそ悩みの発端 すべて捨てても生きられる人は本物」と、いうことだそうだ。

さて、捨てられないのは、まだまだ自立できていないということだろうか。本物でないとすると、わたしは偽ものなのか。未熟者なのだ。このまま年を取ると、未熟者の年寄りが出来上がる。厄介だなあ。達観するとか、悟るとかいう言葉はよその人のためにあるのだろうなあ。


オリエンタルカレー

2016-05-09 | 暮らし

職場異動があって、違うクラスに配属され、その中で何故かわたしになつく子がいる。「先生・・ずっと来る?いつまで来る?」と、聞かれると可愛いものだ。その男の子の赤いTシャツに、懐かしいオリエンタルカレーの可愛いキャラクターと、オリエンタルカレーと、カタカナで書いてあった。「懐かしいの着とるんねえ。」と、いうと「先生知っとるん?」というので、「知っとるよ。コマーシャルの歌まで知っとるよ。」モノクロのテレビと、ちゃぶ台を描いて歌のさわりの部分を書いた。

「持って帰ってもいい?」というので、持って帰ってもらった。家へ帰って、もう一度描いてみた。割烹着の母と、七三分けの父。母は29歳、父は34歳の設定。

父は東京で米菓有限会社を立ち上げた。早い話がせんべいを焼いていた父が腎臓病になって、加賀の実家へ帰ることになった。わたしは田舎に行きたくないとだだをこねたらしい。その頃珍しかったテレビを買ってくれるというので納得したようだ。そのテレビから流れてきたコマーシャルが「オリエンタルカレー」や、「ミツワ石鹸」となると、これは相当な年齢ということがばれますわ。わたしは、まだ5歳ころだった。なぜ覚えているのか。母が口ずさんでいたのだと思う。

なつかし~い、なつかし~い、あのリズム・・エキゾチックなあの調べ

わっ、わっ、わあ~ わがみっつ・・・みつわせっけん

世の中は便利なもので、あの頃の歌も聞くことができる。


日常とは

2016-05-09 | 暮らし

京都から帰ると日常が待っている。しかし、日常とは何だろう。帰っても殿はいないし、京都の話をする相手もいない。姑に「ただ今」を言い、ひとりでご飯を食べ、スーツケースを開いて、黙々と片付ける。お土産を買ったわけでもないのに、バックは膨れ上がっている。

にぎやかだった連休の後は、祭りの後のようだ。そして、わたしにとっての日常は、無常の積み重ねのように寂しい気がした。

連休の間にたまった新聞を見ていて、震災の人たちの記事にぶつかるとわたしのことなど贅沢なことだと思った。修繕か仮設住宅かという問題を抱える。突然家族の命を奪われた方たちもいる。その人たちが、日常として暮らせるにはどれだけの日々が必要だろう。

もしかしたら、常に常はないのではないか。それを、無常というのではないか。昨日と同じような今日であることの幸せに気付いたときは感謝しなくてはならない。「ただ今」と、無事帰ってきたことに感謝しなくてはならない。ほんの少しの寂しさは、娑婆にいる間の我慢なのだろう。それを修行という。

なんだか仏門に入っていきそうだ。そうそう、審査の間、弓仲間と「この集まりって、宗教団体にも似ているねえ。」と言い合った。何とも言えない雰囲気なのである。仲間たちは同意した。

何百人もの集まりに、合格の人はほんの一握りなのだ。そこへ行く人は、誰が見ても間違いないと思える人がそこにいる。不安定なわたしにはまだまだ遠い道だ。ペットボトル2本に動揺するのだから。

 


京都中央審査 和服編

2016-05-07 | 弓道

審査のために、持ってきた和服を着て開会式に臨んだ。

後ろの方だったので、先生方の紹介は全く見えない。後ろでなくても、背が低いので見えないのではあるが。4年ぶりに出て「おやっ!?」と、思った。浦島太郎のような気分だった。周りは皆、黒、黒、黒紋付。教士や八段の審査は黒なのだろうか。着物の色が指定されたとは聞いたことがない。

始めに震災の黙とうがあった。この時点で、黒の理由はこれなのか・・と、ふと思った。では、わたしは、空気を読めない人間なのか。顔を上げると色物の着物の人は数えるほどしかいない。わたしの色は、法事にも間に合う色だが・・と、今日は通夜でも葬儀でもないのに、心の中でいらんことを考えた。人と違うということは具合が悪いものだ。

そのうち、えんじ色の人や、青い色の人を見かけてほっとした。八段を受ける人は黒が多いなあ。なんとなくそうなるようだ。詳しくは分からない。まあ、黒と決まった方が楽でよい。でも、小さいしすこしやせたので、黒を着ると益々小さくみすぼらしくなる。

しばらく来ないうちに、みやこめっせの前に「蔦屋書店」が、出来て書店の中にスタバの行列が出来ていた。審査を忘れてここで本を物色したくなった。出番の終わった弓仲間とケーキとコーヒーで、女子会をしてしまった。平常心を養う。